2022年9月24日土曜日

思い出したことは美談になりがち

  このBlogは、ビューが5~10件なので何の発信力もないのだけれども。以前から個人的には思うところがあって、最近一言にまとまってきたこと。

「『人生の決断』とか言うけど、そのほとんどは結果であって、自分語りをする時に言葉になるだけのこと。」

「人生の交差点・分岐点は、その時にはわからないこと」

 似たようなことは、カウンセリングの時にいろんな人に言ってきたけど、結局「何かを選ぶ」悩みのほとんどは仮の話であって、同列の選択肢が自分の前に提示されることはほとんどなく、だいたいは「自分の意とは異なる具体的な選択肢と、自分の思い通りになった時の仮の話」を天秤に並べて迷うもの。実際は「具体的な選択肢にのるか/すてるか」ということだけである。

 もう一つ言えば、上のような判断って、日常の延長線上で行われるものであって、その時は意味をもって選択肢が迫ってくるわけではない。といことは、その時の気分や準備の中で何気なく選んだことが、後日・後年思い出した時に「意味づけられる」だけのことである。結局は自分の中のことであって、何度も言うけれども、選択肢が意味を持って迫ってくるということではない、といえる。

 先日、そういえば就職活動やっている時にこんなことがあったなぁ、と仲間と話していた時に「人生の決断ですね」と言われたことに対する違和感から、こんなことを考えました。だって、飲み屋で「ウチにこい、俺が面倒みてやる!」と名刺をくれたのだけど、翌日強烈な二日酔いとその人というよりは背景の不信感が拭い去れず、結局履歴書ださなかった、というだけのことだもん。履歴書出していたら、今所沢にはいないかもしれないのだけれども、どうなっていたか、なんてわかんないじゃん。

 そのエピソードだって、就職活動を思い出して、半ば美談にしていたからそう聞こえたのだろうし、その時だって自分の職歴を「環境活動か/教育活動か」だなんて将来を選んだつもりはない(その後、雇用支援から自治体職員になるなど、想像もしていなかった)わけで。

 だから、楽しいよね。っていうのと、世にはびこる「目標指向を人生に適用する」できるのは、ごくごく一部の人達の営みなのだろうと思うわけです。