2011年3月19日土曜日

課題解決には、狙いを定めて、手法を選び、的確な介入をする必要がある。

先日の書き込み、やはり面白くなかった方もいるようで、ご指摘いただいた方もおられました。
稚拙な表現で誤解を招いたことは、大変申し訳ありませんでした。ご指摘ありがとうございます。

私が言いたかったのは、「今、このタイミングで浜岡原発を止めるのはいかがなものか」という問題提起と、「浜岡原発の運転停止という『行政判断』を求めるには、根拠に乏しいのではないか」という指摘です。
計画停電の影響を最小限にするための、節電に関する情報提供や、仮に停止した後の具体的な代替エネルギーに関する提案なしに、「危ない(と思う)から停めて」というのは、説得力がないと考えているわけです。

今、原発停めたら電力不足による死者や、災害関連志望者数が増加する可能性が捨て切れません。
政府が福島原発の冷却を試み続けているのは、不確実性があるとはいえ、まだ被害をくい止めることのできる可能性が残されているからだと思います。でなければ、住民にはもう避難命令が出ていることでしょう。

前回、市民活動家と行政との対話が難しいという内容の記述をしましたが、より内容を正確に表現するのであれば「声が大きいだけでは、しくみは変わらない」ということです。
私は現在、行政機関の末端に所属しているわけですが、個人レベルで何か違和感を感じる組織の方針であれ、何らかの根拠があります。その根拠の正否はともかくとしても、必ず「組織が意志決定をするに足りる」根拠が存在するわけです。そして、その根拠は、どこから指摘を受けても、感情的な反論があったとしても、「行政の理屈で説明がつく」ものです。

だから、税金や公金がそれに投下され、事業として成立するわけです。

行政の取り組みや方針を変えるアプローチというのは、まさにこの部分に切り込んでいく必要があります。
「署名が○万件あります。市民の意志です」という交渉の時代はとうに終わっています。いくら見た目のインパクトがある取り組みをしたところで、そのメッセージが「相手の理屈に乗る」ことがなければ、伝わりませんし、変わりません。

前回の書き込みも、今回の書き込みも、結論は変わりません。
原発停止の根拠が説明できるよう準備しろ。全国各地で電力供給に取り組んでいる人たちの邪魔をするな。被災地以外の人たちの恐怖をあおるな。
これだけです。

「できることを、できる範囲で」という言葉が広まっています。この言葉を受け止める時に私は「やったほうがいいことを」と付け加えています。
生活者、職業人、父親といういくつかの側面をもつ私には、とりあえず節電、節約と義援金くらいしかできることはありません。細く長く、取り組み、付け加えることがあれば「できる範囲」でやっていきたいです。