2009年10月4日日曜日

やりとりは、何を「言ったか」ではなく、どう「理解されたか」

カウンセラーという仕事をしていると、痛感することが多いのだが、ある人とやりとりする時に、そこで交わされる内容は、「何を言ったか」という発信者側の理屈ではなく、「どう理解したか」という受信者側の理解の度合いによって成立しているものだと思う。
「○○と言ってきました」とか「△△と言ってました」等、仕事をしていると、Iyokiyeha自身がそう言うこともあり、チームの他の誰かからの報告にもよくあがる。

しかしよく考えてみると、そう「言った・言っていた」というのは、あくまで客観情報にしか過ぎず、それを発した人がその言葉に込めた思いや感情というのは、相手にどの程度伝わっているか、把握することは極めて難しい。それ以前に、発信者が「言った」客観情報すら受信者がどのように認知しているのかは、それこそよくわからないというのが、実際のところだろう。

人と人とのやりとりというのは、そうした言ってみれば脆弱な基盤の上に成り立っているともいえる。
それだからこそ、柔軟さが生まれ会話が広がったり、深まったりということが起きるのだろう。

もう一つ踏み込めば、我々をはじめとする対人業務における「支援」というのは、何をするか、何を言うか、ということよりも、「その人の何が変わるか」ということが最優先されるのだと考える。
このあたりの考察はまた後日。