2024年4月29日月曜日

アラン・W・エッカート『大草原の奇跡』めるくまーる、2000年。

  大学生も後半に差し掛かった学部3年生の頃から、修士課程を修了する直前まで、とにかく本を読もう、とアルバイト代を原資に毎月10,000円分の図書券(当時)を金券ショップで買って、10,500円分の本を買うということをやっていました。おかげで、当時JR静岡駅、静岡鉄道センター付近の金券屋で顔を覚えられてしまう始末。

 この本は、そんな頃に静岡市の谷島屋さんで、多分平積みになっていたものにピンときて、小説枠で買ったものと、時期的に思われます。それから、浜松帰宅後の数回の書籍整理を生き残り、前回帰省時に所沢へ移送してきたもの。状態が良かったので、そのまま読み始め一気に読み切ってしまった。

 私が生まれる前に、オーストラリアで出版されたものが、世界十数カ国で翻訳されたロングセラーらしいです。著者のことも、この物語のことも知らなかったのだけれども、日本でも古くに出版されたものが絶版となって、2000年に再版されたようです。

 自閉症っぽい男の子が、草原で遭遇したアナグマと二ヶ月間生活を共にした物語。一言でまとめるとこうなるが、その出来事を通じて起こる成長・家族の変化が、胸を打ちます。特に引き込まれるポイントとしては、アナグマの行動と、主人公ベンとアナグマとの生活の描写が、活き活きと表現されていること。訳がいいのかもしれないが、原著はもっとすごいのかもしれない。おそらく両方が素晴らしいのだと思う。結末も、フェードアウトしていくようなイメージの物語で、私は好きです。思わず頬が緩む。

 現時点では絶版となっているらしいのですが、文庫化とかされているのかな?いずれにせよ、図書館になければ、入手は難しいと思いますので、興味のある方はお知らせください、お貸しします。

■引用

230 ねえ、ウイリアム、あの子とアナグマはなぜだか切っても切れない間柄なのよ。私たち、理解するよう努めなくちゃね。理解できないとしても、あの子を助けてやりましょう。

阿部のり子『今さら聞けない!自治体係長の法知識』学陽書房、2023年。

  現在係長級の自治体職員Iyokiyehaの、まさに今の課題にぴったりの一冊。法律初学者にもわかりやすい説明文と、業務上の具体的な法律適用に関しては、勉強会の対話形式で説明が進行する。大変わかりやすい。

 業務にあたり、決裁文章をチェックしたり、自分が矢面にたってクライアントと相対する時に、法制度の知識というのは、自分の言動を裏付けるものであるといえる。この知識の特徴は「知らなければ守れるものも守れなくなる」こと。知っていて、正しく使いこなすことができれば、いろんな人のいろんなことを守ることができるのにも関わらず、だ。

NHK青春アドベンチャー まとめ(6件)

●上田早夕里『火星ダーク・バラード』角川春樹事務所、2008年、NHK青春アドベンチャーより。

 Web時代になって、ラジオ(音声)ドラマっていろいろあるのだけれども、NHKの長年培ってきた歴史が安定感を感じさせる。この番組、らじるらじるを使うようになって、ようやく毎回聴くことができるようになったのだけれども、突飛な設定も、ラジオドラマならすんなり受け容れられるようなところがある。本作もそれに近い。

 人類が火星に移住して・・・と言った時点で、随分先のことだなぁ、なんか幻覚がでてきたなぁ、とミステリの要素に引き込まれていくのだが、小説だと「?」と読み返してしまうことも、音声というのはなんとなくイメージを作ってとにかく進んでいく。これは面白い。プログレッシブの特殊能力とか、SF要素もすんなり受け容れられる。受け容れると、作品の面白さがわかるということも珍しくない。


●シャミッソー原作、池内紀訳『影をなくした男』岩波書店、1985年、NHK青春アドベンチャーより。

 灰色の男から、無限の金袋を受け取る代わりに自分の影を差し出した男の話。影がないことで愛する人を失い、世界中を歩く旅にでる。友人に宛てた手紙の中で「人間社会において『影』を大切にすること」に言及する。この物語における「影」には、象徴的な意味があると思うのだが、それはおそらく、普段気にも留めないけれども、いつも自分の身近にあって、自分にとって価値を見いだせなくとも、今を生きる自分にとってあってあたりまえの存在、のようなものなのだろう。それを刹那的なものと引き換えた時に、身に起こる不全感、他者からの見られ方、失わなければその意味はわからない、というそういうものなのだろう。


●斉藤洋『白狐魔記 戦国の雲』偕成社、2006年、NHK青春アドベンチャーより。

 作者の斉藤洋といえば「ルドルフ」のシリーズで、児童文学作者だと思っていたが、こういう戦国ものも書くらしい。原作は長編(全6巻)でした。各巻の題名を見ると、時代を行き来したのかと思わせるが、青春アドベンチャーでは戦国時代の織田信長のエピソードがモチーフになっていた。歴史物といっても、人物描写が豊かで、信長の人間らしい側面が垣間見えるエピソードが特徴的。他の時代の、他の登場人物もそのように描かれているのだろう。面白い歴史物といえる。


●綾崎隼『死にたがりの君に贈る物語』ポプラ社、NHK青春アドベンチャーより。

 全10回シリーズ。ある人気小説を巡る、作家とファンの織りなす、自分を深掘りしていくドラマ。原作はライトノベルかティーンズくらいの読み物になるのだろうか。とはいえ、自分語り、親との関係に悩んだり、他の人から注目を集めることの表裏、話し手と受け手の認識の違いからくる人間関係のもつれ、そして心をすり減らすような言動。現代に生きる人の悩みの一辺をラジオドラマとして仕上げている。

 

●柴田よしき『小袖日記』文藝春秋、NHK青春アドベンチャーより。

 雷に打たれてタイムスリップし、平安時代、源氏物語の作者とされる香子の元で執筆を手伝う小袖となって、平安時代の人間模様を描く歴史フィクション。

 これは、軽く聴けて大変面白い作品。源氏物語を読んでいると、人間関係がもう少し背景を伴って分かるのかな、とも思いつつ、源氏物語を読んでいなくても充分楽しめる作品でした。


●フランシス・ハーディング著、児玉敦子訳『嘘の木』東京創元社、NHK青春アドベンチャーより。

 嘘を養分に育ち真実を見せる実をつける木と、ある研究者のねつ造にまつわる事件を追う、一人の少女の物語。児童文学として紹介されているが、本格的なミステリーかと思わされる。

 特にご縁があったわけではないが、NHKのラジオドラマ「青春アドベンチャー」の枠で放送されていたもの。ラジオドラマは脚色もあるが、ミステリーとしての物語の根幹は残し、音声で表現されている。大変聞き応えのある物語だった。嘘の木と父親の行為、それを巡る少女の成長、というか独り立ちしていく様が物語として語られる。


年度初めに思うこと 240407

  新しい年度になりました。職場はステイ、でもちょっと持ち場が変わって、昨年度係長級兼務で関わっていた兼務先に課内異動しています。地味だけど、仕事は全く違うので、またいろいろ覚えないといけない。私の立場からは「人間関係が面倒な職場」なので、ちょっと面倒。起こっている事案が、人間関係に留まっている件と、仕事に若干の影響がでている件。どちらも、仕事の本質ではないと思えるので、まぁ、距離を保って付き合うしかない。

 合気道は、ますます面白く、ますます充実している。連続技-基本技-基本動作のつながりが見えてきて、何を学んでも自分の知っている何かにつながってくる、という感覚。今まで詰め込んだお道具箱のふたが開いて、いろんなものが自分の理解の中に入ってくる感覚に近いのか、何をやっても面白い。受け身も一段上がったのか、下手くそであっても、痛い落ち方をしなくなったので、とりあえず受けられるという安心感も出てきた。

 身体は疲れる趣味の活動だけれども、少なくとも頭はすっきりするし、身体についても、回り回ってリフレッシュになっているように思う。貴重な時間だ。

 昨年度はちょうど今くらいに、問題勃発で、本業(兼務元)が年がら年中激務になってしまった頃だ。あれから1年、いろんなことが起こって、いろんなことを考えるわけだけど、まぁとりあえず全部経験だよってことで。ふんわり前向きにいきましょうか。

昇級審査 240324

  大人になってからテストを受ける機会というのは、めっきり減ったのだけれども、合気道を始めてから、定期的に審査がある。この緊張感はなかなか刺激的で、身体と頭がフル回転していることを感じられるいい時間である。若干空回り感もあるが。

 「それなりに」というのが総論。お稽古は積んでいるので、それなりに姿勢も技のキレもよくなっているようには思うが、ここで物足りなさが出てきているのも、おそらく昇級のあるあるなのだろう。もっとできるようになりたい、が強くなった。前向きな気持ちは出てきているのだけれども、一方で能力的な自分の傾向、みたいなものも見えてきた。やっぱり私は、即時対応は弱い。昔っからそうなんだけど、偏差値が高くない人の典型、みたいなところは合気道でもやっぱり表面化していて、技の名前をぱっと言われても、ぱっと動けないあたり、多分反応速度なのだろうな、と思う。自覚ができたから、そういう脳トレをしながら、やっぱり記憶に定着するようなお稽古をすべきなのだろうな。

 1級審査は「それなりに」じゃなくて、「やるだけやりました」と胸張って言えるようになっておきたいな、と思った。

入間市駅前散策 240320

  次女と映画にいったのは前述した通り。映画前後も面白かったので、ちょっと記録。

 興味深かったのは、この映画館が入っている商業施設とその周辺の街並みである。映画館が入っている建物と、その向かいにある商業施設は、いずれも最盛期を過ぎて下り坂局面のテナントビルのように、店舗が少なく、立ち入り禁止スペースが多いもの。広いからといって、テナントが全部が全部広いのはなく、空きテナントが多く、ちょっとさびしい。ユナイテッドシネマが上層階の2フロアを埋めていて、あとは1階にちらほら店舗が入っている。

 道向かいにもう一つ商業施設があって、少し離れて百貨店丸広がある。それらが2階のレベルで屋外通路がつながっており、その通路を使うことで、横断歩道などを利用せずに移動できる。とはいえ、休日でも快適なほど人通りが少ない。道向かいの商業施設の状況は映画館のビルと似たようなものではあるが、こちらは映画館ではなく、ボウリング場やサバイバルゲームフィールドなどが入っている。その意味では若干特徴はある。

 そして、百貨店丸広である。その雰囲気を、失礼を承知で一言で表すならば、さびれた百貨店、か。個人的にはこういう雰囲気は嫌いではないし、百貨店らしく何でもあるので、数時間歩くにはもってこいの規模だと思う。入り口に「6F レストラン街」と書いてある横に「6F 紀伊國屋書店」「6F 山野楽器」とあるので、??と思いながら6Fへ。飲食店は「ファミリーレストラン」という看板で、何でもある洋食屋さん風のお店。娘が選ばないかな~と思っていたら、娘がこの店をチョイス。建物が古いのでさびれた感じがあって、パーテーションもちょっと安っぽい感じはあるのだけれども、明るい店内で、落ち着いた接客、料理もきちんとおいしい、と、なかなか楽しい時間を過ごすことができました。さすがに6Fともなると、遠くまで展望できるので、期待していなかっただけに、いい昼食になりました。

 たぶん、家族みんなで来たなら、不発だったのだろうけど、次女と二人でのんびり過ごすにはいい場所でした。また行ってもいいかな、と思える街並みでした。今度はもう少しゆっくり歩きたいものです。

次女と映画を観に行く 240320

  年度末、後輩達が休日出勤しているような話は聞いたが、こちらはこちらで大事なこと。

 ここ数年恒例の「映画ドラえもん」を観に行く日でした。先日、新所沢パルコが閉店したため、今年は入間のユナイテッドシネマへ行ってみた。

 映画版のドラえもんは、毎回何らかのモチーフがあって、ほとんどメッセージはないながらも勧善懲悪っぽいエンターテイメントとして成立させているのが、なんとなく飽きさせない。親となって、この歳になっても楽しみと満足感が得られるものだと、個人的に思っている。昨年なんかは、次女と行って、後日(春休みに)次女のお友達を引率して再度観る(その間に妻と仲間の母親達がコーヒーブレイク、という催し)ことになったのだが、名作にありがちな「あぁ、こういう伏線だったのね」と思える箇所もあって、それなりに楽しんでしまった。

 で、今年のドラえもんも、音楽をモチーフに人間の営みとして、文化的な行動としての音楽の側面を取り上げて、人と人とがつながっていく模様を描いており、「あぁ、なるほどね」と思える内容だった。これはこれで満足。入間のユナイテッドは、映画館の規模そのものはそこそこで、地方都市の映画館としては規模、設備とも上級な方に入るように思えた。ポップコーンもなかなかうまいし、量が多い(ので、ひるんだ父娘はSサイズ)。カウンターの接遇も良く、大変心地よい時間を過ごすことができた。

テンション 240318

  自分で考えていることとは異なり、思考や身体というものは正直だ。次年度体制の発表を受けて、完全にテンションが下がっている自分がいる。不安というよりも、外圧が自分の動きを決めてしまっているかのような窮屈さの中で、何か面白くない、という感じである。全員残留というなかなかないことが発表された後、それならばという規定路線。大体、車の中で話をしたことと同じ。この配置は、私と同じようにテンションが下がる人が複数人いるのではないか?と思ってしまう。仕方がない、そういうことだ。

 とはいえ、問題の所在がどこにあるのかというと、ごく少数の個人の「わがまま」にあるわけで、大人になりきれない数名の人達のために、私のテンションが下がっていて、いわゆる「余計なことを考える」必要があって、「余計な時間を使う」のが、どうにもやる気になれない大きな理由と言えるだろう。

 こんなことに「戦略」とか「目的」を持ちたくないものだ。最近の学びでいえば、この剣はPDCAを高速で回すのではなくて、大きな方針だけ持った上で、OODAを高速回転させて対象となる人間関係において混沌を生み出していくのがおそらく有効だろう。まぁ。これも「余計なこと」だけれども、短時間でも丁寧に、淡々と。

盲 240316

  YouTuberで、元国会議員の方が有罪となったとのこと。やったことへの評価は各報道にしてもらうとして、私が新聞でこの記事を読んだ時に思ったこと。

 一体、何の仕事をしたの?この人は。

 過去に行ったことはどうあれ、国会議員に名乗りをあげて、有権者から得票し、国民の代表としての身分を与えられた。その後海外から何かちょろちょろと発言していたらしいけれども、結局国会には現れず、議員辞職となり、今日の報道である。何か政治的な理念や解決したい課題、国民の代表としての発言があったなら、何らかの形でやってほしかった、と思う。今でも何かあるならば、きちんとルールに従ってやってほしいと思う。今のところそういうものは表れてこないけど。

 某政党の公約がどうか、というのはあるし、国政の度に、個人的には「しょーもない」という公約を並べている人達がいる。その是非や好み、自分の信条との関連はどうあれ、その人達なりの主張があって、それを国の正式なルールの中で主張する。制度を敬って、理解して、その上で自分の信条を語ること、それ自体が悪いわけではない。では?ということだ。

 今、現時点では何も評価できない事案である。評価しないから、認める認めない、賛否含め、判断保留である。そんなことをした政治家というのは、一体何なのだろう?と考える。

 こんなこと言っていると「お人好しなんだから」と言われるが、この方も、日本という国に対して、まだ信条がある、あるいはできるのであれば、きちんと国会の場で述べて欲しい。「こんなやつ」と断罪してしまうのは、そんなに難しくないけれど、頭の労力を使うだけで、きっと何も生み出さない行動といえる。だから改めて「一体、何の仕事をしたの?」というわけである。

長女の卒業式に思う 240315

  長時間勤務が常態化しているこの時期に、終日お休みをいただき、長女の中学校卒業式に列席する。儀式というものは、そのものが好きなわけではないが、落ち着いた、荘厳な雰囲気の中、「卒業」ということを意識する時間になる。長女が誕生してから15年。中学校の入学式は、コロナ禍の人数制限の中、次女(小学校)の入学式と重なったことにより、ぼちぼち口をきかなくなった長女の方へ私が参加したのが、つい最近のように思えた。こういうのは何というのか?「ノスタルジー」という言葉は浮かんだが、ちょっとしっくりこない。「古いものを懐かしむ気持ち」はかすっているけど、ちょっと違う。でも、なんだか過去が急にやってくる、というような時間だった。

 卒業にあたり、親宛の手紙なんかも用意されており、普段自宅では見せないような表情で卒業を喜ぶ?長女を見ていると、確かに成長しているのだな、と嬉しいような、だんだん自分が知らない娘の姿があることを垣間見せられ、別に悪いことでもやましいことでもないのだけれども、複雑な気持ちになったり。

 とにかく、卒業式というのは不思議なもので、自分が考えるというより、感情や記憶が「やってくる」感じ、自分で制御不能なんだけれども、別に怖さとか焦りなんかがない、穏やかに「何か」が「やってくる」感じ。悪くないけれども、地味に初体験、みたいな時間を過ごすことができた。儀式が作り出す空気に当てられたのだろう。アンコントローラブルだけど、それでいい、そんな時間もいい、そんな自分の感情も悪くない、全然怖くない。44年間生きてきて、そう何度も経験はないことだろう。家族の側面ってこういうこともあるのだと思い知らされた一日でした。

 毎日毎日追いまくられてきた中だからこそ、かもしれないのだが、何かいい一日でした。

 奇しくも、本日は職場の内示日と重なりました。私はステイ。来年度はどうなるかな。

伝え方と目的 240309

  息子が終業式で、ちょっとしたスピーチをやるらしい。原稿を書いて「修了式」と誤字(正しくは終業式)で堂々と記された、なぜか封がされた封筒を準備していたのだけれども、どうやら読んでコメントが欲しいらしい。封を開けると中からは「町内会総会の報告」という文書。・・・いろいろと突っ込みどころが多い。

 スピーチ原稿は、というと、正直60点の内容。書くことが得意でない中一男子だから、まぁこんなもんか、とも思いながら、言いたいことを1/3くらいにして赤を入れていく。

 句点、読点がないのは論外。すべて修正するだけで、割とまんべんなく赤くなってしまう。とはいえ、頼まれたのだから、コメントを集約しなければ、用紙全面が真っ赤っかになってしまう。

 やることは、結局今仕事でやっていることと同じで、要は「スピーチの目的と内容が一致していますか」ということ。ついつい注意してしまう。とはいえ、こういうトレーニングを繰り返して繰り返してはじめて、そういうことに気づけるようになる、直せるようになる。この書く力、読み解く力、国語の力なんだけど、生成AIなんてものがあったとしても、こういうことを考えて文書を仕上げていくという作業は、誰に何と言われても、社会でよりよく生きるために必要なスキルであると思う。

 個人的には必要不可欠な技能だと思うのだけれども、今後どうなるかわからないのと、コミュニティによってはすでに文書が正しく読み書きできなくてもやりとりが成立していることもあり、このあたりは正直必要であり続けるかわからない。とはいえ、自分がよりよく生きようと思ったら、きっと読み書きのスキルは大事だと言うことにしている。だって、目の前の人と共通言語を使って意思疎通していくことで、知らないことを知って、知ってほしいことを伝えることだから。

コンテンツの寿命2 時間軸 240303

  前述したことと関連して。時間的な流行り物の寿命が、どんどん短くなっているような気がする。これも、別にいい悪い、と言う話ではない。個人の発信が、世界中で認められていく、というものを以前よりも多く見聞きするようになった。個人的には「何がいいのかよくわからない」ものも多いので、背景や流行る・バズる理由もよくわからない、というのが正直な感覚ではあるが。とはいえ、否定するものではないし、それをうるさくやると「老害」と言われる年齢だから、余計に気をつけなければいけない。

 とはいえ、「○○って今年の話だっけ?」というくらい、ブームの起伏は激しい。それを追いかけていたら疲れる、ということもあるが、気になるのは「よくわからない、残らないもの」をどこまで追いかけるか、という姿勢である。私の立場はシンプルで、20年以上前から「自分が気にならないものは、気にしない」で一貫している。聞かれれば、知らない、でいいし、教えてもらえばいい。ついでに、その魅力も聞けたら、それで新しいことを知った気になれば、みんなハッピーじゃないか。

 そう思っていれば、流行り物を追いかける時間は必要ないし、のんびり構えていたらいいのだと思う。2ヶ月後には・・・というものも少なくない。発信する人達にとっても、そこに執着しているわけではないと思うけど。

コンテンツの寿命1 質的 240303

  バズる、という言葉すらもはや「遅れている」のかもしれない。いろんなものが流行っては次のものへと移り変わっていくのを、半ば敢えて距離をとるように眺めている。

 個人が発するもの・ことが世界へと発信されていく。Webの世界ではそうしたことが起こり、それは肯定・賞賛されているかのように見える。その価値を認めること、それ自体についてどうこう言うつもりはない。ただ、そこに既存の価値を貶めるような、見下すような雰囲気はないか?と問い続けている。ない、とは言い切れない。正確には、その個人がそうした雰囲気をまとって発信をしている例ばかりではない、というべきか。中にはひいき目に見たとしても粗悪な侮蔑感情を感じるものがある、がそういうものはちょっと特殊カテゴリーにいれておこう。最近気になっているのは以下の2点である。

 一つは、新しい価値観を取り上げて肯定・賞賛することによって、自動的にそれまでの価値観の見え方が「自動的・相対的に下がってしまう」ということ。

 もう一つは、本人にその気が0であったとしても、例外、一つ目を含め、周囲がそういう雰囲気を作り始めたり、あるいは受け止める側がそう受け取ってしまう、という可能性である。

 少なくとも自分にはこうした点が気になるような事例ばかりである。そう感じてしまう自分の立場から見回すと、いわゆる受動的メディアに対しては、細心の注意を払っていないと、そういう雑な感情がすっと自分の中に入り込もうとしているのを感じる。意図して排除しないと、容易に入り込んでしまう。最近の流行り物に気をつけるべき、という態度には、こんな背景がある。

何か言いたい症候群 240224

  なんとなく、世の流れから一歩引いて眺めているつもりになって考えると、近年、いろんな人に「何か言いたい症候群」が蔓延しているように見える。通称「オレオレ病」くらいにしておきましょうか。

 オレオレ病を受け容れてしまうと、自分の周辺にあるもの・ことの何かに照準を当てて、その「何か」を指摘し始めてしまう。自分と違うこと、身体的特徴、経験・歴史、好き嫌いまで。「○○なんだよね~」「▲▲なんだぜ」なんて発言が増えて、場が暖まってくると、蘊蓄を超えて、その場で自分が楽しい内容や発言にすり替わってくる。このすり替わりや、安全地帯でないところで人の容姿や性格をいじりだしたり、それに呼応して品のない笑い方をしていたり、といったことを見聞きすると、一気に冷めてしまうし、笑えなくなる。私は、話題がどうこうもありながらも、その根っこにある「人をちょっと見下したい、ちょっと優越感を得たい」欲求が見えてしまうと、物理的・精神的な距離をとりたくなってしまう。大体、同じ場には行かなくなるし、やんわりと距離をとったり、場を離れるなど、そういった行動が出てきてしまう。「病気が出た」という表現は、大体こういうことになる。

 不思議なもので、言葉遣いや話題が変わるのは、その人の変容がそうさせることもあるが、なんとなくだけど、言葉遣いや話題選びによって、その人の変容が促されることがあるようにも思える。要は、いい言葉を使っていれば、その人にいい影響が出てくるし、悪い言葉を使っていれば、その人にはいい影響があまり出ないように思う。自分の視野が、人に向かってばかりいれば、いつも「笑いのネタ」探しに走るから、細部に至るまで指摘できるように分解する、些細なことも笑えるような見方しかしないから、自分は磨かれない。

ブームとか、興味のあることとか、世代とか 240218

  世の中で流行っているアニメの主題歌を聴いてみて、むむむ。TikTokのショート動画とか見せてもらって、むむむ。ほう、楽しいのか、盛り上がるのか、と思ってしまう自分がすでに今の世代の価値には気づけていないのだと気づく。気をつけないといけない。

 とはいえ、そうしたことに迎合する気もなく、私は私が興味のあるコンテンツを楽しむので充分。新しいツールやコンテンツも、食わず嫌いにならないように、でも自分に響くものだけ選んでいけばいいよね。

 先日、新聞で「マルハラ」なる話題を読んだ。どうも、LINEのやりとりで長文や文末に句点「。」を打つことが、今の若い世代にはプレッシャーになる例もあるらしい。いやいや、そんなこと・・・と思うのと同時に、おや、これは世代間のズレか?と気づく自分もいる。元々LINEは長文のやりとりに向かんなぁと思っているところもあるけれども、そういった背景すら共通言語になり得るかというと、それもきっと疑問が残るところだろう。

 古い考え方と言われるかもしれないのだけれども、私は何らかのフィルターが入っている良質なコンテンツの方が、自然に自分の中に入ってくる感じがする。自分にとって。たぶん、好き嫌いの程度も影響しているのだと思うが、偏っていることは偏っているのだという認識の中で取り入れた方が、解毒作用があるように思う。すなわち(なんぼか)冷静に事実認識に近づける、ということだ。

 だから、LINEとはいえ誤読の余地がないように、丁寧に発言しているつもりだし、余計なことは言いたくない。「Iyokiyehaさん、乗り遅れますよ」と言われたってしょうがないじゃない。老害にはなりたくないが、だからといって若者に媚を売るつもりはない。若い世代がチャレンジングに何か行動を起こそうとするなら、あえて揚げ足取りテストを行う程度で「がんばれ~」と言ってあげたい。当面はこんな考え方でもって、人の邪魔をしないようにしていこう。