2025年12月13日土曜日

音の扱い

最近は、と言うと、途端に歳をとった感じがするものの、それでも言いたい。音が多い。
まぁ、好みの違いによるところが大きいとは思うのだけれども、他人がいる場で自分の音を出したい人が、多いような気がする。喫茶店だけでなく、広く飲食店など。Wi-Fiが使えるお店が増えたこともあるだろうし、電車の中でも動画を観ている人も多い。観ること自体は、多分嗜好と世代の違いもあるから、文句は言わないことにしているけれども、イヤホン使ってよ、と思うことも少なくない。自分の嗜好の音を出すことには、そんなに抵抗感がないのだろうか、とも疑問に思う。
個人的には、自分の耳をジャックされた感があるので、不快感はある。たばこの副流煙と同じくらい不快に思うこともある。願わくは、公衆の場や食事中に「私に」聞こえるようにスピーカーから音を発しないでほしいのだが、科学的な身体的損傷がないことを理由に、禁止に振り切ることはないだろう。となると、意識的に「聞こえない」状態になることが、自衛の手段になるわけだけれども、これには訓練とコツが要る。うまくハマると、そういう場にいても平常心を保つことができるのだけれども、ちょっと調子が悪いと、この状態に入らず、やはりイライラしてしまう。私にとってはすでに健康被害だとは思うのだが、まぁ、これは自衛の範囲として、耳トレに取り組もうと思う。自分にとって楽しいことでも、周囲の人が不快に感じることは、やっぱりやっちゃいかんのだと思う。自らの行動の影響を意識しつつ、自衛がうまくなるように、平常心をよりバランスよく保てるようになりたいものだ。

2025年12月6日土曜日

スピード感の守備範囲

 「-感」という日本語の使い方は、「○○の感じ」という意味で使われる。
 職場という場所では「スピード感をもって…」という言葉がよく使われる。物事を成し遂げるのに必要な時間を短くする、という意味で使われ、「□□について、スピード感をもって取り組む…」のように使われる。政治家が好きな言葉なのかもしれない。
 今まで当たり前のように見聞きしていたが、おそらく自分では使ったことがない。どうしてかと振り返ってみると、個人的な特性として一般的な意味での「スピード感」を持ち合わせていないと自己評価していることもあるが、それよりもこの言葉に対してそもそものところで疑問をもっていたのかもしれないと気づいた。気づいたら、途端にこの言葉が嫌いになった。
 そもそもスピードって何だろう、仕事におけるスピードってなんだろう?思考にすれば考えて結論を出す時間の短縮、作業であれば完了までの時間の短縮、とにかくかかる時間を短く短くすることが「スピードがある」状態であり「スピード感をもって取り組む」というのは、「従来かかる時間よりも短い時間で完了させます」くらいの意味になるだろう。
 私は、この「スピード感」が嫌いである。なぜか。それは言った人で完結しない言葉だから。
 もはや疑うこともないが、誰かが「スピード感」といったときに、本当に一人で仕事をしている人はどれくらいいるのだろう?要はチームリーダーが「スピード感」といった時に、それはすなわち他人にも自分のスピードを押し付けるという側面が拭い去れない。そんなことが視野に入るのに、人前で「スピード感を持って取り組みます」なんて事前調整なしにはいえないはずなのに、無責任にスピード感を表明して、スピードがある=すばらしいと価値観を決定づけてしまう人が、世の中にはたくさんいるということだ。

 ということで、「スピード感」は嫌い、「スピード感至上主義」のような認識は、ここにおいていこうと思う。早ければいいってもんじゃない。

2025年12月1日月曜日

最近の出来事 12月編

 ずっと仕事が落ち着かず、帰りも遅いため、しわ寄せが週末にきて、更新もできず。

 そんな日々が続きましたが、とはいえ、いろんなことがあり、いろんなことを考えたので、メモとして。ちなみに、今日は年末(多分)最後のお休みをいただきました。

○LINEの広告が不愉快

 のっけから、あまり悪い話題は嫌なのだけれども、LINEの画面で上の方に出てくる広告がどうにも不愉快でなるべく見ないようにしているのだけれども、時々古い友人の誕生日が出てくるので完全に無視できず、ちょっと困っている。とはいえ、基本的には無視する方向で鍛錬中。

○合気道の演武会

 結局、ここ2か月をふりかえると、割と全力で演武会に向けて身体を動かしてきたのだなと思う。課題となる基本技を通して、ドリルのように何度も何度も同じ技に取り組むことで、理合いが身にしみてくるというか、感覚レベルで細かなことに気づけるように(少しは)なってきたというか。今までずっと未知の領域だったところに、これまで常識だと思っていたことが覆るような気づきが眠っていたり、癖のように身についていた動作も微妙な違いがあったり、とにかく始めた頃のように新しいことが次々と見えたり隠れたり、やってみて納得したり余計にもやもやしたりと、いつまで経っても新鮮な気持ちで取り組めるということに、また気づいてしまった。これからも、いろんなことに挑戦はするのだろうけれども、多分錬身会の合気道は一生接し続けるのだろうな、と思いました。結果として、競技演武は2回戦敗退で、決勝進出を逃して残念ではあったのだけれども、それでも周りが「納得いかん」と言ってくれたのは、それなりにいい演武ができたということなのだと思う。順当にいけば来年は違う(黒帯の)カテゴリーになってしまうけれども、これはこれでまた挑戦したい。いやぁ、面白い。

○母親

 実母が、夏休みに急に開腹手術を行うことになり、入院、そのまま入所(今はいわゆるロングショート)するに至っている。認知症の症状は暫時進んでいるようで、今は見当識がかなり厳しいところにある。身体的な欠損がないのと、古い記憶(家族の名前とか)は、ある程度保たれている(時々まだら感があるものの、会えばそのうち名前を思い出す)のが、せめてもの救いか。客観的な分析の上での学びは、認知症+ストマ(大腸)は相性が悪いということ。自己管理、家族管理をぶっちぎって、本人の記憶がまだらで、不快感があると夜間に自己離脱してしまうと、周囲は悲惨だということが観察できている。離れて暮らす私は、これも客観的には影響を受けていないが、その立場に置かれていることへの負い目というかなんという感情なのか、どこかほっとしている自分もいて、そんなことに嫌悪感もあったり、何か複雑である。

○仕事

 今年は受験を見送り、来年改めて検討しようと思う。なんというか、今年の主担当の仕事は、間違いなく自分のキャリアに有益なのだけれども、上位官庁の意向や、業界の政治的なやりとりだったり、主旨が伝わらないもどかしさなど、マイナス要素が多くちょっと戸惑っている。一方で、「本当にくだらないこと」にも複数巻き込まれており、モチベーション低下も甚だしい、が、さっきの主担当の業務に救われているような気もする。

といったことを感じつつ生活しています。