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2024年4月29日月曜日

年度初めに思うこと 240407

  新しい年度になりました。職場はステイ、でもちょっと持ち場が変わって、昨年度係長級兼務で関わっていた兼務先に課内異動しています。地味だけど、仕事は全く違うので、またいろいろ覚えないといけない。私の立場からは「人間関係が面倒な職場」なので、ちょっと面倒。起こっている事案が、人間関係に留まっている件と、仕事に若干の影響がでている件。どちらも、仕事の本質ではないと思えるので、まぁ、距離を保って付き合うしかない。

 合気道は、ますます面白く、ますます充実している。連続技-基本技-基本動作のつながりが見えてきて、何を学んでも自分の知っている何かにつながってくる、という感覚。今まで詰め込んだお道具箱のふたが開いて、いろんなものが自分の理解の中に入ってくる感覚に近いのか、何をやっても面白い。受け身も一段上がったのか、下手くそであっても、痛い落ち方をしなくなったので、とりあえず受けられるという安心感も出てきた。

 身体は疲れる趣味の活動だけれども、少なくとも頭はすっきりするし、身体についても、回り回ってリフレッシュになっているように思う。貴重な時間だ。

 昨年度はちょうど今くらいに、問題勃発で、本業(兼務元)が年がら年中激務になってしまった頃だ。あれから1年、いろんなことが起こって、いろんなことを考えるわけだけど、まぁとりあえず全部経験だよってことで。ふんわり前向きにいきましょうか。

テンション 240318

  自分で考えていることとは異なり、思考や身体というものは正直だ。次年度体制の発表を受けて、完全にテンションが下がっている自分がいる。不安というよりも、外圧が自分の動きを決めてしまっているかのような窮屈さの中で、何か面白くない、という感じである。全員残留というなかなかないことが発表された後、それならばという規定路線。大体、車の中で話をしたことと同じ。この配置は、私と同じようにテンションが下がる人が複数人いるのではないか?と思ってしまう。仕方がない、そういうことだ。

 とはいえ、問題の所在がどこにあるのかというと、ごく少数の個人の「わがまま」にあるわけで、大人になりきれない数名の人達のために、私のテンションが下がっていて、いわゆる「余計なことを考える」必要があって、「余計な時間を使う」のが、どうにもやる気になれない大きな理由と言えるだろう。

 こんなことに「戦略」とか「目的」を持ちたくないものだ。最近の学びでいえば、この剣はPDCAを高速で回すのではなくて、大きな方針だけ持った上で、OODAを高速回転させて対象となる人間関係において混沌を生み出していくのがおそらく有効だろう。まぁ。これも「余計なこと」だけれども、短時間でも丁寧に、淡々と。

2024年2月10日土曜日

要求の矛先

  今の職場のこの時期は、いろんな問い合わせが殺到する時期。お問い合わせなら上品に聞こえ、要求となると広義のクレームカテゴリーに入ってくる。申請が希望通りにならないのだから、不満前提の対応になるのだけれども、ここで言うことが「動かせること」と「動かせないこと」に分かれてくる。前者は折り合いをつけられるが、後者は言ってもムダであって、時間の浪費と同格になる。対応としても、質問レベルならどちらも丁寧に扱うが、そうでない場合には、前者は丁寧に、後者は塩対応になりがちである。「訴えるぞ」とか「名前覚えたよ」とか言われることもしばしば。なんだかなぁ、と思う。

 そもそも、分からないことを質問して、分かった上で希望を要求する、というのが申請の仕組みである。それを適切に受理して、適切に処理して、適切に結果が出る。この一部にでも当方にミステイクがあるのならば、それは謝罪してすぐにやり直すか、救済措置を考えるかの判断になる。でも当方にミステイクがないのならば、それはどんなに強い口調で、どんなに法的知識があったとしても、どんなに面倒な手続きを踏ませたとて、結論を覆すわけにはいかない。他の申請者との整合性がつかないことはやるべきではない。

 加えて、「上を出せ」的な問い合わせに対して、対応を変わったところで、「どうにもできないこと」カテゴリーの場合には、どんなに泣きつかれたとしても、できないものはできないのである。先日、その人が所属する会社の決定判断に、ウチの書類が必要だから、締め切りと手続きの終わっているものの申請書を出したいとのこと。受理できない。受理できない以上、書類作成もできない。こちらが正規の手続きを曲げる必要はないし、それによってできない証明を出すこともできない。「そんなこともできないんですか?」「助けてくれるところなんじゃないですか」とか散々言われましたが、これは矛先が違う話であって、譲歩は決定を下すところに行うのが筋ではないですか?という対応をせざるをえなかった。会社が必要だというから、会社の決定に使うから。それをなぜウチがルールをねじまげなきゃいけないんですか?それは決定権者が譲歩するべきであって、こちらが譲歩することはない。そんな押し問答を1時間くらい。矛先が自分に向いていない出来事に巻き込まれてほぼ1時間。こうなると、時間の無駄である。

 強い口調で言われると、つい、焦って「何とかしなきゃ」と思ってしまいがちだけど、実際には「何もしなくていい」選択肢があるってことを知っておいた方がいい。

病気がでた 240120

  昨晩は職場の新年会。管理職中心のところに、係長級が声をかけられるという集まり。正直この手の集まりは苦手である。もう一つ付け加えると、職場の集まりというものは基本的に苦手である。今の面子がどうこうというわけではなく、そもそも苦手、という話だ。

2023年5月21日日曜日

ここ2か月くらいの出来事と都度考えていたこと

よし、がんばろうって気になってきました。ここ2か月くらいのことについて。

 ■キックオフ 230521

 ようやく、ようやく動き出した感がある。課題山積の兼務先で、ようやくキックオフミーティングにたどり着けた。モチベーションがちぐはぐで、前向きに動き続けられる人がいる反面、犯人捜しに躍起になってしまっている人もいる。まずは受け止めて、その上でベクトルを示すしかないが、どこまで力が及ぶか、という不安が常につきまとう。その不安も、やはり業務がわからないところに、とりまとめ役として人をひっぱっていかなければならないという役回りによるところだと思う。昨年度のこれを、少し楽しみながらもう一度気流を作っていくしかないのだろうな、と思う。

 思えば、とりまとめ役(リーダー≒今の職場なら係長級)というのは、上からは現場と観られ、下からは仲間と見られがちな位置なのだろう。いろんなスタイルがあるし、現場から持ち上がりでとりまとめ役になる人も少なくない。現場のことを知り尽くしている人と、まったくそうでなくて異動したらとりまとめ役だった、という私みたいな人もいる。そういうストレスがある、っていうことを、この1年で充分味わっているので、よく言えば慣れもある、悪く言えばまた負担になる、というところなのだろう。

 とはいえ、できることしかできないし、そんなに器用じゃない自覚はあるので、いつも通りにやるしかない、と思うこの頃です。体重は半年で4kgくらい減っています。身体は壊さないようにしよう。


■環境の変化再び 230514

 先月末にメモを書き留めた直後、隣の係長職が復職して復帰、そして先週末再度休職へ。チームのメンバーの混乱はもちろんのこと、管理職も動揺してしまっていたので、調整?というか、自分自身のバランスをとることに注力してきました。なんとなくキャスティングボードを握る形になってしまい、性には合わないのだけれども、とはいえ求められることはある程度やりながら、見える範囲をできるだけ広くして、できるだけ「全体」を意識した波乗りをしないと、他人の感情の渦に巻き込まれてしまう。幸い、兼務元の安定感があるのと、業務が少し落ち着いてきた(先が見えてきた)ので、協力が得られるため、こちらも交渉カードを切ることができて、今のところ感情面の被害は最小限に抑えられているのだと思う。

 席上でも言ったのだけれども、犯人捜しを敢えてするならば、復職者を係長職で戻せといった管理職よりももっと上の人たち、としておくこととして、それ以外の犯人捜しは生産的でないので、パーキングエリアに出すとしても表面化させないようにして、立て直しに動くこととする。幸いなことに兼務先にも、動揺しつつも、馬力を出そうとしている数名がいるのが心強い。立て直し、といっても、現状把握→計画→実行→ふりかえり→…は変わらない。短期間で騒げる実績と、些細なことを無視できる前向きな雰囲気の醸成、内外から援助が得られる雰囲気作り、とやるべきことはなかなか多いので、できることを最大限にして取り組んでいこうと思う。今年度は「生き残る」ことと「一つでも進める」ことが目標になりそうだ。


■環境の変化 230423

 4月に入り、昨年度と同じ職場で勤務しているのだが、環境の変化が甚だしい。

 まずもう何がって、隣の係の係長職が年度変わってすぐに退職してしまうというハプニングが起こりました。これが国の検査の数日前だから、もう混乱の極みである。提示された管理職案が個人的にも元の係にも到底了解できる内容ではないので、それを蹴って、最終的にはIyokiyehaが係長級を兼務する体制になってしまいました。個人的にはやり方工夫して乗り切ろうと思っているのだけれども、意外にもいろんなことに気を遣ってしまう自分がいるんだよね。1ヶ月で3kgくらい減量しているが、割とストレスになっているのだろう。

 便宜上、昨年度の持ち場を「兼務元」、今の体制で追加になった持ち場を「兼務先」と呼ぶことにして、これが集約じゃないのが、ちょっと悩ましい。要は、人を持っていかれるように見える「兼務元」と、助けに来てくれる期待を持っている「兼務先」とのニーズのベクトルが全く異なることに起因するやりにくさ、のことです。「兼務先」をどうにかしなきゃいけないから、そちらに注力すればするほど「兼務元」は面白くないわけで。逆に、戻れるか分からない(この辺は管理職と現場・私の意向が異なる)「兼務元」に立脚した言動は、助けて欲しい「兼務先」にはやっぱり面白くない、ということは容易に想像がつく。これがまた、職員の人間関係がいいので成り立っている、という微妙なバランスの上に成り立っていることを知れば知るほど、気を遣う。まぁ、それくらい気を遣わなきゃいかんのだろう。

 並列の課題として、他にもたくさんあるのだけれども、大きなところは新規採用者への関わりだろう。昨年度に新規採用者を受け容れ、更に今年度も受け容れている。係が一気に若返っているのはいいこともあるのだけれども、業務スキルとしては若干低下していると読むのが妥当だろうし、それを適切に引き上げていくところには、多少なりともケアが必要と考えるが、その馬力が確保しにくい。

 こういうことを背景に抱えながら、更に言えば、Iyokiyeha自身の課題なのだけれども、新しい仕事を人から習うところに時間がかかるということ。「兼務元」は係長業務を中心に、年度末にかけて全体で不足している業務をサポートさせてもらえる環境だったので、自然に教えてもらって円滑に作業に入ることができたのだけれど、「兼務先」は元々基幹業務に係長が食い込んでいるので、ダブルチェックに疑問のある作業が舞い込んでくることになる。これをどのように習熟して捌くか、という私にとっては若干苦手な作業が課せられることに対する不安がつきまとう。

 とはいえ、これは不運な末に対応を迫られている、というよりは「いつ、どこであっても、起こりうる」事象なのだろうと、考えられるくらいの視野は広がってきた。要は、係に女性がいるならば、出産・育児のためにいつ戦線離脱するかもわからないわけだし、このご時世、介護で休職なんてのは珍しいことではない。そもそも家族・少子化対策の一翼を担っている私の持ち場が、急に人が欠けることによって機能不全になるなら、それはそれでリスクヘッジに課題がある、といわざるを得ない。そもそも、同じ係員が事故で戦線離脱することもあるわけだし。

 ちょっと愚痴っぽく書き留めていたら、前向きな気分も生まれてきました。結局、現状把握→適応→行動→ふりかえり→現状把握→・・・というサイクルは変わらないのだなと思いました。そして、結局今回も我を通してしまっているのだな、と改めて自覚するに至りました。さぁ、がんばろうっと。

2022年4月3日日曜日

異動になりました

令和4年度の人事異動の対象になりました。入庁してからずっと障害福祉に取り組んできましたが、今回の移動で保育園・幼稚園の業務に就くことになりました。

今まで、キャリアでは一貫して障害のある人に対する支援があったのですが、今回業務の対象としては初めて障害のある人が主な対象でないことをやります。保育園は今まで関わったことがないし、幼稚園はユーザーとしてしか関わったことがないため、今後何が起こるのか、そしてどんな仕事をするのか、不安半分、楽しみ半分です。

さらに、名簿順で職員としての役割も少し変わるので、そちらは不安だけ。地方公務員としてのスキルを見直して磨き直さないといけないところにきてしまいました。お金が扱えるようになるか、ダメダメで干されるか、ってところです。

とはいえ、相変わらず「できることしかできない」「見えないものは見えない」人間ですのでいろんな人に助けてもらいながら、のんびり取り組もうと思います。とりあえずの報告だけ。今後ともよろしくお願いします。

2021年6月20日日曜日

真面目にやればやるほど…

  仕事の量と質によって感じるストレスが異なるというのは、想像に難くない。

 例えば、仕事量が多ければ多いほど、終わらないことに対する疲れと終わりの見えない(目途が立たない)ことへの不安、それらの相乗効果による悪いことが起こるような予感が、螺旋を描くように絡み合って増大していく。

 一方、仕事の質が悪ければ無意味な感覚が、上記の相乗効果に拍車をかける。質の点でもう一つ気を付けないといけないのは、そこそこ質のいい、本質に迫る仕事ができている場合に、悪循環をいい意味で覆い隠して突破できることがあるということだ。これは、心理学用語で何トカって言ったような気はするが、「前向きに乗り越える」という表現が当てはまる状態であれば、人間は結構なところまでがんばることができる。

 それを期待しすぎるのもどうかと思うが、ここで注意しないといけないのは、「まともな仕事を前向きに丁寧に取り組めば取り組むほど仕事が増える」というシンプルな法則である。そして、これは「仕事の絶対量」によって、まともな仕事の結果が充実感になるか、徒労感になるかが、かなりの部分まで決まってしまう。要するに、仕事の全体量がある一定水準以上になっている場合は、どんなにいい仕事をしても、そこから得らえる(小さな)充実感が、仕事の残量が発する圧倒的な徒労感に覆い隠されてしまう、ということだ。

 この事実に気づけるか、あるいは見えるかどうかが、自分のしんどさに気づいたり、周囲のしんどさに気づけたりする要点になるのだと思う。「仕事を削る」発想がないと、現代人はつぶれるか、やさぐれてしまうような気がしてならない。まずは自分を守らねば。

2020年12月6日日曜日

知的能力が低いとは…

  前職でも現職でも「知的障害ってどういう人?」と問われることがある。前職では主に会社の人事担当者から、現職では悩んで窓口にやってきた当人からの質問にあるもの。障害のある人に対する支援に15年ほど関わっていて、折に触れて考えてきて、未だに「これだ!」という説明に出会えていない。

 確かに、都道府県毎の定めはあります。身近なところでは「18歳以前に発現している」「知能指数が70以下」「生活上の困難」という三要素があげられており、これを満たす人に療育手帳が交付されている。これを定義として紹介するのだが、よく考えている人はほぼ十中八九「知能指数が70以下ってどのくらいの人なんですか?」と継がれる。これに答えられない。よくある正規分布を取り出して説明していたこともあったけど、わかったようでわからない。「成長が止まってしまう」なんてことを言う人もいるけど、止まってないし、相対的だし、個人差あるし、としっくりこない。

 最近、研修講師をする機会があって、改めてこの点を説明する(しなければならない)機会があったので、考えて絵を描いて考えたところ、その人の認知機能(能力)に立脚して、

「見たり聞いたりして集める情報量の範囲が狭いことと、その判断や行動の方向の安定性が弱い」人達のこと。

 とひねりだした。要点は2つ。

 一つは、取り入れることのできる情報量が少なく、時に偏ってしまうこと。ヒトが五感を通じて情報収集することを、雨が降っている時に雨水をトレーで集めようとするイメージで考えると、そのトレーの大きさが小さいことと、トレーを置く位置がその時々で変わりやすいことである。知的能力が逆に高い人だと、トレーの面積が大きいだけでなく、そのトレーを配置する時に「効率よく雨水が集まる場所」における人になります。トレーが小さくて、その時々で置く場所が変わりやすいから、認識できる情報量とその種類の偏りが生じやすいということになる。

 もう一つは、認識したことを通じて判断したり行動する時の安定性である。こういう状態ならこうするのが常識、という結びつきの強さを「安定性」という言葉で表したものである。上記トレーのイメージを使うなら、集めた雨水の処理方法ということになる。「雨水はここに捨ててください」という指示があったり、貼り紙があったり、そもそもその町では雨水処理はこう!って決まっているなど、いわゆる「常識」の範囲で処理できるかどうかということである。「安定性」としたのは、問題行動も適応行動も説明できると思ったからである。すなわち、問題行動となる場合は、収集した情報から作った少ない選択肢の中から選んだ行動が常識の範囲を外してしまうことで表現できる。雨水処理をその辺にぶわっと捨ててしまう、楽しいからその辺に撒いてしまう、楽しすぎて人にかけてしまう、といったイメージである。一方で重度障害者であっても適応行動が定着している人については、収集した情報から作った少ない選択肢の中から選んだ行動が常識の範囲に収まっている、ということである。水が入っていたらここに捨てる、しか思いつかないようなイメージである。

 最重度の知的障害者でもかわいがられるような行動ができる人は、環境から得る情報はとても小さくても、自分がとりうる適応行動に必要なものだけ収集して、たとえ選択肢がちょっぴりでも、収集した情報と強い結びつきで適応行動となる(選ばざるをえない、それしかない、かもしれない≒安定)、という説明が成り立つ。一方で軽度知的障害者が問題行動を起こすということは、最重度の人と比べると収集できる情報も多く、そこから作る選択肢もいくつかあるのだけれども、そこからの選択に余計な情報が入り込みやすく、決まった行動に結びつきにくい(≒不安定)。

 内容も言葉もまだまだ磨く必要のある説明なのだけれども、「軽度知的障害者が問題を起こしやすい」とか、警察のやっかいになると「ボーダーだからね」と安易な発言に結びついて思考停止してしまわないように、あくまで能力と特性という観点から考えてみた現時点での到達点です。なんかね、正規分布との結びつきもピンとこないし、問題行動(←この定義もビミョー)と結びつけるのも安易だし、理解力っていっても適応行動と必ずしも結びつかないし(できることはできるもんね)、一歩俯瞰して考えているところです。

 いい説明あったら誰か教えてください。

2020年3月29日日曜日

あるもので考える

 組織人としての春先は、人事の季節。Iyokiyehaにとっても例外ではなく、前の職場でも今の職場でも人事異動は4月1日付発令なので、この年度末はただでさえ忙しいところに、職場環境の変化が加わることになる。
 不思議なもので、組織人は殊の外「人事」というものに興味があるようで、内示日なんかは異動表なんかとにらめっこしながら各々の分析を口にする、ということが周辺で見聞きされる。
 私の場合は、自分が異動に巻き込まれる機会が多かったこと、内示表を見るのが面倒くさいこと、必要な人からは連絡があったり直接聞く機会があること、など理由をつければいくらでもあるが、率直に言えば面倒なので人事異動にはあまり執着していない。自分の周りに誰がくるのかな、仲のいい友人がどこへ行くのかな、くらいしか気にしない。とはいえ、以前同期が明らかな出世コースにのったな、と思った時には人並みに嫉妬(?)っぽい感情が2、3日続いたこともある。まことに不思議なものである。
 いろんなことを踏まえた現在の到達点は、人事を「決める人」と「決められる人」とでは、考えていることが違うということ。もう一つ、考える頭を使うべきは、決まった後どうするか、ということである。

 人事担当者が考えることは「組織の維持・発展」だろう。その背景を持ち、組織をつぶさない、よくするために配置を考える。一方で、人事異動の対象となる者が考えることは「自分のキャリア」くらいであり、個人的に「組織の発展」を考えている人は希少も希少であると思われる。Iyokiyehaは後者を視野に入れたいが、残念ながらまだまだ前者である。
 ある人が、例えば「〇〇と□□にはルートがある(よく異動者が出る)」とか「調書に△△って書いたら希望が通った」という分析っぽいことを口にするが、そこに根拠があるかといえばそんなことはなく「たまたま」と考えるのが妥当だろう。会社組織において、妥当な判断には必ず背景による裏打ちがあるべきで、その背景が異なるにも関わらず結論(と希望)が一致するということは、それは偶然と読み解くのが自然といえる。万が一、その結論に利害の一致があったとしても(例えば、その人に特殊な技能がある、担当者にとって恣意的なもの)同一結論を生み出す背景は異なるものである、と読み解くのがより事実に近いだろう。だって、立場が違えば背景が異なるのは当然だから。
 そう考えているから、今ではどんな人事だって「はい、わかりました」と従うしかない、と思える。もちろん、自分のキャリアから希望は伝えるべきだし、組織的状況から言うべきことは伝えるべきである。ただ、そこまでだろう。伝えられることを考慮して人事の作業を行うのは担当者とその責任者であり、決まったことに対して意義申立てを行うのは、言うまでは権利かもしれないが、それを覆すことを画策するのは越権行為である。
 もちろん、越権行為は組織人としては反則行為でとても信頼されるべき行為ではないわけです。自覚なく上からそれをする人が「老害」と呼ばれる一因となるし、下から突き上げる人は「出る杭」として認識されてしまうわけです。その通りだよね。もし自分の意の通りに身を置きたいのならば、起業して自分がすべて決める立場になるか、人事担当者になるかいずれかだろう。後者はその立場で自らのキャリアを操ろうとしたらそれはそれで越権行為だという落とし穴があるわけだが。

 ということでIyokiyehaは、人事とは一組織人としては「どうにもならないこと」という結論に達しています。なので、自分が影響しないことにはあまり興味がない。頭を使うのも、自分をどこに置かせるかとか、増員やいい人事を求める、というよりは、決まった体制でこの先どうするか、ということに注力したいわけです。
 今年度はそれを邪魔する様々な出来事があったので、ここらで自分の立場を整理しておきました。いろんな意見があると思うけど、自分のエゴをつぶして考えた時には、割と本質に近づいていると思うんだけどね。

2018年4月7日土曜日

歓送迎会には行かない

 職場の集まりというものに、参加しなくなった。
 歓送迎会、暑気払い、新年会、懇親会等の類である。
 私としては、別に何とも思わなかったことだが、以前友人から「職場の雰囲気ってもんがあるだろう」と言われたこともあるので、一度きちんと考えておく。

 まず、「なぜ」歓送迎会等に行かないのか?という問いについて深めてみる。
 行きたいと思わないから。なぜ?
 楽しくないから。なぜ?
 気をつかうから。なぜ?
 職場の延長になってしまうから。なぜ?
 職場の人間関係を持ち込まれるから。また、持ち込んでしまうから。なぜ?
 儀式的な場がそうさせてしまうから。なぜ?
 場がそういう雰囲気になるから。または、そういう雰囲気を感じてしまうから。
 これで、初めの回答に接続し、サイクロジックになる。

 結果として、仕事外時間の削減、つまり自分と家族の時間が削られてしまうことになる。「いやいや、業務外でしょ?」と言われても、上記の通り、そこに職場の雰囲気が持ち込まれるのであれば、その問いかけは全く無意味である。

 それでは、今度はメリット・デメリットの視点から考えてみる。
 ・歓迎会等に参加しないメリットとしては、
 ・時間とお金の節約になる。
 ・気分を害する場所へ行かなくて良くなる。
 では、参加しないデメリットは、
 ・職場内人間関係を進展させる機会が減少する。
 ・飲酒機会が減少する。
 ・他の人から「飲み会に来ない人」のレッテルを貼られてしまう。
 ・他の人から「感謝の気持ち・歓迎の気持ち」がない人であると思われてしまう。
 といったところだろうか。

 これらの理由を、自分事、と他人事に分けてみると、デメリットとしてあげたことの内、自分に直接関係あることは「(自分が)職場内人間関係を進展させる機会が減る」ことと、「(自分の)飲酒機会が減る」ことくらいになる。あとは「○○と思われる」だけであり、本当にそう思われるかどうかは疑問が残る。
 加えて、今の職場の人間関係規模とすれば、40~50人の規模である。そのうち7~8割の出席と仮定しても、参加者は30人前後。初めての人たちの集団では、とても名前なんか覚えられる規模ではない。私一人がいなくて、誰の迷惑になるだろう。
 さらに言えば、私がそこに参加することによって、誰か他の人の誰の何のためになるのかというと、大変曖昧といえる。歓迎されている感じや、感謝されている感じは、「そうなる対象であれば自然と与え・受け取れること」であり、それを飲酒の場として設定することは、有効であったとしても必要なことではない。

 と、ここまで考えたら、あとは自分の気分で「行きたい」か「行きたくない」かで判断して特に差し支えないと考えることに特に問題はないだろう。職場の人間関係は仕事で作ればいい。私は今の職場では、自分に最も近い二軸の集まりにしか参加しないことにしている。それで、自分の機嫌とお小遣いが保てるのであれば、人からどう思われようと関係ない。

2018年3月25日日曜日

ある人の区切りを祝う

 久々に二日酔いとなり、カミさんに呆れられたIyokiyehaです。
 朝起きれない、昼動けない、夕方も頭が痛い。こんな二日酔いになると「しばらく酒は辞めよう」と思うのですが、しばらく経つと時々やってしまうもの。

 二日酔いの原因は、週末の(たぶん)送別会。
 今の職場ではなく、前の職場のもの。私が大変お世話になった方が定年を迎えられるので、「一度飲みに行きませんか」と誘ったところ、「詳細は追って連絡します」と返信がきたことがきっかけでした。
 …だから、俺が一席設けるって言ってるじゃん!
 こういう行間の読み合いも相変わらずです。結局セッティングまで持っていかれてしまう。メールって便利だけど不便だよね。どうせ、それをネタにまた説教するんでしょ?まぁ、その説教も笑って受けてやるよ、みたいにおおらかな気持ちで。
 実績はあるけど、おそらく最後は不本意なところで定年を迎えられるのだろう、再雇用も希望通らなかったみたいだし、と思うところはあるけれども、あくまで自分にとっては仕事を教えてもらい、最後までご指導いただいた方ですので、他の誰が何と言おうときちんと区切りのお祝いをしようと決めたわけです。そんなに迷いはありません、だって私にとって、でいいんだもん。
 組織の評価はどうでもいいですが、私の評価では「昭和のおじさん」です。なぜなら、勘違いもされる人だし、時々勘違いしている人だし、飲む・打つ(買うかどうかは知らん)の人である。とはいえ、どことなく人間臭さがあって(あり過ぎて?)憎めない人です。その分、雰囲気の「圧」はとっても強いんですがね。
 よくバランタインを飲む人だけれども、こういうときはシングルモルトの方がいいよね、と思い、あるバーでバランタインがないとかぼやきながら注文していたシーバスリーガルを用意して当日を待つ。
 当日まで、連絡がない。こういうところも、憎めない人なんですが。

 結局、行きつけの小料理屋で親しい数人での宴会でした。予想通り「俺の送別会の調整を俺に押し付けた」くらいのことを言われます。よい、よい、今日の私の懐はマリアナ海溝くらい深いです。同じ店で私の今の職場の中枢部署の方々が宴会をしているというハプニングがあったのですが、楽しい時間を過ごすことができました。二次会はカラオケと思いきや、10年ぶりくらいにカラオケ付きスナック。懐かしいです、あの雰囲気。
 カラオケボックスなら、「ブラッディメアリーですよぉ~ウォッカですよ~」とか言いながらトマトジュース飲んで、日付変わるくらいで帰れたんですが、スナックだとそうもいかない。ママは淡々と水割りを作り「飲め」と迫り、「歌わなければ、朝までカラオケ連れていくぞ」と言い、散々でした。おまけに、2時過ぎにお開きにしたはずなのに、タクシーが来ないハプニングに見舞われ、結局店を出たのは4時過ぎ。朝までカラオケでも変わらないじゃん、と思いつつ。完全な朝帰りを数年ぶりにやりました。やましいことは何もないが、身体へのダメージはでかかった。
 とはいえ、60歳のおじさんがAKBを熱唱する姿を拝み、60歳のおじさんと肩組んでYAH YAH YAHを歌い、60歳のおじさんに向けて初めての転勤で歌ってもらった「希望の轍」をお返しに歌い、合間に前職での思いを聞かされ、聞かせと、それなりに区切りのお祝いはできたかなと思っています。ちょっとじーんとさせられたのは、「今のところでも偉くなれよ。元からいるやつに負けるんじゃないぞ」と激励のお言葉をいただいたことでした。お互いにベロベロに酔っていたので、多分発した本人は記憶がないのでしょうが。私のキャリアにとっては、一つの区切りとして振り返る時がくるかもしれません。

 翌日、吐き気のする身体に鞭打って、洗濯物を干したことはまた別の機会に…語ることもなかろう。

2017年11月4日土曜日

いつまで経っても上下関係

前回の投稿が夏休みだったのだが、もう冬が間近に迫っています。
みなさんお元気ですか?iyokiyeha@所沢です。
しばらく、別のBlogのスタートアップをやっていましたが、落ち着いたのでまたこちらにも書き込みを再開していきます。よろしく。

さて、先日前の職場に勤務している元上司と飲みに行ってきました。
私が前の職場に入職して間もない時に所属長としてやってきた方で、私にとっては大変お世話になった上司でもあったので、転職直前の職場に隣の課の管理職として勤務されていた時にも大変お世話になった方でした。組織的ないろいろなことの渦中にいた人ですので、話の端々に愚痴っぽい発言があったりもするのですが、組織的な評価はさておき、私にとってはやっぱりお世話になった上司でした。
お互いに、今職場で何をやっているのかということについては、想像して補いつつ話をするわけですが、立場は違えど真上からの視点・発言でガンガン踏み込んでくるので、お酒の席とはいえ、割と刺激的な時間となりました。他の人だったらたぶんNo Thank you.なやりとりなんでしょうけれども、個人的な関係がなせる業なのか、こういう場は私にとって必要な時間なんだろうなと思うこともたくさんあるわけです。
若かりし頃、もっととげとげしく世の中を見ていた頃の稚拙な発言とか失敗や、当時からの課題なんかを上司として知っている人からの様々な指摘をかわしつつ、受け答えするという機会は、40歳を前にした立場ではなかなかないわけで。今の職場は中途入社なので、周りに気を遣われていることも感じていつつ、その生ぬるさに甘えている自分にも気づかされるわけで。

毎月あったら、しんどいけれども(笑)四半期に1度くらいならあってもいいかなと思う時間です。そんな上司も今年度末で定年となるとのこと。昨年あたりから切れ味が弱くなっている気はしますが、気持ちよく送り出してあげたいと思っています。まぁ、辞めた人間が思うのも、なんだかなぁというところですが。

2017年2月12日日曜日

鮮度を保つ

「自分の市場価値を高める」
前の職場に在籍していた頃、転職を視野に入れたときによく考えたことである。障害者職業カウンセラーとしての力量はそれなりに付けてきた実感はあるが、他で通用する自分の強みは何だ?という具合である。
当時のメモを振り返ると、核心をついたものから、こじつけのものまで様々な棚卸しの跡が残っている。
縁あって、今の職場の特別職とご一緒する機会があり、刺激的な時間を過ごすことができた。幹部たちは、今の職場に染まりながらも自分の核を大切にしてきた人たちであることを感じ取れた。それは、ただ異を唱えるだけでなく、調和を乱すのではなく、一人で突っ走るのではない。それは、異なる視点を常に持ち、連携によってより大きな力を生みだし、組織の力を増幅していくような、そんなイメージである。
さらに、一つ響いたのは、
「自らの鮮度を保つ」
ことを意識させられたことである。冒頭で「市場価値」という言葉を使ったが、市場を意識するのではなく、あくまで自分にとってどうか、自分の鮮度はどうか、周囲にいい影響を与えられるかという観点で、能力開発をしていくイメージである。
おごらず、それでもプライドをもって仕事したいものである。昔も今も変わらないことではあるが、やはりどこまでも謙虚にどこまでも真っ直ぐありたいものだ。

研修のまとめ(初任者1年目)

170128_補足
組織人としての筋と公務員としての筋は違うということ。
前職と変わることはない。原典に立ち返り、自分の頭できちんと考えるということだ。

170127_研修から感じたこと
以前の職場は全国各地に勤務地があったり、国の外郭団体だったこともあり、集合研修は大変充実していたのだけれども、今の職場もなかなか研修が充実していると思う。
講師が先輩職員であったり、法律の授業はどうしても文字の羅列になってしまいがちではあるのだが、大変よく検討され、準備に時間がかかっているのだろうということはよく伝わってくる。それに加え、講師の「熱」が伝わってくるものも多く、よく聞く「○□△は堅苦しい」という(固まった)イメージをいい意味で壊してくれるものも少なくない。
そういう「熱」に触れると、これまたいい意味で「これじゃいかんぞ」と思う。何に思うか?自分の仕事に対する姿勢であったり、自分の身の回りで起こっていることだったり、様々である。
今回特に感じたことは二つ。一つは、自分の仕事は何を得るものなのか。答え「信頼」であるということ。なぜそんなに頑張れるのかというと、そこに損得があるわけではなく、そこに自慢できる実績があるわけでもなく、ただ、仕事をこなすことについて、プライドがあるかないかによって個人の動機付けは大きく左右する。
もう一つは、自分は「どのように使われているのかわからない」という現状である。総合計画はあるが、課としてグループとしてチームとしての目標は何なのか。私が所属する課は、どんな方向へ業務を方向づけているのか。周囲に聞いても「そんなことは知らない」と嘘か真かわからないような答えが返ってくる。

2017年1月22日日曜日

想像し難い

先日、ラジオから流れてきたニュースに、生後3ヶ月の娘に暴行を加え、湯船に沈めて殺害したというものがあった。
このニュースを聞いたときに、何か思うところがあったのか、その場面を想像してしまって背筋がぞくっと寒くなった。
三人称の立場に立って、この親御さんと同居人と言われる人を避難するのは簡単だ。けれども、ちょっと視点を変えてみる。

この現場はどんな雰囲気だったのだろうかと。

生後3ヶ月の子どもが泣くのに、手を上げなければ「ならなかった」のはなぜだ。抵抗できたかどうかはわからないが、文字通り必死で動く子どもの命を奪わなければ「ならなかった」理由には何があるのか。湯船に沈めてぐったりしていく子どもを見なければ「ならなかった」のはなぜなのか。その現場には何があったのか。

この事件だけじゃない。最近報道される自分の子どもを殺害するという事件には、「そうしたかった」という身勝手な救う価値のない人が(いないと信じたいが)いる一方で、「そうしなければならない」と追いつめられた人が自分の中の何かを守るために、自分の最愛の存在を手にかけなければならないという出来事が起こっているような気がしてならない。
この後者については「自己責任」という安っぽい言葉だけでは片づけられない、社会の病的な部分や、世の中に垂れ流されているくだらない言説等の影響は否定できないと思う。

福祉に携わるようになって、「ソーシャルワーク」という言葉の意味が、少し自分なりに感じられ、考えられるようになってきたように思う。ただ、その深さと広さを感じる度に途方に暮れることを繰り返している。

2016年6月27日月曜日

仕事の内容

4月からの仕事は、これまでとは異質なものになりました。
採用枠が「一般事務職」であるので、これまでの経験を踏まえた配置でどんぴしゃだったとしても、その仕事内容は全く違います。これまでに気づいたことをいくつかメモ書きにしておきます。

1.デスクワークが多い
 前職もここ2,3年は、業務と直結しない事務作業は多くなっていました。年次も中堅を過ぎたので、組織のことについても多少関わるようになっていました。
 今の職場は、本来相談業務が主となる職場のはずですが、どちらかといえば半分以上は紙で仕事をするところです。話を聞いて何かを解決するだけではなく、話を聞いた上で申請書と添付書類を提出してもらうことで、後程そのペーパーワークが発生します。
 今までの「相談→計画策定」の流れとはちょっと違って、課題を正確にこなしていくドリル的な作業が多いです。頭の使い方がちょっと違うので、慣れるまでは戸惑いました。

2.お客さんの層が違う
 前職のクライアントから「身体障害者の応募はないんだが、いったいどこにいるのですか?」といった主旨の質問をよく受けた。当時は「技能のある方は、いい条件で就労継続している」などと回答していました。
 間違っているわけではないですが、当時統計を見てもあまりピンとこなかったことを今では実感しています。それは「労働年齢を超えた人が多い」ということです。
 後期高齢者医療や介護保険を利用している人も窓口には来られます。今まで雇用に関わってきて「50代は高齢」だと思っていた自分が少し恥ずかしくなってきました。

3.職員の知識レベルが異なる
 1.にも関連しますが、今の職場にいると、前職は専門家集団だったのだなと改めて痛感させられます。現在の窓口は精神障害のある方は対象ではないので、私も日々勉強しながら仕事をしていますが、障害特性という言葉が共通言語になっておらず、内容によっては下っ端の私が一番詳しい内容なんてのもあるかもしれません。
 ただ、今までの仕事とは異なる分野でもあるので、確実に視野は広がっています。

 今のところ、まとめられる段階での振り返りでした。

2016年3月14日月曜日

最後まで走り続けるには

現職として仕事ができるのも後半月となった。
名刺に記載されている肩書きも、4月になれば名乗れなくなる。
肩書きにしがみついているつもりはないし、それほど一般的には知られていない仕事なので、驕ることもそれほどないと思うのだが、それにしても11年プライドをもって仕事をしてきたバッジでもあるので、いざ手放すとなるとちょっとさびしい。
有給の消化、なんてことをやってみたい衝動にもかられるが、正直そんな暇はない。
「仕事辞めます」といって、割り切って新しい仕事をとらなければいい。
「来年の仕事ですね」と笑顔で仕事をとらなければいい。
そんなことなんだけれども、この時期になればなったで、残る職員さんに大切な(だと思う)ことを伝えたり、お世話になった人にあいさつしたり、そもそも今の仕事だって暇じゃないので、仕事をとらずにブラブラしているわけにもいかない。
結局、最後まで全力疾走して、翌日から新しい職場、ということになりそうなのだけれども、それはそれでいいのかな、とも思う。
先日、動かし始めた仕事も、中途半端に決着をつけるんじゃなくて、トップスピードで引き継いで、来年度しょっぱなからガンガンやってもらいたいと思う。
そのための準備期間なら、逆に憎まれっ子を演じてもやっておくことがあると思う。
最後まで謙虚に働き続けよう、と思うこのごろである。

2016年3月2日水曜日

転職

2月末に、所属する機構の人事異動内示がありました。
私は異動の対象ではないのですが、今年3月末をもって、機構を退職することになりました。

昨年度の終わり頃から準備をしていたため、何かの拍子に就職活動していることや、内々示(11月末)の段階で言動が変化してしまうことを恐れて、今年度はこのBlogやFacebookなどの更新を敢えてしていませんでした。

4月からは、居住地の自治体職員として勤務することが内定しています(配属先は未定)。中途の一般行政職採用なので、職業リハビリテーション関連業務に携われるのかどうかも分からないまま、流れに身を任せているこの頃です。

私の地元から離れた土地で転職することについては、ご指摘もいただいているところですが、家庭の事情含め様々な理由がありますので、そのあたりは今後また何かの折に直接お伝えできればと思います。とはいえ、一番の理由はお察しの通り「家族のこと」を考えた結果です。

なんだかんだで11年間、頭までどっぷりと浸かってきた職業リハビリテーションから飛び出すことには、不安もありますが、動かなければ景色は変わらない、ということで、新しい場所で新しいことも学んでいきたいと思います。

今後ともどうぞよろしくお願いします。

2015年6月8日月曜日

コトバノチカラ

ある打ち合わせの席上、ある上司からこんな発言があった。
「あるクライアントについて、大変心配しているのでいつでも声をかけてください。手伝えることは手伝うので」

その日の夕刻、別の上司とこんなやりとりをした。
「あの(上述)の発言ってさ、お前は何も感じなかったのか?」
「どういうことですか?」
「だって、お前らじゃ頼りにならないから助けてやるよ、ってことだろ?お前らを信用していませんよって聞こえなかったか?」
「・・・あー、なるほど、そんな風にも聞こえますね。『気になっていることは事前に伝えるので声かけてくださいね』だったらもう少し正確になりますね」
「そういうこと。あいつが何でああ言ったのかはわからんけどな。他の人はどう思っているかわからんぞ」
「ちょっと気をつけておきます」

率直な意見としては「面倒くさい」ことなのですが、社会人としては大事なことを言われているなと思いながら、本音は押さえて学ばせてもらいました。
おそらく、普段何気なく発している私の言動も、聞く人が聞けば私の意図とは異なる意味で受け止める人もいるということでしょう。正式な場での発言はそれくらい気をつけろということを真摯に受け止めようと思った出来事でした。

2015年5月31日日曜日

組織における人材育成

先日、仕事で某会社を訪問した時のこと。その担当者は終始「全体のバランス感を見て悪影響があるならば(契約)更新についても考えなければならない」と言い続けた。
よくよく話を聞いてみても、当事者同士で話をするわけでもなく、自ら仕事を与えるでもなく、かといって指示を出す立場の人に何か指示を出すでもなく、ただ「他の人よりもできない」ことを理由に退職を迫ろうという意志ばかりを感じさせる人だった。しまいには「こんな(訪問対応)時間をとられるのも不本意」と言い放ったため、私は怒りを通り越して半ばあきれてしまった。
「こういう人が職場のモチベーションを下げるのだろうな」と思いつつ、何度か反撃を試みるも都度細かい事例を取り上げて話題をすり替えられてしまい、結局平行線というよりもこちらの要求は何一つ聞いてもらえないような状況の上、今後の訪問をも拒否される始末であった。
個人的にはこの会社の扱う商品は今後一切使わないと決め、知人やクライアントに紹介もしたくないわけだけれども、それ以上に組織を束ねるということはどういうことなのかということについて考えた。

人を束ねる立場におかれた時、部下の育成は自然とその人の業務の一部となる。このことはよほどの特例でない限りはどの組織においても当てはまることで、疑いのないことだろう。人材育成においては、対象となる人を評価し、指導方針を定め、必要な指導・働きかけを通じてその人の力量が発揮・向上されるように導いていくことになる。
働きかけは、明確に目標をもって実施する公式・定型なものと、あらゆる機会において非公式・非定型に行われるものと大きく二分される。例えば職場において役職のないIyokiyehaにとって後輩等の指導は主に後者にあたるといえる。基本的には、自分が担っている業務の一部または全部をやってもらえるようにするのが仕事における人材育成であるだろうし、仕事にあたる心構えや考え方を語ることも必要なことだろう。

今回私が頭にきた上記事例において、その人がクライアントに対して(適切かどうかは別にして)働きかけを行っていないことが問題であると私は感じた。さらにいえば、評価についても相対的な見方しかしておらず、結局のところ評価そのものが成り立っていない、よって人材育成を放棄しているといえる。
人のふりみて我が振り直せと言うが、まさにその通りだと感じた一件だった。