2011年3月21日月曜日

Knowledge of HIV/AIDS.

I didn't know HIV/AIDS very well.
I participated in HIV/AIDS study group at my workplace 3 weeks ago.
I think that we should know about HIV/AIDS.
So and in no other way to shake off the deep-rooted prejudice against HIV/AIDS.

今年も職場でHIV/AIDSの講習を受ける機会がありました。
昨年は、職員研修として受けたのですが、今年は職場で主催する学習会のテーマとしてとりあげました。
私は、完全に主催者側の雑用係だったのだけれども、それでも内容を見聞きして考えさせられることが多かったです。
以下、誤解を恐れずに、感じていることを書き留めておきます。

私の職場、私の業務では、依頼があればHIV/AIDS者(HIV-Positive:HIV感染者、AIDS発症者がより正確か)の職場定着支援も受ける立場ではあるのだけれども、まだ具体的な支援を担当したことはありません。
それでも考えさせられるのは、「物理的、具体的な調整はあまりないが、受け止め方や偏見、知識に対してのアプローチが求められる」のだろうと思います。

現在の医学レベルでは、血液中のHIV量を検出限界値以下にまで下げることが可能となっており、服薬治療によって日常生活には影響がない状態にすることができるとのことです。
いわゆる肉体的な接触、それも性的行為のレベルでなければ、身体的な接触、空気感染共にありえないこととして扱われています。
という情報を持っていれば、たとえ職場にHIV/AIDS者がいたとしても、特に気にする必要はないわけですが、それでも「怖い」「万が一の時にどうすればいいかわからない」といった声が聞かれるのは、何なのかということです。

これを「偏見」といってしまうのは簡単なことです。
ただ、本当に「偏見」が正しいのかというと疑問が残ります。

少しだけ、言葉にこだわってみましょう。
(大辞林 第三版より)
へん けん ー【偏見】
かたよった見方。ゆがめられた考え方・知識にもとづき,客観的根拠がないのに,特定の個人・集団などに対して抱く非好意的な意見や判断,またそれにともなう感情。「━をいだく」「人種的━」
(ここまで)

偏見とは、辞書的には「かたよった見方」のことであり、「ゆがめられた考え方・知識に」基づくとされています。

先に、「『怖い』『万が一の時にどうすればいいかわからない』といった声が聞かれる」と書きましたが、この言葉自体や、私が業務の相談中に聞くこの手の言葉の背景にある感情は、「わからん」が原因になっているように思えるのです。
つまり、ここで一つ突破口を見出せそうなのは「正しい情報の有無」によって、この「わからん」から一歩抜け出すことができるのではないかという仮説です。

陽性者の手記を読んだ時に強く感じたことですが、当事者でなければわからないことと、当事者であってもよくわからないことがあるというのが、HIV/AIDSをとりまく「日本の環境」ではないかと。
そういえば、学生の時にこの手の内容って、本当に言葉に触れる、内容に触れる程度でしか保健体育では扱われず、「偏見をもたないように」といわれる道徳の教材で取り上げられる程度だったなと思うわけです。
高等教育でも、私は学校教員の養成課程にいましたが、こうした内容を手厚く扱う授業もほとんどなかったと記憶しています。

身近にHIV-Positiveの人がいるなどの「きっかけ」がないと、なかなか知る機会がないのもHIV/AIDSの特徴かと思いますが、冒頭の講習会の中で、雇用主の立場でスピーチされた方が、とかく「日本ではHIV/AIDSに関する教育レベルが低い」と言われていたのが印象的でした。

知れば見え方が変わる。見え方が変わると、考え方が変わる。考え方が変わると、行動が変わる。行動が変わると、社会が変わる。
何かのパクりですが。

下記は参考まで。
http://www.ptokyo.com/
(NPO法人 ぷれいす東京)