2010年2月21日日曜日

働く上での「配慮」って何だろう?

泥沼化しつつある業務でのケースや、先日挑戦した精神保健福祉士のスーパーバイズの席上で考えたこと。
就労支援をする立場では、障害の影響で易疲労性のある方に対し、労働時間の短縮や出勤時間の調整を申し入れることがある。
ふと考えるのが、よく事業所の担当者から言われる「どこからが障害で、どこまでがその人の性格なんですかねぇ」という言葉の真意との兼ね合いである。

就職する前の打ち合わせで、「体力に自信がないです」と申し入れ、「時間の調整はいくらでもできますよ」というお返事をいただく。
一見すると、自分の能力を自分なりに把握して「配慮」を申し入れており、その申し入れに対して「理解のある」事業所、と評価しがちである。

しかし、そこで落ち着かせていいのか。

実はここに、「自分の自信のなさを守ろうとしている労働者」と、「労働者のわがままにふりまわされる余地をきちんと『確保』している事業所」の双方が見え隠れする。
「自分のハンデを自分で伝えられる」ところには、事業所のニーズを満たすより先に、自分の要求を通したい、または離職する意志を隠したい等の「真意」が含まれることがある。
そして「その人に応じて、勤務条件を変えられることの表明」には、事業所の要求水準ではなくその人の要求を受け入れる余地がどの程度なのかわからなくなる、という側面がある。
このことに気づかないと、いつまでもズルズルと条件切り下げ交渉の狭間に立つことになる。
対象となる方は、仕事よりも先に周りの反応が気になり始め、次の要求を誰にどう言って貰うかということを考え始めるし、事業所の担当者はふと考えた時に「もっと仕事してほしい」と考えてしまうことになる。
「暗黙の理解」には、「暗黙の基準」がある。
そこを、どう把握して予想しつつ、職業指導(適応指導)に結び付けていくかということを、常に考えるのが専門家としてのスタンスかと思われる。

個人的には、時間短縮の交渉は一度まで。それも期限付きで延長(または順次元に戻す)することが条件となっている、形でないとズルズルと欠勤するようになってしまうことが多いように思われる。