2025年12月31日水曜日

宮島未奈、「成瀬」シリーズ、『婚活マエストロ』『それいけ!平安部』、小学館。

 Iyokiyehaは小説で外すことはあまりない(少し読んで面白いと思ったものしか読みきらないのだろうが)ですが、宮島未奈のこれらの小説は、ドはまりして2025年に全部読みました。すべてに共通しているのは、
・ぶっ飛びすぎず、「きっとその辺にいるんだろうな」という人物が物語を展開する。
・「あるよね」の範疇を外へ押し出すような「やってくれたな(にやり)」というエピソード。
・大筋の随所随所に差し込まれる、くすりと笑える「常識人の叫び」のようなつぶやき。
・ちょっと変わった普通の人たちの等身大のやりとりが織りなす、まきこまれながら何か元気になっている物語。
というあたりでしょうか。

 成瀬シリーズは関連しながら時系列は進んでいる短編集、他2編は長編?になるのでしょうが、一貫して流れている宮島ワールドは、元気な時に読んでも前向きに面白いし、疲れた時にも外から元気がしみこんでくるようにじわじわと身体を暖めてくれるような文字列が心地よい。「いみじ!」とか、多分流行らないけれども、どこかで使ってみたいと思えてしまう。

○『成瀬は天下を取りにいく』2023年。
 「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」(No.16)から始まる短編集。西武大津店の閉店を個人で応援しようと、西武ライオンズのユニフォームを着て「閉店まであと○日」と、ローカルニュース番組に映りこむ…という行為に巻き込まれる成瀬の友人である島崎。島崎の視点で語られる成瀬の人物像には、ついつい引き込まれてしまうような魅力が詰まっている。小学生の卒業文集に書いた将来の夢が「二百歳まで生きる」とか「大きなことを百個言って、ひとつでも叶えたら『あの人すごい』になる」など、突飛な発想と思いがちだけれども、なんとなく「…そうかも」と思ってしまうような力強さのある成瀬あかりが、地元滋賀県の膳所(?)という町で縦横無尽に活躍する様子を描く物語。
○『成瀬は信じた道をいく』2024年。
 成瀬シリーズ2作目。期待値は上がっていたが、それを上回って更に加速する成瀬あかりの活躍を描く。成瀬に巻き込まれていく膳所の住民、家族、友人。地元の小学生も、ちょっと生きづらかった人たちも、成瀬と関わってもう少し元気になっていく様子が描かれる。成瀬のペースに巻き込まれているのに、どこか楽しそう。「びわ湖大津観光大使」に選ばれた成瀬の活躍も見逃せない。私のイチオシは、語呂合わせ「コンビーフはうまい」だった。Audiobookで通勤途中に聞いていておもわず噴き出してしまったのを思い出した。
○『婚活マエストロ』2024年。
 婚活パーティー企画運営会社ドリーム・ハピネス・プランニングに、ひょんなことから関わることになった、40歳猪名川健人と実質パーティを取り仕切る鏡原奈緒子さんが繰り広げる人間模様を描く作品。パーティーに参加する人たちの一癖も二癖もあるやりとりと、そこに垣間見えるそれぞれの思いや悩み、期待など、様々な感情をとりしきる鏡原さんと、それをサポートすることになってしまう猪名川さん。ラブコメ要素もふんわりほっこりで思わずほほえましい気持ちになってしまう。そんな本筋に高野社長が入れ込んでくる小ネタの一つ一つにもインパクトがあって、とにかく面白い一冊でした。Audiobook版の感想にも書いたけど、舞台が私の故郷静岡県浜松市というのも高ポイントでした。
○『それいけ!平安部』2025年。
 期待と不安が渦巻く高校入学。初日に前の席の子から「ねぇ、あなた。平安時代に興味ない?」(No.37)と言われたら、どんな反応になってしまうだろう。そして、戸惑っていたら「あないみじ…これ、運命の出会いだよ」と言われてしまったら…という冒頭エピソードのインパクトが強い。あれよあれよと流され、出会い、更に流されるままに様々な取り組みに巻き込まれ、戸惑いながらも楽しんで、学園祭へ臨む、そんなありがちな高校生を描く物語。個性的な部員たちの、ちょっとずつ常識の範疇を内から外へ突き続けるような、軽快でありながら、どことなくほほえましくなってしまうのが大変心地よい。
○『成瀬は都を駆け抜ける』2025年。
 いやぁ、とてもすがすがしい読了感だった。2025年最後の日に、こういう小説を読んで締めくくれるのはきっと幸せなことなのだろう。大学に入学して、新たな人間関係の中でさらにいろんな人が元気になって、締めくくりはやっぱり島崎でした。とある事が起こって、膳所に帰ってきた島崎が、知人から成瀬の活躍を聞いて一言「このまちには成瀬がいるのだ」(187ページ)とつぶやくくだりが、一言で三部作の成瀬の活躍を表現しているなと、見事な表現に思わず手を打つ。そして、私と同じようなことをやはり一言で「思えばきのうから会う人会う人、みんな成瀬に照らされている」(212ページ)と表しているところが、やっぱり小説ならではの読み応えだと思った。

 どの小説も、楽しく読めて、自分まで少し元気になったような気になれる小説でした。
(2025年分)

奥村正子『すごい90歳』ダイヤモンド社、2019年。

 何かを始めるのに「遅すぎる」ことはない。地道に、楽しんで、挑戦し続けることは、健康な心身に支えられることではあるけれども、取り組むことそれ自体には必ず意味がある。歳を重ねることで思いが確信になるのだろうが、それを人に語ることは経験の継承として、必ず意味がある、ということを読み取りました。
 70歳を過ぎてから、ベンチプレス選手となり、80歳代では世界大会で連覇。2019年までに5つの金メダルを獲得し、2020年に90歳で他界された奥村氏の最初で最後の著書。この時期、私はすでにテレビを観ない生活となっていたので、噂程度にしか聞いたことがなかった方だけれども、本書を読んでその生きざまに触れ、経験の継承の一部になれたかもしれないと思う。
 率直に、内容をふりかえれば、お年をとられた方の一方的な「○○なのよ」的な、年長者の上から目線を感じることもある。とはいえ、本著の随所で語られる奥村氏の生い立ちや家族との関わり(特にパートナーさん)を、そうした言葉に重ねてみると、それらのすべてに奥村氏なりの根拠があって、それは奥村氏と関わる身近な方たちの存在を伴って語られていることが読み取れる。年長者のお小言、ではなく、奥村氏の人生に裏打ちされた言葉であることがわかると、その生活習慣の一つ一つが奥村氏の経験として、私を含めた読者に届けようとしていることが感じられる。この地点で本書を読み解けば、冒頭の「遅すぎることはない」ということに加え、「身体のメンテナンスが大事」ということとベンチプレスがつながってくる。「高齢でもベンチプレスに取り組む変わった人」ではなく、健康に留意して興味をもっていろんなことに取り組んでいたらベンチプレスに出会った人、というのが奥村氏の経験についてより本質的に知ることができる立場だろう。
 言葉の端々を否定的にとらえるのではなく、本書が世に出た経緯と著者の思いを丁寧に読み解くことによって、著者の主張がより響く。言ってみれば「何歳からだって、なんだって始められる。それが本気で取り組めるものであれば」ということ。そういう何かに出会えるように心身ともに感度よく生活したいと思えるようになった一冊でした。

以下、引用
125 私は、なんでも歳のせいにするのは、やめたほうがいいと思うんです。歳だからできないのではなく、なんでも、やるか、やらないかです。年齢をいい訳にして、やらない理由を並べてしまうのはもったいないです。
160 ひとりでは何もできない だから私はいつも感謝の気持ちを忘れない
(2025年分)

2025年12月30日火曜日

年末に向けて 人格の捨象と具体的に関わること

 2025年もあと数日。Iyokiyehaさんは、キャリアを通じて人と関わることについて、いろいろと考えてきているが、今年はとある音声コンテンツで聴いた「人格の捨象」という言葉の意味する地点でいろんな事象を考えた。人と人とが具体的にかかわり合う時に、そこに「人間関係」が生じるということだ。
 このことを考えるには、辞書的な言葉の意味が必要だった。
・捨象:概念を抽象する際に、抽象された諸表象以外の表象を考察の対象から切り捨てること。
・抽象:事物や表象を、ある性質・共通性・本質に着目し、それを抽き出して把握すること。
※その際、他の不要な性質を排除する作用(=捨象)をも伴う(略)。⇔具象
・具象:①目に見える形のあること。姿や形をもっていること。具体。⇔抽象 ②形でわかりやすく表すこと。
 物事を抽象化するときには、そのものを構成する様々なものを捨て去って本質に近づいていくことになるので、それは本当に知的な営みであると思っていたが、抽象化の過程はその「構成する様々なものを捨て去って」いくことで成立する。つまり、抽象化のために捨てられる事象があるわけで、それを「捨象」と呼ぶ。よって、抽象化は捨象を伴うといえる。逆に具体化は捨象されたものを取り戻していく過程ともいえる。なるほど、捨てられることを「捨象」と呼ぶのか、と説明を聞いたのち、これまでの経験の中でいくつかのことがつながってきた。
 私は、職業通じて、生活においても「人間関係」を大切に扱うようにしている。形の見えないことであるからこそ、自分のイメージと理性を同時に、交互に働かせないと構築できないし、できたと思っても崩れていくような脆弱性をも伴うもの・ことであるからこそ、古来より人は他人に対して様々な感情を抱くものであると考えている。何千年何万年と人間関係が繰り返されているはずなのに、良い・悪いで判断できない、あるいは「誰にとってもよい人間関係」が存在しないという現代のこの事実に、ライフワークとして考える興味がある、というのがより正確な表現だろう。研究者というよりも生活者、職業人としてのレベルで考えて表現することで、自らの生き方に反映させていきたいと考えている。
 この言葉の意味を意識することで、冒頭の表現に行き着く。「人と人とが具体的にかかわり合う時に、そこに『人間関係』が生じる」ということだが、これは人と人とが関わる中には、人格の捨象が進んだ関係を故意に作り出す人がいると思われることから、浮き彫りになった経験に言葉を与えたもの。要は、人と人との関わりには本当にいろんな形があるけれど、本当に「人間関係」と言える関わりは、その人とその人とが具体的なやりとりを行った時に通じる何かによって結びつき、構築されていくものであって、人格の捨象後のやり取りにおいては、損得が入り込む。「楽しければいい」「自分が得したい」「他者が得するのは許せない」といった考え、発言は、そのいずれにおいても、周囲の他人との間に「人間関係」は生じない。人間関係のないところに、仲間はできない。
 人格の捨象が当たり前に行われるところには、人間関係それも仲間となりうる人間関係は生まれないということ。それはつまり、人間関係を適切に構築するためには、具体的な関わりが不可欠であるということ。それはお互いの相互作用であって、片方では成立しない。
 どうだ、これはかなり本質をついた説明じゃないかな。言葉にすると「具体的」ってあまりに一般的過ぎて聞き流してしまいそうだけど、目の前にいるその人と、どのくらいきちんと関われるか、ということが人間関係の本質なのだろう。

2025年12月20日土曜日

ネットの世界との付き合い方

 矛先の方向が合っているのか、ということと、自衛が必要だなと思うこと。
 オーストラリアで、こどものSNSの利用制限が法制化されたらしく、ラジオをつけていると、その是非がどうこうという話が聞こえてくる。どうしてこういうやりとりになっているのだろうと疑問であることと、私は賛否いずれでもないということの確認ができたことと、まずは自分から、と再確認できたことがあった。
 自分の立場は「こどものSNS制限に対して賛否いずれの態度もとらず、その子がどう使うか自ら考えること。こどもに対する制限では、こどもの何を守ろうとしているのかわからない」ということ。平たく言えば、制限かけるならこどもに限定せず、大人も一緒に制限しちゃったら、とか、そんなことできないんだから、目的がよくわからない範囲の制限はやめたほうがいいんじゃない、こどもが大人と一緒に使い方を考えたらどうでしょう、ということ。
 Iyokiyehaは、これまでにも何度か態度を示してきたけれども、利用の賛否というよりは、自分はちょっと使い、で留めているだけ。自分のこどもには、あんまり使ってほしくないなぁとは思うけど、ガミガミ言いません、という立ち位置です。将来どうとか、そんな見えないことじゃなくて、SNSに限らずスマホいじっている時はとにかく話を聞いていない、音がだだ漏れで聴覚過敏な私には不快な刺激になる、という自分が受けている不利益に対する抵抗というわけです。子どもらがスマホで何しているのか、知らないし、知りたくもない。ただ、いわゆるリアル世界を生きるのにもなかなかいろいろあるのに、ネットの世界にも時間と労力を割かなきゃいけないなんて、大変だな。そんなにいろいろ手を出さなくてもいいんじゃない?と思うだけで。
 そんな大変さを煽って煽られて、SNSやネット情報でさらに煽られて。前にも言ったけどネットは「増幅装置」だから、そんなところに身を置かざるを得ない環境は、自分のリアル生活に割く時間を削るしかないのになぁ、と思うこの頃です。

戦場の選択

 何事にも「戦うべき場所」がある。自分に向けられる刃をすべて受ける必要はないということです。
 「絶対にかなわない相手こそ土俵に上がってこない」(宮島未奈『成瀬は都を駆け抜ける』Kindle版、位置No.1218。)という箇所を読んで、なぜかいろんな経験がつながってきた。楽しく読んでいる小説は、油断しているとこういうことが起こる。今日は自宅に誰もいないから、近所のカフェでサンドイッチを注文して待ち時間に本書を読んでいてこれである。人間の頭って面白い。
 自分の気づきは、要するに「自分に見えているものがすべてではない」ということ。普段の生活でも、何か窮地に陥っていても、心地よい場所でも、不快極まりない場所でも、自分の視野の外に無限の世界が広がっている、ということです。本当に対峙したい人やコトが、自分の土俵の上にのっているのかどうかって、気づけるようでいてそうでもないかもしれない。自分が「戦うべき」と思っていることが、実はお釈迦様の手の平で踊っているだけだったり、逆に何も特別な環境でもない時に起こったことが、後で自分の人生を変える(変えた)ことであったのかもしれないし、何か「よくわからんなぁ」というくらいでいた方が、多分視野が広がるんだろうな、ということです。もう一つつなげて広げると、どんなにしんどい時であっても、自分に恥じない生き方さえしていれば、きっとどこかに味方はいるのだろうな、ということです。このことに気づいて自分はもう一つ楽になったな、と思う。
 小説の文脈ともちょっと違うし、なんでこんなことを考えたのか、とよくわからないことがあるけれども、いい意味で方の力を抜いて、視野を広くすると、今いる場所は、いるべき場所(戦わなくていい場所)ではないかもしれない、ということです。思考は無限だ。

2025年12月13日土曜日

音の扱い

最近は、と言うと、途端に歳をとった感じがするものの、それでも言いたい。音が多い。
まぁ、好みの違いによるところが大きいとは思うのだけれども、他人がいる場で自分の音を出したい人が、多いような気がする。喫茶店だけでなく、広く飲食店など。Wi-Fiが使えるお店が増えたこともあるだろうし、電車の中でも動画を観ている人も多い。観ること自体は、多分嗜好と世代の違いもあるから、文句は言わないことにしているけれども、イヤホン使ってよ、と思うことも少なくない。自分の嗜好の音を出すことには、そんなに抵抗感がないのだろうか、とも疑問に思う。
個人的には、自分の耳をジャックされた感があるので、不快感はある。たばこの副流煙と同じくらい不快に思うこともある。願わくは、公衆の場や食事中に「私に」聞こえるようにスピーカーから音を発しないでほしいのだが、科学的な身体的損傷がないことを理由に、禁止に振り切ることはないだろう。となると、意識的に「聞こえない」状態になることが、自衛の手段になるわけだけれども、これには訓練とコツが要る。うまくハマると、そういう場にいても平常心を保つことができるのだけれども、ちょっと調子が悪いと、この状態に入らず、やはりイライラしてしまう。私にとってはすでに健康被害だとは思うのだが、まぁ、これは自衛の範囲として、耳トレに取り組もうと思う。自分にとって楽しいことでも、周囲の人が不快に感じることは、やっぱりやっちゃいかんのだと思う。自らの行動の影響を意識しつつ、自衛がうまくなるように、平常心をよりバランスよく保てるようになりたいものだ。

2025年12月6日土曜日

スピード感の守備範囲

 「-感」という日本語の使い方は、「○○の感じ」という意味で使われる。
 職場という場所では「スピード感をもって…」という言葉がよく使われる。物事を成し遂げるのに必要な時間を短くする、という意味で使われ、「□□について、スピード感をもって取り組む…」のように使われる。政治家が好きな言葉なのかもしれない。
 今まで当たり前のように見聞きしていたが、おそらく自分では使ったことがない。どうしてかと振り返ってみると、個人的な特性として一般的な意味での「スピード感」を持ち合わせていないと自己評価していることもあるが、それよりもこの言葉に対してそもそものところで疑問をもっていたのかもしれないと気づいた。気づいたら、途端にこの言葉が嫌いになった。
 そもそもスピードって何だろう、仕事におけるスピードってなんだろう?思考にすれば考えて結論を出す時間の短縮、作業であれば完了までの時間の短縮、とにかくかかる時間を短く短くすることが「スピードがある」状態であり「スピード感をもって取り組む」というのは、「従来かかる時間よりも短い時間で完了させます」くらいの意味になるだろう。
 私は、この「スピード感」が嫌いである。なぜか。それは言った人で完結しない言葉だから。
 もはや疑うこともないが、誰かが「スピード感」といったときに、本当に一人で仕事をしている人はどれくらいいるのだろう?要はチームリーダーが「スピード感」といった時に、それはすなわち他人にも自分のスピードを押し付けるという側面が拭い去れない。そんなことが視野に入るのに、人前で「スピード感を持って取り組みます」なんて事前調整なしにはいえないはずなのに、無責任にスピード感を表明して、スピードがある=すばらしいと価値観を決定づけてしまう人が、世の中にはたくさんいるということだ。

 ということで、「スピード感」は嫌い、「スピード感至上主義」のような認識は、ここにおいていこうと思う。早ければいいってもんじゃない。

2025年12月1日月曜日

最近の出来事 12月編

 ずっと仕事が落ち着かず、帰りも遅いため、しわ寄せが週末にきて、更新もできず。

 そんな日々が続きましたが、とはいえ、いろんなことがあり、いろんなことを考えたので、メモとして。ちなみに、今日は年末(多分)最後のお休みをいただきました。

○LINEの広告が不愉快

 のっけから、あまり悪い話題は嫌なのだけれども、LINEの画面で上の方に出てくる広告がどうにも不愉快でなるべく見ないようにしているのだけれども、時々古い友人の誕生日が出てくるので完全に無視できず、ちょっと困っている。とはいえ、基本的には無視する方向で鍛錬中。

○合気道の演武会

 結局、ここ2か月をふりかえると、割と全力で演武会に向けて身体を動かしてきたのだなと思う。課題となる基本技を通して、ドリルのように何度も何度も同じ技に取り組むことで、理合いが身にしみてくるというか、感覚レベルで細かなことに気づけるように(少しは)なってきたというか。今までずっと未知の領域だったところに、これまで常識だと思っていたことが覆るような気づきが眠っていたり、癖のように身についていた動作も微妙な違いがあったり、とにかく始めた頃のように新しいことが次々と見えたり隠れたり、やってみて納得したり余計にもやもやしたりと、いつまで経っても新鮮な気持ちで取り組めるということに、また気づいてしまった。これからも、いろんなことに挑戦はするのだろうけれども、多分錬身会の合気道は一生接し続けるのだろうな、と思いました。結果として、競技演武は2回戦敗退で、決勝進出を逃して残念ではあったのだけれども、それでも周りが「納得いかん」と言ってくれたのは、それなりにいい演武ができたということなのだと思う。順当にいけば来年は違う(黒帯の)カテゴリーになってしまうけれども、これはこれでまた挑戦したい。いやぁ、面白い。

○母親

 実母が、夏休みに急に開腹手術を行うことになり、入院、そのまま入所(今はいわゆるロングショート)するに至っている。認知症の症状は暫時進んでいるようで、今は見当識がかなり厳しいところにある。身体的な欠損がないのと、古い記憶(家族の名前とか)は、ある程度保たれている(時々まだら感があるものの、会えばそのうち名前を思い出す)のが、せめてもの救いか。客観的な分析の上での学びは、認知症+ストマ(大腸)は相性が悪いということ。自己管理、家族管理をぶっちぎって、本人の記憶がまだらで、不快感があると夜間に自己離脱してしまうと、周囲は悲惨だということが観察できている。離れて暮らす私は、これも客観的には影響を受けていないが、その立場に置かれていることへの負い目というかなんという感情なのか、どこかほっとしている自分もいて、そんなことに嫌悪感もあったり、何か複雑である。

○仕事

 今年は受験を見送り、来年改めて検討しようと思う。なんというか、今年の主担当の仕事は、間違いなく自分のキャリアに有益なのだけれども、上位官庁の意向や、業界の政治的なやりとりだったり、主旨が伝わらないもどかしさなど、マイナス要素が多くちょっと戸惑っている。一方で、「本当にくだらないこと」にも複数巻き込まれており、モチベーション低下も甚だしい、が、さっきの主担当の業務に救われているような気もする。

といったことを感じつつ生活しています。