2011年4月3日日曜日

ツイッターがソーシャル・キャピタルを絵に描いたような助け合いの基礎を提供していた。

(週刊ダイヤモンド2011/4/3号、政権史私四観より)
週刊ダイヤモンドのこのリレー連載、とても好きなんですが、政治学者の藤原帰一氏が今号で、ソーシャル・キャピタルとレシプロシティを引き合いに出しつつ、東日本大震災発生時の都内の人々の行動について新たな視座を論じている。
ソーシャル・キャピタルとレシプロシティは、ある程度豊な社会でないければ実現できないもので、人と人との絆が弱まった現代では、自分のことしか考えない人が増えた、ソーシャル・キャピタルとレシプロシティといったものは弱まっている、という議論はよく聞かれることといえる。
藤原氏は、災害当日の人々のツイッターへの書き込み、いわば情報提供に注目し、ツイッターが相互扶助のプラットフォームになっていたことを指摘している。

今、この記事を読んでいて、ちょっと面白いな、紹介しておきたいなと思い、鶴瀬駅前のミスドでキーボード叩いています。
ガソリンスタンドに数時間待ちの渋滞ができる、今日に至ってもスーパーの開店時間に行列ができている、放射能の報道がされれば店内からミネラルウォーターとカップラーメンが消える。
こんな状況を見て「暴動が起きない日本はすごい」と海外報道がされていることを先日批判したばかりですが、3/11に都内で起こったことは、「手放しで美徳だと騒ぎ立てるのも変だが、併せて批判だけされるものではない」ことであると、改めて認識できました。

普段都内へ通勤していると「あさましさ」を感じることも少なくないわけですが、そういう人もいつつ、それに加えて新たなツールを利用した公共が、我々含めた若い世代にも広がりつつあるのだなと感じています。
なんとなく、ですが、10年後には人々の相互扶助や「地域社会(コミュニティ)」「地縁」といったものの意味や形式が今とは違う形で成立してそうな気がします。