2024年8月17日土曜日

永井陽右『共感という病』かんき出版、Audiobook版。

  自分が関わっていてとても気分がいいと思える人がいる。関係や考え方はどうあれ、人と人という次元で「共感」できているのだと思う。一方で、何か関わってくるんだけれども、一緒にいても何かしっくりこない人がいる。「やっぱり大切なのは共感なんですよね」とか言われる。何かピンとこないのだけれども、それでも使う言葉は「共感」だったりする。

 「共感」を辞書でひくと、

 きょう かん【共感】

1 他人の考え・行動に、全くそのとおりだと感ずること。同感。

2 心 sympathy 他人の体験する感情を自分のもののように感じとること。

ほか(大辞林より)

 なるほど、使い方でその方向が変わるし、焦点となる内容も少し違う。おそらく、心地いい前者の事例は、表層的な言動はどうあれ、もう少し深いところ、無意識も含めて何か同調を感じているのだろうし、ピンとこない後者は方向がバラバラで食い違っているのだろう。共感を求められても私がそれを望んでいないのか、私の共感とは異なる共感を求めているような、そんなちぐはぐな感じなのだろう。

 と、少し調べたり考えてみてみると、確かに「共感」という言葉の使い方は難しい。この微妙な違いとか、些細な感情をどこまで入れ込むか、という方向・視野の違いが、著者の言うところの「共感過剰社会」の背景にはあるのだと思う。「共感」によって、人々がつながることもあれば、「共感」によって結ばれた外側で排除されるかのような感覚や状況がある。広く「共感」を求めれば求めるほど、なんとなくうさんくささが生じたり、同調圧力みたいなものを感じられてしまう集団も、見え隠れする。「それは『共感』ではない」と言いきるには、ちょっと無責任ではないか?意味のすり替えによって拡大する局面もあれば、それによって弾き出される人もいる。じゃあ、「いい共感」と「悪い共感」があるの?とも思えてしまう。

 著者はおそらく「そうではない」と主張しているのだと思う。むしろ「共感」を良いものとしてしか扱わない、「よい共感」を是とすることをも一旦否定して、「『共感』のもつ負の側面を理解して、付き合っていく」ことの意味を説いているのだと思う。それは、著者がテロリストの社会復帰?更生?に取り組んできた経験から感じ取った違和感であったり、いわゆるムーブメントを起こした社会活動が、「共感」ではないものを求めたり、時に「共感」によって傷つけられたりといった事例を、ロジックとともに、それだけでなく感情を丁寧に語ることによって積み重ねられた知見なのだと感じとるに至った。

 いわゆる「よい共感」を求めたいが、「共感」の本質はあくまで相互関係であって、求めたから得られるものではない、自分の考える「共感」が人の考える「共感」とはイメージが異なることもあり、それは小さな差であるとは限らず、正負の全く逆のイメージとなることも少なくない。よかれと思ってやったことを、全く理解されずに否定されてしまう、ということが起こっているのがいい事例だろう。おそらくそうしたことを積み重ね積み重ね、言葉にしてきたという言葉の数々、視野の広さを感じる一冊でした。大変迫力のある内容です。