2025年7月23日水曜日
悪意から逃れるのは難しい。
2025年5月24日土曜日
もっとシンプルでいい。もっと現実から受けるものを大切に。
2025年5月3日土曜日
大地の恵みと植物間のコミュニケーション
2025年4月19日土曜日
最近思うこと びっくり朝活
2025年4月5日土曜日
SNSって何だろうなって思う
2025年3月15日土曜日
残念、というストレス
2025年3月9日日曜日
言葉や制度だって、丁寧に扱うべきもの
「エビデンスはあるの?」
「…? 説明は○○に書いてありますが…」
「だから、そのエビデンスは何?」
不毛なやりとりのような気がしてならない。まがりなりにも、研究者の端くれに身を置いていた私としては、「エビデンス」という言葉は「科学的根拠」と訳されることの多い、「きちんと裏付けのある証拠。有識者の合議体による結論から、ランダム化比較実験で証明されたものまで、正確さに段階がある」くらいの意味で使っている。研究成果って、いかにエビデンスレベルを上げるか、に躍起になる段階があるくらい。なので、制度の説明をしていて「そのエビデンスは?」と聞かれることに、とっても違和感がある。「●●の時は□□になる」という説明をしているのに、「エビデンスは?」と問われる。要は、説明していることがどこに記載されているのか、ということを質問する文脈で「エビデンス」という言葉を使われると、その内容に関する証拠を問うているのか、よくわからなくなる。これは私の認識が甘いのか、言葉の使い方の問題なのか。
前者は私の理解度だから、ある程度は仕方がない。でも、仕事の世界で「エビデンス」という言葉は、単に「根拠」を問う時に使われることが増えてきているような気がする。
「(集計の結果)○○という結果となりました」
「そのエビデンスは?」
みたいな使い方。ん?と思う。情報ソースを聞いているのか、科学的な根拠まで問われているのか?「私の知る範囲では証明されたものではありません」「そうじゃなくて、どこの数字なの?」という問答は、本当に不毛だと思う。そのまま「どこの数字からとってきたの?」と質問してくれよ。そんなことまでハイテクストなやりとりに入れ込まないでくれよ。
とはいえ、せめてもの救いは、身内にこの使い方をする人はほぼいないということ。この疑問を身内に対して抱くようになってしまうと、これは面倒だ。あくまでお客さんとのやりとりだから、まだ我慢できるのだけどね。まぁ、ハラに近いやりとりでこれをやられると、なんか腹が立ってしまうこともあるが、まぁ、それも落ち着いて深呼吸、ですね。
2025年3月2日日曜日
深呼吸して、隙間をつくる
小川糸さんの『針と糸』をオーディオブックで聴いている。まだ、序盤でドイツの暮らしを表現しているところなので、まだまだ今後の展開が楽しみなのだが、日曜日は国全体が休み感覚であることや、週末の喫茶店ではWi-Fiが使えないとか、個人商店の魚屋さんが週末に広場で商売をしていること、自宅周辺には個人商店が軒を連ねて、わざわざ遠出してショッピングセンターに行かなくても、近所で生活はまかなえてしまうというくだりを聞いて、羨ましい気持ちが湧き上がるとともに、普段の生活がいかに「あたりまえ」に支配されているのかを考えるに至る。
ちょっと考えてみると、普段の生活の中であたりまえのようにやっているけれども、実はやらなくても困らないことって結構あるな、と思うこともある。なんとなくあたりまえで使っているお店で定期的に買っているものも、実は近所で同等のものが手に入ったり、そんなこともある。最近は宅配サービスもあるから、便利ならそういうものも使ったら、自分の生活から緊張感が減っていくかもしれない、とそんなことを思った次第です。
まぁ、要は、何か余裕がない時でも、軽く深呼吸してみると意外と視野が広がるかもしないってことです。これってやらなきゃいけないんだっけ、これって今日ホントに必要なんだっけ、明日までがまんすればあとは要らないんじゃね?とか、いろんなアイデアが出てくれば、その時々でよりよい判断を行うことは、そんなに難しくないかもしれない。あるいは、切羽詰まっていると思っていたことも、実はちょっと急ぎで片付いてしまったり、急ぎでと思っていたことが、別にいいじゃん、と思えてきたり、こういう時も0か100かじゃなくて、「ちょっと楽」くらいで10点くらい削れたらそれでいいかもしれない、そういうことです。
しんどいときこそ冷静に、忙しい時こそ呼吸を意識してゆったりと、いろんなものと適切に距離を保って、いろんなことに向き合っていきたいと思うこの頃です。
2025年2月26日水曜日
目的は何なのだろう?
2025年2月15日土曜日
対話の力
2025年2月8日土曜日
少しずつ習慣化
2025年2月2日日曜日
最近の悪意
悪意を感じられる、というのはただの敏感さんなのかもしれないけれども、思い切ってgifted的なIyokiyehaのちょっと特異な能力として位置付けてみる。今まで人にはあまり言わなかったけれども、前回投稿のような「悪意」や、嘘や騙そうとする意志とか、一見もっともらしいことを言っているけれどもその実は自分の欲を満たそうとすることだったり、そういう感情を感覚レベルで感じられる(≠読み解ける)のは、ある程度自分の能力なのかもしれないなと思う。対面であれば、スクリーニング6割、相談後8割くらいで自分の感覚の裏付けがとれるような気がしているし、どことなく自分もその感覚に頼っているように思う。まぁ、感覚に頼って長いことやってきたから、その説明を求められると冗長になりがちなんですが。
ということを前提に置き換えて、最近の傾向を考えてみると、1つは、安っぽい感情がむき出しになって世の中に氾濫している、2つは、人のことを心配している言動を盾に、自分の欲を何とか達成しようと嘘をつくのも厭わない人が増えている、3つは、何かをきっかけに目の前の人への態度が変わってしまうことに疑問をもたない人がいる、あたりだろうか。これまでにいろいろぼやいてきたこととも、大体一致する。
今のところは完全に主観ですが、ポイ活のためのやむを得ない動画広告とか見えると、違和感のあるものが結構ある。演技の良しあしも大きいのだと思うが、発している言葉と表情の間にある隙間が感じられると、Web上の情報にはそういう感情があふれているように思う。その点テレビの方がマシな感じが、少し前までにはあったが、バラエティなんかを中心にほころびが出てきているように感じられる。このあたり、ドラマやノンフィクション番組なんかがまだマシか。俳優さんの活躍はまだまだプロ意識を感じる。
2つ目のことは、上記と関連するのだけれども、身近な対面でも言っていることと欲求との差が大きい人が多い。これを感じてしまうと、気を遣わざわるを得ないのでとても疲労する。こういうのって、多分普段仕入れている情報が蓄積してその人の言動に反映されているのだろうな、と思う。と、ここまでくると、ウチの身内も動画視聴に割く時間が長いので、心配といえば心配である。
で、こういうことを気にしつつも、こちらの筋を説明してやりとりを重ねることによって、不満がたまる結果なのか、主張や苦情としてそれが出てくるときには、明確な本質を突くものではなく、なぜか矛先が目の前に向いてしまうというもの。もともとは何かを守ろうとしていたはずなので、いつのまにか「おれ」「自分」になってしまう。あれあれ、達成したいことはなんですか?あなたの欲求がむき出しになっていませんか?それは私には関係ないことなのに、なんで痛めつけられようとしているのかな?と、なんか逸れていく感覚があるんだよね。
そういうことをひっくるめて、感じとれてしまうことを「悪意」として考えてみる。何かいいいなしかた、かわし方が見つかるといいんだけどね。
2025年1月26日日曜日
悪意を考える
あくい 【悪意】
他人に害を与えようとする心。他人を憎む心。ほか(大辞林アプリ版)
他人や物事に対していだく悪い感情、または見方。ほか(岩波国語辞典第7版)
他も調べると面白いかもしれない。最近、人の「悪意」に触れる機会が多いように思ったので、その意味するところを確認してみました。上記2つの意味を見ても、①他者に向く感情、②自分に生じる感情、の二つがあるように思いました。連動するのかもしれない。
仕事のクレーム対応や、個別に食ってかかられる時、かつその内容がクライアントの納得を得られないようなものだった時、事の本質を離れて「私=Iyokiyeha」への攻撃になることがある。または、直接そういった言動ではないとしても、元となる感情に基づいて発せられる態度、言動が、Iyokiyehaからは見えてしまうことがある。どちらも気分のいいものではないが、on goingの対応になると、それなりに対応が必要になる。
自分に向けられる言動にそれが感じられる時には、慎重に距離を保ちつつ、その言動の内容を共有して、それが「何も生み出さないこと」を感じ取ってもらうような戦術を試みる。納得は得られないまでも、そのことに「意味がない」と気づいたならば、あきらめてお引き取りいただけるタイミングがやってくる。この時、明らかにしすぎないのがコツで、正面から反論するような見せ方は、かえって相手のプライドをたたいてしまうことがある。あくまで「〇〇ということですかね?」のように確認と混ぜつつ、結論を表現せずに気づかせるやりとりが望ましい。
というような、基本的な対応の心構えみたいなものがあるのだけれども、時にそれが全く通用しないことがある。上記でいえば②のパターンの内、(1)自覚がない時、(2)自覚してやっている場合の一部がこれにあたる。とはいえ、(1)に関する戦術は基本的には上記と同じで、受けきることになる。自覚がないので感情的なやりとりが多くなるが、突然飛んでくる飛び道具に注意して、慎重に粘り強くである。
やっかいなのが(2)だ。明らかに悪意をもってやっているパターンがある。まぁ、要は不当要求であることがほとんどなのだが、その目的がこちらの疲弊や、ちょっとした揚げ足取りであれば、平行戦が続くことになる。こちらがちょっと悪くなるような雰囲気が続けば、ただただ疲弊する。前置きが長くなったが、これが「悪意のあるパターン」だ。
最近、この手の悪意を感じ取ってしまうことが多い。なんというか、風潮なのだろうか?ここ10年くらいで様相が変わってしまったのだろうか、以前からこの手の悪意を持ってやってくる人たちはいたのだけれども、よくよく話を聞くと困りごと起点であることが多かったように思う。今もよくよく話を聞いたらそういうことなのかもしれないけれども、制度の変遷を反映しているのか、どちらかというと「自分の都合」が前面に出た悪意の件数が多いように思う。特に自らの立ち位置は全く変えずに、人にばかり都合を押し付けるような言動が目立つように感じている。
しかしながら、その中でもクライアント目線はまだ「何とかしなきゃ」と思えるけど、専門職や同業者からこの手の「悪意」が見えてしまうと、なんとも言えない気持ちにさせられた上、自分の感情がこれでもかとすり減らされる。最近は、そんなことばっかりだ。
2025年1月18日土曜日
引っかかることがあると、いろいろ考えて、いろいろ試してみたくなる。
朝、ジョギングをしていると、向こうから若い男性が歩いてくるのが見えます。特に気にしていなかったのだけれども、すれちがいざま彼が「あけましておめでとうございます!」と結構大きな声であいさつされる。距離も声の大きさも絶妙。一瞬びっくりしたのは自分が未熟なところだけれども、すぐさま「はい、おめでとうございます!」と回答できました。おそらく自閉傾向のある若者だろう。ジョギングを続けて、なんだか温かな、穏やかな気持ちになりました。たかが挨拶、されど挨拶。人と人との関わりには、人のきもち(気分、感情、思考、様々な「自分の中の見えない動き全部」)を動かすエネルギーがあるな、と感じた。
先週、考えていた「陸でもないこと」は、週末に何とか落ち着かせることができて、今週は「あほらし」と穏やかな気持ちでいられました。一瞬動きがありましたが、まぁ、成り行きで結果を出して、きっとその人にとっては面白くない結果だから、怒られていきましょう、ということで。あとは野となれ山となれ。お手紙書かなくてよかった。
その落ち着きをつくることができた合気道のお稽古を経て気づいたこと。演武の時も、仕事の時も、なんかいろんな場面で、自分は「呼吸が乱れがち」「力が入りすぎ」「視野が狭まりがち」ということに気づいた。あらゆる場面で、気づいた時には呼吸を整えて、様々な力みに気づいて脱力を心がけ、結果として穏やかに視野を広げて保っていようと思いました。呼吸と力み、今年のキーワードです。
娘に買って、自分が読めていなかった天気痛に関する本を読んで、「耳」のケアが大事であることを知り、併せて自分は三半規管に関して指摘されていたことがあることを思い出し、これを機に耳ケアを心がけようと思い立つ。とりあえず、家の中で耳を冷やさないようにすること、屋外でイヤーマフなんかを積極的に使うこと、をやってみようと思う。
いろんな刺激があって、どんな場面であれ、考えて行動目標としてことは、やってみようと思うし、試してみることにワクワクする。まとまった時間がなくても、ここまで思考を進めることができることについては、楽しいし行動の結果を評価できる。
…ということを考えた一週間でした。
2025年1月12日日曜日
寒稽古 ~頭が働かなくなるほど、身体を使うことの効能
本当に陸(ろく)でもない一週間を終えて、土曜日を迎えた1月11日。悶々と朝ジョグをしていても、頭に浮かんでくるのは、さらに陸でもないこと。ふりかえってびっくり。
マズいレベルの無理難題を押し付けられそうになり、頭の中の怒りだけでなく、呆れと、嫌気が同時にやってきて。そうなると、感情レベルも動き出すんだよね。必死で抑え込もうとしたのだけれども、ちょっと無理でした。個人的には「呆れ」が動くと、自分の中の耐性が著しく低下するのだな、と今回感じた。それでも単発ならイライラしながらも、時間が経つにつれて、少しずつ薄めていけるとも思っているのだけれども、毎日次から次へと降りかかってきた件について、怒りと呆れが同時にやってきたときに、何かがフッと途切れてしまったように思う。「心が折れる」という表現が口をついてでてきたけれども、これが身体に影響すると、多分うつ状態となるのだろう。緊急避難的に、そうならないよう自分を守っているけれども。
それで、土曜日の朝にジョギングしていると、自然といろんなことが頭に浮かんで消えていくのだけれども、まぁ自分でもびっくりするほどの悪手が次から次へと。怪文書攻撃を思いついた時には、たまたま神社の前にたどりついていたので、手を清めてお参り、「あほらしい」と自分につぶやいて、要らんことをせずにすみました。それで、たまたま合気道の寒稽古。まぁ、半日黒帯のみなさんに技かけてもらって、技かけて。くたくたになったら、なんか先週頭にきていたことも、ある程度リセットできたように思います。意味のあることはやむなくやってもいいけど、意味のないことはやらない。それくらいシンプルに考えていいのだろうと、いつもの自分に戻れました。
頭がやばい方に行っているときには、身体に余裕をなくして何も考えられないようにするのも悪くない、と感じた出来事でした。
2024年12月29日日曜日
赤字体質 241009
こづかい管理が甘くなっていたな。電子決済って手軽が故に、消費刺激にはなるんだけど、一方で管理が甘くなるのも事実。半年くらい消費刺激が優位になっていたようで、蓄えが削られていることをようやく清算できた。どんぶり勘定はよくない。あとは、会合の機会が増えているのもいい刺激になっているな。
とりあえず年末まで、緊縮財政モードでいきます。
博物館の解説 241009
引き続き、川越ネタ。
去年末から5回くらいになるか。サボり先に認定されている川越。本川越駅を中心に、観光案内に載っているところで、歩いて行けるところは大体回っている。蔵造りの街並みの近辺は目的地が明確なら、地図なしで大体たどり着けるくらいに、主要な横道くらいまではほぼ歩き尽くした感がある。
昨年末から改装工事をしていたらしい、川越市の博物館。今回は特に予定がなかったので、じっくり観に行くことができた。川越市の歴史があけぼのから、中世を経て近代まで概観できる展示が大変面白かった。でも、今日はもっとツイていた。市内の小学生が社会科見学か総合学習あたりで、団体利用があり、なんとガイドの声が丸聞こえ。ラッキーすぎて1時間以上滞在してしまう。
博物館なんかでも「キュレーション」って使える言葉なのだろうか。展示物の並べ方や組み合わせの見せ方で学びの質が変わる、ということは、自分なりに感じ取れることだけれども、やっぱり「インタープリテーション」って大事だよな、って改めて思いました。私にとっての「インタープリテーション」って自然体験活動が入り口なんだけど、物言わない展示物を使った語りやプレゼンテーションも「インタープリテーション」って使っていいよね。キュレーションとインタープリテーションがかみ合った時に自分に起こるインプットって、知識が背景や時系列を伴って、文字面だけじゃない生きた知識みたいなものとして入り込んでくる感覚があるよね。いわば「じーんとくる体験」みたいなもの。そういうプレゼンに出会えると、いやぁホントラッキーだと思う。今日はそんなラッキーデーでした。
現在にも残る地名や建造物から、その仕組みを展示物を使って動きを伴って説明する。川越は江戸時代に大きな家事があったことから、蔵造りの建物には家事を防いだり、被害を抑えるような仕組みが備わっている・・・北側に窓がなくて、土壁が備わっているというのはそういうことなんだな、と分かると、街並みの見え方もちょっと変わって見えてくる。博物館から昔の川越にタイムスリップできたような、そんな気分になれたひとときでした。
生徒さんが退出した後に、山車の写真を一通り見て出口へ。説明していた職員さんから「お騒がせしました」なんて言われたので、「いえいえ、大変勉強になりました。ありがとうございました」と御礼。最後まで気持ちいい寄り道でした。
何も考えないことを一生懸命やってみる 241009
ここのところ、偏頭痛を思われる体調不良が続いており、一昨日は気持ち悪くなる程度、昨日は朝から鎮痛剤を服用しての仕事だった。以前から、今日は自分のための休みを決めていたこともあったのだが、ちょうどいい頃合いでサボりに突入。
秩父まで行こうかと計画をしていたが、あいにくの天気(朝から結構な雨)なので、予定変更していつもの川越へ。いつものお店でうまい昼飯を食ってエネルギー補給しようと考える。PePeのスタバで作戦休憩をと思うが、予定変更。テキトーなPODCASTを聴きながら、日記をつけてぼんやり。雨がやんできたのを横目に見つつ、合気道ページの構想・コンテンツを少しずつ作ってぼんやり。Audiobookで小説を聴きながらぼんやり。「いろいろやってるじゃん」と言われるかもしれないが、自分にとっては、普段やらない(できない)ことを表に出すかどうかは別として、のんびり・無計画にやってみているので、頭の稼働率が適度に保たれており、心地いいのではなく「ちょうどいい」。職場で何かを読んだり、書いたり、話したりするときにキリキリと痛む頭はどこにもなくて、自分の状態に合わせてインプット・アウトプットがなされている。寝る前の自分座禅で頭の稼働率を落としていくのとはちょっと違った感覚、これが俗に言うところの「ととのう」なのかもしれない。表現はともかく、歯止めや摩擦がなくするすると自分の身体と頭が働いているような感覚に、ちょっと戸惑いながらも、とても楽な時間を過ごしていると実感する。
川越へくると、とっても楽しかったり、なんだか心地よかったりするので、すっかり自分の中では手軽な小旅行、身近なサボり先、になっているのだけれども、こういう前向き刺激はいくらあってもいいと、改めて感じる。自分にとってのこういう場所が他にもあっていいと思うけど、川越にはしばらくご厄介になると思うな。よろしく。
2024年11月9日土曜日
ルールの中で働くこと
「闇バイト」なんて言葉が、ラジオを聴いているとほぼ毎日聞こえてくる。社会問題と化している、ヤバい仕事だけど、それを提供する人たちの得体の知れなさと、それに手を出す若者たちが注目されているのだけれども、それとは少し視点を変えて、制度や社会的な構造みたいなところから、いわゆる「闇バイト」を見てみようと思う。
結論から言うと、個人的な要因として、働いて得るお金が「労働の対価」という認識が希薄になっていることが一つ。もう一つ、社会的な構造として、契約に基づく雇用という人と社会が作り上げてきた人を安心・安全の元で自由にするための仕組みが、得られる対価が少ない=効率の悪い営みだと勘違いされているように思える。
仕事に貴賎なしとは言うけれども、ここでいう「仕事」というのは、世の中のルールの中にあるものだという当たり前のことを、あえて記しておこう。世の中のルールというのは、法制度のように明文化されたものから、社会で生きていくための人としてのルールのような不文律のようなものまで含みます。そうした「ルール」に従って提供される仕事においては、その内容によって貴賎はないわけで、いわゆる「労働法」というものはそれを担保するためのもの、というわけです。労働法にのっとった仕事は(ブラックとかいろいろ言われるところも、そういうことも少なからずあるけれども)安心・安全に、人を社会のルールの中で自由にしていく機能を備えているといえる。
こう見ていくと、いわゆる「雇用者(雇われている人)」がイメージしやすいのだけれども、それを離れてみたときはどうだろう?最近ではフリーランスや自営業は身近になってきている。これらは「雇われる」ではなく、自分が使用者となって人を雇う立場になったり、個人であっても事業主として働く主体となるものである。これらの働き方は、労働法の一部は適用されないものの、人を雇う上ではルールに則った使用を求められるわけで、提供される、から提供する側に移ることにはなるが、やはり各種ルールの中に入っているものだ。個人事業主として働く場合はルールの中にとどまることも、そこから出ていくことも選択はできるのだけれども、ルールの中にとどまる選択をした人たちは、(基本的には)安心・安全が担保されることになる。
と、このようなことに「常識」なんてラベルを貼っておくと、こういうことはあまりに当たり前すぎて、常識ラベルが貼ってあることに気づかない人、あるいは悪意をもって働き方ルールの外側に飛び出している人が、「闇バイト」を提供し提供されることになる。「普通の若者が『闇バイト』に手を出してしまう」ということの背景には、こういう見え方がある。普通(カタギ)か普通じゃないかが問われているのではなく、まずは常識ラベルに自覚的であるかどうか、こういうことが課題になってくるんじゃないかな、と思ったわけです。
なにかというとSNSが取り上げられますが、これはただの道具であって「闇バイト」を支えたり、支持するものではないはず。道具の良しあしではなく、個人的な要因と、社会構造をしっかりと見据えていたいものです。
2024年10月14日月曜日
改めて、読書の秋
じっくりと座って本を読むことが、すっかりなくなってしまったのだけれども、どんな生活状況に置かれたとしても、本は読みたい。本を読む理由を問われると、費用対効果とか、信頼に足る情報とか、以前から小説を読むのが好き、とか、適当な意味はいくらでも思いつくのだけれども、それよりも何よりも「自分の内側に人の意思が入り込んでくるような感じ」が味わえるから、というのが本音に近いのだと思う。「なんだコイツ?」と思われそうだし、ちょっと重めの話なので、人にはあんまり言わないけど。
人と話をすることも同じようなことがあるけれども、知らないことを知る、知識を得るだけの時間と、自分と他者とが情報という知識の交換ではなくて、いわば内面の交換ともいうべき時間を過ごすことができると、それはとても充実した、時計の時間を超越したような時間を過ごす経験になりうる。「充実した」と思えるのは、こういう経験が背景にあるのだろう。
これが、ひとりで本を読む行為にも時折訪れる。それは小説だけじゃなくて、ビジネス書であったり、思想や自己啓発を描いたものにもありうるが、一方でそういうことを期待して読んだ本が期待外れだったり、逆に何も期待していなかった本が、そういう存在になることも時々起こりうる。要は、その辺が偶然に依っている、というのも読書への期待になるのだと思う。やっぱりいろいろ読みたい。