2026年1月6日火曜日

お酒編 焼酎のTwice Up

 こういう記事もまた書いてみよう。とある筋からリクエストもあったので。
 ラベル「酒と肴」第一弾。焼酎!

 実家で教えてもらった飲み方。お酒のTwice Upという飲み方(氷を入れずに、お酒:水=1:1)は、香りが広がりやすく飲みやすいとされているわけですが、それを手間いらずにする方法です。もう長年やっているな。

○作り方
1 焼酎を好きなように飲む。
2 ボトル半分くらいになったら、ボトルに水を足す(1:1で大体1本分に)
3 適当に時間をおいて飲む

 焼酎の種類は何でもいいと思います。私はなんでもこの飲み方です。
 香りがどうとか書きましたが、何より「ぐっと飲みやすくなる」実感ありです。
 飲み方は、そのままでもいいし、氷で割ってもいいし、焼酎苦手な人ならさらに水やお茶で割ってもいい、自由です。

 手間いらずでがぶがぶ飲めるいい飲み方だと思います。のんべえ実家ならではのレシピ。

2026年1月4日日曜日

勝手に新年会

 これまでも何度かアップした記憶はあるが、Iyokiyehaは飲み会無精です。デフォルトは「行かない」のですが、そうはあっても調整する関係軸はある。昨日、横浜で催した会合はそんな中の一つ。前職のご縁だけれども、数年ぶりくらいの会合でした。@野毛
 この参加者に限らず、不思議なものでこの手の会合は、時間を一気にさかのぼる感覚があって面白い。アルコールも手伝うから、どーでもいいことがなんとなく面白い。それでよい。インターネット上で酒を飲みながら語る、みたいな動画や音声コンテンツが出てくるが、他人が酔っ払った話を聞いてもなんとも思わないのだけれども、その渦中に入ると別世界に入ったような感覚になる。この感覚は共有できないまでも、なんとなく一緒になって面白がってくれる人たちとの会合には、なるべく参加することにしている。まぁ、どんな人間軸でも少なからずそういう雰囲気にはなるので、行けば行っただけ楽しいのだろうけれども、ここらへんがIyokiyehaの面倒で病的なところなのだろう「行く」と決めて動くまでの勢いが要る。この勢いが要る部分についてデフォルト行かない、なので面倒なヤツ扱いになる。しょうがない。
 とはいえ、しょうがないよね、で済ませずに少し掘り下げてみると、今自分がおかれている環境は、会合に対して常に逆風が吹いているような感じだということにも気づかされる。人間軸で選ぶだけではなく、自分の周りが会合に対してアゲインストだから、それをおして「行く」と勢いづけるにもエネルギーが余計に必要になる。これが独身時代に人間軸とお財布の状況で参加する/しないを選んでいた時とは決定的に異なる。詰まるところ、ほぼ大体カミさんの存在だ。ここまできて、やっぱり「しょうがない」となる、なぜなら自分の制御下にないアゲインストだから。本当に行きたい会合に行くためには、その瞬間の勢いエネルギーだけじゃなくて、日ごろの貯金も大事な積み重ねになる。そうなると、やっぱりデフォルト「行かない」というのも、自分の病的な部分だけじゃなくて、貯金の一部と考えておくことができる。
 なるほど、くだらんことでも考えてみると思わぬ発見があるものだ、と気づく。このBLOGも定期的に確認しているらしい奇特な方がおられるようですので、日記のこぼれ話は時々メモしておこうと思います。ダラダラがんばってみまーす。

2026年1月2日金曜日

理由が要ること、要らないこと

 いつまで続くかわからんけど、思ったことをアウトプットしておこう。
 「情報があふれている」とか「膨大な情報の渦」みたいな表現が聞きなれるようになった。インターネットが普及して、スマートフォンが行きわたるようになって、さらに加速しているような気がする。しかしながら、自分にとって必要な情報量って今も昔もそんなに変わっていないんじゃないか、と思っている。
 ニュースサイトが見えたり、SNSのチェックなんかをしていると、なんか、それっぽく目をひく情報がある。ついつい見てしまったり、なぜ?と思わされてしまったり。そういうものに注目してしまうと、元々調べていたことや、デバイスを操作している目的がふわっと薄くなって、興味が移ってしまう。最近「これは、嫌だなぁ」と思う。行動の目的を見失うし、調べたり読んだり、見たりするのにえらい時間がかかってしまう。調べきれることなんかほとんどないし、余計にモヤモヤするだけだし、アウトプットには至らない情報ばかりだし。調べたいことを調べられることって、どれくらいかなと振り返るとちょっと怖い。
 「○○の視聴率が低かった理由」は、自分にとっては本当にどうでもいい話である。って考えた時に、自分にとって必要な情報って何だろう?と考える。自分の情報源を「オールドメディア」とか言われても、何の根拠もなければ、自分にとっての意味や価値が損なわれるわけではない。本屋さんが減っていることをもって、書籍が必要ないというのは、あまりに乱暴な意見だなぁと思いながら、いわゆるオールドメディアのお世話になっている。時事ネタを取り入れた漫才なんてのを観て、なんかよくわからない言葉が飛び交っているけれども、まぁ聴いた時に調べてみて、不要なら忘れてもいいと思えば、ずいぶん気楽になるよね。
 結局、情報社会であるとか、多種多様な情報と価値観にあふれているのが最近の日本っぽく語られているけれども、放っておいたら一生会わないような人からの情報に必要なものがどのくらいあるかと言われれば、そんなになさそうだし、身近な人が何かやっていたとしても、それが自分にとって意味のあるものなら付き合えばいいし、そうでなければ、自分の具体と相手の具体を突き合わせて付き合ってどうか判断すればいい。そんな風に考えたら、スマホ以前の自分と今の自分って、必要な情報にそんなに差がないんじゃないかと思えてきた。意味のないことが通り過ぎていくのは見守るだけにして、自分に不愉快等負の感情が生じるならそーっと距離をとればいい、矛先となって自分に向かってくるならそれはかわさないといかんけどね。そうして残る「必要な情報」をきちんと取り入れていきたいものです。

2026年1月1日木曜日

2025年総括と2026年の目標

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 昨年は、まさかの新規事業準備の担当という時限新規の担当者ということで、3月までも要らんことに巻き込まれつつ(継続し)、4月からはすべてが手探りのところに放り込まれて、ここまで何とかやってきました。家族のことでも大きな変化があり、振り返れば本当に激闘の一年だったと感じています。今年も歩き出す方向を決めるための整理をしていきます。なお、年始の挨拶は控えておりますので、あらかじめご了承ください。

 まずは、例年の通り目標の振り返りから。
1 読書の継続 20冊+Audiobook20冊分+αで音声コンテンツ。アウトプットの頻度を上げよう。
2 10分体操+素振り20,000本+週末ジョギング、合気道昇段
3 30分程度を目安にした勉強習慣をつくる(習慣化)
4 仕事のスキルを向上する
5 心穏やかに過ごす

1 読書とか
 ブログでアウトプットしたのが9冊、アウトプットに至っていない読了の本んが2冊目の前にあって、Kindleで7冊で18冊。あとは雑誌とか。Audiobookは23冊分が既読になっていた。細かくみれば若干少なめだけど、まぁ達成としよう。他に、音声コンテンツは毎度おなじみの、「聴く日経」、朝日新聞Podcastアルキキ」はほぼ毎日、「毎日新聞Podcast世の中の「いま」を記者が読み解く」は夏頃から公開されたものはほぼ全て聞いています。obioさんの「ヴォイニッチの科学書」も有料版を購読継続中。他にもいろいろあるけれど、集中して聴いているのは「COTEN RADIO」で、有料会員になって、今ちょうどジェンダーギャップのまとめを聴いているものです。コテンラジオが起点となって、世界史・日本史関連の本はつまみ読みしている、という状況です。アウトプットが課題かな。日記に書き溜めているものはあるけれど、それでよしとするかどうするかは課題。考えてよし、とすることもたくさんあるので。あと、机周りの片付けが進んでいない。今年はオーバーヘッドスキャナを買って、もう二段階くらい整理するかな。

2 運動
 木剣素振りは、35,810回+α(おそらく相当超えている)、毎日合わせると大体100本くらい振っているので、これくらいになった。朝のルーチンは、ラジオ体操第一と素振り70本くらい。冬場からは、正座法10回と合気道の基本動作の内、臂力(ひりき)の養成を左右10回ずつ、ウォーキング500歩ちょっと、をほぼ毎日行っている。本当に年末になって、臂力(ひりき)の養成の左を5回増やして、あとは基本動作連続をやるようにした。下半身の鍛錬に重点をおいている。週末ジョギングは継続。昇段審査12月は見送り、今年の3月か6月には受ける予定でお稽古を進める。達成で差し支えなかろう。

3 勉強習慣をつくる
 なかなか難しいのだが、寝る前に書籍を開いて公務員試験向けの法律に触れる習慣はできてきた。もう少し深い学びになればいいが、ここから先をどうするか、という課題には当たっている。とはいえ、シンプルに問題を解いていくしかないわけで、テキストを開く次は問題を解く、と、法律の該当条文を読む、だな。今年は昇任試験を受けてみようと思う。

4 仕事のスキル
 今年は、手探りでいろんなことをやる機会には恵まれている。公の計画の目標値設定とか(今年からは管理)、例規の整備など、今までやったことがないことを、次々とこなさなければならない環境におかれているので、今までよりは相当力はついているだろう。ただし、きちんと固めていない経験なので、2025年の経験は、折に触れて結晶知識にして蓄えておきたいものだ。

5 心穏やかに過ごす
 アンガーマネジメントが、年末の漫才ネタにもなっていたが、これはもう経験則から一つ一つにきちんと向き合う必要がある。が、だいぶメタ認知が働くようになって、こちらが気分を害する機会はずいぶん減っているのだと思う。それはそれ、これはこれ、人の愛し方は人それぞれ。人の関わり方も人それぞれ、そういうことを少しずつでも認められるようになっていることは大きな前進だと思っておこう。

 これらの他、2025年には実家の母親が夏に緊急手術(腸破裂)→入院、秋にかけて数日帰宅→入所という経緯があり、単身帰省をする機会なんかもあった。ちょうど合気道で夏合宿に参加していた最中の手術だったので、どうにもならず、何かすることも望まれなかった経緯があって、結局11月の連休に帰省することになったもの。父親は早々と一人暮らしの準備をして生活リズムを作っており、姉たちも父親の生活を支えているようなので、過剰な負担のない生活にリニューアルしたような感はある。離れて暮らす自分は完全に(よくもわるくも)蚊帳の外ではあるけれども、たまには母親にも実家にも顔を出していこうと思う。

 一昨年に(自分としては)大きな出来事だった、自分の喘息については特に変わりなく維持。薬も効いているかどうか、よくわからんけれども、まぁ苦しくないので維持できているのだろう。他に悪いところは特にないと思うので、合気道を支える身体づくりを継続しようと思う。とりあえず、健康だ。家族も今のところみんな健康だ。

 あとは、仕事の取組みについて見直しをしつつあったところに、新規事業担当だったので、結局夜遅い日は続いている。その中にあっても、水曜日(ノー残業)は次女の塾のお迎えをして、金曜日は娘たちのギター教室への合流ということにして、なるべく早く職場を出るようにしている。一昨年のようなおサボりができなくなっているので、もう少し休みをとって見聞を広げたいところもある。あ、でも夏にWebセミナーを受ける機会があったな。仕事第一ではなくて、仕事がワンオブゼムになるような生活の柱を育てたい。

 と、振り返ってみて、昨年中もいろいろありました。それを踏まえて、2026年の抱負・目標は、以下の通り。

1 読書の継続 20冊+Audiobook20冊分+αで音声コンテンツ。整理してアウトプットする。
 数値目標は置いておこう。インプットは時と場所とツールを選ばず。
2 10分体操+素振り30,000本+週末ジョギング、合気道昇段
 素振りは今くらいを維持。自宅では、ひたすら基本動作を。
3 15分程度/日の勉強をする(テキストを開く、1問解く)
 やるしかないので、毎日やる。
4 机周り・なんとなく習慣を片付ける
 今年こそ、書籍を半分にする。あとは、なんとなく続いている習慣や惰性で続いていることについては、疑問をもった時点できちんとふりかえり、改善だけでなく廃止も含めてきちんと整理する。SNSやWebサービスについて、だいぶ整理は進めているけれども、物理的な環境とともにもう少し進めたい。忙しいのは否定しないが、できるだけ余白のある生活を目指したい。
5 心穏やかに過ごす
 怒らず。イライラせず。家族や人との関わりは丁寧に。

 以上、2025年のふりかえりと2026年の当初の目標でした。今年もよろしくお願いします。

2025年12月31日水曜日

宮島未奈、「成瀬」シリーズ、『婚活マエストロ』『それいけ!平安部』、小学館。

 Iyokiyehaは小説で外すことはあまりない(少し読んで面白いと思ったものしか読みきらないのだろうが)ですが、宮島未奈のこれらの小説は、ドはまりして2025年に全部読みました。すべてに共通しているのは、
・ぶっ飛びすぎず、「きっとその辺にいるんだろうな」という人物が物語を展開する。
・「あるよね」の範疇を外へ押し出すような「やってくれたな(にやり)」というエピソード。
・大筋の随所随所に差し込まれる、くすりと笑える「常識人の叫び」のようなつぶやき。
・ちょっと変わった普通の人たちの等身大のやりとりが織りなす、まきこまれながら何か元気になっている物語。
というあたりでしょうか。

 成瀬シリーズは関連しながら時系列は進んでいる短編集、他2編は長編?になるのでしょうが、一貫して流れている宮島ワールドは、元気な時に読んでも前向きに面白いし、疲れた時にも外から元気がしみこんでくるようにじわじわと身体を暖めてくれるような文字列が心地よい。「いみじ!」とか、多分流行らないけれども、どこかで使ってみたいと思えてしまう。

○『成瀬は天下を取りにいく』2023年。
 「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」(No.16)から始まる短編集。西武大津店の閉店を個人で応援しようと、西武ライオンズのユニフォームを着て「閉店まであと○日」と、ローカルニュース番組に映りこむ…という行為に巻き込まれる成瀬の友人である島崎。島崎の視点で語られる成瀬の人物像には、ついつい引き込まれてしまうような魅力が詰まっている。小学生の卒業文集に書いた将来の夢が「二百歳まで生きる」とか「大きなことを百個言って、ひとつでも叶えたら『あの人すごい』になる」など、突飛な発想と思いがちだけれども、なんとなく「…そうかも」と思ってしまうような力強さのある成瀬あかりが、地元滋賀県の膳所(?)という町で縦横無尽に活躍する様子を描く物語。
○『成瀬は信じた道をいく』2024年。
 成瀬シリーズ2作目。期待値は上がっていたが、それを上回って更に加速する成瀬あかりの活躍を描く。成瀬に巻き込まれていく膳所の住民、家族、友人。地元の小学生も、ちょっと生きづらかった人たちも、成瀬と関わってもう少し元気になっていく様子が描かれる。成瀬のペースに巻き込まれているのに、どこか楽しそう。「びわ湖大津観光大使」に選ばれた成瀬の活躍も見逃せない。私のイチオシは、語呂合わせ「コンビーフはうまい」だった。Audiobookで通勤途中に聞いていておもわず噴き出してしまったのを思い出した。
○『婚活マエストロ』2024年。
 婚活パーティー企画運営会社ドリーム・ハピネス・プランニングに、ひょんなことから関わることになった、40歳猪名川健人と実質パーティを取り仕切る鏡原奈緒子さんが繰り広げる人間模様を描く作品。パーティーに参加する人たちの一癖も二癖もあるやりとりと、そこに垣間見えるそれぞれの思いや悩み、期待など、様々な感情をとりしきる鏡原さんと、それをサポートすることになってしまう猪名川さん。ラブコメ要素もふんわりほっこりで思わずほほえましい気持ちになってしまう。そんな本筋に高野社長が入れ込んでくる小ネタの一つ一つにもインパクトがあって、とにかく面白い一冊でした。Audiobook版の感想にも書いたけど、舞台が私の故郷静岡県浜松市というのも高ポイントでした。
○『それいけ!平安部』2025年。
 期待と不安が渦巻く高校入学。初日に前の席の子から「ねぇ、あなた。平安時代に興味ない?」(No.37)と言われたら、どんな反応になってしまうだろう。そして、戸惑っていたら「あないみじ…これ、運命の出会いだよ」と言われてしまったら…という冒頭エピソードのインパクトが強い。あれよあれよと流され、出会い、更に流されるままに様々な取り組みに巻き込まれ、戸惑いながらも楽しんで、学園祭へ臨む、そんなありがちな高校生を描く物語。個性的な部員たちの、ちょっとずつ常識の範疇を内から外へ突き続けるような、軽快でありながら、どことなくほほえましくなってしまうのが大変心地よい。
○『成瀬は都を駆け抜ける』2025年。
 いやぁ、とてもすがすがしい読了感だった。2025年最後の日に、こういう小説を読んで締めくくれるのはきっと幸せなことなのだろう。大学に入学して、新たな人間関係の中でさらにいろんな人が元気になって、締めくくりはやっぱり島崎でした。とある事が起こって、膳所に帰ってきた島崎が、知人から成瀬の活躍を聞いて一言「このまちには成瀬がいるのだ」(187ページ)とつぶやくくだりが、一言で三部作の成瀬の活躍を表現しているなと、見事な表現に思わず手を打つ。そして、私と同じようなことをやはり一言で「思えばきのうから会う人会う人、みんな成瀬に照らされている」(212ページ)と表しているところが、やっぱり小説ならではの読み応えだと思った。

 どの小説も、楽しく読めて、自分まで少し元気になったような気になれる小説でした。
(2025年分)

奥村正子『すごい90歳』ダイヤモンド社、2019年。

 何かを始めるのに「遅すぎる」ことはない。地道に、楽しんで、挑戦し続けることは、健康な心身に支えられることではあるけれども、取り組むことそれ自体には必ず意味がある。歳を重ねることで思いが確信になるのだろうが、それを人に語ることは経験の継承として、必ず意味がある、ということを読み取りました。
 70歳を過ぎてから、ベンチプレス選手となり、80歳代では世界大会で連覇。2019年までに5つの金メダルを獲得し、2020年に90歳で他界された奥村氏の最初で最後の著書。この時期、私はすでにテレビを観ない生活となっていたので、噂程度にしか聞いたことがなかった方だけれども、本書を読んでその生きざまに触れ、経験の継承の一部になれたかもしれないと思う。
 率直に、内容をふりかえれば、お年をとられた方の一方的な「○○なのよ」的な、年長者の上から目線を感じることもある。とはいえ、本著の随所で語られる奥村氏の生い立ちや家族との関わり(特にパートナーさん)を、そうした言葉に重ねてみると、それらのすべてに奥村氏なりの根拠があって、それは奥村氏と関わる身近な方たちの存在を伴って語られていることが読み取れる。年長者のお小言、ではなく、奥村氏の人生に裏打ちされた言葉であることがわかると、その生活習慣の一つ一つが奥村氏の経験として、私を含めた読者に届けようとしていることが感じられる。この地点で本書を読み解けば、冒頭の「遅すぎることはない」ということに加え、「身体のメンテナンスが大事」ということとベンチプレスがつながってくる。「高齢でもベンチプレスに取り組む変わった人」ではなく、健康に留意して興味をもっていろんなことに取り組んでいたらベンチプレスに出会った人、というのが奥村氏の経験についてより本質的に知ることができる立場だろう。
 言葉の端々を否定的にとらえるのではなく、本書が世に出た経緯と著者の思いを丁寧に読み解くことによって、著者の主張がより響く。言ってみれば「何歳からだって、なんだって始められる。それが本気で取り組めるものであれば」ということ。そういう何かに出会えるように心身ともに感度よく生活したいと思えるようになった一冊でした。

以下、引用
125 私は、なんでも歳のせいにするのは、やめたほうがいいと思うんです。歳だからできないのではなく、なんでも、やるか、やらないかです。年齢をいい訳にして、やらない理由を並べてしまうのはもったいないです。
160 ひとりでは何もできない だから私はいつも感謝の気持ちを忘れない
(2025年分)

2025年12月30日火曜日

年末に向けて 人格の捨象と具体的に関わること

 2025年もあと数日。Iyokiyehaさんは、キャリアを通じて人と関わることについて、いろいろと考えてきているが、今年はとある音声コンテンツで聴いた「人格の捨象」という言葉の意味する地点でいろんな事象を考えた。人と人とが具体的にかかわり合う時に、そこに「人間関係」が生じるということだ。
 このことを考えるには、辞書的な言葉の意味が必要だった。
・捨象:概念を抽象する際に、抽象された諸表象以外の表象を考察の対象から切り捨てること。
・抽象:事物や表象を、ある性質・共通性・本質に着目し、それを抽き出して把握すること。
※その際、他の不要な性質を排除する作用(=捨象)をも伴う(略)。⇔具象
・具象:①目に見える形のあること。姿や形をもっていること。具体。⇔抽象 ②形でわかりやすく表すこと。
 物事を抽象化するときには、そのものを構成する様々なものを捨て去って本質に近づいていくことになるので、それは本当に知的な営みであると思っていたが、抽象化の過程はその「構成する様々なものを捨て去って」いくことで成立する。つまり、抽象化のために捨てられる事象があるわけで、それを「捨象」と呼ぶ。よって、抽象化は捨象を伴うといえる。逆に具体化は捨象されたものを取り戻していく過程ともいえる。なるほど、捨てられることを「捨象」と呼ぶのか、と説明を聞いたのち、これまでの経験の中でいくつかのことがつながってきた。
 私は、職業通じて、生活においても「人間関係」を大切に扱うようにしている。形の見えないことであるからこそ、自分のイメージと理性を同時に、交互に働かせないと構築できないし、できたと思っても崩れていくような脆弱性をも伴うもの・ことであるからこそ、古来より人は他人に対して様々な感情を抱くものであると考えている。何千年何万年と人間関係が繰り返されているはずなのに、良い・悪いで判断できない、あるいは「誰にとってもよい人間関係」が存在しないという現代のこの事実に、ライフワークとして考える興味がある、というのがより正確な表現だろう。研究者というよりも生活者、職業人としてのレベルで考えて表現することで、自らの生き方に反映させていきたいと考えている。
 この言葉の意味を意識することで、冒頭の表現に行き着く。「人と人とが具体的にかかわり合う時に、そこに『人間関係』が生じる」ということだが、これは人と人とが関わる中には、人格の捨象が進んだ関係を故意に作り出す人がいると思われることから、浮き彫りになった経験に言葉を与えたもの。要は、人と人との関わりには本当にいろんな形があるけれど、本当に「人間関係」と言える関わりは、その人とその人とが具体的なやりとりを行った時に通じる何かによって結びつき、構築されていくものであって、人格の捨象後のやり取りにおいては、損得が入り込む。「楽しければいい」「自分が得したい」「他者が得するのは許せない」といった考え、発言は、そのいずれにおいても、周囲の他人との間に「人間関係」は生じない。人間関係のないところに、仲間はできない。
 人格の捨象が当たり前に行われるところには、人間関係それも仲間となりうる人間関係は生まれないということ。それはつまり、人間関係を適切に構築するためには、具体的な関わりが不可欠であるということ。それはお互いの相互作用であって、片方では成立しない。
 どうだ、これはかなり本質をついた説明じゃないかな。言葉にすると「具体的」ってあまりに一般的過ぎて聞き流してしまいそうだけど、目の前にいるその人と、どのくらいきちんと関われるか、ということが人間関係の本質なのだろう。

2025年12月20日土曜日

ネットの世界との付き合い方

 矛先の方向が合っているのか、ということと、自衛が必要だなと思うこと。
 オーストラリアで、こどものSNSの利用制限が法制化されたらしく、ラジオをつけていると、その是非がどうこうという話が聞こえてくる。どうしてこういうやりとりになっているのだろうと疑問であることと、私は賛否いずれでもないということの確認ができたことと、まずは自分から、と再確認できたことがあった。
 自分の立場は「こどものSNS制限に対して賛否いずれの態度もとらず、その子がどう使うか自ら考えること。こどもに対する制限では、こどもの何を守ろうとしているのかわからない」ということ。平たく言えば、制限かけるならこどもに限定せず、大人も一緒に制限しちゃったら、とか、そんなことできないんだから、目的がよくわからない範囲の制限はやめたほうがいいんじゃない、こどもが大人と一緒に使い方を考えたらどうでしょう、ということ。
 Iyokiyehaは、これまでにも何度か態度を示してきたけれども、利用の賛否というよりは、自分はちょっと使い、で留めているだけ。自分のこどもには、あんまり使ってほしくないなぁとは思うけど、ガミガミ言いません、という立ち位置です。将来どうとか、そんな見えないことじゃなくて、SNSに限らずスマホいじっている時はとにかく話を聞いていない、音がだだ漏れで聴覚過敏な私には不快な刺激になる、という自分が受けている不利益に対する抵抗というわけです。子どもらがスマホで何しているのか、知らないし、知りたくもない。ただ、いわゆるリアル世界を生きるのにもなかなかいろいろあるのに、ネットの世界にも時間と労力を割かなきゃいけないなんて、大変だな。そんなにいろいろ手を出さなくてもいいんじゃない?と思うだけで。
 そんな大変さを煽って煽られて、SNSやネット情報でさらに煽られて。前にも言ったけどネットは「増幅装置」だから、そんなところに身を置かざるを得ない環境は、自分のリアル生活に割く時間を削るしかないのになぁ、と思うこの頃です。

戦場の選択

 何事にも「戦うべき場所」がある。自分に向けられる刃をすべて受ける必要はないということです。
 「絶対にかなわない相手こそ土俵に上がってこない」(宮島未奈『成瀬は都を駆け抜ける』Kindle版、位置No.1218。)という箇所を読んで、なぜかいろんな経験がつながってきた。楽しく読んでいる小説は、油断しているとこういうことが起こる。今日は自宅に誰もいないから、近所のカフェでサンドイッチを注文して待ち時間に本書を読んでいてこれである。人間の頭って面白い。
 自分の気づきは、要するに「自分に見えているものがすべてではない」ということ。普段の生活でも、何か窮地に陥っていても、心地よい場所でも、不快極まりない場所でも、自分の視野の外に無限の世界が広がっている、ということです。本当に対峙したい人やコトが、自分の土俵の上にのっているのかどうかって、気づけるようでいてそうでもないかもしれない。自分が「戦うべき」と思っていることが、実はお釈迦様の手の平で踊っているだけだったり、逆に何も特別な環境でもない時に起こったことが、後で自分の人生を変える(変えた)ことであったのかもしれないし、何か「よくわからんなぁ」というくらいでいた方が、多分視野が広がるんだろうな、ということです。もう一つつなげて広げると、どんなにしんどい時であっても、自分に恥じない生き方さえしていれば、きっとどこかに味方はいるのだろうな、ということです。このことに気づいて自分はもう一つ楽になったな、と思う。
 小説の文脈ともちょっと違うし、なんでこんなことを考えたのか、とよくわからないことがあるけれども、いい意味で方の力を抜いて、視野を広くすると、今いる場所は、いるべき場所(戦わなくていい場所)ではないかもしれない、ということです。思考は無限だ。

2025年12月13日土曜日

音の扱い

最近は、と言うと、途端に歳をとった感じがするものの、それでも言いたい。音が多い。
まぁ、好みの違いによるところが大きいとは思うのだけれども、他人がいる場で自分の音を出したい人が、多いような気がする。喫茶店だけでなく、広く飲食店など。Wi-Fiが使えるお店が増えたこともあるだろうし、電車の中でも動画を観ている人も多い。観ること自体は、多分嗜好と世代の違いもあるから、文句は言わないことにしているけれども、イヤホン使ってよ、と思うことも少なくない。自分の嗜好の音を出すことには、そんなに抵抗感がないのだろうか、とも疑問に思う。
個人的には、自分の耳をジャックされた感があるので、不快感はある。たばこの副流煙と同じくらい不快に思うこともある。願わくは、公衆の場や食事中に「私に」聞こえるようにスピーカーから音を発しないでほしいのだが、科学的な身体的損傷がないことを理由に、禁止に振り切ることはないだろう。となると、意識的に「聞こえない」状態になることが、自衛の手段になるわけだけれども、これには訓練とコツが要る。うまくハマると、そういう場にいても平常心を保つことができるのだけれども、ちょっと調子が悪いと、この状態に入らず、やはりイライラしてしまう。私にとってはすでに健康被害だとは思うのだが、まぁ、これは自衛の範囲として、耳トレに取り組もうと思う。自分にとって楽しいことでも、周囲の人が不快に感じることは、やっぱりやっちゃいかんのだと思う。自らの行動の影響を意識しつつ、自衛がうまくなるように、平常心をよりバランスよく保てるようになりたいものだ。

2025年12月6日土曜日

スピード感の守備範囲

 「-感」という日本語の使い方は、「○○の感じ」という意味で使われる。
 職場という場所では「スピード感をもって…」という言葉がよく使われる。物事を成し遂げるのに必要な時間を短くする、という意味で使われ、「□□について、スピード感をもって取り組む…」のように使われる。政治家が好きな言葉なのかもしれない。
 今まで当たり前のように見聞きしていたが、おそらく自分では使ったことがない。どうしてかと振り返ってみると、個人的な特性として一般的な意味での「スピード感」を持ち合わせていないと自己評価していることもあるが、それよりもこの言葉に対してそもそものところで疑問をもっていたのかもしれないと気づいた。気づいたら、途端にこの言葉が嫌いになった。
 そもそもスピードって何だろう、仕事におけるスピードってなんだろう?思考にすれば考えて結論を出す時間の短縮、作業であれば完了までの時間の短縮、とにかくかかる時間を短く短くすることが「スピードがある」状態であり「スピード感をもって取り組む」というのは、「従来かかる時間よりも短い時間で完了させます」くらいの意味になるだろう。
 私は、この「スピード感」が嫌いである。なぜか。それは言った人で完結しない言葉だから。
 もはや疑うこともないが、誰かが「スピード感」といったときに、本当に一人で仕事をしている人はどれくらいいるのだろう?要はチームリーダーが「スピード感」といった時に、それはすなわち他人にも自分のスピードを押し付けるという側面が拭い去れない。そんなことが視野に入るのに、人前で「スピード感を持って取り組みます」なんて事前調整なしにはいえないはずなのに、無責任にスピード感を表明して、スピードがある=すばらしいと価値観を決定づけてしまう人が、世の中にはたくさんいるということだ。

 ということで、「スピード感」は嫌い、「スピード感至上主義」のような認識は、ここにおいていこうと思う。早ければいいってもんじゃない。

2025年12月1日月曜日

最近の出来事 12月編

 ずっと仕事が落ち着かず、帰りも遅いため、しわ寄せが週末にきて、更新もできず。

 そんな日々が続きましたが、とはいえ、いろんなことがあり、いろんなことを考えたので、メモとして。ちなみに、今日は年末(多分)最後のお休みをいただきました。

○LINEの広告が不愉快

 のっけから、あまり悪い話題は嫌なのだけれども、LINEの画面で上の方に出てくる広告がどうにも不愉快でなるべく見ないようにしているのだけれども、時々古い友人の誕生日が出てくるので完全に無視できず、ちょっと困っている。とはいえ、基本的には無視する方向で鍛錬中。

○合気道の演武会

 結局、ここ2か月をふりかえると、割と全力で演武会に向けて身体を動かしてきたのだなと思う。課題となる基本技を通して、ドリルのように何度も何度も同じ技に取り組むことで、理合いが身にしみてくるというか、感覚レベルで細かなことに気づけるように(少しは)なってきたというか。今までずっと未知の領域だったところに、これまで常識だと思っていたことが覆るような気づきが眠っていたり、癖のように身についていた動作も微妙な違いがあったり、とにかく始めた頃のように新しいことが次々と見えたり隠れたり、やってみて納得したり余計にもやもやしたりと、いつまで経っても新鮮な気持ちで取り組めるということに、また気づいてしまった。これからも、いろんなことに挑戦はするのだろうけれども、多分錬身会の合気道は一生接し続けるのだろうな、と思いました。結果として、競技演武は2回戦敗退で、決勝進出を逃して残念ではあったのだけれども、それでも周りが「納得いかん」と言ってくれたのは、それなりにいい演武ができたということなのだと思う。順当にいけば来年は違う(黒帯の)カテゴリーになってしまうけれども、これはこれでまた挑戦したい。いやぁ、面白い。

○母親

 実母が、夏休みに急に開腹手術を行うことになり、入院、そのまま入所(今はいわゆるロングショート)するに至っている。認知症の症状は暫時進んでいるようで、今は見当識がかなり厳しいところにある。身体的な欠損がないのと、古い記憶(家族の名前とか)は、ある程度保たれている(時々まだら感があるものの、会えばそのうち名前を思い出す)のが、せめてもの救いか。客観的な分析の上での学びは、認知症+ストマ(大腸)は相性が悪いということ。自己管理、家族管理をぶっちぎって、本人の記憶がまだらで、不快感があると夜間に自己離脱してしまうと、周囲は悲惨だということが観察できている。離れて暮らす私は、これも客観的には影響を受けていないが、その立場に置かれていることへの負い目というかなんという感情なのか、どこかほっとしている自分もいて、そんなことに嫌悪感もあったり、何か複雑である。

○仕事

 今年は受験を見送り、来年改めて検討しようと思う。なんというか、今年の主担当の仕事は、間違いなく自分のキャリアに有益なのだけれども、上位官庁の意向や、業界の政治的なやりとりだったり、主旨が伝わらないもどかしさなど、マイナス要素が多くちょっと戸惑っている。一方で、「本当にくだらないこと」にも複数巻き込まれており、モチベーション低下も甚だしい、が、さっきの主担当の業務に救われているような気もする。

といったことを感じつつ生活しています。

2025年10月22日水曜日

書店のよさ

学生の頃から、本屋さんが好きで、今でもお世話になっている。
ついついAmazonが便利でこちらも長年使っているのだけれども、本屋さんに入ると何時間でも居ることができる。ショッピングセンターの中の本屋さんなんかは最高だ。

とある書籍を探しているのだが(感想文はこれからの本)、Amazonでも在庫切れ、近所の本屋さんは軒並み在庫なし。県外の店舗には在庫が点々とあるのだけれども、買いに行くとなるとなかなか難儀ということがわかる。娘に贈ろうとする本なので、「ノーブランド品」とかで値段が吊り上がったような商品を買うのは、信条にも感情的にもどうにもいただけない。出版社にも問い合わせてみるが、在庫なし。
その出版社への問い合わせで、カスタマーの担当者から「在庫はないですが、書店で予約して待つという方法があります。いつになるかはお約束できませんが~」といった丁寧なお返事があったので、何十年かぶりに書店で取り寄せの注文をしてみる。あまり期待せずに待っていました。

そんなこんなで、そんなに期待もせず、期日がきたらさらに待つか、多少高い商品を買うか考えようと思っていたら今日書店から連絡。「在庫の取り寄せができたので、取り置きしておきます」とのこと。いや、いい感じで驚いて、ちょっといい気分になりました。Eコマースって便利だけども、こういう既存のネットワークに、事情を伝えて待つ、というのもまだまだ現役のいい方法なのだなと感じました。人を介するやりとりは迅速さに欠けることがあるけれども、今はやりのAIよりももっと柔軟に、いろんなことをやってくれるのだなと、いい気持ちになりました。新品本、週末に取りに行ってきます。

2025年10月14日火曜日

本多正識『1秒で答えをつくる力 -お笑い芸人が学ぶ「切り返し」のプロになる48の技術』ダイヤモンド社、2022年。

 特に若い子が使う言葉遣いは、言葉の意味に解釈が入る余地があるので、十分に注意している。とはいえ、最近聞いていて好きな言葉は「秒でやります」というもの。時にこうるさいIyokiyehaが許容!としてしまうようないい感じがあります。
 いろんな話題に対して「秒で返す」ことに長けた人に、芸人さん、がいます。その世界は、映像を見ていてもわからない競争社会で、それこそ芸人さんたちは、そこにある機会(チャンス)にかけて「秒で返し」続けているようにも見えます。
 では、それはその人が生まれもったセンスによるものなのかというと、それを否定するつもりはないんですが、どちらかというと技能として磨き続けていることが、それぞれにあるように思います。トップクラスの芸人さんたちには、それぞれのトレーニング方法を実践しているのでしょうが、本著はNSC講師の本多氏が、長年にわたる芸人さん養成校で磨いてきたメソッドをこれでもかこれでもかと紹介しています。
 普段見聞きする情報をほめまくったり、言い換えてみたり、真似からエッセンスを見つけ出すとか、語彙を磨くとか、いつでも準備しておくなど、地味で地道なのだけれども、なるほど、問いに対して即座に「秒で回答する」妙技は、こういう積み重ねによって支えられているのだと感じられる内容ばかりです。

最近思うこと 251014

 今年の夏場は、仕事の中では「悪意」のことしか考えられなかったな。本当に、なんというか自分本位というか、相互理解を放棄して理解「できる/できない」ではなく「する/しない」のレベルで感情がぶつかりあうケースが散見されて、もうなんというかモチベーションがだだ下がるということばかり起こっていた。いや、今も継続しているのだけれども、さすがに呆れや諦めを一通り通り過ぎて、もはや「関わり合わない」ことを選択している自分がいる。これが福祉の現場で、今困っているその人を助けるためのやりとりであれば、もう少し変わったアプローチをするのだろうけれども(してきたのだけれども)、今の仕事で起こるのは「困っている」の意味がそれとは異なるように思う。すなわち、生活上のどうしようもない困りごとに対して「助けて」ではなくて、困りごとに自分の欲をのせて「どうにかしろ」が横行する。これは、(やりたくないけど)全面戦争の様相にしかならず、「どうしようもない、外れ論理で、反撃できない相手を責め立てる」側と、「背景が変わる中でやむを得ず守らざるを得ないことを守らないといけない」側との、不毛な言い争いが続くだけである。
 なるべく距離をとりつつ、うまく守って切り抜けるしかないのだな、と思うこの頃である。

 後ろ向きな話はここまでにして、生活自体の改善点。
 情報インプットのバランスを見直し続けている。もう少し活字からインプットしたいところであるが、もう少し割り切って聞く情報に頼ることを意識している。PODCAST、Voicy、ラジオあたりであるが、こうしたものに触れる時間を意識して増やしている。家事をしながらインプットできるいい習慣である。
 一方で、アウトプットはというと、書き捨ての日記を見直している。このBLOGの更新もがんばりたいところであるけれども、デバイス使用の時間を減らしている経緯もあり、手書きでちょっとした日記を続けている。寝る前のリラックスになるし、記録としていつまでも残るわけではないけれど、頭の中には残りやすい実感がある。
 で、上記を踏まえた学びについて、身体動作を組み合わせることの効能を改めて感じている。合気道のお稽古がとってもいい事例になっているのだけれども、もともと仏教分野では心身それぞれの修行は同格という考え方がある。頭だけではダメ、身体だけでもダメということである。双方のバランスをとることで昇華していくもの、と考えるのならば、私の合気道のお稽古にも通じるし、日々のトレーニングにもつながっていくものだと思います。少なくとも、朝のルーチンと歩き通勤とで、そこそこの運動量を保てている。
 改めて、「ゆっくり」読むことを味わっている。速読がいいと思い込んできたのだけれども、言葉にこめられてた意味を考えながら読む「熟読」のよさを、何十年かぶりに味わっているところである。