2013年1月5日土曜日

専門家としてのプライド


最近思うこと。
自分の仕事に満足しきっているわけではないけれども、一つずつ自分なりにまっすぐに向き合うことができた件については、結果はどうあれ何かが変わる感じがする。
ただの自己満足だと言われたら否定はしないし、かといってそれでいいのだ、と開き直るわけではなく、言葉にすることのできない何かが言葉にできないような変化を遂げるのだが、その差がどうこううまく説明できるわけではない。

この不思議な感覚は、現場に立つことによって感じ取ることはできるのだけれども、ちょっとでも楽しようとした件について、こういった感覚を得ることはほとんどない。
とにかくもやもやするのだけれども、かといって不快で埋め尽くされるわけでもなく、むしろすがすがしかったりする。何かこう、目に見える実績とは全く異なる感覚のように思う。

仕事で最近考えることに、現場の人間としては「専門家であれ」ということである。
楽しようと思えば、件数・実績といった目に見える成果、個人目標管理の数値目標や業務(の時間的な)効率化だけ考えて突き抜けていけば、きっと今の持ち場での仕事は3分の2くらいの時間に圧縮できると思う。でもそうならない、というかそうしないのはIyokiyehaなりのプライドもあるし、上記の専門家でありたいと思い踏みとどまることも多いからだと思う。

今の仕事の専門性って、主なクライアントである職業訓練在籍者を就職「させる」ことではなくて、真に迫る評価に基づいた計画を策定できることであると思う。就職させることは「課の目標」ではあるけれどこのことがすなわち「カウンセラーの専門性」ではないと思う。必要な情報をクライアントにわかる形で提供し、当事者が判断できるように支えていくことがこの肩書きを名乗る者の本分であると思う。

衆議院選挙の論点にもなった原子力発電所の諸々の課題についても、専門家の見解と政治家の判断とが必ずしも納得する形で一致することは極稀れなことであって、提出された情報を元に判断するのが、民主主義社会における政治家の役割なのだと思う。こういった観点からすれば「専門家であれ」というのは的確な判断材料をきちんと作ることであって、そのスキル如何がカウンセラーとしての腕の良し悪しになるのだと思う。就職率というのは大切な指標かもしれないけれども、結果でありそれ以上でもそれ以下でもない。評価における各種検査のイメージと同じように、数字で表現されるものは物事のある側面を強烈に照らすスポットライトみたいなもので、一つですべてを見抜けるわけではないということが、カウンセラーの専門性と奇しくもイメージが合致してしまった。
きっと本部勤務の職員と現場勤務の職員との差というのも、案外こういうところが根本にあるのかもしれませんね。もちろん私も万が一本部勤務になったらまた違う感覚になるのだと思うし、事務的な仕事をするのであれば「専門家であれ」という機会はないかもしれないです。

話題を広げすぎた感があるけれども、最近思ったことだから仕方がない。今年の仕事に向かう自分の姿勢なのかもしれないなぁ。