2025年2月26日水曜日
目的は何なのだろう?
2025年2月15日土曜日
対話の力
2025年2月9日日曜日
行動する理由は一つじゃないんです。人間だから。
2025年2月8日土曜日
少しずつ習慣化
2025年2月2日日曜日
最近の悪意
悪意を感じられる、というのはただの敏感さんなのかもしれないけれども、思い切ってgifted的なIyokiyehaのちょっと特異な能力として位置付けてみる。今まで人にはあまり言わなかったけれども、前回投稿のような「悪意」や、嘘や騙そうとする意志とか、一見もっともらしいことを言っているけれどもその実は自分の欲を満たそうとすることだったり、そういう感情を感覚レベルで感じられる(≠読み解ける)のは、ある程度自分の能力なのかもしれないなと思う。対面であれば、スクリーニング6割、相談後8割くらいで自分の感覚の裏付けがとれるような気がしているし、どことなく自分もその感覚に頼っているように思う。まぁ、感覚に頼って長いことやってきたから、その説明を求められると冗長になりがちなんですが。
ということを前提に置き換えて、最近の傾向を考えてみると、1つは、安っぽい感情がむき出しになって世の中に氾濫している、2つは、人のことを心配している言動を盾に、自分の欲を何とか達成しようと嘘をつくのも厭わない人が増えている、3つは、何かをきっかけに目の前の人への態度が変わってしまうことに疑問をもたない人がいる、あたりだろうか。これまでにいろいろぼやいてきたこととも、大体一致する。
今のところは完全に主観ですが、ポイ活のためのやむを得ない動画広告とか見えると、違和感のあるものが結構ある。演技の良しあしも大きいのだと思うが、発している言葉と表情の間にある隙間が感じられると、Web上の情報にはそういう感情があふれているように思う。その点テレビの方がマシな感じが、少し前までにはあったが、バラエティなんかを中心にほころびが出てきているように感じられる。このあたり、ドラマやノンフィクション番組なんかがまだマシか。俳優さんの活躍はまだまだプロ意識を感じる。
2つ目のことは、上記と関連するのだけれども、身近な対面でも言っていることと欲求との差が大きい人が多い。これを感じてしまうと、気を遣わざわるを得ないのでとても疲労する。こういうのって、多分普段仕入れている情報が蓄積してその人の言動に反映されているのだろうな、と思う。と、ここまでくると、ウチの身内も動画視聴に割く時間が長いので、心配といえば心配である。
で、こういうことを気にしつつも、こちらの筋を説明してやりとりを重ねることによって、不満がたまる結果なのか、主張や苦情としてそれが出てくるときには、明確な本質を突くものではなく、なぜか矛先が目の前に向いてしまうというもの。もともとは何かを守ろうとしていたはずなので、いつのまにか「おれ」「自分」になってしまう。あれあれ、達成したいことはなんですか?あなたの欲求がむき出しになっていませんか?それは私には関係ないことなのに、なんで痛めつけられようとしているのかな?と、なんか逸れていく感覚があるんだよね。
そういうことをひっくるめて、感じとれてしまうことを「悪意」として考えてみる。何かいいいなしかた、かわし方が見つかるといいんだけどね。
2025年1月26日日曜日
悪意を考える
あくい 【悪意】
他人に害を与えようとする心。他人を憎む心。ほか(大辞林アプリ版)
他人や物事に対していだく悪い感情、または見方。ほか(岩波国語辞典第7版)
他も調べると面白いかもしれない。最近、人の「悪意」に触れる機会が多いように思ったので、その意味するところを確認してみました。上記2つの意味を見ても、①他者に向く感情、②自分に生じる感情、の二つがあるように思いました。連動するのかもしれない。
仕事のクレーム対応や、個別に食ってかかられる時、かつその内容がクライアントの納得を得られないようなものだった時、事の本質を離れて「私=Iyokiyeha」への攻撃になることがある。または、直接そういった言動ではないとしても、元となる感情に基づいて発せられる態度、言動が、Iyokiyehaからは見えてしまうことがある。どちらも気分のいいものではないが、on goingの対応になると、それなりに対応が必要になる。
自分に向けられる言動にそれが感じられる時には、慎重に距離を保ちつつ、その言動の内容を共有して、それが「何も生み出さないこと」を感じ取ってもらうような戦術を試みる。納得は得られないまでも、そのことに「意味がない」と気づいたならば、あきらめてお引き取りいただけるタイミングがやってくる。この時、明らかにしすぎないのがコツで、正面から反論するような見せ方は、かえって相手のプライドをたたいてしまうことがある。あくまで「〇〇ということですかね?」のように確認と混ぜつつ、結論を表現せずに気づかせるやりとりが望ましい。
というような、基本的な対応の心構えみたいなものがあるのだけれども、時にそれが全く通用しないことがある。上記でいえば②のパターンの内、(1)自覚がない時、(2)自覚してやっている場合の一部がこれにあたる。とはいえ、(1)に関する戦術は基本的には上記と同じで、受けきることになる。自覚がないので感情的なやりとりが多くなるが、突然飛んでくる飛び道具に注意して、慎重に粘り強くである。
やっかいなのが(2)だ。明らかに悪意をもってやっているパターンがある。まぁ、要は不当要求であることがほとんどなのだが、その目的がこちらの疲弊や、ちょっとした揚げ足取りであれば、平行戦が続くことになる。こちらがちょっと悪くなるような雰囲気が続けば、ただただ疲弊する。前置きが長くなったが、これが「悪意のあるパターン」だ。
最近、この手の悪意を感じ取ってしまうことが多い。なんというか、風潮なのだろうか?ここ10年くらいで様相が変わってしまったのだろうか、以前からこの手の悪意を持ってやってくる人たちはいたのだけれども、よくよく話を聞くと困りごと起点であることが多かったように思う。今もよくよく話を聞いたらそういうことなのかもしれないけれども、制度の変遷を反映しているのか、どちらかというと「自分の都合」が前面に出た悪意の件数が多いように思う。特に自らの立ち位置は全く変えずに、人にばかり都合を押し付けるような言動が目立つように感じている。
しかしながら、その中でもクライアント目線はまだ「何とかしなきゃ」と思えるけど、専門職や同業者からこの手の「悪意」が見えてしまうと、なんとも言えない気持ちにさせられた上、自分の感情がこれでもかとすり減らされる。最近は、そんなことばっかりだ。
2025年1月18日土曜日
引っかかることがあると、いろいろ考えて、いろいろ試してみたくなる。
朝、ジョギングをしていると、向こうから若い男性が歩いてくるのが見えます。特に気にしていなかったのだけれども、すれちがいざま彼が「あけましておめでとうございます!」と結構大きな声であいさつされる。距離も声の大きさも絶妙。一瞬びっくりしたのは自分が未熟なところだけれども、すぐさま「はい、おめでとうございます!」と回答できました。おそらく自閉傾向のある若者だろう。ジョギングを続けて、なんだか温かな、穏やかな気持ちになりました。たかが挨拶、されど挨拶。人と人との関わりには、人のきもち(気分、感情、思考、様々な「自分の中の見えない動き全部」)を動かすエネルギーがあるな、と感じた。
先週、考えていた「陸でもないこと」は、週末に何とか落ち着かせることができて、今週は「あほらし」と穏やかな気持ちでいられました。一瞬動きがありましたが、まぁ、成り行きで結果を出して、きっとその人にとっては面白くない結果だから、怒られていきましょう、ということで。あとは野となれ山となれ。お手紙書かなくてよかった。
その落ち着きをつくることができた合気道のお稽古を経て気づいたこと。演武の時も、仕事の時も、なんかいろんな場面で、自分は「呼吸が乱れがち」「力が入りすぎ」「視野が狭まりがち」ということに気づいた。あらゆる場面で、気づいた時には呼吸を整えて、様々な力みに気づいて脱力を心がけ、結果として穏やかに視野を広げて保っていようと思いました。呼吸と力み、今年のキーワードです。
娘に買って、自分が読めていなかった天気痛に関する本を読んで、「耳」のケアが大事であることを知り、併せて自分は三半規管に関して指摘されていたことがあることを思い出し、これを機に耳ケアを心がけようと思い立つ。とりあえず、家の中で耳を冷やさないようにすること、屋外でイヤーマフなんかを積極的に使うこと、をやってみようと思う。
いろんな刺激があって、どんな場面であれ、考えて行動目標としてことは、やってみようと思うし、試してみることにワクワクする。まとまった時間がなくても、ここまで思考を進めることができることについては、楽しいし行動の結果を評価できる。
…ということを考えた一週間でした。
2025年1月12日日曜日
寒稽古 ~頭が働かなくなるほど、身体を使うことの効能
本当に陸(ろく)でもない一週間を終えて、土曜日を迎えた1月11日。悶々と朝ジョグをしていても、頭に浮かんでくるのは、さらに陸でもないこと。ふりかえってびっくり。
マズいレベルの無理難題を押し付けられそうになり、頭の中の怒りだけでなく、呆れと、嫌気が同時にやってきて。そうなると、感情レベルも動き出すんだよね。必死で抑え込もうとしたのだけれども、ちょっと無理でした。個人的には「呆れ」が動くと、自分の中の耐性が著しく低下するのだな、と今回感じた。それでも単発ならイライラしながらも、時間が経つにつれて、少しずつ薄めていけるとも思っているのだけれども、毎日次から次へと降りかかってきた件について、怒りと呆れが同時にやってきたときに、何かがフッと途切れてしまったように思う。「心が折れる」という表現が口をついてでてきたけれども、これが身体に影響すると、多分うつ状態となるのだろう。緊急避難的に、そうならないよう自分を守っているけれども。
それで、土曜日の朝にジョギングしていると、自然といろんなことが頭に浮かんで消えていくのだけれども、まぁ自分でもびっくりするほどの悪手が次から次へと。怪文書攻撃を思いついた時には、たまたま神社の前にたどりついていたので、手を清めてお参り、「あほらしい」と自分につぶやいて、要らんことをせずにすみました。それで、たまたま合気道の寒稽古。まぁ、半日黒帯のみなさんに技かけてもらって、技かけて。くたくたになったら、なんか先週頭にきていたことも、ある程度リセットできたように思います。意味のあることはやむなくやってもいいけど、意味のないことはやらない。それくらいシンプルに考えていいのだろうと、いつもの自分に戻れました。
頭がやばい方に行っているときには、身体に余裕をなくして何も考えられないようにするのも悪くない、と感じた出来事でした。
2025年1月1日水曜日
2024年総括、2025年の抱負
2024年総括、2025年の抱負
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
昨年は、イレギュラー体制から解放されたと思ったら、今度は純粋に仕事に追いまくられる一年でした。併せて、家族のことや、家族の中で生きる自分を意識させられる出来事がいくつか続いて自分の身に降りかかったことで、ますます生活のことを考える機会ができました。
まずは、例年の通り目標の振り返りから。
1 読書の継続 30冊+Audiobook30冊分+αで音声コンテンツ
2 10分体操+素振り15,000本+週末ジョギング、合気道昇級
3 30分程度を目安にした勉強習慣をつくる(習慣化)
4 仕事のスキルを向上する
5 心穏やかに過ごす
1について。どうにも書籍に触れる時間が後半にかけて、ガリガリと削られてきた感があります。書籍は10冊止まり。Audioboookも15冊程度。その代わりといってはなんだけど、ラジオや音声コンテンツはほぼつけっぱなしなので、NHKジャーナルとか、他いくつかの番組を通じて、インプットはそれなりに維持しているとは思うのだけれども、そうしたことをまとめたり、深く考えたり、思考がつながって何かに気づくような感覚が例年よりもぐんと減ってしまったような気がします。知識ばかり、なんとなく頭の中は通っているけれども、それが知恵に昇華していないといった感じです。これは良くない。
2について。鍛錬は継続できた。体操はほぼ毎日できた。多分休んだ日はないか、あっても数日程度です。覚えていない程度。毎日の歩数は、年間平均(iPhone)によると、10,610歩と出た。木剣素振りは、ざっくり計測で22,220本。毎日60本くらい振った計算になります。去年より、平均で10本くらい多く振れた。臂力の養成と組み合わせて振っているので、少しずつ感覚の変化は実感していますが、まだまだ「腰が入った」振り方の感覚がよくわからないので、分かるまで降り続けます。
3について。微妙でした。週に1回は、仕事帰りにコーヒーを飲みながら本を読む、ことを意識してきたけれども、どうにも、ウチに帰ってくると眠気が勝ってしまう。何とかしてこの程度の勉強時間は捻出したいものです。
4について。なんでもいい、と思っていたので、うまく目標設定できませんでした。来年は「法律」縛りですね。昇任試験と、そのずっと先の行政書士を目標に。
5について。これが課題。改善留まりです。率直に。日常生活の中に気にくわないことはたくさんあるのですが、今までより穏やかに、感情をある程度平坦にすることができるようになってきたのは改善。ただ、ふつふつと湧き上がるような不満にはまだまだ課題。なにかあっても「ふぉっふぉっふぉ~」と笑ってやり過ごせるようになりたい。まず呼吸法、そしてアンガーマネジメントかな。
この他、今年強烈に感じたことは、身体症状やら診断による自分の身体について。元々、身体は丈夫でなくとも、健康が当たり前だと思っていました。ただ、夏前から続いた咳に喘息の診断がついて、吸引剤の処方が始まったこと、それを継続しなければならないようになったこと。その診断の過程で、肺の深部に炎症性と思われる影があること、これが癌かも~と精密検査を受けることになり、結論「悪性じゃないだろう」だけれども、フォローで毎年CTとらなきゃいけなくなったことをきっかけに、自分の身体についてはいままでより一層気をつけないと、と思うに至りました。
仕事第一の生活になってきていることが、どうにも不満なので、このあたりを意識から方法まで一つずつでも改善していきたいと、思います。隔月くらいで、仕事サボりはできているので、これは継続しつつ、普段の仕事ももう少しうまいことやりたいですね。散策先はもう少し増やしていいかも。
あと、合気道はようやく黒帯までリーチになっているので、きちんとお稽古したいです。基本から応用まで、理合いを意識して、ドリルは自主練含めて、コツコツ積み重ねたいです。
と、振り返ってみて、昨年中もいろいろありました。それを踏まえて、2025年の抱負・目標は、以下の通り。
1 読書の継続 20冊+Audiobook20冊分+αで音声コンテンツ。アウトプットの頻度を上げよう。
ちょっと見直し。分量は減らしても、きちんとアウトプットしよう。いろんな機会を使って、このブログにもアップしていこう。机周りは3分の1くらいは整理してきたので、このまま整理に努めよう。要らないモノは処分。
2 10分体操+素振り20,000本+週末ジョギング、合気道昇段
継続。合気道で黒帯目指したいから、その基礎体力は習慣化の中でつけていくことにしたい。基本動作と技のドリルは日常で。曜日によってやること変えるとかあっていいかも。通勤は徒歩で、10,000歩/日の維持を目指す。今年は昇段したい。
3 30分程度を目安にした勉強習慣をつくる(習慣化)
再度、今年こそ。時間を捻出するというよりは、仕事の切り上げ方をうまくしよう。勉強時間は週単位で管理(1時間)する。内容は法律。入り口は何でもいい。昇任試験もそろそろ意識しないと。
4 仕事のスキルを向上する
維持。でも、メリハリを意識する。勉強時間と仕事のバランスを週単位で管理すること。
5 心穏やかに過ごす
これだな。これは継続。数年越しだ。自分にメタ認知が働くように。穏やかに。感情の揺れに意識的になって、自分に「ちょっと待った」って言える余裕を作ること。気にくわないことは、その場から離れることと、平素の呼吸法にも、意識を向けたい。
以上、2024年のふりかえりと2025年のとりあえずの目標でした。今年もよろしくお願いします。なお、去年も書きましたが、年賀状による新年の挨拶については、諸事情により完全に縮小しています。いただいた年賀状に年賀状でお返しできていない方が出てきてしまっていますが、あらかじめご了承ください。
2024年12月29日日曜日
住野よる『腹を割ったら血が出るだけさ』双葉社、2022年(Audiobook版、2024年)
昔は昔、今は今。「今の若い子たちは、考えることやいろんな見られ方への対応とか、大変だな」と思っていたが、こういう現代小説から感じられる、いわゆる「今の若者」の姿ってやっぱりイメージでしかなくて、結局は個別の感覚なのだな、と思ってしまう。少なくとも自分の土俵とは異なる土俵に皆立っているわけで、同世代の人達が共通認識をもっているのかというと甚だ疑問ではある。案外、いわゆる「今の若者」を仮想敵と仮定したときに、「敵の敵は味方」的に、ワン・プロジェクトっぽく手を結んでいるだけかもしれない。だって、同世代だって物事の捉え方の感覚は個別だから。
内容は、作中に登場する『少女のマーチ』なる読む人の解釈を許すような小説をモチーフに、自分の本音で生きたいと願いながらそれが成就しない女子高生と、表裏のギャップにアイデンティティを揺さぶられているアイドル、彼女らを取り巻く人間関係が語られる。ミステリとは言い難いが、モチーフに解釈が入り込むために、登場人物の思考が読み切れずついつい引き込まれてしまう。
Iyokiyehaの人間関係の捉え方とは全く異なるそれを、ある若者の視点を、節毎に切り替えながら一つの物語を組み立てていく。「自分とは異なる考えを押しつけられる」。本書の一節だが、そういうものなのだなと感じる。若者の人間関係なんて、多分理解できないし、自分の考えるそれとは全く異なるものだから、摩擦すら感じるのに、それでも興味深く聴き進めてしまうのは、この作者のプロダクトに対して素直になれたと考えることにしよう。
---(続)
とはいえ、小説というのはすごいプロダクトなのだと思う。若者達の会話と思考を言語化することによって、人間の感情というものをそれを読む人に重ねながら、空想世界を展開していく。それは「そんなバカなことあるかぃ!」って思うようなフィクションであったとしても、どこか自分の感情に重なったりかすったりするので、ついつい小説の世界にひきこまれてしまう。普段から小説にはそういうところがあったように思うが、感情の言語化とそれが立つ基盤に「解釈」が入り込むというしかけが、こう思う自分を客観視できた一助となっているのだろう。
赤字体質 241009
こづかい管理が甘くなっていたな。電子決済って手軽が故に、消費刺激にはなるんだけど、一方で管理が甘くなるのも事実。半年くらい消費刺激が優位になっていたようで、蓄えが削られていることをようやく清算できた。どんぶり勘定はよくない。あとは、会合の機会が増えているのもいい刺激になっているな。
とりあえず年末まで、緊縮財政モードでいきます。
博物館の解説 241009
引き続き、川越ネタ。
去年末から5回くらいになるか。サボり先に認定されている川越。本川越駅を中心に、観光案内に載っているところで、歩いて行けるところは大体回っている。蔵造りの街並みの近辺は目的地が明確なら、地図なしで大体たどり着けるくらいに、主要な横道くらいまではほぼ歩き尽くした感がある。
昨年末から改装工事をしていたらしい、川越市の博物館。今回は特に予定がなかったので、じっくり観に行くことができた。川越市の歴史があけぼのから、中世を経て近代まで概観できる展示が大変面白かった。でも、今日はもっとツイていた。市内の小学生が社会科見学か総合学習あたりで、団体利用があり、なんとガイドの声が丸聞こえ。ラッキーすぎて1時間以上滞在してしまう。
博物館なんかでも「キュレーション」って使える言葉なのだろうか。展示物の並べ方や組み合わせの見せ方で学びの質が変わる、ということは、自分なりに感じ取れることだけれども、やっぱり「インタープリテーション」って大事だよな、って改めて思いました。私にとっての「インタープリテーション」って自然体験活動が入り口なんだけど、物言わない展示物を使った語りやプレゼンテーションも「インタープリテーション」って使っていいよね。キュレーションとインタープリテーションがかみ合った時に自分に起こるインプットって、知識が背景や時系列を伴って、文字面だけじゃない生きた知識みたいなものとして入り込んでくる感覚があるよね。いわば「じーんとくる体験」みたいなもの。そういうプレゼンに出会えると、いやぁホントラッキーだと思う。今日はそんなラッキーデーでした。
現在にも残る地名や建造物から、その仕組みを展示物を使って動きを伴って説明する。川越は江戸時代に大きな家事があったことから、蔵造りの建物には家事を防いだり、被害を抑えるような仕組みが備わっている・・・北側に窓がなくて、土壁が備わっているというのはそういうことなんだな、と分かると、街並みの見え方もちょっと変わって見えてくる。博物館から昔の川越にタイムスリップできたような、そんな気分になれたひとときでした。
生徒さんが退出した後に、山車の写真を一通り見て出口へ。説明していた職員さんから「お騒がせしました」なんて言われたので、「いえいえ、大変勉強になりました。ありがとうございました」と御礼。最後まで気持ちいい寄り道でした。
何も考えないことを一生懸命やってみる 241009
ここのところ、偏頭痛を思われる体調不良が続いており、一昨日は気持ち悪くなる程度、昨日は朝から鎮痛剤を服用しての仕事だった。以前から、今日は自分のための休みを決めていたこともあったのだが、ちょうどいい頃合いでサボりに突入。
秩父まで行こうかと計画をしていたが、あいにくの天気(朝から結構な雨)なので、予定変更していつもの川越へ。いつものお店でうまい昼飯を食ってエネルギー補給しようと考える。PePeのスタバで作戦休憩をと思うが、予定変更。テキトーなPODCASTを聴きながら、日記をつけてぼんやり。雨がやんできたのを横目に見つつ、合気道ページの構想・コンテンツを少しずつ作ってぼんやり。Audiobookで小説を聴きながらぼんやり。「いろいろやってるじゃん」と言われるかもしれないが、自分にとっては、普段やらない(できない)ことを表に出すかどうかは別として、のんびり・無計画にやってみているので、頭の稼働率が適度に保たれており、心地いいのではなく「ちょうどいい」。職場で何かを読んだり、書いたり、話したりするときにキリキリと痛む頭はどこにもなくて、自分の状態に合わせてインプット・アウトプットがなされている。寝る前の自分座禅で頭の稼働率を落としていくのとはちょっと違った感覚、これが俗に言うところの「ととのう」なのかもしれない。表現はともかく、歯止めや摩擦がなくするすると自分の身体と頭が働いているような感覚に、ちょっと戸惑いながらも、とても楽な時間を過ごしていると実感する。
川越へくると、とっても楽しかったり、なんだか心地よかったりするので、すっかり自分の中では手軽な小旅行、身近なサボり先、になっているのだけれども、こういう前向き刺激はいくらあってもいいと、改めて感じる。自分にとってのこういう場所が他にもあっていいと思うけど、川越にはしばらくご厄介になると思うな。よろしく。
2024年11月20日水曜日
情報収集の偏り
情報収集とメディアの評価、そういう角度から兵庫県知事選の結果に感じていたことを、森下和哉さんが的確に指摘してくれていました。情報の質と選び方ってとても大事だと思う。
#330 兵庫県知事選の結果を受けてテレビ局報道マンの個人的な本音
寛容さがなくなっていく
寛容 名 -かんよう
心が寛大で、よく人を受けいれること。過失をとがめだてせず、人を許すこと。(岩波国語辞典 第7版)
結局、まわりまわって自分のことしか考えていない人がいるということなんだよね。多いとか多くなっているとか、そういう変化ではなくて、人の言動を許せない人っていうのがいつの時代にも一定数いるわけで。そういう人たちが「安易に意見を表明できる」ツールを手に入れた時に、寛容さのなさが社会に垂れ流されていく。表現の稚拙さが、それに拍車をかけていく。近年、IyokiyehaがWeb閲覧の時間を削っているのは、この辺に理由がある。要は「眺めていて快刺激よりも不快刺激の方が多い」からだ。
人がやることをすべて受け容れられるとは限らないが、じゃあそれが「不快だ」と思ったときに、不快感情をWeb上ひいては社会に垂れ流すことに、世のためになる「何か」はあるのだろうか?と考えると、垂れ流しにする必要はないよね。なら、その感情は飲み込んでおいたらいい。飲み込むには辛いことがあるなら、そんな辛いことは不特定多数の人間じゃなくて、信頼できる誰かにきちんと相談した方がいい。
理想的には、「不快な感情」が自分にやってきたら、その要因となる人や言動に矛先を向けるんじゃなくて、その要因を許して、そんな感情に襲われている自分も許して、三方よし○印をつけられるのがいいと思う。そこから憎しみはうまれないはず。憎しみが外に出なければ、いざこざや小競り合いは起こらないはず。そういう姿勢を磨きながら、そういう姿を追いかけてもらえるような、感情の受け止め方ができるようになりたい。