2014年1月5日日曜日

制度の位置づけと使い方

昨日、斯波さんとお話していて改めて強烈に感じたこと。
それは、「制度」の位置づけと使い方に関することである。

今までにも感じていたことだけれども、言葉でまとめることがなかったので、一旦まとめてみます。

「制度は使って得するもの」ではなく「大切な課題解決を広く行うために制度ができる」ということ。
つまり、制度が課題を片付けるのではなくて、広く課題を片付けるために制度が生まれるということ。

言葉がまだ稚拙なのですが、例えば「制度があるから結婚する」のではなくて「(ほとんどの場合)愛情とか何らかの事情があって、結婚という制度を使う」ということと重なるように思います。もちろん全てではないですが・・・

行政機関に身を置く身として、これまでのモヤモヤの大きなところは、この認識の違いによって説明できそうです。それは、この期間中の組織内向けの論文作成の過程で気づいたこと、発表して思ったこと、研修に行って思ったこと、年末年始にあったいろんな人との対話で強く感じたことです。すなわち、「制度が限界を作っている」のではなくて「本質に迫ることができていない」ことが苦しいのであって、それを組織の問題、制度の問題に帰結させるのは、問題を自分で摩り替えていることになっているのではないかなと、そう思うに至ったわけです。

以前から「制度には息を吹き込むことが不可欠」と感じていたわけですが、それは制度を使いこなせてから言えることであって、それがない以上は何を言っても賛否両論が出てきて、みんなの納得感は得られない。問題の本質に迫る過程は、目的を同じくする人達には共通する課題となりえるわけであって、それが為されないということは(本質を外した政治力などは論外です)共通の基盤となるべき「何か」が欠けているか、課題や本質が共有できていないかということになるのでしょう。

先の結婚のくだりは、以前酒飲み話で誰かとした話題で、「結婚は制度じゃないか」と言われたことそのものです。単純にそこに愛情があるならば、愛情は結婚についてくるものがあるかもしれないけれども、本質的には愛情があるから結婚するのであって、結婚しない愛情も成立します。この場合は人間関係の視点に立てば、本質は愛情ということになります。結婚は愛情に一つの形を与える制度であって、それ以上にはなりません。

私の今の仕事も、共生社会の実現(先日、同期のみなさんともこの言葉で話ができて楽しかったです)を組織として目指しているのであって、現場でいうところの就職率の向上というのは共生社会の下位目標でしかないわけです。だからないがしろにできるものではなく「やってあたりまえ」のことであり、その向こうにある共生社会を意識しなければただの数合わせでしかないということですね。

こういった考え方に立てば、今ある事業や制度それに伴う数値目標といったものは、あくまで「ツール」であるわけで、「ツール」を使って職業的な自立を目指したいニーズを持つ方のニーズに応えることが目指すところをやはり組織目標だけでなく共生社会につなげていかなければなりません。

思うままに書いてしまいましたが、「主従を逆転させてはいけない」ということです。

こんなことを考えて、1日遅れで新年の勤務に臨みます。
意志ある方、共にやっていきましょう!