2011年3月7日月曜日

二項対立構造の限界

学生の頃、環境活動に傾倒して参加して感じてきたことが、ひょんなことから言葉になって浮かんできたのでメモ。
環境保全、地域のつながりの復活、伝統の継承など、一言で「環境」として括られる一連の内容について、それを「取り戻す」もしくは「再構築する」といった文脈で、様々な取り組みや文化活動を取り上げることが目立つ。

この構造って、私が学生の頃と何ら代わりがないように受け止めてしまいます。
それだけ問題が複雑で、解決困難なものであるという側面も確かに存在すると思うのですが、ここで問われているのは、私を含めた「一人一人」の生き方ではないかと思ったわけです。
この感覚は、学生の頃から何となく見え隠れしていたのですが、言葉にしてみるのは初めてかもしれないです。

環境活動の文脈で、とかく矛先が向くのが、大企業や賛否の割れている建造物(原発等も含まれるか?)、およびそれらを保護するような政策等ですが、一歩ひいて考えてみると、そうした論陣は、病気の治療で言えば手術や投薬のような対処療法であって、根本的な改善には向かわないのではないか。むしろ生態系だけでなく、社会科学を考慮した政治の現場まで視野を広げると、よけいな歪みを生むことになってしまうのではないかと思った次第です。

とりあえず、出勤時間なので、今日はこの辺で。