2015年5月31日日曜日

「必要なこと」という言葉に込められたもの

Iyokiyehaは、前の職場とは今も賛助会員として関わっており、定期的にニュースレターが送られてきます。今は何か活動に参画しているわけではないけれど、一応援団として古巣の活動を見守っています。
先日送られてきたレターには、私が非常勤スタッフの時から関わっていたある事業について、撤退することが知らされていた。14年間の取り組みだったようだ。
数年前のレターにも、古巣の思いとそれを委託する行政の視点とのずれは指摘されており、当時の職場を離れている私にとっては、ある意味で興味深く客観視していて、ある意味で感情的に憤っていたりした話題でした。
今の私は行政機関に所属する立場なので、評価指標になりやすいものとそうでないもの、現場で業務にあたっていて業務の充実に役に立つ指標とそうでない指標とが混在していることにも自分なりには見えているつもりです。なので、どちらの言い分にも理はあると思ってしまい、個人内でももやもやしていたところでした。
ある対象にサービスを行うとして、そのサービスの良さを図るにはどうしたらいいだろうか?という問いに集約されます。数字として現れやすい件数や金額はその増減により評価が分かりやすいところですが、見えやすい評価にこだわるとサービスの本質を失ってしまうように思います。費用対効果が叫ばれて、どこもかしこも数値目標にがんじがらめになっています。本当に必要な指標は残してしかるべきですが、主従が逆転した数値目標(本来「結果」として見るべき数値が目標として掲げられてしまうもの)はその扱いや指標そのものについて検討を加えるべきだと思います。
今回の件も、施設は誰の何のために「ある」ものだったのか、その実現のために必要なこととは何だったのだろうか?ということを考え抜いた古巣とそれを受け止めきれなかった委託元、あるいは委託元が描いたデザインを古巣が受け止めきれなかったのかもしれません。「必要なこと、もの」とは一体何なのか?いつも頭においておかないといけないように思います。