2008年11月23日日曜日

心を焚きつける

子どもができてから、ほとんど毎日嫁さんから写真付きの連絡がくる。
ありがたいことです。
姿だけでなくて、生活の様子なんかもちょっとした説明付きで送られてくる。
相変わらずマイペースだなぁ。
よく寝て、よく動いて、よく泣いて・・・
嫁さんが言うには、定期的でなく泣くときは大体「抱っこしろ」だそうです。
「自分の都合だけなんだなぁ」と改めて思う。
http://iyokiyeha.blogspot.com/2008/11/blog-post.html
(2008年11月3日投稿分)

自分の子どもの様子を見聞きしてそう思ったところなのだが、仕事にも通ずるところがあるのだなと感じる。
例えば、支援をプランニングする段階で、状況を掴んだ上でいわゆる「おすすめプラン」みたいなものを提案していくわけだが、それは本当に本人が望む内容なのか?という問いが常に脳裏をよぎる。
要は、「その人の都合が考慮されているか」ということ。
「本人の希望やニーズにきちんと沿っているか」ということ。

これまで仕事をしてきて、プランニングのイメージは、その人の将来を描いていくことだという印象を持っていた。
「これが望ましい方向ですよ」「こうした方がいいですよ」「こうしましょうよ」「こうじゃなきゃ、支援できません」「こうしなさい」・・・
表現は様々だけれども、どれも「この通りにすればうまくいく(と思う)」プランを相手に貼り付けていくイメージであるように思う。

果たして、このイメージは正しいのか。
Iyokiyehaの相棒の一人が、こんなことを言う。
「全部『仮説』だよね」
ごもっとも。
Iyokiyehaの仕事も、相棒殿の仕事も「仮説に基づくプランニング」をしているわけだから、確実なことは言えないということ。
相手が人間である以上、白か黒かの判断は「本人にも、本人を支える人にも、専門家にも不可能である」と言い切っても間違いでないように思う。

Iyokiyehaや、相棒殿の仕事を「無意味」とは思わない。
そして、仕事としてのプランニングに自信を持つことは必要だと思う。
でも、そこに「私の言うとおりにすればうまくいく」といった驕った姿勢が入り込むと、たちまちクライアントの「意欲」みたいなものは小さく、場合によっては消し去られることになり、その人本来の力を発揮できなくなってしまう。
以前、私はプランニングや指導のことを「水路付け」と呼んでいた。
http://iyokiyeha.blogspot.com/2008/06/blog-post_9179.html
(2008年6月18日投稿分)
合意の上、指導や課題に対するアプローチをするのは「水路付け」のイメージだが、プランニングはちょっと違うのかなと思える。
支援のプランニングは、クライアントの白い予定帳に、支援者が方針を書き込んでいくのではなく、クライアントが予定帳を作っていくように促していく作業のように思える。

そうした働きかけが、今の仕事には求められるのだろうなと切に思う。
最近、自らの仕事を車の教習やカーナビゲーションシステムに例えることが多い。
例えば、現在位置の把握が「評価(アセスメント)」、目的地を設定するのが「プランニングのための相談」(昇仙峡に行きたい!)、ルート案内をする「アプローチとか助言とか」(300m先、右折です)、道を間違えたらリルートする「状況変化に応じた、計画変更」(リルートします)、と例えられる。
加えて言えば、ハンドル操作は様々な技能(スキル)をあらわすことができ、アクセルを踏むことが前進の意欲とあらわすことができる。
それは、ハンドル操作は教えることができるけれども、アクセル操作は踏むか踏まないかの二者択一で、程度は本人次第である。
いくらハンドル操作がうまくても、アクセルを踏まなければ目的地にはたどりつけない。

こういう例えを交えてみると、Iyokiyehaの仕事は「よっしゃ、昇仙峡行こうぜ!」とクライアントさんがアクセルを踏む気になるように働きかけることだし、ニーズがあればハンドル操作を教えるし、目標達成に向けて道案内するといった、こんなイメージが本質にあるのではないかと思えてくる。
教習に例えたときには、支援者に「補助ブレーキ」というものがあるわけだけれども、壁にぶつかりそうなときにそれを踏むか踏まないかは、支援者の裁量になってしまうのでしょう。
ぶつからないように頻繁に踏む人もいれば、ほったらかしてぶつかるがままにする人もいるだろうし、私なんかは大怪我しない程度に踏んで一緒にぶつかってしまうのだろうなと思う。

雇用・就労支援の特質は、就職する人と雇う人という二つのニーズを同時に満たすことを常に意識するところにある。
そのあたりの思索はまた後日にするとして、この間、いろんな人と飲んで語って思ったことをまとめてみました。