2025年5月24日土曜日

もっとシンプルでいい。もっと現実から受けるものを大切に。

 毎年この時期に歳をとるので、目標を微調整したり、ちょっと振り返ったりするわけです。
 ここのところ、毎年職場環境が変わるため、あまり奇をてらったことは考えておらず、成り行きでどうするか考える、ということを繰り返しているわけですが、一方で自分の能力について考えさせられる機会も多く、ますます自分の立ち位置というのがわからなくなっています。
 とはいえ、それで悩んでいるかというとそうでもなくて、元々偏差値が高いわけではないので、やっぱり今の仕事は膨大すぎて時間がかかる。そういう側面だけ切り取ると、歳をとったことを理由にしたがる人ばかりなのだけれども、そうじゃなくて物事の扱いを、自分で複雑にして、自分にそれを課してしまっているのではないかな、と思うわけです。
 いい、悪いではなく。体調を崩したら「悪い」だけど、そこまではいっていない。ただ、生活上の負担はカミさんに寄ってしまっているので、それはやっぱりよくない。
 やらなきゃいかんことはあるけれども、もっと「やり方」「受け止め方」をシンプルに、一つ一つのことを丁寧にやっていきたい。

2025年5月11日日曜日

木澤千『雪の朝の約束』文芸社、2021年、Kindle版。

 これは、おそらくノンフィクションだろう。事実は小説より奇なり。木澤氏の生活には、家族との深い愛情と、それをきちんと守ってきた跡が感じられる。
 早逝された父親の最後となった一言「頼んだぞ、約束だ」という一言、そして母親からの「二人を頼むね」と、おそらくこの時には何気ない一言だったのだろうが、著者の記憶にずっと留まり続け、60年以上を経て母親が亡くなられた時に、その言葉の意味することを全うしたと実感をもったことが、小説を貫くモチーフとなっている。
 生まれ育った町の歴史、知人との付き合いと関わり、家族の関係、自分の生活、そして母親を介護する生活。いろんなことに押しつぶされそうになりながらも、そのたびに予期せぬ、決して大きくはないけれども、いろんな人の助けがあり、それでもうまくいかなくなりそうになったり、それにも助けが現れたり。決して楽でない、決して明るくない内容ではあるけれども、この話に含まれる感情は、人の生活そのものが表されていて、生々しい実感とともに伝わってくる思いが、行間の端々から読み取れました。静かに迫力がある読み物でした。

営みの総和は、言語表現の総和に非ず。

 そういえば、以前から「人の生活は煙のようなもの。制度は箱みたいなもの。」という表現でもって、対人支援の文脈における支援制度はそれをいくら足し算していったとしても、クライアントの生活の総和を満たすことはない、と言ってきた自分に気づいた。このことが、「言語表現によって、その伝えたい思いや思考をすべて表現できるわけではない」ということと接点があるような気がした。
 ここのところ、仕事でも書いて書いて読んで、読んで読んで書いて、ということを繰り返しているところがあり、その中でも「多分本質はここじゃないんだろうなぁ」と思いながら、ある言葉に言及して主張せねばならない場面もあり、なんというか、本当に本来の力の使い方じゃないよなぁという実感が生じて仕方がない。そもそも、私はそんなにできる人ではないので、ついていくのが精いっぱい、というか、着いていけているのかもわからないことが、そういうもやっとしたことであるから、なんとも言えない気持ちが湧きやすい。かたや、本質的な仕事が目の前に巨大な壁となって立ちはだかっているから、余計に焦りが生じてしまっている。あまり身体にはよろしくない。
 言葉によって表現しうることは、人の営みや思考・思いのほんの一部でしかなくて、それがゆえに何らかの感情によってそれらが刺激されている場合、言葉は形を変えてとめどなくあふれてくるものである。そのあふれているものに反応せざるを得ないという環境は、次から次へとあふれてくる湧き水を、器にとってどこかに移さないといけないような、そんな作業を彷彿とさせる。その移した先に(適切な)目標があるならば、それまではがんばろう、という考え方ができるかもしれないが、そうでないと途方もない作業を終わりなく続けなければならないということであり、これは考え物だ。本当はそれを生み出している感情や生活状況、思いや思考、こういったところをあらゆる方法で整理していかなきゃいけないのに。
 現業の時には、そういうことも知恵と行動とで、ある程度触れられる機会を作って、なんとかかんとかしようとしたり、そこに触れた上でクライアントの感情に働きかけて、本心はあきらめて次善の策に落ち着いてもらうような働きかけができたのに、今の事務職、法制度の範囲でやりとりしなければならないこの窮屈さは、今の仕事を続ける限り付きまとうものなのだろうと思う。それでいいところと、そうでないところがある、という(私にとって)当たり前に思えることを、当たり前と思ってもらえない人に、お互いが表出する言葉でのやりとりによってのみ主張し合う、というのは、何か世の中がよくなる方向に向かう一助となるのだろうか。

木下勝寿『チームX -ストーリーで学ぶ1年で実績を13倍にしたチームのつくり方』ダイヤモンド社、2023年、Audobook版。

 ストーリーという言葉で挑戦してみた一冊。ビジネス小説みたいなものをイメージしていたが、「事実は小説より奇なり」と言わんばかり、実話ストーリーでした。おそらく、著者がこの渦中にいる頃は、次から次へとやってくる課題難題に誠実に大胆に向き合って、悩んで切り抜けてきたからこそ生まれたストーリーであることを感じ取った。
 著者は北の達人コーポレーション代表取締役。自らが実績のあるプレイヤーであった経歴があったこと、組織を率いることの苦労と悩みなどを常に抱えつつ、会社を軌道に乗せてライジングしていった様子を、組織内のかなり突っ込んだ視点で紹介している。思いが共通言語にならないことのジレンマから、共通言語ができあがっていく過程、更に組織内にその「言葉」を通じて「思い」が浸透していく実感が示される。(評価するつもりはこれっぽっちもないが)生々しい言葉で綴るストーリーには、体系化しきれないほどの「思い」があふれており、経験を伝わる形に押し込めた感がある。木下氏には、語り切れないほどの思いと思考と経験が、まだまだたくさんあるのだろうと察する。他の著作にも期待である。
 月並みな感想かもしれないけれども、前例踏襲はあくまで踏み台であって、事業を創る、育てていくという局面においては、他と同じことをしていればいいかといえば、そうではなくて、あくまで目的を見据え、目的を適切にブレイクダウンした目標を一つずつクリアする。目標設定においては、その達成の先に必ず目的に近づくことができるものを掲げること。選択においては、データの収集は必要だが、予測を伴い選択にはデータのみから導かれる結論には要注意。一生懸命取り組むがゆえに視野が狭まっていることに気づきにくくなる状態には注意しつつ、いろんな見え方を大切にすること。議論を尽くして出てきた選択肢はABテスト(ランダム化比較実験)等を含めて検証することなど、基礎・基本の徹底が、結局はよりよい事業を生み出したり、事業がライジングしていく土台となることを、学ぶことができたように感じる。
 項目だけ拾っても、書籍を読まないとわかりそうで、わからないものであるが、要所の引用のみ。
○一瞬にして破滅へ導く「企業組織病」
1 職務定義の刷り込み誤認
2 お手本依存症
3 職務の矮小化現象
4 数字万能病
5 フォーマット過信病
○どん底からV字回復へ導く5つの「Xポイント」
1 KPI
2 教育の仕組み
3 共通言語化
4 タスク管理
5 風土

2025年5月3日土曜日

大地の恵みと植物間のコミュニケーション

 狭いながらも庭のある我が家にとって、この時期は複雑な気持ちになる。いわゆる「雑草」だ。むしってもむしっても、そんな私をあざ笑うかのように、毎日毎日株数を増やしている。昨日むしったエリアに、翌日新芽が生えているのを見ると、感心するとともに、途方にくれてしまう。雨上がりなど「人は無力だ」という言葉が頭に浮かんでくるほど、うぇーいという声が聞こえてくるような草たちから挨拶されているようで、ちょっと面白くなってくる。
 今年は、毎日朝散歩に出た後で、家に入る前5分くらいで部分部分の草むしりを行っている。おかげでぱっと見はそこそこ手の入った庭に見えるが、結構な作業量になっている。
 そんな最近の気づき。一部の自治体では駆除が周知されている「ナガミヒナゲシ」が、多分に漏れず近所にも生えている。明るいオレンジの丸っこい花を、ちょっと背を伸ばしてつけるもので、みなさんもどこかで見たことがあるかもしれない。我が家の庭にも2年ほど前に入り込んで駆除して今は平和であるけれども、自宅前の歩道にもちょくちょく生えてくるので、そちらも併せて見つけると抜いている。
 以前紹介した稲垣栄洋氏の本の中で、同じ植物でもそのエリアの状態によって花のつけ方が変わるという話があったことを思い出す。
 ナガミヒナゲシは茎をぐんと伸ばして、周囲の草花よりも高いところに花をつけるように見受けるのだけれども、群生し始めているそれらを抜くと、その次に生えてくる個体は、ずいぶん低く花をつけることが多い。これはむしった後の土壌の状態が反映されているように思えるのだけれども、不思議なもので、ほかの草花があってピンポイントで抜いた周囲に生えてくる次の個体も割と低く花をつけることが多いような気がするのですね。まぁ、これも土壌の状態が…ということで説明がつくのかもしれないけれども、これが意外と広い範囲で起こっている現象だということが、抜いては生えてくる繰り返しを通して感じられることなんですね。
 そこで先日「ヴォイニッチの科学書」を聞いていたら、知的生命体はなぜ人間だけなのか、という話題の中で「人間以外にもコミュニケーションをとっている生物はたくさんある。植物だって何かあるかも」みたいな話をしているのを聞いて、あぁ、こういうこともあるのかもな、と思った次第。ひょっとしたら、ナガミヒナゲシコミュニティの中で「あそこは今年、ヤバいおっさんがやたら抜いてくるぜ」という噂が広まっているかもしれません。
 そんな植物のすごさ、不思議に触れるこのごろです。

山本弘『詩羽のいる街』角川書店、2012年、Kindle版。

 まずは合掌。ご冥福をお祈り申し上げます。

 山本弘氏の小説は、読み始めまで時間がかかるのですが、読み始めると一気に読んでしまう。Iyokiyehaに響くフレーズが随所にあって、人と人とが「よく」関わりあう理想的な社会の一片を垣間見る感覚がじんわりと体に浸み込んでくるような、そんな気分になる。感動とか興奮ではなく、おだやかな気持ちがざわざわと湧き上がってくるような感じ。
 賀来野市で「お仕事」する詩羽という女性。その仕事はお金が仲立ちしない。人と人とがかかわりあうことによって、街を、社会を、世界をよくする、そんな仕事。人と人とをつなげ、あらゆる人が自分の「よさ」によって、街に、社会に、世界に貢献する。どんなに小さなとりくみだとしても、それらが確実に周りを「よく」していることを実感させる、その「触媒となっている」詩羽の仕事と、それに巻き込まれていく人たちの物語。
 こういう小説、大好きなんだよね。山本氏の小説に透けて見える現代社会への課題意識って、Iyokiyehaが感じたり考えたり、仕事や人間関係に組み込もうとしている「何か」に通じるものがあるような気がして、随所で「そうだ!そうだ!」と思いながら、ついつい引き込まれてしまう。眠くても、なぜか読めてしまう。寝る前に読むと、ついつい時間を忘れてしまう。そんな小説だった。
 いわゆるライトノベルに分類されるのだろうが、読み物としても(私にとっては)大変面白いし、世の中の見え方なんかは、上記のように考えさせられることが多い。この「詩羽」がとってもいいと思えたのは、シンプルな処方箋についての語りがあったこと。「(略)彼らは、正しい論理が理解できなかったんです。潰し合うんじゃなく協力し合う方が有利だってことを」(No.5,380)だから、協力し合うことを仕掛けている、ということが、それぞれの短編を貫いている本書のテーマだろう。一見、争ったり、競争したり、対立したりしているように見えて、結局は仲間と、他人と協力する、関わり合うことによって、妥協点や相互利益の地点を考えて調整していくことを詩羽は常に促し、仕掛けている。痛快でした。
 著者が他界されてしまったので、新しい作品を読むことができなくなってしまいましたが、これまでの著書を時々、ちょっと困った時に読んでみようと思います。私にとっては、『アイの物語』などと併せて、困った時のお悩み相談みたいな本たちです。