2015年1月22日木曜日

アーロン・ロジャースが出場し続けた理由

今年のアメリカンフットボール(NFL)もいよいよ大詰めとなってきました。
残念ながら、私の好きなグリーンベイ・パッカーズはディビジョナルチャンピオンシップ敗退という結果となってしまいましたが、シーズン後半のロジャースのプレイを見ていて思うところがありました。
シーズン後半に入り、痛めたふくらはぎの影響で全力で走ることができず、ひどいときには簡単なステップを踏むにも痛みに耐えているような様子がみられました。そんな状態においてもエースQBとして試合に出場し続けたのはなぜなのか。
きっといろんな理由があるのでしょうが、ただ単にプライドの問題ということではなく、思うに「それでも勝利のためにはロジャースが必要」ということだったのだろうと思いました。
とかくパスの精度やスクランブル時の足の速さ等が注目されがちなQBですが、攻撃の要としての役割の大きなものとして、フィールド上でのプレイコールがあげられると思います。プレイコールの質が控え陣よりも圧倒的に勝っていたことが出場し続けた理由なのだと思いました。
ポケット内でのフットワークとクイックリリースとその正確さがアピールポイントといえるロジャースですが、それを目立たせるためのプレイコールと、それに加えて地味ですがオフェンスラインの活躍が、今年のパッカーズの強さだったのだろうと思います。
怪我した後の試合で身につけた、「最小限の動きで最大限のゲインをねらう」スタイルとパッサーとしての能力が融合し、ますますすごいQBとなって来年度のシーズンを迎えてほしいものです。
今年はあとスーパーボールですね。エキサイトしましょう。

2015年1月19日月曜日

意味を絞り込む

先日、スマートフォンからガラケーに切り替えた話題を投稿しましたが、この中で通話とショートメッセージだけに機能を絞り込んだことについて少し考えてみます。
11月下旬から12月上旬にかけて考えたことは、一言で言えば「どんなことに使っているか」ということでした。iPhoneは確かに便利です。現在もPodcastなどの音声コンテンツやGmailの送受信、ブラウザの使用やAmazonやfebeの通信販売など、使用を継続しているものがあります。他に辞書の機能や健康に関するもの(睡眠の記録や万歩計)、小遣い帳など、ちょっと考えて書き出すだけでも多岐にわたりますし、時間つぶしにやっていたちょっとしたゲームなどがある一方で、外出先でちょっとした書類のチェックや修正ができるようにカスタマイズしていました。カメラやオーディオにもなるので、外出時はこれ一台で何でもできる便利なツールで手放せないものでした。
この「手放せない感覚」にあえて疑問を持ち、書き出したり整理したわけです。その結果、何がわかったかというと、
・スマートフォンで書類チェックするのは効率が悪い。
・通信販売利用のほとんどは自宅で行っている。
・音声コンテンツの利用はダウンロードさえしておけば通信回線は必要ない。
ということがわかり、自宅でWi-fi環境があれば特に困らないだろうと思いました。また、
・細々したアプリの中で本当に外出先で必要になるのは、乗り換え案内程度。
・外出中のメールの送受信は避ける方向で考えれば通話とSNSで事足りる。
と考えました。

そもそも、自分はスマートフォンをどのくらいスマートに使っているのか、具体的には「スマートフォンでなければならない理由は何なのか?」と考えた時に、自分を納得させる回答が導き出されなかったということが、今回の対応の引き金となりました。
機能を絞り込むことによって、そのものの使い方やないものに頼らない準備など、物事の本質に近づくような感覚が得られたのは思わぬ副産物でした。この副産物は具体的には、周りの環境がよく見えるようになったことや余計な電話をしない、されないことによって(おそらく)一つのことに集中できる環境が手に入ったように思います。

とかく情報が氾濫する世の中と言われるようになりましたが、便利に使っていると思っていたものが、実はただ使われているに過ぎないんじゃないかと感じています。自宅でスマートフォン端末を触る時間が激減し、家族との時間や自分の勉強時間が少しながら確保できるようになりました。

以上、スマホからガラケーへの変更に関する経緯と考え方のまとめでした。新しい感覚が生じたらまた書きます。

見え方が変わる

先日の記述は不十分でした。眠い時に書くと中途半端になりやすい。
要は、応用行動分析を勉強し始めたら、人の行動が新たな角度から分析できるようになった、ということです。知識によって、自分のものの見方に代替可能性が生まれたといえます。だから「知識は武器になる」のだと感じたのでした。
ある知識を行動レベルで理解する(身につける)と、新しいものの見方ができるようになります。年末からようやくリベラルアーツを少しずつ勉強していますが、世界史を改めて学ぶことによって国際ニュースの読み方が変わってきますし、数学をやれば物事の判断の背景となる数理的処理が見えてきます。そうした構造がわからなければ、ニュースや出来事はそれ単発としてしか理解できないが、その背景となるものの知識があればもう一段広い視野で物事を読みとくことができます。
本当に優秀だと思える人が、新しいスキルを身につけていく。その背景には基本的な知識、具体的には高校で習った内容が高度な知見を読みとく土台となっているということを、昨年佐藤優氏の書籍で学びました。基礎をおろそかにすると飛躍もない、ということでしょう。
先日の投稿は、そういうことを書きたかったのだということで、補足というか書き直しでした。

2015年1月16日金曜日

応用行動分析を学び直す

知識は武器になる。
10年前、今の仕事を始める時の研修で基礎を学んだ応用行動分析の考え方ですが、仕事のスキルを磨くためにまた勉強をし直してみました。
きちんと勉強しておけば、これまでの仕事の中でもっともっといい支援(介入)ができたのかとも思うわけですが、過去のことはさておき、今の変化と今後の活かし方に注目します。

応用行動分析を学びなおした後で「変化した」と思えることに、指導時の課題整理がしやすくなったということです。要は、行動の原動力となるその人の気持ちや考え方を見極めて変容を促すのではなく、行動そのものに注目し、行動の前後で何が変わっているのかという観点からその人の課題を整理できるようになりつつあるのだと思う。
とりあえず、入門書を読破したので、今度は専門書も読んでみよう。

2015年1月15日木曜日

Blog再開します。

ご無沙汰しておりました。Iyokiyehaです。
しばらく更新を休んでいましたが、生活を少し変えて、また「書くこと」を再開しようと思った次第です。
復帰第一稿をどんな内容にしようかと思って数日経ってしまいましたが、時間のムダなので今まで通り、思ったことを思った時に書いていこうと思います。コアなみなさま、どうぞお付き合いください。

さて、昨年末に携帯電話の機種変更をしました。
iPhoneから3G(いわゆる「ガラケー」)への交換です。
友人からよく理由を問われるのですが、大きくは以下の2つです。
・月額使用料金が安い(今までの1/3くらいです)。
・最新機種を追いかけることへの違和感が膨らんだ。
両者が相まって、今回の決断に至りました。

iPhone6を店頭でいじった時に「ピン」とこなかったんですね。「ふーん」という感じの、なんだかしっくりこない感じが数日間続いたのがきっかけです。
そこに生活費の見直しが入ったのですが、こちらはおもしろくない話なのでやめておきます。しかし、動機としてはこれも大きい。

変更する前には、もっと不便になるかと思ったのですが、実際にはそうでもないというのが感想です。
おそらくレアな友人から「メールが届かないじゃないか」と「Eメール使えないなんて、不便!」とそのうちいわれそうですが(こうして、友達は減っていくのね)、自分が不便だと思わなければそれでいいのかなと、自然に思うこの頃です。

そういえば、自宅でも外出先でも、周囲を見回す余裕ができたような気がするこの頃です。

2014年11月10日月曜日

家事と育児

10月下旬に第三子が誕生しました。
それに伴い、こちらの更新も滞っていたわけですが、何をしていたのかというと、ほとんどは家事です。毎日毎日、掃除して炊事のことばかり考えていました。

第二子の時には、育児休業の制度を使って1ヶ月半程度仕事を休んで家事・育児に専念していたのですが、今回は特別休暇と年次有給休暇を組み合わせたいわゆる「隠れ育休」を2週間程度出産前後に習得することで乗り切りました。

http://iyokiyeha.blogspot.jp/2011/01/blog-post_03.html
(2011年1月3日投稿「育児休業を終えて」)
第二子の時の状況は上記および、ラベル「パパ」の始めの方をご覧ください。

周囲からは「イクメン」だの何だの呼ばれることも多くなり、その言葉の裏側に潜んでいる各人の思いが様々であることや、その捉え方が賛同するものであったり批判的なものであったりすることなど、その人の家事・育児に関する経験だけでなく、仕事に向かう姿勢にも影響されているのだなと思うところです。

ただ、仕事を休んで何をやっているかというと、冒頭にも書いたように、結局家事をしています。
朝起きて、子どもに食事と身支度をさせて幼稚園へ送り出す。
子どもが出かけたら、掃除・洗濯。掃除・洗濯しながら、昼食と夕食をどうするか考える。
乳児の世話なんてこの時期、オムツをかえるか抱っこするかです。父親ができることなんかほとんどありません。「イクメン」と言われると、さぞ子どもをかわいがっているかのようなイメージをもたれますが、排泄物にまみれ、泣きやまない子のオムツを替えて、泣き止むあてもなく肩こり・腱鞘炎になるまで抱っこしてあまり報われないというのが現実かと思います。

とはいえ、それが育児するということだと思います。
育児とは仕事とは違い、家のことをやるということ。
そして、子育ては疲れるものであること。

何かを批判したりするのではなく、育児の現実について思うことを書いてみました。

2014年10月2日木曜日

嫌みとものの言い方

最近、職場の人達から嫌みを言われる機会の多いIyokiyehaです。

嫌み・厭味:人を不快にさせる言葉

確かに、嫌みが多いです。
職場で事を動かす窓口になっており、たくさんの職員に声をかけて日程調整等する機会が多くなったこともあり、その先々でいろいろ言われるようになりました。
「いろいろ言われる」のは、普段思っていて口にしないことを言ってもらえることでもあるので、それほど悪いことばかりではないのですが、時々理不尽だなぁと思うこともしばしばあり、ちょうど昨日、本日と続いたところです。もう少しで胃が痛くなりそうですが、一歩手前で踏みとどまっている感じです。

要は「勝手に予定を決めるな、事前調整しなさい」という苦情ではあるのですが、昨日の件は相手がこちらの予定にぶつけてきたことを見つけて、その確認に行ったら余計な一言をもらったこと、本日の件は一ヶ月前から周知をかけていて具体的な予定を連絡したら「そこは無理だ。きちんと事前調整しろ」とこれまた余計な一言がくっついたメールを送りつけられたことでした。

もちろん双方少しずつ伝達が甘かった点はあるのでしょうが、私が気になったのはその言い方や(余計な)一言でした。そんなこと言わなくてもいいのに、そんなこと書くから証拠も残ってしまうのだろうし。

忙しいとついイライラして自分の正当性を主張したくなりがちです。とはいえ、今回の件から私が学んだことは、声の大きさで勝負はしないこと、誤読をさせない工夫を常にしておくこと、相手の非を指摘せざるを得ない時には穏やかに言うこと、という単純明快なことでした。
人と人との間を取り持つのに必要なことは、単に(といっても難しいのだけれども)論理的で理路整然と説明ができるということだけでなく、相手の感情に寄り添いながら相手の主張を聞きつつ、自分の主張に納得してもらうことなのだろうと思いました。

2014年9月19日金曜日

伝わる書き方とは?

「上梓(じょうし)」という言葉がある。
大学在籍中にこの言葉に出会い、辞書をひいて意味を知った時、私は指導教官に「わざわざ『上梓』なんて言葉を使わなくても、『出版する』でいいじゃないですか」と言ったような気がする。
最近、ある本のまえがきで「上梓」という言葉に出会い、そのことを思い出した。

「三年前、私は『○○』を上梓した。」
「三年前、私は『○○』を出版した。」
書き比べてみると、どちらも意味としては通るのだけれども、『○○』の著者であるということをより明確に伝えるには前者の方が適しているのだろう。後者だと前者の意味に加えて出版社の担当者の立場としても使えるかもしれない(正確にその意味を伝えるのならば「三年前、私は出版担当者として、■■著『○○』を世に送り出す一助を担った」とでもするべきだが)。

些細なことなのかもしれないけれども、明確な表現で文書を作成できる技術は、公の組織の中で報告や企画内容を広く知らせるために必須の技術である。
そして、その技術に関して、今の私は
・技術そのものが身に付いていない
・技術が発揮できない状況に置かれている
のいずれかまたは両方の状態であるといえる。

背景として、読書量が減っていることと、テキスト分析をする機会を作っていないこと、あるいは書いていないことや型が身に付いていないことなど、いくつか考えられることはあるのだけれども、上記状態のいずれか(または両方)であったとしても、それに応じた勉強を地道に重ねていくことしかできないのだろうと思う。

2014年8月24日日曜日

絵本ライブに挑戦してきました。

8月の夏休みに入った頃、以前からお世話になっている吉田氏からお誘いを受けてイベントのお手伝いをすることに。本日、こっそりと埼玉県富士見市に行ってきました。

http://www.city.fujimi.saitama.jp/40shisei/danjyokyoudou/files/2014-0729-1752.pdf
(Webページが見つからないので、チラシのみ)

絵本ライブの助っ人としての参加です。
とはいえ、私の絵本ライブ経験は今回で二回目、助っ人というよりはツナギ役くらいでしたが。

「ウチで読む絵本よりもシンプルなものの方が盛り上がるな」とか、「擬音や繰り返しが多いお話は子ども受けがいい」など、絵本そのものに対しても学ぶところがあったのですが、読み方やテンションがあがった子どもたちへの接し方等、先輩方から学ぶことも多く、大変刺激的なボランティア活動になりました。

最近のテーマでもあるロジカルシンキングとか、「伝える・伝わる」表現といった観点からも反省というか学ぶ点がありました。
例えば自己紹介でも、ある程度話題を整理しておかないと、そもそも自分の何を紹介したいのか、分かりやすい表現になっているか等、考えれば考えるほどなかなかうまく発言できない自分がいました。
深く反省しているわけではないのですが、うまくわかりやすい説明ができるようになりたいと考えている今、ボランティア活動からも準備が大切であることや、相手に合わせることの具体的な方法について考えをめぐらせるいい機会となりました。

2014年8月17日日曜日

育児に関する認識の違い

先日の出来事。
職場の上司と飲みながら話をしていた時にふと出産・育児に関する話題となり、私の近況を説明しました。
「三人目が生まれたら二週間くらい休みます!」
里帰り出産だと子どもたちの幼稚園のこともあるし、何より「預けられた実家の負担が大きい」ので、私がしばらく家事をすることにしてマイタウン出産で乗り切る計画です。
(注:育児休業については、収入減が思いの他大きいので、選択肢から外しています)

これに対し、悪気のない一言。
「何で里帰りしないの?それぞれの両親に一人ずつ預けたらいいじゃん」
なるほど、と思いつつも上記を説明してみました。
「いやー、俺は里帰りするのがベターだと思うけどなぁ」
と納得には至らず、その話題を終えました。

このやりとりだけで何かと言うつもりはないのですが、別の話題の時にその先輩に聞いてみました。
「奥さんってフルタイム勤務ですよね?夕食とはどうしているんですか?」
「嫁が作るよ(何でそんなこと聞くの?くらいの雰囲気で)。それがなきゃ結婚してもねぇ・・・」
知っている・知らないの差も大きいですが、やはりこれまでの生活環境から「その人の常識」というのは作られるのだと実感しました。

現代の家事・育児の多様性を万人に伝える理屈というのはない代わりに、その人への伝え方というのがこれまで以上に重要になってくるのだなと思った一件でした。

2014年8月3日日曜日

夏休み総括

一足早く夏休みをいただきました。浜松の実家へ帰り、母校へ行ったり、旧友と会うなどしてきました。

迷ったら原点に返る。
そういえば、私の職歴のスタートとなったNPOで、当時の代表が事あるごとに言っていたことですが、最近まだ私の意識に浮上してきた言葉だと感じています。

そもそも近年「文書で伝えられない」「文書が書けていない」ということを、じわじわ感じていたところもある中で仕事をしていました。とはいえ、口頭で説明することやプレゼン資料の作成についてはある程度の自信もあったので、その延長で乗り切れるものと思っていたのですが、やはり同じ土俵で勝負するには技術も経験も足りていないのだという地点にようやくたどり着きました。

そんな時期に読んだ、佐藤優『読書の作法』などに触れる機会があり、そもそもの学力であったり本来身につけておくべき「読む」「書く」「計算する」力や、本の読み方、公用文の書き方など、10年前にやっておくべきことに立ち返ってみようという覚悟ができた夏休みとなりました。
最近動き出していたところに、母校での指導教官とのやりとり、活きのいい後輩達との出会いが、行動を後押ししてくれたような気がします。もちろん、その後地元に研究者として帰ってきた友人達と一献交わす機会をもったことも大きかったのですが。

そんなわけで、少し遠回りになりますが、新しい知見の取り入れは少し押さえて、大学受験の参考書などまで遡って半年くらい勉強してみようと思います。統計の勉強もそれからかな、と思います。
吉と出るか、凶と出るかはよくわかりませんが、学び続けることが全く間違った道へつながることはないと思うので、未知の方向でありながらも自信をもって進んでいこうと思います。

以上、夏休みのふりかえりでした。

2014年7月19日土曜日

ハラハラ~

「家事ハラ」なるハラが話題になっているようです。

http://www.asahi-kasei.co.jp/hebel/kajihara/index.html/

以前からいい調査をしていると思います。
ただ、何だろうこの違和感・・・

(この場合)「妻からの一言」が「ハラスメント」であるという意味での「家事ハラ」なんでしょうが、ハラスメントにしてしまっているところに対する違和感というか反発なんだろうなと思います。
中には嫌がらせをしている人もいるんでしょうが、こんなことでひるんでたら家事も育児(今回は入っていないけれど)もやってられないぞ、と思ったところでもありました。

とはいえ、ハラスメントは受け止める側の原則がありますから、それでいいってことで発表しているのだと思いますが。男が弱くなってどうする!と思ったところでもありました。何事も数こなさないとね。

とはいえ、このCM群はおもしろい。
http://youtu.be/5Ep3rMUWEbk

2014年7月14日月曜日

書けない、読めない・・・

まだまだ若手の域を超えられないな、と思う。
得意な土俵だけでやっていれば、それなりに動きもよくなるのだけれども、結果として仕事は増えるは、抜けは出るわで、原点回帰ができないまま流されてきた数年間でした。

教養関係の自分のスキルを冷静にふりかえる作業と併せて、仕事におけるスキルを冷静に、現状を踏まえてふりかえったときに、やはり露呈しているのは「書けていない」こと、そして本当に「読めているのか」という根本的な疑問が浮き彫りになる。

月並みだし、結局は「読んで」「書く」ことでもってしかこうした能力は磨かれないのだけれども、改めて『本を読む本』の熟読を始めた。
http://iyokiyeha.blogspot.jp/2011/04/mjcv1997.html
三年前に読んだ本だけれども、改めて読むとまた違った学びがある。
今度は読書メモを作りながら読もうと思います。こういう読み方もおもしろい。そして読み方を変えて、書き方も変わるところを目指して学びなおしです。

2014年6月22日日曜日

雲をつかむような・・・

どの職場にも「忘れられないだろう」体験がある。
いわゆる「いい」体験もあるが、時に消化不良だったり、頭をぶん殴られたようなショックのある体験もある。今回の話題はまた新しい感覚に陥った一生ものの体験。

結局「よくわからなかった」んです。
何を考えているのか、何を目指しているのか、どう思っていたのか。
クレームのようなショッキングな経験もあり、思いだけで突っ走っていく人を止められなかったことはたくさんあるのだけれども、今回の場合は何度話をしても本音が見えず、本音があるのかさえもわからなかった、そもそも何を言っているのかわからなかった、そんなやりとりをほぼ一年継続した果ての出来事でした。

なので、ショックを受けたのかというとそうでもないし、嫌な思いをしたのかというとまたこれも違う、だからといって新鮮だったのかといえば初体験ではあるけれどもそこに新鮮味というものはなかっただろうし、やりとりをしていて何か手ごたえがあったかというとそういったものがほぼ皆無だったことが唯一の気づきでした。
のれんに腕押し、ぬかにくぎ、雲をつかむような感じなのか、合気道できれいに併せ技をかけられて何だかよくわからないうちに身体を浮かされている感じに近いけどピタリとこない。このもやもや感というか手ごたえのなさに驚くのではなくショックでもなくただただ呆然とさせられた感じです。

結局、自分の前からは去ってしまったわけだけれども、最後の最後まで話は通じた感じがなかったのが何ともいえない気持ちにさせられる一因でした。
放っておいてもおそらく忘れない経験だけれども、それでも備忘録兼ねてメモ書きでした。

2014年6月18日水曜日

後藤忠政『憚りながら』宝島社、2010年。

ヤクザ、と呼ばれる生き方がある。
おそらくIyokiyehaにはあまりご縁のない世界のような気がするけれども、そんな世界が垣間見れるかもしれないと思い手に取った一冊。
山口組系の直系後藤組の元組長によるインタビューという形式をとっているが、話し言葉だからこそ伝わる思いや事実というものもあるように思う。

やくざ 
1.名・形動 役に立たないこと。まともでないこと。つまらないこと。また、そのさま。そのようなものをもいう。
2.名 博打うち。ならずもの。無頼漢。

ここでいうところのヤクザとは2.のことを指すのだろうが、その生き様はこれまでの見え方と随分違うように感じた。
社会悪、という言葉でまとめてしまうつもりはないが、なんというか、本来の制度や取り決めでは成り立たないグレーゾーンで活躍する人達であって、その行動原理は物事の筋や人の情といったものに立脚しており、時に法制度を超越することがある。そもそもヤクザの生き方は、人と人とのつながりや物事の道理・すじみちによって成り立っているものであり、何でもかんでも法制度を守らないというわけではない。むしろ、法制度違反の怖さを最もよく知っている人達であるともいえる。
政界や経済界、芸能界とのつながりが指摘されるようになったこの頃であるが、その背景はヤクザが活躍するところがあるからで、何も世の中の全てにたてついているわけではなく、ヤクザとしての行動原理に従っているだけの物事が大半を占めるということを本著から学んだように思う。

生きかたはIyokiyehaのそれと全く異なるけれども、制度の中で仕事をしている身として、ヤクザな生き方をしたいわけではないが、やはり法制度に人の感情を吹き込むことによって初めて円滑な社会を感じられるのだろうな、ぬくもりみたいなものを感じられるのだろうなと思った。
あまりない内容・形式の一冊でした。おもしろかったです。