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2026年5月9日土曜日

正しさがずれる

 物事の「正しさ」ということを考える。あらゆることにおいて「正しい」とか「正解」ってあるのかな、という疑問が、最近特に強くなっている。一方で正解を求める行動によって、何か思わぬところに歪みが生じて、正解と不正解が連動する。ある事象に対して正解であるか不正解であるか、というのは実は環境に依存しているのではないか。

 という、日常の疑問から仮説である。「学校では『正解』を教えるが、社会ではそうではない」と言われることを聞くことがあるのだが、これは正しいのか?という疑問がある。すなわち「学校でも『正解』は教えていない」という前提に立った方が、世の中と向き合うのには、より本質に近づくのではないかな、という考えに至る。

 もちろん、学生にはテストが定期的に実施されるから、A(×B)=Cをとにかく覚え込むことが求められる。今のIyokiyehaさんは、節目のテストを控えているから、やっぱりA(×B)=Cには取り組んでいる。ここで、あえて( )書きにしたのだけれども、ドリル学習で覚えることって、この(×B)が省略されている、あるいは意識していない、見ようとしていない、というのが、より正確なのかと思う。イメージがつく言葉に置き換えれば、環境であるとか背景、前提条件、などだろうか。

 「変化に対応する」という言い方は、ラジオ(←Iyokiyehaの場合)を聴いていれば、ちょくちょく聞こえるフレーズである。先の式に当てはめて考えると、こんな感じ。

・元々、A×B=Cが成立して、それなりに成果がでていた。=Cでよい=Bという条件の下では、AによりCという成果が出た=Cが正解であるには、Bという条件のもとでAを行えばよい。ここまで拓くと、広げすぎかもしれないが、少しは分かりやすくなるだろうか。

 要はAという行動・知識により、Cという成果・正解が生じるには、Bという前提条件が基盤になっているということである。Cという(一見)正解を導くには、Aという行動や知識によって生み出されていると見えるが、実際にはBという条件に依存したAによってCが生み出されるのだから、Cを出力するためには「AもBも必要」ということになる。

 この前提に立つと、次の展開が導かれる。

(1)A×B=C ならば、 A×B’≠C

(2)A×B=C ならば、 D×B ≠C

(3)A×B=C ならば、 A×B’=C’

 (1)と(3)は同じことを言っている。「同じ事をやっても、前提が変われば、出力は変わるよ」ということ。Cが正解だったのは、A×Bだったからであり、AとBのどちらかが変化すればCの部分に入るものは変わるということ、すなわち(1)「Bが変わればCでなくなる」(3)「Bが変わればCも変わる」ということである。(2)は「やることAが変われば、出力は変わるよね」というごくあたりまえのこと。

 話を戻して、先の二つの問いを解説すると、学校で教えることは単なる1対1の知識(Q&A)ではなく、「学問の場では」とか「一般的には」とか「教科書の中では」という前提がついて「(こういうときは)●●が正解とされる」ということの積み重ねに過ぎない。学校という統制された場=前提条件Bが、あまりに前提過ぎて意識が薄れているので、「学校では知識を教える」「正解を教える」という表現になるのだな、と感じる。もちろん、その先には「社会では正解がない」「変化に対応する」というのは、学校という(統制された)場を離れたから出てくる表現であって、先の式に当てはめれば、シンプルにBが変化した、ということに過ぎない。統制されていない生活の場、ビジネスの場で、学校で学んだ知識がそのまま使えるかというとそうでもないぜ、ってこと。かといって、それが無意味かと言えばそんなことはなくて、背景が「学校という場(とそれに付随する諸条件)では」ということに気づけば、私たちが何年も学んできた知識・技能というのは、全て自分の今に役立つものになる。日本で学んできた私にとって、何もかもが本当の意味での初学と感じないのは、きっとそういうことなのだろう。

 「気づくのが遅いよ」とか思われるのだろうが、この歳になってそんなことを考えるようになった。何が起こっても、なんとなく、まぁまぁの乗り切り方ができている(だから、生活できている)のは、そういうことなのだろうな、と思って、次に進むとしよう。書くとややこしいけど、言っていることは簡単で「答えは、背景に依存している」ということ。だから「正しい」ことがずれるように見えるけど、結局前提条件が変わっている、ということなのだな、だから現状認識が重要なんだ。

2025年12月30日火曜日

年末に向けて 人格の捨象と具体的に関わること

 2025年もあと数日。Iyokiyehaさんは、キャリアを通じて人と関わることについて、いろいろと考えてきているが、今年はとある音声コンテンツで聴いた「人格の捨象」という言葉の意味する地点でいろんな事象を考えた。人と人とが具体的にかかわり合う時に、そこに「人間関係」が生じるということだ。
 このことを考えるには、辞書的な言葉の意味が必要だった。
・捨象:概念を抽象する際に、抽象された諸表象以外の表象を考察の対象から切り捨てること。
・抽象:事物や表象を、ある性質・共通性・本質に着目し、それを抽き出して把握すること。
※その際、他の不要な性質を排除する作用(=捨象)をも伴う(略)。⇔具象
・具象:①目に見える形のあること。姿や形をもっていること。具体。⇔抽象 ②形でわかりやすく表すこと。
 物事を抽象化するときには、そのものを構成する様々なものを捨て去って本質に近づいていくことになるので、それは本当に知的な営みであると思っていたが、抽象化の過程はその「構成する様々なものを捨て去って」いくことで成立する。つまり、抽象化のために捨てられる事象があるわけで、それを「捨象」と呼ぶ。よって、抽象化は捨象を伴うといえる。逆に具体化は捨象されたものを取り戻していく過程ともいえる。なるほど、捨てられることを「捨象」と呼ぶのか、と説明を聞いたのち、これまでの経験の中でいくつかのことがつながってきた。
 私は、職業通じて、生活においても「人間関係」を大切に扱うようにしている。形の見えないことであるからこそ、自分のイメージと理性を同時に、交互に働かせないと構築できないし、できたと思っても崩れていくような脆弱性をも伴うもの・ことであるからこそ、古来より人は他人に対して様々な感情を抱くものであると考えている。何千年何万年と人間関係が繰り返されているはずなのに、良い・悪いで判断できない、あるいは「誰にとってもよい人間関係」が存在しないという現代のこの事実に、ライフワークとして考える興味がある、というのがより正確な表現だろう。研究者というよりも生活者、職業人としてのレベルで考えて表現することで、自らの生き方に反映させていきたいと考えている。
 この言葉の意味を意識することで、冒頭の表現に行き着く。「人と人とが具体的にかかわり合う時に、そこに『人間関係』が生じる」ということだが、これは人と人とが関わる中には、人格の捨象が進んだ関係を故意に作り出す人がいると思われることから、浮き彫りになった経験に言葉を与えたもの。要は、人と人との関わりには本当にいろんな形があるけれど、本当に「人間関係」と言える関わりは、その人とその人とが具体的なやりとりを行った時に通じる何かによって結びつき、構築されていくものであって、人格の捨象後のやり取りにおいては、損得が入り込む。「楽しければいい」「自分が得したい」「他者が得するのは許せない」といった考え、発言は、そのいずれにおいても、周囲の他人との間に「人間関係」は生じない。人間関係のないところに、仲間はできない。
 人格の捨象が当たり前に行われるところには、人間関係それも仲間となりうる人間関係は生まれないということ。それはつまり、人間関係を適切に構築するためには、具体的な関わりが不可欠であるということ。それはお互いの相互作用であって、片方では成立しない。
 どうだ、これはかなり本質をついた説明じゃないかな。言葉にすると「具体的」ってあまりに一般的過ぎて聞き流してしまいそうだけど、目の前にいるその人と、どのくらいきちんと関われるか、ということが人間関係の本質なのだろう。

2025年12月20日土曜日

戦場の選択

 何事にも「戦うべき場所」がある。自分に向けられる刃をすべて受ける必要はないということです。
 「絶対にかなわない相手こそ土俵に上がってこない」(宮島未奈『成瀬は都を駆け抜ける』Kindle版、位置No.1218。)という箇所を読んで、なぜかいろんな経験がつながってきた。楽しく読んでいる小説は、油断しているとこういうことが起こる。今日は自宅に誰もいないから、近所のカフェでサンドイッチを注文して待ち時間に本書を読んでいてこれである。人間の頭って面白い。
 自分の気づきは、要するに「自分に見えているものがすべてではない」ということ。普段の生活でも、何か窮地に陥っていても、心地よい場所でも、不快極まりない場所でも、自分の視野の外に無限の世界が広がっている、ということです。本当に対峙したい人やコトが、自分の土俵の上にのっているのかどうかって、気づけるようでいてそうでもないかもしれない。自分が「戦うべき」と思っていることが、実はお釈迦様の手の平で踊っているだけだったり、逆に何も特別な環境でもない時に起こったことが、後で自分の人生を変える(変えた)ことであったのかもしれないし、何か「よくわからんなぁ」というくらいでいた方が、多分視野が広がるんだろうな、ということです。もう一つつなげて広げると、どんなにしんどい時であっても、自分に恥じない生き方さえしていれば、きっとどこかに味方はいるのだろうな、ということです。このことに気づいて自分はもう一つ楽になったな、と思う。
 小説の文脈ともちょっと違うし、なんでこんなことを考えたのか、とよくわからないことがあるけれども、いい意味で方の力を抜いて、視野を広くすると、今いる場所は、いるべき場所(戦わなくていい場所)ではないかもしれない、ということです。思考は無限だ。

2025年9月7日日曜日

悪意再考

人の悪意は避けがたいということは、先に考えた通り。そもそも「やっつけてやろう」という気持ちで向かってくる人に対して、説得を試みたり、何かを説明して分かってもらおうとすることは、ほぼ徒労に終わるのだと、Iyokiyehaさんは最近あきらめに近い学びを得た。動機や目的は特定し難いけれども、たとえ事の発端が「何かを成し遂げよう」とすることであっても、何かのきっかけで矛先を相手に向けることそれ自体が目的とすり替わって亡霊化する。亡霊化した悪意は、促進剤を使ってその相手が対応しにくいように手段をデザインして攻めにいく。相手方というのは、どうしても「想定外」というか「守備範囲外」の悪意が攻めてくるのだから、防戦一方となる。なんとしても分が悪い。

ということを考えながら、最近の気づき2。私の相談スキルは「相手の思考を変化させる」ものとはちょっと違って、「相手の思っていることを促進する」のが一歩本質に近づく説明になるのだろうと思った。要は、ポジティブな気持ちが少しでもあるなら、プラスの方向に伸びていくが、ネガティブな気持ちがあるとそれが促進されて悪意となったり、亡霊化することになる。攻めてくる人に反撃するというスキルとは違って、きちんと気持ちのある人を支えていくことが私のストレングスなのだろう。一方で、苦情の主からは、ネガティブ感情が増幅していくゲートにもなりかねない。要注意です。

2025年7月23日水曜日

話し方のレッスン

 ひょんなことからご縁があって、話し方のレッスンを受けてきました。
 これまでの経験もあって、プレゼンや人と話すこと、それ自体にはそれなりにスキルに自信はあるのだけれども、とはいえ、仕事以外のところできちんと教えてもらったことはないので、いい機会でした。
 学んだことは、言葉にすると月並みなんですが…
・(その話の中で)一番伝えたいこと/抽象度を高めた 一言をそえる。
・フィラー、語尾フィラーを減じる
 ということです。言葉にすると、どこかで聞いたことがあって、いろんな場面でいろんな人が言っている、ことですが、これをきちんとトレーニングする機会はとても貴重でした。
 頭使うし、話し方を気にするととっても窮屈だし…
 でも、録画してもらった自分の話し方を見て、たくさんの気づきがありました。印象的だったのは、「自分が思っているよりも窮屈さは見えにくい」こと。むしろ、自分が「窮屈」と思った話の方が、聞いている立場としては「話に集中できる」。内容が浮き彫りになる話し方、なんて言えるのだろうと思いました。
 「一言」ワークは、時々、丁寧に言葉選びをするようにしたら、きっと私があこがれる「難しいことを端的にずばっと言える」人に近づくのだろうな、と可能性を感じることができました。
 出不精な私にとって、研修とかセミナーってどうしても一歩踏み出すのに力が要るのだけれども、生活のベクトル(方向性)が合ったものは、必ず学びがあるな、と改めて思う次第です。仕事で参加する(しなくちゃいけない)説明会とか講習会に当たりはずれを感じるのは、このベクトルの重なり具合なんだろうな、とも感じる機会になりました。
 何より、今の言葉で言うならば「推し」が提供している講座に参加できたのは、自分にとっては、とってもとってもいい経験になりました。偶然とはいえ、こんな機会をいただいたことに、ほんと感謝です。

2025年5月11日日曜日

営みの総和は、言語表現の総和に非ず。

 そういえば、以前から「人の生活は煙のようなもの。制度は箱みたいなもの。」という表現でもって、対人支援の文脈における支援制度はそれをいくら足し算していったとしても、クライアントの生活の総和を満たすことはない、と言ってきた自分に気づいた。このことが、「言語表現によって、その伝えたい思いや思考をすべて表現できるわけではない」ということと接点があるような気がした。
 ここのところ、仕事でも書いて書いて読んで、読んで読んで書いて、ということを繰り返しているところがあり、その中でも「多分本質はここじゃないんだろうなぁ」と思いながら、ある言葉に言及して主張せねばならない場面もあり、なんというか、本当に本来の力の使い方じゃないよなぁという実感が生じて仕方がない。そもそも、私はそんなにできる人ではないので、ついていくのが精いっぱい、というか、着いていけているのかもわからないことが、そういうもやっとしたことであるから、なんとも言えない気持ちが湧きやすい。かたや、本質的な仕事が目の前に巨大な壁となって立ちはだかっているから、余計に焦りが生じてしまっている。あまり身体にはよろしくない。
 言葉によって表現しうることは、人の営みや思考・思いのほんの一部でしかなくて、それがゆえに何らかの感情によってそれらが刺激されている場合、言葉は形を変えてとめどなくあふれてくるものである。そのあふれているものに反応せざるを得ないという環境は、次から次へとあふれてくる湧き水を、器にとってどこかに移さないといけないような、そんな作業を彷彿とさせる。その移した先に(適切な)目標があるならば、それまではがんばろう、という考え方ができるかもしれないが、そうでないと途方もない作業を終わりなく続けなければならないということであり、これは考え物だ。本当はそれを生み出している感情や生活状況、思いや思考、こういったところをあらゆる方法で整理していかなきゃいけないのに。
 現業の時には、そういうことも知恵と行動とで、ある程度触れられる機会を作って、なんとかかんとかしようとしたり、そこに触れた上でクライアントの感情に働きかけて、本心はあきらめて次善の策に落ち着いてもらうような働きかけができたのに、今の事務職、法制度の範囲でやりとりしなければならないこの窮屈さは、今の仕事を続ける限り付きまとうものなのだろうと思う。それでいいところと、そうでないところがある、という(私にとって)当たり前に思えることを、当たり前と思ってもらえない人に、お互いが表出する言葉でのやりとりによってのみ主張し合う、というのは、何か世の中がよくなる方向に向かう一助となるのだろうか。

2025年2月9日日曜日

行動する理由は一つじゃないんです。人間だから。

プログラミングの世界は、〇〇なら▲▲、□□なら◎◎と一から十まで指示してあげないと動かないものだけれども、人間というのは、その辺かなり緩やかだ。緩やかというよりも、こういうことを考えると、やっぱり人間というのは機械にはできない複雑なものを「判断する」ことができる生き物だと思える。
だから、自分の行動も、すべてに理由があるかというとそうでもなくて、その時楽しいかどうか、それすらもあいまいなまま、何かを行う、あるいは行わないという判断を下して行動している。そういうものだ。
なんとなく時間が経っているのも、そういうことで、目的がない行動も日常の中にはたくさんある。それらを律して、すべてに目的を持たせるというのは、一見やった方がいいこと、道徳的なこと、やるべきこと、とついつい思ってしまいがちで、そう思われがちなんだけど、それって結局は、自分という人間を機械に近づけていくことに他ならないのかもしれないな、と思いました。堕落という言葉はあるけれども、それとは少し異なる目的のない間みたいな行動・時間、それも含めて人間だと考えれば、そうした間も人間を構成する要素であるといえるな。

2024年6月29日土曜日

感情を意識に置くって大事だな

 雑記ですが…。

 定期的に聴いているある番組で、パーソナリティの一人が放った一言が印象的だった。視聴者からのある批判的なコメントを受けて、冷静に「この指摘は、我々に対するリスペクトが感じられない。私たちもリスペクトできない内容だから、議論にならない。このままならもう聴いてくれなくてもいい」という主旨のことを言ったことに対し、Iyokiyehaは想定範囲を超えたやりとりに感動しつつ、この新しい視点を得たことに併せて感動した。もう一歩だけ、このコメントの主に歩みよる方法もあるのだろうが、このパーソナリティは「お互いのリスペクトがなければ議論にならない。批判的になったとしても、相手へのリスペクトは必須」という姿勢を貫いたことに、心の中で拍手をしていた。

 いろんな情報に振り回されることがあるのだけれども、判断基準の一つに「自分の人生を、自分で歩いているかどうか」という点が意識下に上がってきた。新しい情報に寄って行くことも大事な姿勢なのだけれども、それによって自分の意志に反する行動をとらなくてはならないとなったら、それは自分にとっては正しくない言動になりかねない。自分の気持ちにも意識的にならないと、ついつい何かに振り回されてしまう世の中に生きているのだと、改めて感じさせられた。

 スターバックスは、世界的な大企業。ただ、それだけの理由で利用を控えていた時期があったのだが、最近は自宅近所に店舗があることも手伝って、割と抵抗なく利用している。自分もアップデートしないといけない。生活者の視点からは見えない、同社の資本がやっていることはとりあえずさておき(というか、判断材料がないので判断保留とする)、見えるところでの商品の品質や、接客のなんというか感情的にプラスになるようなやりとりは、世界を平和にするための基礎の基礎ともいえる、人間関係の円滑さと気持ちよさを作り出しているように感じる。「どうぞ、お楽しもください!」と声をかけられたことに、新鮮さだけでなく、気持ちが伝わってくる感じがして、とてもいい気分で休憩時間を過ごすことができた。

 というように、世の中、ロジックで見えることもたくさんあるのだけれども、感情的なものや見えない力みたいなものを意識にのぼらせることが、自分にとって大事なことなのではないかとの仮説に行き着く。自分のことは自分が一番よく知っている、それは真であり偽でもある。わかっていることだけでなくて、例えば自分に触れているところから、どんな力が自分に伝わっているのか、ということを説明できる人がどのくらいいるか、というとどうだろう。少なくとも、自分は合気道をやっていても、どこに力が入りすぎているのかしょっちゅう忘れてしまう。でも自分の状態を詳細に知っていくことが、自分をコントロールすることになり、自分の感情がある程度コントロールできると、言動レベルでいい発信ができるようになり、人々のいい発信が、いい場を作り、いい場がいい地域を、いい地域がいい社会を…と広がっていくようなイメージが、なんだかここ数日で意識にのぼってきた。たぶん、これは、いい感情だと思うので、言葉の限界まで書き残しておくことにする。

2024年5月11日土曜日

意外にも原点回帰

 自分にとって得になること。例えば、楽しいと思えること、儲かること、いい思いができること。いろいろあるけれども、世の中にあふれる情報を目にするにあたり、何か違和感があるものと、そうでないものとがある。素直に受け入れられるか、そうでないか、とも言い換えられるだろうか。

 例えば、自分にとって有用と思える「歩くとポイントがたまるよ」というものでも、ちょっと試してみるか、となるものとそうでないものとがある。使ってみてどうか、というのは次のポイントで、要は自分が動くか動かないか、という点である。そこに何があるのかなと思いながら、いろいろやってみたり、いろんな情報に触れたりと、生活を続けてきた。

 仕事の内容が変わって、経験することや考えることなんかもきっと影響しているのだろうけれども、自分にとって、何か情報に触れてみて、自分が興味を持って動けるかどうかを分かつのは、そこに「納得感」と「わくわく感」があるかどうか、ということなのだろうと、おぼろげに見えてきた。「納得感」はわかりやすいもので、どうして自分にとって得なのか、ということが分かりやすく理解できる内容であることだ。長短は関係なくて、ある程度論理的であって、自分の気持ちに触れるものであること、が大事な点だ。

 で、もう一つの「わくわく感」が大事。要は、自分にとって快刺激であるとともに「やってみたい」と思えるものであることはとても大事といえる。何か、自分にとって都合の悪いことが見え隠れするとか、自分のお得感の裏側に誰かの迷惑になることとか、自分にとってやってみようと思えるよりも面倒だったり、思った以上に時間がとられるとか、そういうことがあると「わくわく感」は減じられていく。この減少が「やってみたい」を下回ると動かない。「わくわく感」がない、ということだ。

 案外、プライベートだけじゃなくて、仕事においても生活においても、この「わくわく感」みたいなものって大事なんじゃなかなと思えることが、いくつか重なっており、最近は「わくわくするなぁ」という言葉を使ってみていろいろ試している。本当の意味で、自分にしっくりくる「わくわく感」に気づけたら、選択の精度もあがると思う。いろいろ試してみようっと。

2024年2月10日土曜日

関心とか無関心とか、コメントはコメント

 インターネットでニュースを見るのは、何か気になることがあったときくらいだから、記事が見つかったら、やることやっておしまい、という使い方ゆえ、コメントに目を通す、なんてことはないわけです。

 それでなくても、ブログでもSNSでも、コメントでいい思いをしたことなんかほとんどないので、そういうものからは極力距離をとっています。私の情報収集は今でも新聞と雑誌だったりします。「情報が偏る」とか言われても、そもそも「何かの立場によって編集された情報」ということを念頭におけば、自分で考えるための材料になる、Iyokiyehaはそういうものだと思っています。で、私の情報網には引っかかってこなかったもので、ウチのカミさんがわざわざ教えてくれた記事なんですが、まぁ今年度の私に直結するものなので、記録を兼ねてリンクだけ。

 個人的にはいろいろあるんだけどさ、個人にどうこう、遺族にどうこう、外野があーだこーだ、公共空間で適当なコメントつけるのもどうなんだろうと思う。まぁ、あれか。ある出来事に対して、不特定多数の人たちのごく一部がどう感じているのか、ということを知る空間だと思っておけばいいのか。

https://x.gd/LqYBn

https://x.gd/LXkvA


2022年6月12日日曜日

学校という場所、友達という人

 娘(長女13歳)が、学校へ登校するのに遅刻したり、時に休んだりするようになった。

ほとんど口をきいてくれなくなって1年以上経つので、今さらやいのやいの言うつもりはないし、そもそも学校行かないくらいで大騒ぎするつもりもない。ただ、心配ではある。

新しい環境に少数集団として入ることになり(学区の関係で、同じ学校の卒業生は学年で数人しかいない)、表面上はうまくやっていてもストレスためていたりするのかもしれないし、学年が変わって悪くはないと言いつつ一年生の時のクラスが良すぎたのでそのギャップが気に入らないのかもしれないし、毎年この時期(梅雨)は気圧が不安定になるので偏頭痛や天気痛みたいなものがひどくなっているのかもしれないし、SNSを中心にWeb上で何か嫌な気分になっているのかもしれないし、シンプルに友達と何かあったのかもしれないし。

同じように心配するカミさんが話を聞いても、ハッキリしたことは言わないわけで、上記のようにいろんな理由が考えられるし、そもそもこの外側に何かあるのかもしれないし、何かあってもうまく表現できないのか、そもそも何もないかもしれない。

自分の子どもとはいえ、やっぱり一人の人間なのだなと思う。わかっていると思うのは親の思い上がりで、接している時間が長いから分かりそうなことは確かにあるんだけれども、とはいえ相手は一人の人間だからやっぱり完全に理解するのは無理、と結論づけざるをえないんだよね。

まがりなりにも43年生きてきて、その中の数週間って、全体からみたらそんなに長くないんだよね。ある意味あっという間なわけで。そんな時期に、安全な場所で迷うことができるようにしてあげることくらいしかできることがない、ということに気づく出来事で、Iyokiyehaも自分なりにはいろいろ考えています。

娘が外的要因で学校に行きたいのに行けない状態なら、積極的に守ってあげなきゃいけないんだけど、内的要因で学校に行きたいのに行けないなら(周囲の支えはあったとしても)自分で何とかするしかない。そもそも学校に行きたくないなら理由は知りたいけど無理させる必要はないわけで、他人が「学校に行かせなきゃいけない(義務)」だからひっぱってでも連れていく、と言うのは違うアプローチなのかな、と思う。もし学校が要らんことするならそれは指摘しなきゃいけない(とはいえ、そんなことしないと思うけど)。

ダイバシティが「多様性(を認める)」という言葉で紹介されるようになってきたわけど、人の多様性だけでなく、場の多様性も大事。まずはとにかく動くエネルギーを蓄えてほしいものです。

2022年3月6日日曜日

本当のことがわかりにくい世の中

なんか、嫌な雰囲気なんだよね。身近な人の発言や、出回っている情報や、なんというか社会の空気というかなんというか…

Iyokiyehaの立場は、間違いなく「反戦」です。いかなる理由があっても、一般市民を巻き込むような、人の命が失われるような戦闘は、断固反対です。ただ、職業軍人以外の人に全く被害のない戦闘が可能ならば、国際問題を解決する手段としての「戦争」は方法としてやむを得ないものだと思います。理想的なイメージだけれども。繰り返しになりますが、一般市民に一切の被害が出ない、という条件つきの話です。現代ではありえない。よって、ロシアの行動は理解できません。が、かろうじて価値判断(良し悪しの判断)は保留しています。

ところで、最近のニュース全般に言えるのだけど、この「理解できない」が曲者です。何事にも、それが起こる背景があって、その出来事を見る立場によって、意味が変わってくる。もちろん、事実は一つなのだろうけれども、それを何らかの形で表現した瞬間に、誰かのフィルターがかかったものになる。文脈を踏まえると、完全に客観的な事実というのは記述できないことになってしまう。これが表現の限界といえる。

そこにきて、最近は動画配信などというものが一般的になってきました。報道の世界による特殊な技術ではなく、誰もがスマートフォン一台で動画を作成し閲覧できる時代です。しかしながら、その情報の真偽の確認は人間に委ねられているのが実際のところでもあります。

この「動画」というものも曲者です。テキストによって物事が表現されると、書き手の見え方が反映されてしまうのだけど、では「動画」なら?「誰が撮っても同じだよ、事実だよ」という雰囲気が、かなり広がっているように感じるのだけれども、どうなんだろう。これは、テレビが動画配信サイトにとって変わったにも関わらず、今度はテレビという大物が動画配信サイトという新興勢力を取り込みにかかった一つの事例と見えてしまう。要は、映像の効果は素晴らしい!という雰囲気が蔓延している昨今の世の中の、いわば意思のようなものとも感じられます。

これに加え、フェイクニュースというもの。特殊な技術でなくても、ちょっとした加工を施すだけで、人の目には別の情報がそこに加えられてしまう動画があります。それも、事実とは異なることを伝えてくる内容になってしまっているのに、それをクイズ番組にしても正解できないような精巧な作りのものが横行していることも、びしばしと感じます。

ここに怖さを感じるのが、今回のウクライナを巡る一連の報道です。一つには「ロシア悪者、ロシア討つべし」の論調が報道の大半を占めており、戦闘の主体とされているロシア側の文脈というのが、一般市民である私には見えてきません。かろうじて、Web雑誌「Forsight」だけが、ロシアの文脈をとりあげた記事を一部掲載していますが、世の中の圧倒的な雰囲気は「勝手に軍事侵攻してきたロシア」が大勢のように感じます。大手新聞もしかり。これはアンフェアじゃないのかな。もう一つには、報道では映像がとりあげられており、原発に発砲している様子もニュースとして何度も目にしたのですが、さて「キエフの原子力発電所」と言われている映像が本当にそれなのか、日本に住む私たちが判断できるのか、ということもあります。ドラマ「MIU」(だったっけ?)でテロのフェイクニュースがキーになった回がありました。先にあげたようにクイズ番組の問題になっていても正解できないような映像がある中で、何が事実なのか、ということは実はよくわからないんじゃないか?と思ってしまっている自分がいます。

とはいえ、報道されることが全くの事実無根かというと、それもまた疑わなければならないのか。なんかもう、ほとほと疲れてくるし、そこまで口にしたらさすがにただの面倒なおっさんになってしまう。そんなことを思ってしまった自分がどうするか、というと、やっぱり情報だけには目を通して、判断を保留するという態度を貫くしかないのかなと思う。それも、この「流れ」のある社会の中では難しいのだけれども。情報との付き合い方、見直す時なのかもしれませんね。

2021年7月25日日曜日

夢や目標は「ない」でいい

先日の続き、になってしまいそうですが…

こないだの投稿の発言の主を批判するつもりは全くない、というのを前提に。矛先は世の中へ向けて。

「藤沢久美の社長Talk」がVoicyで復活して、楽しんでいたところ、株式会社まぐまぐの松田社長のインタビューを聴く。洗濯を干しながらのながら聴きでしたが、「夢や目標を持たなきゃいけないような風潮がある」というくだりに、思わず手をとめて聴き入ってしまう。いや、松田氏は「情報と脳をダイレクトにつなぐイメージ」を持っているので、全く何もないというわけではないのですが、そうした大きなぼんやりしたものがあってもなくても、とりあえず目の前のことをやりながら、「好きなこと」をイメージしながらだんだん何かをイメージすればいい、という考え方に、「あぁ、こんな感じ」と思ってしまう。

Iyokiyehaは、人生の目標管理がたぶん苦手です。行き当たりばったり、とも言う。でも、転職した頃から、それがまずいと思わなくなりました。多分、同じ組織内や同じ業界など、同一尺度で測ることのできる価値観の中で、自分を磨き上げていくためには目標管理に基づく自己啓発が必要なのだと思いますし、そういう人には世に出回っている自己啓発本の内容ってうんと参考になるのだと思う。この手の人達にとって「夢を語れること」は、その人の実現しようとすることを具現化する有効な手段の一つになるのだと思います。

ただ、それとは異なる、多様な価値観の中をサバイブしていくための生き方というのもあるんじゃないだろうか。そこにあたっては、具体的な夢ってイメージはできなくて、二段も三弾も抽象度が上がったものが目標になるのだと思う。例えば「人と関わる生活」とか「好きなものに囲まれる生活」みたいな。それは職業を通じて実現するものかというと、そればかりではないでしょう。仕事をもった生活の中で実現するものかもしれないし、仕事と理想の生活は切り離されて、ON/OFFで語られることかもしれません。

そこまで深めなくても、

Q「将来の夢はなんですか?」 A「なんか、○○みたいな感じだけど、ぼんやりしています」とか「今のところ、ありません。好きなことは□□です」。なんて、回答があってもいいと思う。悩んでいるなら相談できるし、「決めろ」って言われて決まるものではないし。好きなことにコツコツしつこく関わっていくことで、周囲の見え方が変わってきて自分の進むべき道が見えてくるかもしれないし、そうでなくても自分にとって「心地いい」生活に向けて少しずつ変わっていくのかもしれない。そんな変わりかけのところに「もっと具体的に自分の夢を考えなさい」なんてアプローチは、その人の内発的なエネルギーに蓋をしてしまう行為なような気がしてなりません。そんなことを漠然と考えさせられたインタビュー番組でした。


https://voicy.jp/channel/1714/167760

藤沢久美の社長Talk 株式会社まぐまぐ 代表取締役社長 松田 誉史さん

2021年5月9日日曜日

緩みを正当化させるムード

  「ムード」という言葉を当てたら、勝手に納得してしまった。

 「コロナ疲れ」とか「自粛疲れ」という言葉が聞こえてくる。COVID-19の感染拡大とその防止対策をとることに対して出てきた言葉である。

 もちろん、それまでと違った生活リズムを余儀なくされ、そのために心身に影響が出る人がいる。労働市場の急変に伴い、将来への不安から体調を崩してしまう、不穏になる、自暴自棄になる人もいる一方、そんなことは俺には関係ないとばかりに路上でごきげんになっている人もいる。夜の飲食がだめなら昼にすればいい、店がだめなら路上でやる。まぁ人間の知恵というのはどこまでも広がっていくものだと、報道を見て感じることがある。

 そういう、周囲への影響を感じないごく一部の人へは「反知性主義」の文脈が当てはまるので、それはもう「基本に帰れ」と言ってその人が気づくまで放っておくしかない。しかし、確かにいる前者の人達(心身への影響が出ている人)に対して、最近の「自粛疲れ」報道は、弱者に冷や水をかけるような「あおり」が生じていないかと、ちょっと心配になる。「この大変な状況で、タガが外れている人がいます。これも『自粛疲れ』でしょうか」みたいな報道って、「それもしょうがいないか」みたいなゆる~いムードを蔓延させていないか?私はそれを感じつつ突っぱねているけれども、弱っている人にとって、こうした報道のもつメッセージってどんな風に受け止められてしまうのかと心配になる。

 できないことをやれと言われても、そりゃ無理だとなるわけだけれども、これまで提案(?お願い?)されてきた対策の中に、基本的なものがあります。そういうことを丁寧に、そして「これしかできない」なら「これをしっかり」やることで、新しい日常をつくって自分なりに安定していくしかないのかな、と思いました。「疲れているから、みんな緩むんです。どうにかしてください」ではあまりに無責任でないか?「ここが正念場、がんばろうぜ。しんどいならこういうところに相談よ」くらいの冷静な報道を期待します。

2021年5月3日月曜日

好感が持てる話題かどうか

ちょっと気づいたこと。

 漫才のネタで「男って○○じゃん」って、バカバカしい行動を話題にして笑いをとるというものがあります。結構好きなものが多いのですが、不思議なことに「女って○○じゃん」になると、好き嫌いが分かれてしまう。一般的にうけているネタであっても、全く笑えないこともある。なぜなのかとしばらく考えていたのだけれども、ちょっときっかけになることがあった。

 ここのところ、人間関係がギクシャクすることがいくつかある。理由が分かるもの、わからないもの様々です。あるいは、理由は分かるのだけれども、なぜそうなってしまうのかということまでは分かりかねる、というものまで様々。人間ってただでさえ難しいのに、それが関係になるともうどうしようもない。相手があることは、自分の力ではどうにもならないことも少なくない。なるべく人に不快感を与えないよう努力して、あとはなるようになるしかない。大人な対応ができているのであれば、あとは相性の問題か分かっていてわざとやられているわけだから、それは嵐が去るのを待つしかない。

 それで、何が違うのかということ。それは、話題の対象が人なのか出来事なのか、ということが大きい。難しいところであるのだけれども、テキスト上話題が「ある人」になるわけだけれども、そのメッセージが「その人の属性」なのか「起こった出来事」なのか、ということで随分好感度が変わってくる。例えば、「Bさんそこでマンガみたいに転んだんだよ~」と言った時に、笑う対象がBさんそのものなのか、転んだことなのか、ということ。前者の場合はさらに2つに分かれて、そこにBさんを見下す意味があるかないかが問われる。見下す意味が感じられた時に、私は受け入れらず冷めてしまう。

 人の話を聞かない人、世界が広がった思春期頃の子、笑いをとろうと必死な人など、そこに好感を感じられるかどうかは、割とこのあたりにあるんじゃないかなと思いました。

2020年12月19日土曜日

対人援助の本質に近づく

  雇用支援から福祉へと転身して5年目。様々な場面に直面させてもらっている。

福祉では、「要件を満たしたら補助」というものが多いのだけれども、一方で「生活の支えが少なくて不安定な人に対する援助」がある。今の私には、立場も手伝って後者のような雰囲気を感じとると、本質に近い仕事だ、と不思議な高揚感がやってくる。

 じゃあ、対人援助って何だ?と自問した時に、今まであまり言語化してこなかったことに気づく。最近考えているのは、生活に制度を貼りつける、という前に「対象者が支えの中で安定感を高めること」にあると言語化できた。

 「主訴を把握し、本人のニーズに沿った支援をする」ということが広まるにつれ、言語化・顕在化しているニーズに引っ張られがちだが、中には潜在ニーズについての言及もされている。最近の様々な経験から、この「潜在ニーズ」が見出せないクライアントも少なからず存在しており、言語化・顕在化の限界を感じているところである。

 要は、「人は何かを欲している」というのは必ずしも正しいわけではなく、「本当に何もない」ということもある。また、「欲していることに気づけない」ことも知的障害者を中心に、知的障害の有無を問わず、珍しくないことに気づいた。この「(今は)何もない」「ニーズに気づけない」ことが、意外と多いということを、支援者の立場の中にしっかり位置づけたことによって、上記言語化に至った。

 具体的な視点と段階は以下の通りである。

1 クライアントの中にあるエネルギーを見つける

2 エネルギーをクライアントの意識にあげる(増幅または言語化・顕在化)

3 エネルギーの範囲を確認して方向づけ

4 エネルギーの放出先を望ましい方向に促進する

 この「エネルギー」というのが特徴であり、曲者になる。私のイメージでは、その人の原動力・動き出すための意思・行動を起こすための何か、といったイメージである。

 何を働きかけても、口では「いいね」と言いつつ、結局動かない。動かないのではなく、動こうとしない。何か意思がありそうだけど、よくわからない。そもそも意思がそこにあるのかないのかわからない。生存のための行動はとるけれども、目的行動をとっているように見えない。こういう時に「エネルギーがない」と表現する。一方で、確認したことに同意をするのだけれども、とにかく違ったことをしてしまう。人に迷惑をかけてもお構いなし。言ったことはやらないのに、何かをしてしまう。問題行動が多かったとしても、こういう時には「エネルギーはある」と表現する。そういう使い方をする「エネルギー」である。

 対人援助というのは、この「エネルギー」を見据えて、このエネルギーに火を付けてあげる、クライアントに気づいてもらって、その原動力がいい方向に使われるように働きかけを続けていく、ということではないのだろうか、と考えるようになった。その見極めって、今まで自然に何となくやっていたのだろうな、と思う。

 あくまで主役はクライアントにあって、その行動が間違っていたとしても、支援者としてそれを罰するのはやはり間違っているのだろうな、と思うところでもある。とにかく「関わり続ける」「エネルギーを見据えて、関わっていく」ことが求められているのではないかと思うこの頃です。

2020年8月30日日曜日

A+B=C

 ある物事の結果は、背景と取り組みによって成り立つ。正確じゃないけど、数式で示すとこんな感じ。

A+B=C背景+取り組み=結果

 物事だから、加算、減算だけでは表しきれないけれども。よく「こうすればよかった」という失敗を悔やむことがある。それは「論理的には」Bに関することだから、Bが変化すればCが変化することになる。論理的には正しい。とはいえ、現実だから「そんなにうまくいかないだろう」ということはある。背景Aと関連のない取り組みBはあり得ないわけで、AとBは必ず関係がある。背景Aがわからなければ、闇雲に取り組みBを打つことになり、これは非効率である。仕事で言えばPDCAサイクルと関係してくるが、背景Aの分析ってすべての基本になる。結果Cを検討するには、背景Aと取り組みBを検討することになるが、順番としてはA→Bである。

 何を言いたいのかというと、「背景Aが変われば、取り組みBと結果Cは変わる」ということ。背景Aの変化が大きければ大きいほど、取り組みBも結果Cの変化も大きい。つまり、Aがひっくり返るほどの変化ならば、BもCもひっくり返るほど変化していい、ということになる。

 よく後輩に、「背景が変われば結果が変わるだろ?」という。支援計画においてはそういうことになる。もう一歩踏み込めば、背景が変われば取り組みだって変わるわけです。これって、結構普遍的なことだよな、って思う。

(加筆)
 この方程式は、不完全ながらいろんなことを示唆してくれる。
・C(結論、目標、ゴール…)を導くためには、B(手法、取り組み…)だけでなく、それが置かれているA(背景)が前提(不可欠)となる。
・Aが変われば、Cは元のままでなくなる。
・Bによって、Cの質が変わる。支援者の腕の見せ所。

ごほうびのありかた

 ごほうびのありかたって考えどころだなぁ、と思う。 それも大人へのごほうびとなると、これはエゴ(欲)と表裏一体のところがあるからなかなか難しい。

 例えば、自分が持っているりんごの数で、りんご畑の手入れの時間が変わるとします。1こ持っている人は1時間、2こ持っている人は2時間、3こ持っている人は3時間、、としましょう。 ちょっと前までは、3こ以上持っている人でも、とりあえず2時間やってくれたらそれでいいですよ、というルールだった。理由としては、1人で4時間、5時間行うよりも、みんなにりんご畑(木)のことを知ってもらいたいという理由もあるからだ、ということ。みんなそれなりに納得して、りんごをたくさん持っている人でも2時間やってみんなから「よし」としてもらったし、1時間やればいい人の中でも「もう少しやっていこう」と畑でアルバイトするようになったりしていました。1こ持っている人と複数持っている人、とで対応が異なっていたわけですね。 これが、「いやいや、2時間やるものしんどいから、みんな1時間でもいいんじゃない?」ということになる。大勢の人は「いいんじゃない」と賛成する。それはそうだ、負担は少ない方がいい。こうなるとそれまで1こ/複数とで少し対応違ったのだけれども、全員が同じ条件で「1時間やればいい」ということになる。こうなるとどういうことが起こりえるだろうか。・「1時間やった者同士」ではあっても、「私はきちんと義務を果たした(1この人)けど、あなた(複数の人)は特例でしょ」という感覚が生じる。・私はたくさん持っているけど、義務を果たしたし経験もあるから、まだ経験のない人に作業の仕方を教えてあげる、という物言いになる。

 作業が楽になるから「りんご畑作業は1時間でいいですよ」案はほぼ必ず可決されるようなものなのだけれども、りんごを持つ人達の中で分断が生じる可能性は高いと思います。 ルール作りにおいて、原則(1こにつき1時間)の作成と、ごほうび(作業免除=例外)の設定って、対象者間の関係に注目すると、慎重になりすぎて然るべきことだと思う。

2019年3月24日日曜日

自分であること

 元々自分の身体感覚には興味のあるIyokiyehaです。学生時代に運動は苦手だったのですが、サッカー、軟式テニス、ハンドボールと部活に所属し、大学生の時にはワンダーフォーゲル部で山登り。この経歴に一貫性はないのですが、その根っこでは、身体の感覚とかしくみとか、そういったことへの興味がありました。
 甲野善紀氏の井桁理論に触れたことをきっかけに、木剣を振るようになり、縁あって合気道(昭道館)に接し、雇用支援の中で精神障害者のプログラムを運営することになったことで、精神保健福祉士の勉強をしました。精神衛生に関する勉強において、脳の働きや循環器・呼吸器などにも触れ、運動だけでなく、リラクゼーションや呼吸法なんかを学んで、実践してきました。メンタルヘルスの知見を下敷きに、筋弛緩法やシステマブリージング、アンガーマネジメントに触れ、近年たどり着いた一つの到達点がマインドフルネスと合気道(錬身会)です。
 瞑想や型稽古に取り組みつつ、ここ最近は坐禅もやってみて仏教思想への展開が予想されます。昨年末から生命学の森岡論を一からなぞっていることも影響しているでしょうし、20年間で仕事の内外でこれだけのことに浮気し続けている自分が、今後も何か一つのことに傾倒することはないんだろうなと思いつつ過ごしています。こういうことを振り返ったのは初めてです。

 なんでこんな振り返りをしたかというと、マインドフルネスや禅の考え方・思想の中核に近い「ありのままでいること」「いま、ここ」「実物の自己」「自己ぎりの自己」といったモノ・コト(という表現しかできないな・・・)は、少なくともキリスト教にも通じるものなんじゃないかと、マザーテレサの言葉を読んで感じたからです。今後予想される仏教思想への展開は、そのまま歴史学習を通じたキリスト教やその後多分イスラム教、他の勉強につながっていくように思います。偶然にも高校倫理を学びなおしているところでもあるわけで。宗教が戦争の材料ではなく、本来人々にやすらぎや生活規範を与える基盤となるモノ・コトである、あるいはそうした側面があるならば、新興宗教等を含めたどのモノ・コトにも核に近いところにそうした考え方があるんじゃないか、と思い至っているわけです。
 人の能力解放みたいなことをライフワークに位置づけているIyokiyehaとしては、宗教的な考え方は避けて通れないと思っていますし、その中に何らかの共通点が見いだせるのではないかと考えてきたところの思いつきです。悩みがなくなるわけではなく、その苦しみから解放される、みたいな考え方って、多分に宗教的でありながら、それだけじゃないような気がするんですよね。それをプログラム化したものがマインドフルネスの瞑想だとすれば、これをつくる背景となるモノ・コトには、頭の休息以上の何かがあるはず。仏教では「悟り」という言葉があるけれども、そんな雲の上の存在みたいなものではなくて、もっと身近でありながら、もっと深いところで、それでいて現代社会を生き抜く知恵みたいなものを探っていきたいと思います。

 あれやこれやと浮気しているように見えて、実はすべてがつながっている、なんてよく言われるけれども、それって後で自分の都合のいい解釈をするだけだよね?と思うところだったりします。それでいいじゃないですか。

2018年1月27日土曜日

ジブンゴト

自分のことを振り返って最近実感していること。
何事も「自分の事」として関わるか否かにより、そのことから学ぶことの大きさが変わるということ。
「何を今さら」と言われるのだろうけれども、40歳を前にして意識に顕在化したとても大きな気づきです。
何が大きいのかというと、このことが自分(iyokiyeha)だけのことではなくて、世の中全ての人に当てはまっているのだろうという感覚を得たことです。
最近、AudioBookのレパートリーが少し自己啓発的なものが重なったことによって、自分の経験を対象に向き合ってみる時間があったからだと思うのだけれども、この「ジブンゴト」に気づいた意味は大きい。
わかりやすい例だと、「○○合格率97%!」みたいな広告があったときに、そこから読みとれる意味に広がりがでる。この広告から「じゃあ自分も合格できそうだ」と飛躍した理解一つで終わってしまうのか、それとも「結構な実績だ、テキストがいいという根拠だな」と広げてから、実績を裏付けるしかけに注目していくのかというように行動が変わってくることになる。
今までどんなに教材に触れていても上達しなかった英語学習も、あるドラマをしっかり観たい!と思って英語に触れるのとで、全く成果が変わってくる、みたいなことです。
他人をうらやむばかりでなく、周囲を眺めながら自分のスタイルをよく検討して、「これだ」と思うものにはこだわっていく。そんな姿勢を確立していくための根っこになりうる「ジブンゴト」。この立場でいろいろ見直してみたいと思う。