2022年6月12日日曜日

学校という場所、友達という人

 娘(長女13歳)が、学校へ登校するのに遅刻したり、時に休んだりするようになった。

ほとんど口をきいてくれなくなって1年以上経つので、今さらやいのやいの言うつもりはないし、そもそも学校行かないくらいで大騒ぎするつもりもない。ただ、心配ではある。

新しい環境に少数集団として入ることになり(学区の関係で、同じ学校の卒業生は学年で数人しかいない)、表面上はうまくやっていてもストレスためていたりするのかもしれないし、学年が変わって悪くはないと言いつつ一年生の時のクラスが良すぎたのでそのギャップが気に入らないのかもしれないし、毎年この時期(梅雨)は気圧が不安定になるので偏頭痛や天気痛みたいなものがひどくなっているのかもしれないし、SNSを中心にWeb上で何か嫌な気分になっているのかもしれないし、シンプルに友達と何かあったのかもしれないし。

同じように心配するカミさんが話を聞いても、ハッキリしたことは言わないわけで、上記のようにいろんな理由が考えられるし、そもそもこの外側に何かあるのかもしれないし、何かあってもうまく表現できないのか、そもそも何もないかもしれない。

自分の子どもとはいえ、やっぱり一人の人間なのだなと思う。わかっていると思うのは親の思い上がりで、接している時間が長いから分かりそうなことは確かにあるんだけれども、とはいえ相手は一人の人間だからやっぱり完全に理解するのは無理、と結論づけざるをえないんだよね。

まがりなりにも43年生きてきて、その中の数週間って、全体からみたらそんなに長くないんだよね。ある意味あっという間なわけで。そんな時期に、安全な場所で迷うことができるようにしてあげることくらいしかできることがない、ということに気づく出来事で、Iyokiyehaも自分なりにはいろいろ考えています。

娘が外的要因で学校に行きたいのに行けない状態なら、積極的に守ってあげなきゃいけないんだけど、内的要因で学校に行きたいのに行けないなら(周囲の支えはあったとしても)自分で何とかするしかない。そもそも学校に行きたくないなら理由は知りたいけど無理させる必要はないわけで、他人が「学校に行かせなきゃいけない(義務)」だからひっぱってでも連れていく、と言うのは違うアプローチなのかな、と思う。もし学校が要らんことするならそれは指摘しなきゃいけない(とはいえ、そんなことしないと思うけど)。

ダイバシティが「多様性(を認める)」という言葉で紹介されるようになってきたわけど、人の多様性だけでなく、場の多様性も大事。まずはとにかく動くエネルギーを蓄えてほしいものです。