2017年1月22日日曜日

想像し難い

先日、ラジオから流れてきたニュースに、生後3ヶ月の娘に暴行を加え、湯船に沈めて殺害したというものがあった。
このニュースを聞いたときに、何か思うところがあったのか、その場面を想像してしまって背筋がぞくっと寒くなった。
三人称の立場に立って、この親御さんと同居人と言われる人を避難するのは簡単だ。けれども、ちょっと視点を変えてみる。

この現場はどんな雰囲気だったのだろうかと。

生後3ヶ月の子どもが泣くのに、手を上げなければ「ならなかった」のはなぜだ。抵抗できたかどうかはわからないが、文字通り必死で動く子どもの命を奪わなければ「ならなかった」理由には何があるのか。湯船に沈めてぐったりしていく子どもを見なければ「ならなかった」のはなぜなのか。その現場には何があったのか。

この事件だけじゃない。最近報道される自分の子どもを殺害するという事件には、「そうしたかった」という身勝手な救う価値のない人が(いないと信じたいが)いる一方で、「そうしなければならない」と追いつめられた人が自分の中の何かを守るために、自分の最愛の存在を手にかけなければならないという出来事が起こっているような気がしてならない。
この後者については「自己責任」という安っぽい言葉だけでは片づけられない、社会の病的な部分や、世の中に垂れ流されているくだらない言説等の影響は否定できないと思う。

福祉に携わるようになって、「ソーシャルワーク」という言葉の意味が、少し自分なりに感じられ、考えられるようになってきたように思う。ただ、その深さと広さを感じる度に途方に暮れることを繰り返している。