2022年6月19日日曜日

やっていいこと、誰のためにもならないこと。

  インターネットのせいとか、テレビ番組のせいとかいうつもりはない。ただただ、以前からいたような人達が世の中の表舞台に出てくるようになって、それに賛同するコバンザメのような人達が集まって徒党を組むようになった、といったところだろうか。私の仲間にはそれを端的に「輩(やから)」と呼ぶ人もいる。

 これまでに、子どもの関係で幼稚園にも顔を出していたし、小学校に至ってはPTAまでやっていたので、いわゆる親の愚痴、みたいなものを耳にする機会はたくさんあった。面白いもので、悪口というのは増幅機能が働いて、いつの間にか悪口自慢、大変自慢になっていく。その足元で、本当に悩んでいる人を巻き込んだり置き去りにしたりして。怖いのは置き去りになっていても、話の焦点がそこに当たらず、増幅装置の中にあって話題にならない、いわば「見えていても見えないもの」として扱われてしまう。

 おっと、今日の話はそこじゃない。

 いろんな機会を通じて「生活者の声が政治に届く」場面を目の当たりにしている。最新ではないが、大きく取り上げられたのは「日本死ね」でしたね。うまい表現だなぁと思いつつ、国会で前面に取り上げられた様子を見て「なに便乗してんだよ」と腹がたったのも事実。発言者をどうこう言うつもりはないけれども、個人的には、それが全てであるかのように国政の場で演説する方にはイエローカード、それをあたかも子育て世帯の総意であるかのように知らせたメディアはレッドカードでした。プライドも何もないんだな、この人たちは、と思うところもあり。

 それで、自分の周囲を見回してみると、ここのところひどいものが目につく。便所の落書きのような「ご意見」が(なぜか)正式なルートを通って、正式な場で、正式なやりとりの材料になってしまう。ろくに調べもせず、情報収集もなく、主張もないまま、「ご意見」がまかり通っていく。声をあげるのは構わない。デモ更新に象徴されるように、本当に小さな声が大勢の力を借りて世の中にあふれだしていく、という手法はある。ただ、最近周囲で起こっていることは、それとは全く異なるもので、正式なルートにいる(べき)人たちの一人でも自分のすべき社会的役割を全うすれば、もっと異なる形で、もっと大勢の人達の賛同を得て、実態と説得力を帯びて、正式な場に出てくるものである。物事の筋を外した主張は、間違った人に間違ったことを植え付け、世の中が(多分)間違った方向に向かっていく助けにしかならないような気がする。

 「○○言ってやった」「△△さんと知り合いだから」「今度(偉い人)に言ってくれるってよ」などなど、てんで勝手なことを言っているのを耳にしたことがありますが、学校に文句があるなら学校にきちんと言えばいいじゃん、あなたの主張を届けるところはどこですか?言いたいことをいわゆる「地元の有力者」に言って「ご意見」になることが、あなたの望むことですか?こういうことはみんなで考えて行動するべきだと思う。学校関係だと、PTAとか部活とか、いろいろ話題になっているけれども、まともな意見はほんのごくごく一部しかないように見えます。特にPTAに至っては、見るも無残、聞くも恥ずかしい「ご意見」が多すぎて、品位を疑うものが少なくありません(この点のみ補足。本来の役割を見失った集団は不要だと思いますが、学校毎背景が異なるわけですから、何もかもすべてを不要とする意見には全く賛同できません)。

 飲みの席の愚痴も結構、井戸端会議も結構、便所の落書きはやむを得ない、として、公私の別ってことはもっと意識しないと恥ずかしいぜって思うこの頃でした。