2009年3月21日土曜日

組織人として「自然」であること

「自然」という言葉をIyokiyehaは、養老孟司氏が使うように、人間の生活で言えば「子ども」であることとして使っている。

感覚優位で、自分の感じ方によって行動する存在、とでも言ったらいいだろうか。

先日、出張に出た際、ある方から言われたのは、「Iyokiyehaさんが、10年後も今のようなスタイルで仕事をしていたら、ある意味自然じゃないと思う」と。
深い指摘だなぁと、ただただ考えさせられる。
真意を聞き出す前に、帰庁してしまったので、憶測と謎とが深いままなのだが、いろいろと考えさせられる。
昨日の「アイデンティティ」とも関連する。
http://iyokiyeha.blogspot.com/2009/03/blog-post_20.html
(2009年3月20日投稿分)

もちろん、10年後が今と同じだったら、いろんな意味でおかしい。
進歩がなかったり、それを含めた変化がないということは、10年間何もしないのと同じ。
そうではなく、おそらくIyokiyehaの仕事スタイルのいいところを切り取って、そう評してくれたと捉えるのが、真意には近いのだろう。
であれば、私はこの期待に沿いながら、この方の思いを「いい意味で裏切ろう」とも考える。

もちろん、今のIyokiyehaは、大学から大学院、NPO、機構と、種々の経験から今の仕事を相対的に捉える視点があってこそ成立しているのだと思う。
いいところも、おかしなところも見えて、今の立場がある。
この立場が、機構の中で生きていくことにより薄れていくことは、おそらく想像に難くない。
ただ、考えなければならないことは、そんなちっぽけなことではなく、「自分の仕事を、常に複数の視点から評価し、改善に向ける気持ちと行動」といえる。
誰のためにやっているのか、そして、どうすれば数々のニーズを充足できるのか。
論理的な思考はもちろん、そこには法律や制度に生きた知恵を吹き込む感情が不可欠のように思われる。

論理的思考を強調する人たちの中には、とかく感情的、感覚的なものを嫌う人がいることは知っている。
ただし、感覚的なものを否定する人の中には、クライアントの感情から現れる真の思いを汲み取れなくなってしまっている人がいるのも、確かなこと。

大人としての論理的な考え方に、より自然な子どもの感覚的なもの。
車の両輪のように、互いが互いを補ってこそ、目的地への距離が縮まっていくものと考える。
どこまでもクールに、そして、どこまでも熱くありたい。