2010年3月27日土曜日

雑記(3月下旬)100327

3/27
風邪をひいたと思い、通院。
職場では「百日咳」なるものに罹った職員がいるため、ちょっと怖かったのだが、結果は、軽い風邪と(花粉症などの)アレルギーの疑い。
よかったです。
 
アレルギーの検査のために、苦手な血液採取をする。
Iyokiyehaは、この血液採取が本当に嫌いなので、看護師さんを質問攻めにしてみる。
しっかし、最近の看護師さんって、いろいろ説明してくださるのね。
薬局の薬剤師さんも。
すごくわかりやすい。
 
 
3/26
支援中の事業所にて、聴覚障害に関する勉強会を実施する。
部署、とかチームに対する、こういった小規模な出張勉強会を、OFF-JT事業主支援としてパッケージ化できたらいいなぁと思う。
必ずニーズはあるだろうし、実績を積んで、資料を整備することによって、迅速かつ良質な内容を提供できると思う。
センター来所型のOFF-JTとは違って、より個別対応で、本音を引き出しやすいことが、特徴となる。
マスの講習会は、スクリーニングとして位置づければ、両方の棲み分けも明確になり、適応指導とはそもそもの位置づけが異なる。
さらに、自らケースを持つことによって、わけのわからんことを言う人たちへも、クリアな返し技がかけられる。
JC支援との違いは、「今、ここ」か「俯瞰」かの違いになる。
スキルの高い職場適応援助の現場においては、この点が瞬時に切り替わるわけだが、支援の質を底上げするためには、こうした分類も必要だろう。
 
軍曹は強くなきゃいけないのです(笑)。
 
前線指揮官は、少なくとも一対一の場面で力を発揮できないと話にならん。
その意味で、これまでとは違ったところの力を模索しようとしています。
興味のある方、情報交換しながら、一緒にやりましょう。
 
 
3/25
HIV者雇用に関する講習会に同席。
まだまだ偏見は根深いと思う反面で、以前も書いたように、医療技術の進歩によって「死なない病気」になりつつあることもあらためて知ることができた。
知らないがゆえに、ちょっとした一言が相手を傷つけてしまう。
知らないがゆえに、拒絶反応を示してしまう。
知らないことの積み重ねが、雰囲気としてその場を支配する無言のメッセージとなる。
 
大切なのは、知ることと、知った上で無関心でいること。
 
人付き合いの極意がこれには含まれているように思います。


3/24
職場の送別会。
娘が風邪ひいているのと、自分の体調不良でイマイチ。残念。

3/23
職場で一緒に仕事をする職員さんと、コーヒーを飲みながら考えたこと。
・Iyokiyeha自身も、先輩に育ててもらった。私を含めた職員の質を高めるには、業務の中と外(OJT、Off-JT)の双方が必要だということ。
・「やってほしい」業務の現場に、柔軟に職員を同行させることのできるコンセンサスを得ること。
・根拠は「OJT」。
・業務全体としては、計上される数値が物語るような仕組みとして、業務運営計画その他と連動させる。
・事業主支援に「OJT、Off-JT」の視点を(対象は事業所担当者)
今日は、職員の力量形成がメイン。
事業主を対象としたサービスに関する続きは後日。

3/20
何かというと、職業教育=「夢」という言葉でまとめられてしまう。
そこだけ切り取ると、Iyokiyehaなんかは夢に敗れた組の人間になるのだけれども、それが「失敗」かというと、全く違う。
その時々で、置かれた立場に自信を持って、今いるところは間違いじゃないと思い込んで、邁進することだって立派な人生だと思う。

就職だけを強調して、夢を語ることに違和感がある。


3/19
転勤する元上司と一献。
まぁ、また中枢に戻ってくる人だから、あんまり実感もないのだけど、ありがとうございました。

カミさんから怒りのメールは届くけれど、さておき。
どっちが大事とかいう、くだらない二択じゃなく、どちらも大切にしたいと思っていても、どちらかを選ばなきゃいけないジレンマ。おそらく、一生付きまとうジレンマなのだろう。カミさんには、素直にごめんなさい。

しかし、会社員にこういう気遣いが必要かどうかは、その時々の置かれた立場によって少し違うかなとも思う。
まして、仕事人としての立場と、その妻という立場とでは、優先順位が違って当然とも思う。
お互いの理解と寛容さが必要だね。


3/16
自分が今のポジションでやるべきことが定まった感じがして、仕事にもクリアなビジョンが見えてきた。
人をたらす先は、事業所の担当者。
もちろん私の立場なら、対象者との関係構築は前提だから、力を注ぐ先はもう一つの支援対象となる事業所になる。
ちゃんと「わかってもらった感」を味わってもらわないと。

ケースバイケースだし、関わりの形も様々だけれども、一つ一つの支援をきちんと運営していこう。

聖書の「隣人」は、血縁と同宗教、らしい。
日本語で考えるだけだと、一側面どころか、全く意味が違うことになってしまう。