2025年5月11日日曜日

営みの総和は、言語表現の総和に非ず。

 そういえば、以前から「人の生活は煙のようなもの。制度は箱みたいなもの。」という表現でもって、対人支援の文脈における支援制度はそれをいくら足し算していったとしても、クライアントの生活の総和を満たすことはない、と言ってきた自分に気づいた。このことが、「言語表現によって、その伝えたい思いや思考をすべて表現できるわけではない」ということと接点があるような気がした。
 ここのところ、仕事でも書いて書いて読んで、読んで読んで書いて、ということを繰り返しているところがあり、その中でも「多分本質はここじゃないんだろうなぁ」と思いながら、ある言葉に言及して主張せねばならない場面もあり、なんというか、本当に本来の力の使い方じゃないよなぁという実感が生じて仕方がない。そもそも、私はそんなにできる人ではないので、ついていくのが精いっぱい、というか、着いていけているのかもわからないことが、そういうもやっとしたことであるから、なんとも言えない気持ちが湧きやすい。かたや、本質的な仕事が目の前に巨大な壁となって立ちはだかっているから、余計に焦りが生じてしまっている。あまり身体にはよろしくない。
 言葉によって表現しうることは、人の営みや思考・思いのほんの一部でしかなくて、それがゆえに何らかの感情によってそれらが刺激されている場合、言葉は形を変えてとめどなくあふれてくるものである。そのあふれているものに反応せざるを得ないという環境は、次から次へとあふれてくる湧き水を、器にとってどこかに移さないといけないような、そんな作業を彷彿とさせる。その移した先に(適切な)目標があるならば、それまではがんばろう、という考え方ができるかもしれないが、そうでないと途方もない作業を終わりなく続けなければならないということであり、これは考え物だ。本当はそれを生み出している感情や生活状況、思いや思考、こういったところをあらゆる方法で整理していかなきゃいけないのに。
 現業の時には、そういうことも知恵と行動とで、ある程度触れられる機会を作って、なんとかかんとかしようとしたり、そこに触れた上でクライアントの感情に働きかけて、本心はあきらめて次善の策に落ち着いてもらうような働きかけができたのに、今の事務職、法制度の範囲でやりとりしなければならないこの窮屈さは、今の仕事を続ける限り付きまとうものなのだろうと思う。それでいいところと、そうでないところがある、という(私にとって)当たり前に思えることを、当たり前と思ってもらえない人に、お互いが表出する言葉でのやりとりによってのみ主張し合う、というのは、何か世の中がよくなる方向に向かう一助となるのだろうか。