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2026年9月6日日曜日

税務署の人の対応に学ぶ、よりよい接遇

 先日、税務署から督促状が届きました。「一般徴収分が未納になっている」ということなのだが、初めてのことで心当たりがない。ということで、案内の通り管轄税務署に電話で問い合わせてみる。その人の対応から、接遇についてよかったことをまとめてみようと思います。

 まず、穏やかな対応と、ごく少しへりくだったくらいの地点からの対応が伝わってきます。「わからないことを、お問い合わせいただき、ありがとうございます」的な姿勢が伝わってくるような対応なんですね。明るすぎるわけでもなく、杓子定規ではなく。で、問い合わせ。「督促状が届いた。多分一般徴収分。今までは納入しており、今回も手続きしたような気がするが、どうなっているのか?」といった、こちらも敵意は一切なしで、現状を説明する。「お調べしますね~」も焦ることもなく、少しお待ちくださいと。
 結局、引き落とし口座の残高不足と言われ、思い当たることを思い出し、こちらも謝罪。
 で、どうするか、ということについて、今ある納付書で支払うか、口座残高を確保すればよし、次回どうする、と、まぁ普通の対応なんですが、余裕があるようで、淡々とあれかも、これかもと話をしながら、当たりが分かると、一言「口振の、残高がないことによりますね」と。
 今回の分はわかったけど、次回分も同じことになりそう(当該口座に入金予定なし)なのでどうしたらいいかとの問いには、口座に現金を用意しておくか、新しい納付書を送りましょうかとの提案。非常にシンプルだ、分かりやすい。途中、事情を話して「今年度の課税対象になるんでしょうか?」との質問にも「責任は生じちゃってるんですよね、払いすぎた分は戻ってくる仕組みなので」とこれまたわかりやすい。決して「申し訳ありません」は言わず、ただ、杓子定規でもないちょうどいい対応だったので、大変すっきりしました。
 後日送られてきた納付書には、付箋が貼ってあって、「先日問い合わせいただいた件です。11月末までに納付してください」と一筆。完璧だと思いました。
 どこまでも、相手の立場で「ちょうどいい」ことを叩き続けているこの職員さんは、多分優秀な方なのだろうなと思いつつ(わからんけど)、少なくとも私にはこんなことを考えさせる、書かせるような対応ができる人だったんですね。顔も素性も知らんけど、ちょっといい気分になる接遇でした。ありがたや。

2026年9月5日土曜日

夏休み?

  世間でいうところの「夏休み」。7月から8月にかけての期間をそう呼ぶことが多いのだけれども、それが終わったところで、この夏(?)の振り返りをしておこうと思います。前回の投稿が6月と知って驚いているところです。

 7月は、中旬に家族で休暇村奥武蔵へ。ここ数年、何となく毎年行っている一泊旅行。旅行といっても、半日仕事をして、みんなが帰宅したら夕方発夕食着くらいの予定で、お腹いっぱいおいしいものを食べて、ゆっくり風呂に入って、ゆっくり寝て、のんびり起きて、おいしいご飯を食べて岐路に着く、という我が家の贅沢です。ごはんが文句なしにおいしい、楽しい。翌日は年によって違うけれども、今年は飯能市のムーミンバレーパークでジップラインに挑戦。エンターテイメントとして大変面白かったです。動画とか検索すると出てくるので、興味のある方はぜひ(ムーミンに詳しい方は、飛行鬼、できっとおなじみですね)。

 下旬には、再度浜松弾丸帰省。ちょっと所要。私にとっては少し大きなことを、いくつかこなして、母を見舞って、帰宅。エピソードはいろいろあるんですが、レンジがこげていたのが大きな話かな。冷凍食パンを解凍しようとして、20「分」レンジをかけたとのこと。父曰く「こげてモクモク煙がでた」とのこと。事は、前回帰省した時に、父がすでにもらっていた高級食パンについて「いつもカビが生える」というので、残りをスライスして冷凍し、ジップロックの中に「レンジ20秒、オーブン3~4分」とメモを入れておいていったのが、発端になってしまった。後日、父が私のメモを見て「20秒なんてありえん。20『分』の間違いだ」と思い込んだことにより、事故発生。半月以上経っていたのと、もともと油汚れもあったようで、セスキとかなんやらかんやらで磨いてけれども、1時間やっても満足いく掃除になりましせんでした。(8月に家族で帰省した時に、もう一度磨いておきました。使用には耐えうる程度にはなっています)

 8月。初っ端は、社会教育推進全国協議会の小平大会に参加です。20年以上ぶりで、私がN-Pocketと関わっていた年だから、2003年とか2004年の静岡大会ぶりの参加でした。会場がたまたま娘の学校とごく近かったのと、当時の仲間が近所(東京西部)に住んでいるので、誘い合わせて参加です。学生時代にお世話になった先生が世話人で中心的な立ち位置にいたのだけれれども、なかなか忙しそうで飲みにはいけませんでした、が、集会の熱気というか強烈なエネルギーをバリバリ浴びるいい機会になりました。忙しいとはいえ、先生からばっちり宿題をいただいたのも、提出した今ではちょっとした笑い話です。

 職場では、次女が参加したこども参観会です。去年に続いて二度目。職場も去年いた方は慣れたもんで、ちょっとしたいたずらを仕掛けてくれたり、管理職が気をまわして席をあけてくれたり。去年は課長、今年は参事(次長級)の席で、仕事の体験もそれなりにエクセルつかってやらせてもらったりして、なかなか充実した時間でした。なんかこういうのを地味に楽しんでくれるんだよね、次女は。

 家族で帰省。私の実母が特別養護老人ホームに入居して半年くらいになるのですが、私の家族がそこへ行くのは初めて。前回会ったのが1年前に入院していた時で、その時にはもうずいぶん認知症が進んでいたこともあり、記憶の連続性はなさそうな反応をするのだけれども、とはいえ、こどもたちの名前を憶えていたのは拍手もの。同じことを何度も何度も言っていたけれども、笑顔も見えて、いい時間になりました。ウチのこどもらくらいでも、施設へいくと、周囲の反応が変わるので、そういった意味でも、いい時間を過ごせたかな、とは思いました。2泊3日くらいの滞在でしたが、ボチボチみんなで帰れるのも数回かな、と思いながら、車を運転していました。

 合気道の合宿。これは私の備忘録。次女と参加。毎年恒例の秩父市不動の湯。連日の雨もあり、傍の川がごうごうと濁流になっていたのに、川遊びの諦めがつき、でもこれまで見たこともなかった外国人っぽいスタッフの方が準備してくれたBBQに、準備しなくてもいいほっとした気持ちと、なかなか楽しめたこととで、ハードな練習も楽しいものになりました。これも、あと何回参加できるかな~。

 それが終わってからの職場復帰は、体調が安定せず、頭重感に悩まされました。今も地味に続いているな。偏頭痛ではあるのだろうけれども、程度が強い。更年期なんかも関わっているのかな、と思うところもあり、うまいこと付き合っていきたいと思うこの頃です。

 で、7月頃から準備していた、住宅ローンの借り換えここで契約済ませたり、証券会社とのやりとりも、今のところ順調です。次は10年経った自宅のメンテに入っていくかな。下旬は、勝手にクラシックのコンサートに行ってきた(所沢に千住真理子がきたんです)のと、よしもとお笑いライブ(毎年所沢に来てくれるやつ)にいって、最後は道場の暑気払い。

 ということで、書き出すとなかなかいろいろあった7月8月でした。更新さぼっていて、読んでくれている人にはごめんなさいですが、また、折を見て写真トークなんかもやっていきます。今回は生存報告ってことで。

2026年6月7日日曜日

ユネスコ「学習権宣言」 人々の権利としての学習

 以前から、力強い宣言だと思っており、学生の頃からちらちらと目にする機会はあったのだが、改めて読んでみると、意志ある人達の叡智とその力強さ、前へ進もうとする意志の強さ、全ての人々に向けられた激励といったような、とにかく前向きなエネルギーを感じられる。宣言が採択されてからもう40年を過ぎたが、今も全く色褪せていないと思うのだが、一方で時代に埋もれている感じもあるので、Iyokiyehaなりに少しずつ読み解いていこうと思う。専門家の解説を読んでいるわけではないので、以下、あくまでIyokiyehaさんの私的な読み解きだと思ってください。

 今回は、まず「学習権とは」のみ取り上げる。宣言では、こんな内容が示されている。

The right to learn is:

the right to read and write;

the right to question and analyse;

the right to imagine and create;

the right to read one's own world and to write history;

the right to have access to educational resources;

the right to develop individual and collective skills.

 ざっくりと、学習権とは、読み書き、問うこと・深めること、想像・創造すること、自分なりに世界を読み解いて歴史をつくること、あらゆる教育資源を利用すること、個別・集団の力を伸ばすことについて、全ての人がもつ権利であるよ、ということを定義している。そして、この権利の位置づけを、

Recognition of the right to learn is now more than ever a major challenge for humanity.

 と述べて、先に挙げた学習権を認識する(了解する、くらいか)かどうかは、全ての人々にとってますます大事な挑戦(課題、かな)である、と言っている。

 40年前に、当時の世界背景の中で宣言されたことであるが、今同じものを読んで「古い宣言だな」と思えないのは、学習という営みの目的(ゴール)が相対的(明確でない、が背景が諸行無常であるから、達成があり得ないとも言える。が、しかし・・・)という性質を持つことの他に、学習という営みそのものが全ての人々が持つ「学び続ける権利」であることを表しているのではないかと考える。おそらく、先を読み解くと、そういうことが書いてあるのだろう。

 ここで、この定義を読んでIyokiyehaが考えるのは、「学習」というのはとても基本的なことであるけれども、それは人がこの世界の中で生きていくのに本当に大切なことであって、かつそれは権利でなければならない(人に与えられた、奪われることのない行為・活動である)ということだ。この後に、

'Learn' is the key word.

There can be no human development without the right to learn.

「学習」がキーワードで、学習権がなければ人間としての発展(向上、発達、よりよくなること全部、くらいに使っているかな)はありえない、と続いてくることから、誰でもアクセスできて、すべきことは、全ての人に与えられている権利だ、ということが書いてあるな、と。

 Iyokiyehaがしびれるのはこのあたりで、学ぶことが特別なこと、与えられた人だけが営むこと、ではなくて、全ての人にとって、よりよくなるために必要なのは「学習」であって、それは全ての人に「既に与えられていること」と宣言していることが、「学習」を何よりも身近で、何よりも強く、あらゆることから人々を守る行為であることを示しているように読めるわけです。身を守るための防具であり、非暴力・不服従を支える武器となりうる「何か」は、「学習」に支えられるといっても過言ではないだろう。それくらいのエネルギーをこの宣言からは感じとることができる(感じとってしまった)。

なぜ、なぜ、なぜ?

 私にとって気持ち悪い出来事でした。

 巨人軍監督の件について、社会を覆う無自覚な刃を感じて、大変気持ち悪くなったので、記録だけ。

 事件が発生した数日間は、普段テレビを見ない私の耳にも入ってくるくらいの情報量が飛び交ったように思います。ラジオのニュースでも大きく取り上げられていたし、プッシュ型のニュースなのか広告なのかよくわからんスペースでも取り上げられていた。LINEだかfacebookだかでもとりあげられており、コメントやらなんやらが飛び交っている様子くらいは私の目にもはいってきました。違和感のはじまりはここからだったのですが、「なぜ、児童相談所が動く児童虐待の案件が、報道発表されるのだろう」ということです。

 Iyokiyehaは、分野は違えど、そういう案件の対応にも自治体の立場で動いたこともある経歴があります。当事者同士の認識の違いは当然に起こることであり、事実確認が非常に困難であることから、認定する事実と推測とをきちんと分けて、複数の目で分析し、「再発防止」を目的に働きかけを行うのが対応の本旨ですし、関わる人達はそうあるべきだと思います。広く世に知らしめるのは、データだけでいいわけで、個別家庭のプライバシーには最大限の努力をはらって様々な指摘や詮索から当事者を守り切るのも、支援者として関わる人達の責務です。それがなぜ、記者会見を通じて、全国ニュースとして世に公表されてしまったのか?百歩・千歩譲って「監督辞任の会見」であったとしても、ではなぜその理由として、本人家庭内の出来事を発表しなければならなかったのか?

 数日経って、当該報道は少なくとも私の見聞きするソースには出てこなくなりました。当時飛び交っていて、SNSなんかでもちらほら引用されているのは、監督の責任を問うような類のものと、その家庭内で起こったとされている出来事の賛否を主張するようなものが多かったように思います(きちんと読んでないですが)。上記違和感が拭えなかったので、それらの全てが「筋違い」に思えてしまったのですね。

 おさらいしましょう。親が子どもに手を上げること、それは理由の如何、程度の差こそあれ、2026年現在では身体的虐待の範疇に入ります。それを虐待とするかどうかは、支援者として関わる人達がどう判断するかに依ります。そして、虐待とされた案件については(責任問題ではなく)再発防止を目的に支援が行われます。その支援は、個人の家庭内のことですから、プライバシーには最大限の配慮を行います。雑な整理ですが、法制度の主旨は外していないはずです。

 今回の報道内容は、私の目には以下のようにうつりました。

・なぜ、家庭内の案件とされる事案が、報道に流れてしまったのか(前述)

 これが全てですが、続くものを見聞きして、更に感じたのは・・・

・たとえ、巨人軍監督の辞任を報告する場にあったとしても、その理由として家庭内の案件を発表する必要はないのでは?(一身上の都合、でいいじゃん)

・マスコミがそれを公表する理由と目的は?

・そもそも当事者と周囲の認識はずれているので、何もかみ合っていない。

・娘さんが生成AIを使っていたことが、本件(辞任、家庭内暴力、再発防止??)の何を解明するのか。

・報道から更に、街行く人の声を報じたラジオ報道(←私のソース、SNSではそういうのあったね)を行った意味は?

・街行く人の意見が賛否あったことが、監督辞任や虐待?の再発防止になんの効果をもたらすのか。

 あぁ、もう入り口が私にとって「ありえない」ことだから、その先のできごとに対して感じたことはもはや悪口に近いな、そうなってしまう自分も嫌になる。

 私はことの賛否を論じません。基本姿勢はさっきおさらいしたとおり。でも、事実認定されたことが何なのかわからないから判断保留です。ただ、仮に監督が「発表せざるを得ない状況に追い込まれ」ていて、その結果「見ず知らずの人達の便所の落書きのような悪意を受け止めざるを得ない」ことになってしまったのであれば、本件の重大な問題は「センシティブ情報の扱い」と「報道各社の報道姿勢」そして「社会全体の処罰意識」であると思いますが、いかがでしょう。こんな気持ち悪い世の中にただただ呆れてしまった、ということは記しておきます。

2026年4月25日土曜日

音の力

  昨年度は自分のためのお休みをとることがほとんどできなかったので、年明けから年度末のストレスを解消するために、自分へのご褒美としてコンサートに行ってきました。市内のホールに村治佳織さんが来られるという情報を見て、チケットを買いに行ったら既にあと2席しか残っていないということで、迷わず購入したのが1月だか2月だか。

 学生の頃、クラシックなんて小難しいと思っていた頃にアランフェス協奏曲を聴いて、言ったことのない街の情景のイメージが浮かんできたのが、私のクラシック原体験です。そういう聴き方ばかりじゃないのでしょうが、クラシック音楽には大体背景があって、その背景を自分なりに読み取ってから音楽を聴いたり、逆に音楽を聴いてから背景を調べてみたりすることで面白さが生まれる。コンサートの中の言葉を借りれば「音で旅をする」ということでしょうか。この「旅」には、旅行よりも広く「自分を解放して経験を受け止める」みたいな意味も含まれるのだろうなと、感じながら、三分の一くらいまどろみながら、すごくリラックスした午後の時間を過ごすことができました。

 音をぶつけ合ったところに生まれる対話を楽しむジャズとは異なり、素直に音を受け止めて自分の中から浮かび上がってくる何かを、何か(言葉とか)で翻訳するんじゃなくて、何かを何かのまま受け止めて、広がる広げるだけ意識するんじゃなくて伸縮自在な動きもそのものとして、なんか動くものを動きっぱなしにしておいて自分がゆるんで解放されていくような、クラシックってそういう楽しみ方ができるのだと、ライブ演奏の中でプカプカと浮かびながら考えていました。そんな考えもジャズとの比較は使ったけれども、ジャズや他の音楽とぶつかるものではなく、共存。合気道で言えば。慣れれば慣れるほど力が抜けていって、片手持ちの技は「持たせておく」ことで生まれる力を意識する、みたいな。

 言葉にすると、いつもまとまらないのだけれども、多分まとまらないものに出会って、それを楽しむ機会だったのだと記すだけにしておこう。クラシックギター道を突き進む村治さんの言葉には、軽妙な中に本質が感じられてとても心地よい時間でした。新しい感情とか経験とか、いくつになっても「いい」ものは、素直に良いと思える感性は大切にしたいなぁ。





悪意か?悪戯にしては、度が過ぎている

 4/18の出来事。

 勘違いかもしれないけれども、立て続けに気になることが起こっているので、悪循環に陥らないように考えを整理してみる。

1 週末の朝活@スターバックスで、空いている店内で隣に座ったお客さんが、私が退席した直後に私が座っていた席に移動してきた。

2 帰宅時に右側の歩道の右端を歩いていたら、正面から中年男性が歩いてきた。私は右側に半身ずれていたが、当該男性は肩をいからせてのしのしと直進し、私の左側すれすれを歩いて行った。

3 看板から針金が歩道に向かって飛び出ていた。私の顔の高さ。

4 自宅最寄りのゴミ捨て場にごみが散乱。片付けていると金曜日にウチが出したゴミの一部であることが発覚。

5 同じ場に、自転車が放置。

 ほんの5分くらいの間に立て続けに起こったことなので、ちょっと時間をおいて書き出してみたらこんな感じである。時間の経過とともに私の感情がネガティブになっていったので、いろいろ反応してしまった感がある。

 1は、私の考えすぎかと思えるが、ちょっと気分が悪かった。一言かけてくれたら「もう空きますよ~」と言ってあげられたのに、なんかバタバタと動いていたから、不機嫌そうにも見えてしまった。私の視界から外れた時にやってくれたらよかったのに。とはいえ、これは私の考えすぎか。

 2は、少し悪意を感じたな。そういう顔の人だったらごめんなさいですが、何か「邪魔だ」オーラが出ていた感じがして、普通にすれ違う程度の動きでしたが、のっしのっしと直進、不機嫌そうとくれば「関わってもロクなことがない」モードが発動したので、駐車場にずれこんでかわしました。という場所なので、悪意を感じるな。

 3は、考えすぎかもしれないが危ない。なぜ針金が飛び出るのか疑問、そして疑惑へ、だって不自然なんだもん。先端を曲げて巻き巻きして看板裏に納めたけど。私の顔の高さって子どもでも自転車に乗ったらあたるよね。高齢者や視覚障害のある人でもおでこに当たりそうだよね。ちょっと背が高い人なら目線です。危ない。今まで放置されていたとも思えない飛び出し方なので、疑問しか浮かばない。

 4も、考えすぎかもしれないし、娘がファイルとか入れていたから、袋が破れて散らばったのかもしれないけれども、黄色札(ごみの内容が収集日と違うぜの札)もなく、ただただウチがまとめたはずのゴミ袋の中身の一部が散らばっている状況。収集業者の動きが疑問。

 5は、極めつけ。誰のものなのか、誰がやったのかもわからないし、金曜日にはなかったもの。収集場所に置いてあるものなので法的にはいじっちゃいかんものなのだろうが、幸か不幸かとある登録番号が振ってあるので、ちょっとだけ好意でお店に電話して問い合わせを打診してみようと思う。お店か持ち主か、いずれかが態度悪かったら救済はなしで。4の反省(というか娘の仕業の可能性がある)の埋め合わせ、くらいの感覚です。

 周囲であまりよろしくない気の流れがあるように思えたので、徳を積むことを意識しようと思います。そういえば、先日もちょっとだけ神様のおぼしめしだな、ということを意識したことがありました。まぁ、全然合理的ではないけれども、そういうことにしておいた方がいいこともあるので、少し徳を意識した生活にしてみようと思います


※後日譚

 5について。登録番号の発行先に連絡し状況を説明したところ、その本社から丁寧な対応があり、お店の方から「その方に連絡は入れてみます」とのことで御礼を言われてしまった。世の中まだまだ捨てたもんじゃない。その日の内に自転車もなくなっていたので、(ここからは勝手に私が解釈していい気分になってやろう!)自転車盗まれて困っていた人に連絡がいって無事に回収されました、のだろう。ちょっといいことした気分で、負の感情はチャラにしておこう。


スターバックスコーヒー

 以前から、時々使っている近所の路面店ですが、もっと近所で安価に利用していたコンビニのイートインが閉鎖されたことと、今年は特にまとまった勉強が必要となったので、朝活に利用しています。

 開店とほぼ同時に入店して、ホットコーヒー(最近はブリュワーコーヒー、というのですね)を注文して、あとはテキストに向かって1時間くらい。ようやくリズムになってきたような気がします。軽くまとめて勉強して、その後にトレーニングへ。いい習慣(だと思い込むことにしています)です。

 数年前に、サードプレイスといった表現でコンセプトを示したと記憶していますが、まさに「居場所」という意味では、コンビニのイートインとはやはり少し違う。確実に少し違う。例えば、BGMや店舗としての音、確かに耳に入ってくる音はあるが、尖っていない、自然な音として過剰な癒やしではなく、かといって不快な音ではなく、聴覚的に「ちょうどいい」。他にも、店員さんの対応についても、多分「ちょうどいい」に当てはまってくる。接客のちょっとしたことですし、これは人-人のことなので、コンビニでも面が割れると一部こういう「ちょうどいい」対応を受けることがありますが、私(部分的な)を認識して対応してくれているというか、そういうことを感じることが多い。コールセンターのような完璧な接客というよりは、人間として接していることをちょっと前面に出すような。他にも店舗全体の雰囲気が視覚的にも落ち着いたものだったり、人それぞれいろんなことをやっている、そういうことを包摂する・できる雰囲気が流れている。これは店側が意図してやっていることと、そこを利用する人達が相互につくりあげている結果なのだと思う。

 少なくとも今年はヘビーユーザーになると思うし、そうなると継続して使うようになるだろうな。月数千円の出費をどうとらえるか。いつも思うが、自分の心持ちなのだと思う。快適空間であり続けて欲しいですね。そして、そこを利用する私も、いいお客さんたりえるようありたいものです。

カタルシス

 話をすることで、気持ちが軽くなるということがあるのだと、改めて実感する機会があった。Iyokiyehaさんは職業カウンセラーを名乗っていたこともあり、カウンセリングの効能とか、その副次的効果なんかも一応元専門職として認識しているわけだけれども、自分がクライアントの立場として、誰かに話をすることで共感を得たり、認識が整理されたり、思考が深まったり、そして気持ちが随分楽になるということを実感する場があった。・・・大げさなものではなく、ただの飲酒の機会に酔い話をした、というだけなんですけどね。

 後輩から「Iyokiyehaさん、あっちのテーブルでお呼びです。酒持ってきてください」と誘われ、「Iyokiyehaさんに、今日は毒を吐き出してもらおうと思う。ほらどんどんゲロゲロしてよぉ~」と先輩から促されたことをきっかけに、蓋をしていたことを「まぁ、ありえん話ですよ・・・」とあれこれ話をしてしまった。この件、私は既に3年以上気にはしていて、継続している人間関係ではあるのだけども、立場もあるので、①今、関わっている人達の邪魔は絶対にしない、②後任の取組には口は出さない、相談があれば全力でフォローする、と決めていることもあり、昨年度からは基本的に沈黙を守っているつもりである。あと、これは個人的なスタンスの話だけれども、③自分に矛先が向いているだけなら、いくらでも耐えられる(というか、Iyokiyehaがつぶれない・屈しないのでエスカレートしているという分析はしている。相手にはいつか「相手が私だから大事にならないでよかったですね~」と言ってあげたい。意図は伝わらないだろうが)のですね。③があるから、①②を断行できてるのだとも思う。そんな話をしていたら、先輩から「いや、実は俺もさ・・・」と対象の方は立場的に関係ないはずの人にも、要らん関わりをしているエピソードがごろごろ・・・。いや、よくない、よくないよ。

 日本の雇用環境は、雇用される人が守られる決まりによって秩序が保たれている、という認識は間違っていないと思う。雇用者と被用者はどうしても力関係が生まれるから、被用者を保護する、という雇用法全体の理念は決してまちがってはいない。ただそれは、人と人との「あたりまえ」の関わり(←これが人によって異なる、というのが判断を難しくしているのだが)があって初めて成り立っているのであって、そうでない人はアウトロー(法外)認定して放出することって、職場秩序を守る上では間違っていないと思う。ただ、それは被用者の権利を減じるのではなく、雇用者の責任を担保した上で初めて言えることであると思うので、その実現、法令整備はまだまだ先のことになるのでしょうが。だって、雇用者にもしょうもない人達が残念ながら複数存することを知っているので。

 結局、法令というのは、それを使う人が息を吹き込むことによって初めて理念に基づく使い方ができるのだと思います。Iyokihehaのこの認識は、障害者雇用促進法を武器にしていた20年前からほとんど変わっておらず、その武器が、障害者総合支援法、児童福祉法、子ども・子育て支援法に移り変わっても、根幹はぶれていないと思います。それを使う私の側が日々変化しているので、吹き込む息は時々チェックしておかないといけないんですけどね。

 話を戻しますね。カタルシス(浄化とか訳される※)。昨晩、お酒の力を借りて重い蓋を開けたことにより、実は俺も・・・、そういえば私も・・・がポロポロと場に出てきて、その場はほんと毒のゲロゲロではあったのですが、どこかしら笑い飛ばした上、上の日本の雇用について考えるきっかけにつながった事実もあり、私にとってはとても有益でした。ここでまた蓋をして過ごすわけだけれども、中身が詰まっていた状態から、余裕がある状態へ。私の気持ちもずっと楽になったし、似たような認識の人が、何をするわけではなくても、私の味方でいてくれる感覚というのは、何よりも心強いものです。

 Iyokiyehaの勝者の定義は「最後まで立っているやつ」ですから、こんなことでは折れずにやっていけるのだろうと思います。その方が職場を出るまで折れないでいてやろうと思います。仕事はそんなにできなくても、私、頑固ですから。残念でした、相手が悪いんですよ。


※ カタルシス 辞書的には「(略)2 精神分析で、抑圧された感情や体験を言葉や行動として外部に表出して、心の緊張を解消すること。3心の中に解消されないで残っていたある気持ちが、何かをきっかけにして一気に取り除かれること」(大辞林)カウンセリング用語で、クライアントが話をして気が楽になるようなことを指してつかう。


弾丸帰省3日目 朝〜帰宅

帰宅する日の写真たちです。

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眼鏡屋さんですね。住吉になるのか?
私が小学生の頃にはあった店舗なので、40年~50年くらい、ずっと眼鏡屋さんだったところです。ついに閉店されてしまったか。

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古本屋丸書房さん。日中もシャッターが閉まっていたので、おそらく閉店してしまったのだろう。ご主人穏やかなおじさんだったけど、元気にされているかな。

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浜松の食の名店街的な、飲食店を集めたような施設があったのだけれども、きれいになくなってしまっていた。あんまりいかなかったので何とも言えないが、残念です。

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人の流れが郊外のショッピングセンターに持っていかれたとは言われるものの、それなりに人の流れはある浜松駅前。わいわいと人ごみになる必要はないけれども、使いやすい街であってほしいものです。今回の帰省もありがとうございました。

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おまけ。西所沢駅前にできた福吉さん。帰省後の一杯も、ちょっと儀式化。鉄板の磯玉です。うまし。

2026年4月15日水曜日

弾丸帰省2日目 午後

午前中の写真がうまくアップできないので、またの機会に。
午後のお散歩時。

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前回の写真にもあったか。元階段があった斜面。
跡形もなくなってしまったことには、少し驚きがある。地元では「石段」と呼ばれていたのですが、なんか地権の関係で通行止めとなり、廃止されてしまったのが、20年前くらいか?いい加減までロープ張っていたのだけどね。この辺に住んでいた元小学生たちは、みんな「石段」を使って泉小学校に通っていたのです。

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で、新しくできた「階段」です。明るいですね。
結局私有地扱いなので、本当はこういうものを作る必要はないのですが、これを作らせるかどうかで、私の実父は役に立ったらしいが詳細は謎のままである。

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今回も、少し寄ることができた、幸?小豆餅?のゼッテリア。1時間くらい読書しているうちに、家族連れが2組来店した程度の、安定の静かなお店。私にとってはありがたいので、まだまだ続けてください。多分40年以上選手のお店です。

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甥っ子が幼い頃のかかりつけ。「●●○○さん、どぉ~(⤵)ぞぉ~(⤴)」という独特な抑揚の呼び出しで、ちょっと面白い、とっても優しい先生でした。私が中学生の時に体質改善を勧めてくれたのもこの病院。おかげで30年くらいは蕁麻疹出ませんでした。とはいえ、まだ三樹先生現役なのだろうか…代替わりしたのかな?

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昨日のラーメンはここ。
チェーン店だから、別に珍しいお店ではない。

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前回、臨時休業で心配したどんごろすさん。今回は開店していました。
今度は利用しよう。

弾丸帰省1日目

 なんとなく恒例になってしまった、浜松弾丸帰省一人旅。先の週末に弾丸になっていました。実家に用事があったのと、実父が何やら「やることがある」とか言ったので、少し前倒しで2泊3日紀行です。

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割と雨が降っていたんですよね。大きめ荷物に雨というのは、どうにもテンションが下がる。これは、どこだっけ?熱海か新富士かその辺です。土砂降り。

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で、浜松駅についたら、こんな手書きのメッセージが。
私に宛てられたものではないのは一目瞭然ではあるのですが、若者を応援するような駅員さんのメッセージが何とも粋ではないか、と感動してしまった。

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で、まぁ、雨なわけよ。
エヴァンゲリオンはいなくなっていました。家康君が鎮座する普通の浜松駅。

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そして、ここのところ半ば儀式と化してきた来来亭@泉町南。そんなに特徴のないラーメンだと思っていたのだけれども、好みではあるので、なかなか味わいのあるラーメンに思えてきた。じわじわくるのよね、このシンプルな醤油ラーメンというのは。

大海原というところは…

 このご時世、どこへ行っても法の縛りがあって、ほとんどの場合私は「守られている」わけですが、どうやらできて数十年のある場所は、あんまり決まりがなくて私も守られている感じがしない。まぁ、当たり障りのないことを書いているだけなので、そうすることで自衛に努めているといえば、そういうことなのだが。
 お察しのとおり、その場所とはこのWebという世界です。
 Webページをやっていた学生時代から、Blogに移って早20年くらいでしょうか。まぁ時々嫌な思いをすることがあったわけですが、私の場合はあまりに不愉快になった時には、そのツールのアカウント毎削除してきたので、それ以上に踏み込まれてはいないとはいえます。ただ、その時々の出来事は、実世界で例えると「道を歩いていたら、知らん人から罵声を浴びせられた」くらいだと思うので、そんなことがまかり通っているWebの世界が健全か?と問われたら、私は躊躇なく「健全ではないね」と答えてしまうと思います。
 大体、実世界で初対面のアカの他人に、自分の家族の写真を指差してカミさんの容姿がどうだとか着ているものの(一方的な)評価だったり、その良し悪しの価値判断、挙句の果てには私生活について根掘り葉掘り聞いてくるのは、いかがなものだろうか。その上、回答しないでいると、それを無視しているだとかどうだとか更に何かしてくることをほのめかす、というのは、いかがなものかレベルではなく、迷惑行為といえるだろうし、私がそれに対して「怖い」と思ったら、それは恐喝とかそういうことになるのではなかろうか。で、そういうことがさも普通であるような、Webは自由だからとか、好きにつながるのが特徴とか、そんな理由を並べられても、いえいえ私はWebにそういう評価をしていないからと弁明しなければならないか?と考えた時に、なんでそんな面倒なことをしなければならないのか、という疑問がふつふつと湧いてきてしまいます。ふつふつとなったら、とりあえず退会、とかアカウント削除となるのが、これまでのIyokiyehaさんです。ごめんなさい、今回もそうしちゃいました。
 まぁ、Web歴そろそろ30年くらいのおじさんの戯言かもしれませんが、人間関係の基本は一対一のやりとりだと思っている私にとって、Webという大海原は便利であっても、依存したくない世界だなと思うこの頃です。あくまでツールとして傍らにいてほしいけれども、価値観に影響させたくないし、したくない、そういう世界なんだけどな、私にとって。
 ということがきっかけではないですが、私の端末にはSignalという「秘匿性の高いアプリ」がインストールされています。使ってみたい方、お気軽に連絡してだいじょぶですよ。どんなものか体験したいので、協力者募集中です。

観ること自体は有益だった「遠ざけたい」発信

※これも2026年3月にメモしたものです。

 すべての発信が社会を形作っている、といった投稿をしたところですが、同時期に同僚から紹介されて(≠勧められて)観たのが、こういう番組。なんというか、権威を纏ってかなり一方的な主張をしてくれていました。(保育施設の入所に関する暴露話?)

https://youtu.be/kbGn8Cv4Dvw?si=7xXA4eGmGfmyzK5n

 根拠となることをもって、ある立場から、自分の主張をするのはその人の自由ではあるのですが、それが無法地帯になっているのがWebの世界。この人たちは「何言ってもよし」という世界で活動しておられるのだな、と思いました。前提となっている知識と、その根拠としているものの認識(なのかそのものが、なのか)に誤認があることに気づいていない、という可能性を疑っていないのだろうな、と思いました。ここで繰り広げられている物語は、肝心なところがすっぽ抜けているので、自治体が作るしくみや、その根拠となる国の見解というものについて、知ろうとしない、説明を求め(たらしいが)るだけで、回答を理解しようとしなかったのだろうな、と思いました。それらをひっくるめて「これは演出だ」というのであれば、それを支持する人たち全体に対しても、あまりいい印象はありません。

 内容自体が路上演説みたいなものなので、そういうものと思って視聴しましたが、正直なところ私にとっては「遠ざけたい発信」でした。とはいえ、こういうものがはびこって、こういうところから知識を得た方々が矛先を向ける先が役所の窓口なのだな、と再確認させられたものでした。この制度は、いい加減まで平行線になっちゃうんだろうな。。

すべての発信が社会を築いていく

※2026年3月下旬にメモした内容です。

 日本には思想の自由があります。何を考えていても、そのこと自体は罪に問われることはありません。表現の自由もあります。公共の福祉による制限の他は、基本的には発信活動は自由とされています。これらを組み合わせると、基本的には「考えていることを発信することは自由」ということができます。

 インターネットによって、Webの世界が(ほぼ)万人に開かれているこの世界では、私(のこのBlogなど)を含め、いろんな人がいろんなことを発信しています。もちろん、その全てが誰かの目に触れるかというと、必ずしもそうではないのですが、だからといって好き勝手言っていいか?と問われると、そうではないと感じる反面で、先の表現の自由や思想の自由というものがある。公共の福祉に反するとはどういうことか、ということをきちんと調べてみたいと思ったが、ここではそれを考慮しつつ、ちょっと観点を変えて見る。

 要は、ある発信が誰かを傷つける、というのと似ていて違うのだけど、「すべての発信は、社会を作っていく」ということです。誰の目に触れるかわかりませんが、誰かの目に触れた途端に、究極的にはその人に何らかの影響が生じます。ということは、その時点で「ある発信」は世の中に影響しているということです。誰かのちょっとした一言も、発信者にはその気がなくても、それが公表されて誰かの何かに触れた瞬間に、社会に対する影響力が生じます。それが大きかろうが、小さかろうが。いや、最近ではAIの網にかかって誰かへの生成文書になって表示されて目に触れる、ということも段々浸透してきたから、より影響力が生じ(てしまう)るでしょう。これは、すごいことであると同時に、これまでよりも意識していないその人の内面が社会に影響が出る形で出て行くことを意味します。

 だから、良い発信を、と繰り返し言いたい。私もこれまで愚痴っぽくいろいろ書いてしまったことがあるけれども、前向きな、誰かを緩めたり、あぁよかった、と思えるようなことを世の中に見えるようにしたい、これまでよりももっと強くこういうことを思えるようになりました。悪い気持ちはまとまっても良くならないけど、よい気持ちはまとまったら結構いいことになるかもしれませんよね。私が好きな、いくつかの音声コンテンツや、ラジオ番組を聴いて最近また思ったことでした。

 自分にとって、要らない発信は遠ざけて、いい発信、知りたい発信に手が届くような、そんな使い方をしたいと思う、この頃でした。

2026年4月8日水曜日

超超超超超ラッキー

  とあるラジオのトークテーマで、こんなことを言っていた。今日は近距離で何度も車に乗る機会があったので、カーラジオのながら聴きではあるのだが、なんとなく「いいなぁ」と思った。そのことについて。

 そんなテーマのお便りで「カレー屋さんで、トッピングをつけたかったんだけど、シンプルなポークカレーにしたら、お店の方で間違えてトッピング乗せてしまった、とお代そのままでいいからと謝られた。欲しかったトッピングだったので、超超超超超ラッキー」みたいな話があった。

 なんだか「いいなぁ」と思えたんですよね。トッピング得したぜ!じゃなくて、なんか、この店員さんのごめんなさいと、それを受け止めてラッキーと思ったこの人の気分というか認知というか、とっても「人らしい!」と思いました。

 とかく、何か「普通じゃない」「思ってたのと違う」ことが起こると、それをネタにして笑いごとにするような風潮が最近気になります。ルールの中で「笑わせる」ことをきちんと意識した発言じゃなくて、何かを話題としてそれを貶めることも含めてその場で「笑う」だけの会話、みたいなもの。外出して聞こえてきたり、意外と身近なところでそんな会話が繰り広げられていたりと、その場で「笑う」のと、人を「笑わせる」のとでは、似ているようで全く違うと思うのです。

 で、このカレー屋の一件は、そんなことをも含みながらも、そこでないところで「ごめんなさい」「苦しゅうない」みたいな、理屈だったり、筋は通らないし、おそらくAIならこういうやりとりにはならんのだろうな、というようなやりとりのように感じて「人らしい」ことにピンときた、ということでした。多分、最近はそういうことに飢えているのだろうな、と思えた一件でした。

 …「なんで?」と思われるかもしれませんが、それも私がまだ「人」たるゆえんだということです。ラジオでもWebでも、やっぱり発信は「いいこと」にしないとね。

2026年3月20日金曜日

近況 260320

 年度末っぽい仕事量で、疲労感も蓄積している模様。日記はみみずがのたくった感じで、すでに何を書いたのかわからない筆跡になっています。そんな中で、ドラマなんか観ていた(前回投稿)わけですが、それは置いておいて今週気づいたこと。

1 足首と膝、股関節が連動する

 股関節が固くて、痛みが出やすくて。合気道のお稽古を一番の理由に、膝をやわらかく動かすことを意識して動かしています。そうすると、うまく膝が柔らかく動いた時は、一度に足首と股関節がスムーズに動いているな、と気づいた。

2 走り方

 最近、休日の朝は近所のスターバックスで勉強している。それが終わってからジョギングに出かけるのだけれども、そんな時系列のため、スタバ後に荷物一式をもって自宅玄関先まで置きにいくのだれども、その時の駆け足と、ジョギング時の駆け足が、全く異質な動作であると気づきました。肩への力みで固まってしまうのか、あるいは?という気づきです。

3 傘を貸す

 今日、愚息の学校の説明会に参加してきました。これまでも話題に事欠かない息子ですが、運動部に所属する人はスキマ時間の使い方が大切ですよ、と言われた傍から、バス停の待ち時間にせっせと次にほしい時計をスマホで物色するような息子です。それはさておき。登校するときにシャトルバスの停留場で待っていると、だんだん雨脚が強くなり、ちょっと強めの降り方に。あらあらと思いつつ、傘を開くのですが、隣の親子は困った様子でフードをかぶる娘さん、お母さんは雨を避ける道具もなく、ハンカチをかぶって困った様子。っていうのを見た時に「これでよければ」と傘を差しだしていました。まぁ、何も考えていなかったのですが、お礼を言われて、私は息子の傘へ。で、バスが着て乗る間際に返してもらい、改めてお礼を言われます。全く悪い気はしない。これは大事だ、結構いいことをした。願わくは、今度はこの親子さんが、他の人にいいことをしたらよい。ペイ・フォワードを思い出したできごとでした。


ドラマの楽しみ方

  カミさんに誘われたので、このクールは火曜日夜の「再開 ~Silent Truth~」を観ました。リアタイで観るのは制限がキツいので、大体早く帰った日に妻となんとなく一緒に観ていました。原作があるドラマということもあって、「犯人誰よ」「なんで?」「なるほど~」と思ったり、そういったり「やっぱり犯人コイツだよね」と思ったり、いろんな仕掛けや複線がある、いわゆる「王道」のドラマだなぁと、こういうものを久々に観て楽しんでいました。

 今週が最終回でした。ネット上では一部盛り上がっていたようです(が、私の目には全く触れていませんでした)。そんなことも知らず、昨日(3/19)仕事の後で観て、思わず見入ってしまい、動と静、様々なエピソードが語られることに、改めて「王道」であって、俳優たちの名演に思わずうなってしまうような、話の内容とは裏腹に、「あ~、いいもん観た!」と思えたドラマでした。動的な良さ(段田安則氏の表情や、江口のり子氏の感情表出など)もさることながら、個人的には静的な良さ(竹内涼真氏の心的表現や、それを受け止めきった北香那氏の演技など)が感じられたあたりが、折り重なって、「あ~、いいドラマ」と思えました。

 で、以上にしておけばよかった、と少し後悔。

 少し調べてみて、感情的には何か半減してしまいました。まぁ、現代のWebというのはそういうものだと整理して落ち着いてきましたが。何かというと、この静的な良さの部分ってあんまり話題にならないんですね、Web上では。確かに、ここの描写は観る人が観たら、あっさり描かれていて、次のシーンではもう結論が出ていたので、それをそうと読まなければ「なんで?」って思う人も多いのかもしれませんが。Webで盛り上がる人の中には、結構この描写が共有できないんだなと、少し残念な気持ちになってしまいました。

 これをもって、イマイチと評価するのも大人気ないので、だから少し落ち着いているのだけれども、Web上での存在感って少し尺度が画一的かもしれないな、少なくとも私には共有できない感覚が確かに存在するな、と感じた出来事でした。

 ドラマの楽しみ方なんか自由だから、どう思おうがそれぞれの勝手であって、私もその勝手の一員ではあるのですが、どうせ存在を残すのであれば、もう少し慎重でありたいな、と改めて思えたのが今回の収穫でした。解釈だから、間違っている可能性もあるわけで、共感できない可能性もあるわけで。一方で、小説(物語)だからそこから受ける印象や内容はそれぞれの解釈であるわけで、だから自分の解釈=100%正しいわけじゃないですよね。そういう解釈を痕跡として残すのならば、少し慎重でいるべきだと学んだ出来事でした。

ヒヤシンス2026 その3

咲いてきました。

そういえば、3人がそれぞれ持ち帰った時には、花が咲いていたな。

 毎年短い期間ですが、今年も春だなぁと思わせてくれるヒヤシンス達です。花が終わったら、茎を根本から落として、球根のお世話(といっても、時々肥料あげて、土を足したりするだけですが)で、季節を待つのみです。

2026年3月14日土曜日

長男の卒業式

 ラジオからは「震災から15年」という言葉が流れるこの頃。

 無事なのかどうかわからんけど(緩みっぱなしの生活習慣に、かなり前衛的な態度を取り続け、不機嫌極まりないカミさんの逆鱗に触れたのが、卒業式前日…詳細は教えない)長男が中学校を卒業することになる。仕事はヤバい状況だが、家族優先・儀式優先、ということで式典に参加。校長先生の祝辞も、PTA会長の言葉も、卒業生の言葉も全部よかった。「支え合いの中で生活している」ことを実感・確認・大切にしようということを、それぞれの立場から、見事な言葉選びで語るのを聞き、とんと自分の腑に落ちる感覚があった。聞いているか、息子よ。

 帰宅して、通知表を見て3学期の急落に驚く妻と私。…まぁ、そういうことだ。支えられていることはできれば今、無理でもいつか、気づいてほしいなぁ。

 で、お手紙です。長男っぽくて、長男らしく、長男だから、長男でお腹いっぱい、長男以外ありえないってくらいに、突っ込みどころが多く、前向きに感動なく夫婦二人して吹き出してしまいました。まぁ、拝啓と敬具を合わせちゃったり、敬具なく「(名前)。」という謎の結びとか、っていうか卒業にあたって両親に宛てる手紙で「拝敬」って何だよ!とか。ホント、こういうことだよな、と思ったのは確かだけれども、区切りでも長男らしさ全開な儀式でした。卒業おめでとうさん。

ヒヤシンス2026 その2

暖かくなったと思ったら、急に寒くなったり。

3月というのはそういう時期です。ウチの子ども達がそれぞれ年長さんの時に水耕栽培したヒヤシンスの球根たちの2026年です。

やはり暖かくなると、つぼみをつけて咲こうとしますね。卒園するかしないかくらいの時に持ち帰るんですよね。長女が「花が終わった後は、茎を切って土に埋めておくと、何度でも何度でも花が咲くって、先生が言ってた」といったので試してみた、という話は前回の通り。毎年同時に咲かないのが、ウチの3人のこどもたちの姿と重なって、これはこれで面白い。

正直、栄養剤っぽく使っている緑の液体も、この使い方でいいのか、もっといい使い方があるのかよくわからんけど、それでも毎年花をつけるのだから大したものです。球根っていうのは、結構面白いな。