2008年9月15日月曜日

時系列と同時性:神懸っていた事

何かが同時に起こる。
それを俯瞰してつなげるのは、人間の仕業。
「布置」というらしい。

時に、「神懸っている」と思わせることがある。
ここぞというタイミングで、これしかないってくらいのことが起こる。
例えば、卒論提出日の提出後に祖母の訃報が届いたり、就職に失敗してどん底で実家に引き上げてきて実家に単車を止めたら古巣となる組織の方から電話がかかってきたり(Iyokiyehaの実話です)、人生には様々な「偶然という必然」と言えるようなことが起こる。

ただ、まぁ、よくよく考えてみれば、各々が好き勝手なことをやった「結果」が、たまたまいいタイミングだっただけで、それ以上でもそれ以下でもないような気もする。
だって、その渦中にある時は必死で、それを俯瞰する余裕なんてないことがほとんどですし。

Iyokiyehaの立場は、「神様はいてもいなくてもいい」。
仮に神様がいたとして、気が向いたときに、気が向いた人の人生にちょっと手を出して、楽しんでいるのかもしれないし、それはそれでいい。
逆に、神様なんかいなくて、ドライにそれぞれのことが偶然重なった結果かもしれない、それはそれでいい。
運のよさ、みたいな数値化できない尺度はあるような気もするけれど、生まれたときから運命が決まっていると言われても仕方がないと思う。
いろんなことが、自分の人生の周辺に漂っていて、それが自分に近づいてきた時に、それに触れられるかどうかというのが、「偶然という必然」が起こるか起こらないかの境界のようにも思う。

うーん、書きながら、全くわからなくなってきたぞ。

先日、師匠と話をしたことは、こんなことだったような、こんなことではなかったような、そんなことすら混沌にたたきこんでしまった気分です。
次にIyokiyehaの意識に立ち上がってきたときが楽しみです。
個人メモで失礼しました。