2024年5月22日水曜日

根っこの疲労感

年明けから年度末までやってきて、ようやくひと段落ついてきた感がある。いや、正直には暇な持ち場じゃないので、いろいろと追われてはいるのだけれども、とはいえ、少し身体は楽になってきた。本も少し読めるし、夜も少しだけ早く寝られるようになった。

不思議なもので、そうやって少し気が抜けると、身体の疲れがどっと出てくる感じがある。今まで通りにやっているはずなのに、なぜか眠い。眠いのも、顔を洗ってスッキリするような一時的なものかといえば、そうでもない。何をしても頭の中に霧がかかったような、身体の動きも鈍くなってくる。何を読んでも頭に入ってこなかったり、報告を受けていても、言葉だけが上滑りしたり、悪い時には聞いていることに思考がついていかないことを実感できることもある。ひと昔前のテレビで「海外とつないでいます~」の後のタイムラグみたいな感じ。遅れっぱなしだから、焦っているとパニックなんだけど、初めてじゃないので「あぁ、疲れているなぁ」と思うにとどまっている。

困ったものだから、休みをとって、カミさんとランチした後は、一人で買い物にでて、そのあと存分に昼寝をしてみた。少しだけ身体の詰まりが軽くなった気がする。時々、何も考えずに身体を休める時間をとろう。

2024年5月19日日曜日

結局広告かよ

 数年前から感じていたことで、多くの人が感じていることなのだろうけれども、SNSの時代だって結局広告なんだ、結局スパムなんだ、結局ウイルスとか乗っ取りなんだと。

 SNSって、匿名性の低いやりとりを促進するために、同じプログラム内にログインしてアカウントを持っている人がWeb上であっても直接に近いやりとりを可能とするしくみとして開始されたサービスだったと記憶しているのだけれども、最近のそれらに広告を見ないことはなく、ひどいものになると必要な画面遷移の時に、短い?広告が挟まれる。これならSNSじゃなくてもいいじゃん。

 確かに、数年会っていなかった知り合いとコンタクトをとる機会ができる、といったメリットはある。ただ、それ以外に今までのしくみと何が違うのか?と考えると、シンプルに疑問が残る。WebとEメールの頃と何が違うのか。世界を取り巻く便利なプラットフォームとそれを行きかうEメール。今ではEメールの9割5分がスパムメールだというからデッドメディアだという意見もあるけれど、何かアクションすると広告が出てくるSNSと、何が違うのかというと、そんなに違いはないんじゃないの?当初出てきたころのわくわく感がすっかりなくなってしまい、インフラと化しつつあるけれども、それに伴い何やら要らない気遣いと、不要な(スパム)データが横行するプラットフォームが点々と立ち上がってきた、というのが今のイメージである。

 そもそも、広告モデルから脱却する可能性が指摘されていたにも関わらず、結局は広告モデルがマネタイズされている。品のない広告を目にすると、わくわくどころか無駄な時間にうんざりする。こともあろうに、Webで検索かけたらSNS内のデータがヒットするようになってしまった今、SNSという言葉そのものが死語と化す可能性すら見えてきた。

 いろいろ使ってみて思ったことだけれども、過剰な期待は禁物だと思う。若者にはSNSみたいな押しつけは、Webの本質も、世代間の本質も見逃しかねない雑な認識だと思う。とはいえ、そういう認識が世の中に浸透しているのも事実だけれども。そして、こんなことを考えている自分が、すでにオジサン化している自覚はあるのだけれども、とはいえ、事の本質がここにないことは認識しておきたい。

2024年5月11日土曜日

意外にも原点回帰

 自分にとって得になること。例えば、楽しいと思えること、儲かること、いい思いができること。いろいろあるけれども、世の中にあふれる情報を目にするにあたり、何か違和感があるものと、そうでないものとがある。素直に受け入れられるか、そうでないか、とも言い換えられるだろうか。

 例えば、自分にとって有用と思える「歩くとポイントがたまるよ」というものでも、ちょっと試してみるか、となるものとそうでないものとがある。使ってみてどうか、というのは次のポイントで、要は自分が動くか動かないか、という点である。そこに何があるのかなと思いながら、いろいろやってみたり、いろんな情報に触れたりと、生活を続けてきた。

 仕事の内容が変わって、経験することや考えることなんかもきっと影響しているのだろうけれども、自分にとって、何か情報に触れてみて、自分が興味を持って動けるかどうかを分かつのは、そこに「納得感」と「わくわく感」があるかどうか、ということなのだろうと、おぼろげに見えてきた。「納得感」はわかりやすいもので、どうして自分にとって得なのか、ということが分かりやすく理解できる内容であることだ。長短は関係なくて、ある程度論理的であって、自分の気持ちに触れるものであること、が大事な点だ。

 で、もう一つの「わくわく感」が大事。要は、自分にとって快刺激であるとともに「やってみたい」と思えるものであることはとても大事といえる。何か、自分にとって都合の悪いことが見え隠れするとか、自分のお得感の裏側に誰かの迷惑になることとか、自分にとってやってみようと思えるよりも面倒だったり、思った以上に時間がとられるとか、そういうことがあると「わくわく感」は減じられていく。この減少が「やってみたい」を下回ると動かない。「わくわく感」がない、ということだ。

 案外、プライベートだけじゃなくて、仕事においても生活においても、この「わくわく感」みたいなものって大事なんじゃなかなと思えることが、いくつか重なっており、最近は「わくわくするなぁ」という言葉を使ってみていろいろ試している。本当の意味で、自分にしっくりくる「わくわく感」に気づけたら、選択の精度もあがると思う。いろいろ試してみようっと。