2025年5月11日日曜日

木澤千『雪の朝の約束』文芸社、2021年、Kindle版。

 これは、おそらくノンフィクションだろう。事実は小説より奇なり。木澤氏の生活には、家族との深い愛情と、それをきちんと守ってきた跡が感じられる。
 早逝された父親の最後となった一言「頼んだぞ、約束だ」という一言、そして母親からの「二人を頼むね」と、おそらくこの時には何気ない一言だったのだろうが、著者の記憶にずっと留まり続け、60年以上を経て母親が亡くなられた時に、その言葉の意味することを全うしたと実感をもったことが、小説を貫くモチーフとなっている。
 生まれ育った町の歴史、知人との付き合いと関わり、家族の関係、自分の生活、そして母親を介護する生活。いろんなことに押しつぶされそうになりながらも、そのたびに予期せぬ、決して大きくはないけれども、いろんな人の助けがあり、それでもうまくいかなくなりそうになったり、それにも助けが現れたり。決して楽でない、決して明るくない内容ではあるけれども、この話に含まれる感情は、人の生活そのものが表されていて、生々しい実感とともに伝わってくる思いが、行間の端々から読み取れました。静かに迫力がある読み物でした。

営みの総和は、言語表現の総和に非ず。

 そういえば、以前から「人の生活は煙のようなもの。制度は箱みたいなもの。」という表現でもって、対人支援の文脈における支援制度はそれをいくら足し算していったとしても、クライアントの生活の総和を満たすことはない、と言ってきた自分に気づいた。このことが、「言語表現によって、その伝えたい思いや思考をすべて表現できるわけではない」ということと接点があるような気がした。
 ここのところ、仕事でも書いて書いて読んで、読んで読んで書いて、ということを繰り返しているところがあり、その中でも「多分本質はここじゃないんだろうなぁ」と思いながら、ある言葉に言及して主張せねばならない場面もあり、なんというか、本当に本来の力の使い方じゃないよなぁという実感が生じて仕方がない。そもそも、私はそんなにできる人ではないので、ついていくのが精いっぱい、というか、着いていけているのかもわからないことが、そういうもやっとしたことであるから、なんとも言えない気持ちが湧きやすい。かたや、本質的な仕事が目の前に巨大な壁となって立ちはだかっているから、余計に焦りが生じてしまっている。あまり身体にはよろしくない。
 言葉によって表現しうることは、人の営みや思考・思いのほんの一部でしかなくて、それがゆえに何らかの感情によってそれらが刺激されている場合、言葉は形を変えてとめどなくあふれてくるものである。そのあふれているものに反応せざるを得ないという環境は、次から次へとあふれてくる湧き水を、器にとってどこかに移さないといけないような、そんな作業を彷彿とさせる。その移した先に(適切な)目標があるならば、それまではがんばろう、という考え方ができるかもしれないが、そうでないと途方もない作業を終わりなく続けなければならないということであり、これは考え物だ。本当はそれを生み出している感情や生活状況、思いや思考、こういったところをあらゆる方法で整理していかなきゃいけないのに。
 現業の時には、そういうことも知恵と行動とで、ある程度触れられる機会を作って、なんとかかんとかしようとしたり、そこに触れた上でクライアントの感情に働きかけて、本心はあきらめて次善の策に落ち着いてもらうような働きかけができたのに、今の事務職、法制度の範囲でやりとりしなければならないこの窮屈さは、今の仕事を続ける限り付きまとうものなのだろうと思う。それでいいところと、そうでないところがある、という(私にとって)当たり前に思えることを、当たり前と思ってもらえない人に、お互いが表出する言葉でのやりとりによってのみ主張し合う、というのは、何か世の中がよくなる方向に向かう一助となるのだろうか。

木下勝寿『チームX -ストーリーで学ぶ1年で実績を13倍にしたチームのつくり方』ダイヤモンド社、2023年、Audobook版。

 ストーリーという言葉で挑戦してみた一冊。ビジネス小説みたいなものをイメージしていたが、「事実は小説より奇なり」と言わんばかり、実話ストーリーでした。おそらく、著者がこの渦中にいる頃は、次から次へとやってくる課題難題に誠実に大胆に向き合って、悩んで切り抜けてきたからこそ生まれたストーリーであることを感じ取った。
 著者は北の達人コーポレーション代表取締役。自らが実績のあるプレイヤーであった経歴があったこと、組織を率いることの苦労と悩みなどを常に抱えつつ、会社を軌道に乗せてライジングしていった様子を、組織内のかなり突っ込んだ視点で紹介している。思いが共通言語にならないことのジレンマから、共通言語ができあがっていく過程、更に組織内にその「言葉」を通じて「思い」が浸透していく実感が示される。(評価するつもりはこれっぽっちもないが)生々しい言葉で綴るストーリーには、体系化しきれないほどの「思い」があふれており、経験を伝わる形に押し込めた感がある。木下氏には、語り切れないほどの思いと思考と経験が、まだまだたくさんあるのだろうと察する。他の著作にも期待である。
 月並みな感想かもしれないけれども、前例踏襲はあくまで踏み台であって、事業を創る、育てていくという局面においては、他と同じことをしていればいいかといえば、そうではなくて、あくまで目的を見据え、目的を適切にブレイクダウンした目標を一つずつクリアする。目標設定においては、その達成の先に必ず目的に近づくことができるものを掲げること。選択においては、データの収集は必要だが、予測を伴い選択にはデータのみから導かれる結論には要注意。一生懸命取り組むがゆえに視野が狭まっていることに気づきにくくなる状態には注意しつつ、いろんな見え方を大切にすること。議論を尽くして出てきた選択肢はABテスト(ランダム化比較実験)等を含めて検証することなど、基礎・基本の徹底が、結局はよりよい事業を生み出したり、事業がライジングしていく土台となることを、学ぶことができたように感じる。
 項目だけ拾っても、書籍を読まないとわかりそうで、わからないものであるが、要所の引用のみ。
○一瞬にして破滅へ導く「企業組織病」
1 職務定義の刷り込み誤認
2 お手本依存症
3 職務の矮小化現象
4 数字万能病
5 フォーマット過信病
○どん底からV字回復へ導く5つの「Xポイント」
1 KPI
2 教育の仕組み
3 共通言語化
4 タスク管理
5 風土

2025年5月3日土曜日

大地の恵みと植物間のコミュニケーション

 狭いながらも庭のある我が家にとって、この時期は複雑な気持ちになる。いわゆる「雑草」だ。むしってもむしっても、そんな私をあざ笑うかのように、毎日毎日株数を増やしている。昨日むしったエリアに、翌日新芽が生えているのを見ると、感心するとともに、途方にくれてしまう。雨上がりなど「人は無力だ」という言葉が頭に浮かんでくるほど、うぇーいという声が聞こえてくるような草たちから挨拶されているようで、ちょっと面白くなってくる。
 今年は、毎日朝散歩に出た後で、家に入る前5分くらいで部分部分の草むしりを行っている。おかげでぱっと見はそこそこ手の入った庭に見えるが、結構な作業量になっている。
 そんな最近の気づき。一部の自治体では駆除が周知されている「ナガミヒナゲシ」が、多分に漏れず近所にも生えている。明るいオレンジの丸っこい花を、ちょっと背を伸ばしてつけるもので、みなさんもどこかで見たことがあるかもしれない。我が家の庭にも2年ほど前に入り込んで駆除して今は平和であるけれども、自宅前の歩道にもちょくちょく生えてくるので、そちらも併せて見つけると抜いている。
 以前紹介した稲垣栄洋氏の本の中で、同じ植物でもそのエリアの状態によって花のつけ方が変わるという話があったことを思い出す。
 ナガミヒナゲシは茎をぐんと伸ばして、周囲の草花よりも高いところに花をつけるように見受けるのだけれども、群生し始めているそれらを抜くと、その次に生えてくる個体は、ずいぶん低く花をつけることが多い。これはむしった後の土壌の状態が反映されているように思えるのだけれども、不思議なもので、ほかの草花があってピンポイントで抜いた周囲に生えてくる次の個体も割と低く花をつけることが多いような気がするのですね。まぁ、これも土壌の状態が…ということで説明がつくのかもしれないけれども、これが意外と広い範囲で起こっている現象だということが、抜いては生えてくる繰り返しを通して感じられることなんですね。
 そこで先日「ヴォイニッチの科学書」を聞いていたら、知的生命体はなぜ人間だけなのか、という話題の中で「人間以外にもコミュニケーションをとっている生物はたくさんある。植物だって何かあるかも」みたいな話をしているのを聞いて、あぁ、こういうこともあるのかもな、と思った次第。ひょっとしたら、ナガミヒナゲシコミュニティの中で「あそこは今年、ヤバいおっさんがやたら抜いてくるぜ」という噂が広まっているかもしれません。
 そんな植物のすごさ、不思議に触れるこのごろです。

山本弘『詩羽のいる街』角川書店、2012年、Kindle版。

 まずは合掌。ご冥福をお祈り申し上げます。

 山本弘氏の小説は、読み始めまで時間がかかるのですが、読み始めると一気に読んでしまう。Iyokiyehaに響くフレーズが随所にあって、人と人とが「よく」関わりあう理想的な社会の一片を垣間見る感覚がじんわりと体に浸み込んでくるような、そんな気分になる。感動とか興奮ではなく、おだやかな気持ちがざわざわと湧き上がってくるような感じ。
 賀来野市で「お仕事」する詩羽という女性。その仕事はお金が仲立ちしない。人と人とがかかわりあうことによって、街を、社会を、世界をよくする、そんな仕事。人と人とをつなげ、あらゆる人が自分の「よさ」によって、街に、社会に、世界に貢献する。どんなに小さなとりくみだとしても、それらが確実に周りを「よく」していることを実感させる、その「触媒となっている」詩羽の仕事と、それに巻き込まれていく人たちの物語。
 こういう小説、大好きなんだよね。山本氏の小説に透けて見える現代社会への課題意識って、Iyokiyehaが感じたり考えたり、仕事や人間関係に組み込もうとしている「何か」に通じるものがあるような気がして、随所で「そうだ!そうだ!」と思いながら、ついつい引き込まれてしまう。眠くても、なぜか読めてしまう。寝る前に読むと、ついつい時間を忘れてしまう。そんな小説だった。
 いわゆるライトノベルに分類されるのだろうが、読み物としても(私にとっては)大変面白いし、世の中の見え方なんかは、上記のように考えさせられることが多い。この「詩羽」がとってもいいと思えたのは、シンプルな処方箋についての語りがあったこと。「(略)彼らは、正しい論理が理解できなかったんです。潰し合うんじゃなく協力し合う方が有利だってことを」(No.5,380)だから、協力し合うことを仕掛けている、ということが、それぞれの短編を貫いている本書のテーマだろう。一見、争ったり、競争したり、対立したりしているように見えて、結局は仲間と、他人と協力する、関わり合うことによって、妥協点や相互利益の地点を考えて調整していくことを詩羽は常に促し、仕掛けている。痛快でした。
 著者が他界されてしまったので、新しい作品を読むことができなくなってしまいましたが、これまでの著書を時々、ちょっと困った時に読んでみようと思います。私にとっては、『アイの物語』などと併せて、困った時のお悩み相談みたいな本たちです。

2025年4月20日日曜日

河谷禎昌著『最後の頭取 -北海道拓殖銀行破綻20年後の真実』ダイヤモンド社、2019年。

 人生の意味は、本人がどう感じてどう社会に位置づくのかを、いかに語るかによって、そこまでやって初めて、他人の評価の対象となる。
 当時、中学生~高校生だった自分は、北海道拓殖銀行の破綻について「テレビでやっていたな」というくらいしか覚えておらず、正直なところ自分には関係のない出来事として記憶していることだ。率直に踏み込んで加えるならば、それは今でも変わらない。自分の生活には全くと言っていいほど影響がない出来事だ。だからこを、素直に本著を手にとって読み進めることができた。
 もちろん、この出来事についても、事実と思惑が交錯しているのだろう。著者が本著で詳しく説明した上で、責任の所在に関する指摘もあった。ただ、いったんそれらを退けて読み進めた時には、本著はあるバンカーの奮戦記という側面が浮き彫りになる。事に関して10年以上、著者が職業人生を振り返りつつ、結果特別背任罪で実刑判決を受けて刑務所へ収監されたことを、20年沈黙した後に語る本著の内容は、そのすべてを理解して受け止められるようなものではないとはいえ、河谷氏の人生の重みというか、人生の先輩が語る職業人としての生き様のようなエネルギーが端々から発せられていることを感じた。
 そして、何よりもIyokiyehaをうならせたのが、結論として語る職業人として大切にしてきたという、ものすごいシンプルなこと(後述・引用)と、本論の中でもたびたび登場して河谷氏の精神的な支えであったという節子氏の存在と感謝だったということだ。きっと河谷氏の心中はいろんなことが渦巻いていた時期もあったのだろうが、それでも語りの結びとして「後輩を大切にすること」「家族への感謝」を挙げているのは、人生の先輩として最敬礼に値する姿勢だと思う。

■引用
107 (企業が大変な状況の時に、何とかして助けたいと思うか、どうしようもないと思うかがあるという前置きがあり)
 その違いを見分けるのに役立つのは、経営者の人柄や質にほかなりません。銀行マンにとって大切なのは「人を見る眼」だということをこの経験から学びました。
252 (節子氏の思い出から、ことあるごとに言われたという二つの言葉)
 「自分の信念に背き、上にへつらってまで出世する必要はないからね、子どももいないのだし、2人ならなんとでもやっていけるんだから」
 「外でどんなに偉くなっても威張るなよ。家に帰ってきたら、ただの人なんだからね。心得違いをするんでないよ。上にはへつらわないで、下の人を大事にするんだよ」
261 「動きすぎた」という後悔
 私の銀行員生活を振り返ると、本当に私のやってきたことが正しかったのか、あれでよかったのかと、自問自答することがあります。
 拓銀を何とか救おうと悪戦苦闘し、少し動きすぎたのではないか。(略・具体的な取り組み)このことが、かえって「そこまで拓銀の経営は苦しいのか」と世間に知らしめることになってしまったのではないか。結果的に拓銀の死期を早めてしまったのではないか。(略)
 「正解」はどこにもありません。(後略)
(こんな考え方があるのかと、素直に驚きました。とはいえ、信念に基づき、プライドを持って問題と向き合い続けた著者だからこそ至った思考なのだと思います)
268 私は銀行員生活のモットーとして「悪いことはしない」「意地悪はしない」という二つだけは、頑なに守ってきたつもりです。亡き妻の教えもあり、後輩の面倒も、できる限りみてきたつもりです。
(上記の通り、私には及びもつかないほど仕事をしてきた人が「動きすぎたのか?」と迷うほどの境地に至っている反面、具体的には本当に人として基本的なことを大切にしているのだと、Iyokiyehaの学びポイントでした)
274 (おわりに・日浦統氏より)時代の「転換期」という荒波に、私たちが巻き込まれてしまう可能性はますます強まっています。だからこそ、河谷さんの体験から浮き彫りになる教訓を学んでおきたいと思います。世論は時代によって大きく変わり、政治も行政もその影響を大きく受けること。昨日までの常識が一夜にして変わる時があること。社会や国家というバケモノは否応なく、個人に襲いかかることがあること。

2025年4月19日土曜日

最近思うこと びっくり朝活

 週末のトレーニングは、もう10年弱になる。最近は身体のこと(要は加齢ってやつです)も考えて、5km以上のジョグは週1~2回、ぶら下がりは中1日以上、木剣は毎日だけど重いものは週末だけ、という身体を気遣ったゆるいルールを適当に定めて汗をかくようにしている。これはこれでいいのですが、(自分にとって)結構なトレーニングを朝イチでやると、昼下がりはどうしても眠くなってしまうので、逆の発想で朝トレ前に、近所のコンビニでインプットの時間を作るようにした。これがなかなか都合がいい。
 喫茶店かコンビニか。継続のためには、コストを下げる必要があるので、だいたいコンビニのイートインでコーヒーを飲みながら30分程度、という取り組みなのだけれども、ここ数回同じ顔ぶれがあって、奥の2席であれやこれやと話をしながら新聞を読んでいる。「○○がきていますね」「▲▲もいいんじゃないですか?」「こないだ▲▲を見てきたけど、■■と同じだな」なんて会話。腹の中では「もう少し、声を小さくしてくれんかね」と思うのだけれども、こっちが少しがまんすればみんな円滑なので、こちらはこちらで集中する。
 で、それが数回あって今日判明したんだけど、「よし、今日は4番で流す」「第3レースが勝負ですね」「○○は芝がいいんですよね」と聞こえてきて「馬かーい?」と。さらに、「もう教案書いた?教頭から言われていて」とも聞こえてきて「教員?」と。別に先生だからどうってことはないんだけど、これまで複数回話が聞こえてきたのに、真相がつかめていなかったことに、びっくりと驚きがありました。

志駕晃『スマホを落としただけなのに 戦慄するメガロポリス』宝島社、Audiobook版。

 『スマホを落としただけなのに』『スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼』の続編。シリーズ第3作。内容はさらに大きく、東京五輪や朝鮮半島との関係など、国際的なスケースに物語は展開していく。さすがにここまでくると、小説としては面白いのだけれども、1作目に感じた「気持ち悪い・怖い」という新鮮な感覚は薄れてくる。エンターテインメントとしては面白い。
 が、しかし、Audiobook版に残念点。AI音声合成サービス「カタリテ」を使用しているとのことですが、これがホラー小説には合わないと感じた。もちろん、内容は伝わってくるし、AI音声合成もいい線いってるな、とは思うのですが、1作目、2作目のあの気持ち悪さ、や想像力を掻き立てて恐怖をあおってくるような描写が、すっきり片付けられてしまった。その意味でちょっと残念な点はあるけども、小説の内容としては面白いです。続きが気になる。

志駕晃『スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼』宝島社文庫、Audiobook版。

 先日感想をアップした『スマホを落としただけなのに』の続編。第一作がウライの人となりの描写をこれでもかこれでもかと畳みかけるようで、気持ち悪いやら怖いやら、帰宅時の夜道にはあまりそぐわない内容だったのですが、この第一作に負けず劣らずの怖さがありました。テーマが個々人から対組織へとシフトしているので、スケールの大きさが、ウライ本人の気持ち悪さを覆い隠しているようにも感じましたが、彼らを取り巻くほかの悪いヤツもまた怖い、気持ち悪い描写で、小説としては面白いのだけれども、現実との接点を感じると非常に怖い。スマホという電子機器をめぐる知略が飛び交うモチーフの中に、なんとも言えない人物描写がタイミングと鋭い内容で飛び込んでくる。続編にふさわしい内容でした。
(2025年3月25日アップ 志駕晃『スマホを落としただけなのに』)
https://iyokiyeha.blogspot.com/2025/03/audiobook_28.html

2025年4月5日土曜日

SNSって何だろうなって思う

 いろいろなアプリを使ってみて、結局IyokiyehaはLINEとFacebookしかアカウントを残していないのだけれども、動画広告なんかで流れてくるSNSってたくさんあるんだな、と思う。アンケートに答えていて「普段使っているアプリを教えてください」なんて質問に、選択肢として並んでいるSNS?っぽい名称の中には、以前アカウントを持っていたものから、広告で見たことがあるものや、名前も知らないものも含まれる。いろんな目的を共有する人たちが集まるコミュニティが、Webツールレベルでもたくさんあるのだな、と思う。
 仕事の中でも、広報ツールとしてSNSを、という話もある。確かにスマートフォンが浸透している世代への広報には、一定の効果があるように思えるのだけれども、一方で自分のようにWebツールに疎い人たちに、そういう情報が届かないのも一側面だと思う。
 デジタルネイティブじゃない私にとっては、SNS他、Webツールが増えれば増えるほど、情報量が増えることは認めるけれども、そういう情報が自分の生活を豊かにするのか?と問うたら、それはY/Nで答えられない質問なのだと思う。個人的にはNなので、余計に疑問を感じるのかもしれない。
 なんか、最近起こるいろんな人間関係を見ていて、みんなリアル社会とネット上の社会の行き来と、それらの空間に行われる人と人との関わりに疲れ切っているではないか?と感じてしまう。

2025年3月22日土曜日

Audiobookを中心に、最近聞いたり読んだりしたもの

○池田晶子『14歳の君へ -どう考えどう生きるか』毎日新聞出版、2006年。

○セルバンテス著、牛島信明訳『ドン・キホーテ(前編1)』岩波書店、Audiobook版。

○アレクサンドル・デュマ著、山内義雄訳『モンテ・クリスト伯〈1〉~〈2〉』岩波書店、Audiobook版。

○佐々木常夫『40歳を過ぎたら、働き方を変えなさい』文藝社、Audiobook版。

 自分でやろうとしない。チームを含め、人の力を借りて組み合わせられることが、成果を出す一つの在り方。

○ジェリー・ミンチントン著、弓場隆訳『うまくいっている人の考え方 完全版』ディスカヴァー・トゥエンティワン、Audiobook版。

 自分の気持ちに正直になること。周囲の意見をきちんと確認すること。余計なことまでは確定しないこと、ほとんどのことは、自らの思い込みが作り上げてしまう幻想。

○宮島未奈『婚活マエストロ』文藝春秋、Audiobook版。

○精神科医Tomy『精神科医Tomyの気にしない力 -たいていの心配は的外れよ』大和書房、Audiobook版

志駕晃『スマホを落としただけなのに』宝島社文庫、Audiobook版。

  映画化もされていたと記憶していますが、現代版ホラー小説として、すごい。身近なツールがこんな風に乗っ取られ(る可能性があっ)て強請られるんだな、と、そこは素直に怖かった。シリアルキラーの行動も不気味で怖いし、終盤のどんでん返し(というか「えーっ」と思わせられる種明かし、が更に気持ち悪さを重ねてくれます。聴いていて楽しいものではないのだけれども、とにかく興味をそそられる内容で、一気に聴き通してしまいました。こわいこわい。

辻村深月『かがみの孤城』ポプラ社、2017年、Kindle版。

  中学性が抱える悩みや、論理的には矛盾しているように見える感情の描写が、これでもかと明確に伝わってくる小説。

 中学生になってから、クラスメートから受けた過剰な働きかけがきっかけで不登校になってしまったこころ。突然輝きだした自宅の鏡に手を伸ばすと・・・そこには現実離れした城、そしてオオガミさま、様々な事情で学校に行きたくても行けない中学生達が集められて、物語は展開していきます。

 人との関わりを大切にしつつ、周りに流されず、自分を大切にする選択について考えさせられるとともに、仲間達の背景が明らかになってくると、思わぬ事実が見えてきて、みんなが戻る現実世界での生き方に、少しずつ変化が生じてくる。

 辻村さんの文章って、すごくわかりやすいだけじゃなくて、見えないものをそっと見える形にするというか、「なんでそんなことも表現できるの?」ということを、すっとわかりやすい言葉を沿えて置いてくる感じがあります。じゃあ、その内容が複雑怪奇なのか?というと、そうじゃなくて、身近な人がそう思っているかもしれない、そう考えているかも知れないような、表現をするとなると陳腐になるかわかりにくくなりそうなことを、非常にクリアに明確にしてくれる。で、物語だって、終盤にかけて、宝箱が次々と開いていくかのように、序盤から随所に置かれてきた伏線が、全て回収されていくような、読書スピードが前半と後半とで全然変わってくる感覚がありました。小説として、私好みだし、いろんな人に勧めたい、こどもたちにも勧めたい1冊でした。

岸見一郎『アドラー 人生を生き抜く心理学』NHK出版、Audiobook版

  アドラー心理学って「嫌われる勇気」が、もう10年くらい前に流行った時に知って、ベストセラーを読んだ程度で、身につけるまで読み込んでいない状態が続いているのだけれども、「原因ではなく、目的に着目する」姿勢は、援助業務の中でも使うことがある。原因思考でどうしようもないとき、一般的な原因思考から進めようとするときのツッコミに、視野を広げたり、突破口を探すのに、多分以前読んだ考え方って生きているのだと思う。

 本書は、アドラーの著書(訳書)の主な主張となる部分を抜粋して、その意味や実際の活かし方、みたいなことを解説している。アドラー研究で有名な岸見氏が、その膨大な知識を整理して語ってくれているので、ブームに成ったときに聞きかじったような、私程度の興味でも充分参考になる内容だと思うが、初習者だとこの内容には面食らうかもしれないな、と思って聴いていました。


神山理子(リコピン)『女子大生、オナホを売る。』実業之日本社、Audiobook版。

  書名と表紙イラストがキャッチーなこともあって、一時期話題になっていましたが、内容はマーケティングの実践書。Iyokiyehaは商売はしないのだけれども、市場調査をするときには「できる範囲で、聴き取りをおこなうこと」と、顕在しているニーズだけでなく、潜在ニーズを読み取る努力を怠らないよう、進めていくことが肝要だということ。値段の付け方一つをとっても、そこには考えがあり、手探りでやるわけではない。もちろん、そこで視野を外していたら、進退含めてふりかえっているし、確実なことと、はっきりしなくても仮説を必ず立てて、都度検証している。何かプロジェクトを進める時には、少なからず、こうした確認と検証をセットで行うことについて、イメージができていく。そういうことが響く人とはきちんとつながり、何かあれば相談する必要があるのだろう。


森功『地面師 -他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』講談社、Audiobook版。

 Netflixで話題になっていたドラマ『地面師たち』。第一話を見て、ハリソン(豊川悦司)の演技がすごすぎて、それに加えて、人が死ぬ描写がすごすぎて、万が一にも子どもには見せたくない、と判断し、そのままになってしまっているもの。多分、私はこのまま観ないんじゃないかな。

 原作というかモチーフとなっている本のようだけれども、その内容はルポルタージュのような、「地面師」と呼ばれる、戦後からその存在が見え隠れしている詐欺集団(チーム)の活動を調べ上げているもの。正直なところ、土地の売買に明るくない私にとっては、その内容の巧妙さは読み解けないのだけれども、とはいえ、いわゆる詐欺の内実を知るにつれ、その手腕というか人たらしの技能というか、そういうことについて見習いたくはないけれども、どのようにして学習したのか、身につけたのか、ということは気になる。相手を意のままに動かすには、やはり準備9割、現場1割なのだが、その1割の部分だって、自分のように法制度を根拠に戦えるわけではないなかで、どのように「成功」を収めているのか、そのてんについては本書では読み解けていないのか、取り上げられていないのか、測りかねるところはある。

 とはいえ、読んで(聴いて)いて、そんなに気分のいい内容ではない。しかしながら、日本における裏社会の一旦をのぞくことのできる一冊だと思う。


佐藤純『「雨ダルさん」の本 ー「雨の日、なんだか調子悪い」がスーッと消える』わかさ出版、2021年。

  Iyokiyehaはいわゆる偏頭痛持ちで、かれこれ30年以上の付き合いだったりする古参です。薬もいろいろ試しながら、働き始めてからはおそらく偏頭痛やその周辺の体調不良と付き合ってきた人です。そんな自分が、数年前から「天気痛」という言葉が聞こえるようになり、天気痛≒偏頭痛であるらしいことまで突き止めたところで、長女も似たような症状があるとかないとか。妻から参考に買って欲しいと頼まれ、私も読みたいと思っていたのだけれども、娘の書棚に埋もれてしばらく読めなかった一冊。

 とても具体的な対策と、説明が一般向け平易にまとめられており、今からできる対策が抱負に盛り込まれています。くるくる耳マッサージは、習慣化することを勧められてはいますが、ゆっくりじっくりやってみると、即効性も感じられ、何より心地いい。タオル体操もやっぱり気持ちがいい。ツボはぐりぐりじゃなくて、時々じんわりと刺激することによって効果的になる。いずれも耳付近を暖めて、血行を良くするためのものだというシンプルな理屈で考案されているので、いつでもどこでもできそうなものが紹介されているのがいい。

 早速、今日から試してみよう。


ちきりん『自分のアタマで考えよう!』ダイヤモンド社、Audiobook版。

  とっても基本的なこと。ある事象に対して安易に反応しないこと。背景を知ること、比べること、自分の頭で考えること、反対意見を知ること。あたりまえのことなんだけど、「これがいい」と思うと、ついつい視野が狭くなってしまうことを改めて自覚した。昨今は、そうした言説が、フィルターを通らずにWebにアップされてしまうから、そうしたものをいくつか読んで「分かった気になってしまう」のが、考えることをやめてしまう一助になっているようにも思う。

 もちろん、様々なことを横断的に考える、比べるためには確かな教養が必要となるため、そうした学習は常に必要なのだと思うが、何をどこまでやったら充分ということはない。今あるものに、とりあえず必要なものを取り入れて、とにかく常に考える、何らかの結論を出す、その結論を検証する、ということを不断に行うことが考え続けることなのだと、シンプルに確認できた本でした。


小川糸『ライオンのおやつ』ポプラ社、Audiobook版。→Kindle版へ。ポプラ社、2019年。

  これは、ノーマークで聴いた小説でしたが、よかった。本当によかった。

 病に冒され、ホスピスで生活することになる雫さん。なんというか、否認から肯定へ、死にゆく人の感情なんて、どうして小説にできるのか、そういう疑問すら浮かんでくるような、本来すさまじい感情の渦を、新しい出会いや食物や生活、サービスの価値や本質に触れることで気づいていくような仮定を、静かに、落ち着いて、淡々と、熱く激しい感情を包み込んで許していくような小説でした。もう一度読みたい。 

 読んでみた。聴くのとは違う感覚だけれども、文書ににじみ出る人の感情の繊細でいて微妙なことも、文字と行間で発しているようにも思える。人が、何かに気づき、その人が代わっていく、言葉にすると陳腐な表現になるけれども、実際に自分が変わっていく様子を記述するなら、理想的にはこういう書き方になるのだろうな、と思える表現がちりばめられている。その言葉遣いに、素直に脱帽した一冊でした。


堤未果『ルポ 貧困大国アメリカ』岩波書店、Audiobook版。

  アメリカにおける貧困は、日本のそれとは規模と質が異なる。福祉の世界に身を置いていると「だから日本はダメ」とか「アメリカだと○○らしい」という嘘か真か分からないような情報が飛び交うこともあるのだが、和をもって尊しとする日本と、ゴリゴリ資本主義国家のアメリカとは、政策の内容に差がある。アメリカでは採用において障害を差別としない、とは言われることだけれども、その代わりと言っては何だが、男女の差別や、人種差別、国民であるかそうでないかによって、線を引いて明らかに身内とは異なる対応をするのもアメリカだと言われている。

 本書を読んでいて気になったのは、私の視点では「ありえないでしょ?」と思えるようなことを、施策として展開していること。貧困層への食料支援に、炭水化物中心のものを配布するとか、戦争をモチーフにしたテレビゲームに自国を称揚するような内容を組み込み、その上で、軍隊に入隊することを、教育機関と接続して宣伝する、など。この点、日本とは全く雰囲気が異なるのだと思うが、「お金を稼ぐために、軍隊に入隊する」という雰囲気がすでに広がっている。そこに、本来の意味での愛国心や、国民を守るんだといった、公益性の高い仕事に就くことへのプライドや、本質を考える、ということが、一部で後退した結果が、アメリカ社会の影の部分として、確かに存在しているように思える。


ヘンリー・キムジーハウス、キャレン・キムジーハウス、フィル・サンダール、ローラ・ウィットワース著、CTIジャパン訳『コーチング・バイブル:人の潜在力を引き出す協働的コミュニケーション』東洋経済新報社、Audiobook版。

 コーチとクライアントの双方が、積極的に協力し合いながら関係を築き、クライアントに本質的な変化を呼び起こす「コーアクティブ・コーチング」の手法を、対話例も交えて解説するもの(詳細より)。

 コーチングの技術を、心構えから傾聴の段階、フィードバックの技術まで、その具体的な方法と背景を説明した一冊だと思った。具体と思想とを行き来する内容で、大変参考になる本だと思った。購入候補に加える。


 

辻村深月『あなたの言葉を』毎日新聞出版社、2024年、Kindle版。

  辻村氏は毎日小学生新聞の週別連載を担当されています。本書はその連載をまとめたもの。こどもへの贈り物にどうかなと思い、手に取る。結果、辻村氏の小説の一つでも読んだ上で贈り物にしたいと感じ、一年延期。

 小学生新聞の連載なので、表現は大変平易でありながら、自分と向き合ったり、本音を柔らかく解きほぐしたりと、小説家ならではの表現力なのか、辻村氏の思考の深さなのか、あるいはその双方を含めてか。何気ない日常の一部から、「そうそう、そうだよね」と大人も思うような、そんなエッセイで充ちている。どれもが優しく、それでいて深い。何か見透かされている感じすらしてしまうが、それでもやさしい。すごいな、このエッセイ。

 こどもならではの言動にも着目していて、一見大人としては不可解な言動も「自分も子どもの頃そうでした」という風に解説が入る。なるほど、自分にもそういう言動あったかもしれない、と思い出したり、あぁ子どもらの言動はそういう背景があるのか、と気づいたり。何度も書くが、批判っぽい表現はほとんどなく、どこまでも優しく「そうだよね」と語りかけてくる。これは新しい感覚だ。子ども向けなんてもったいない、とすら感じてしまう。


ジル・チャン著、神崎朗子訳『「静かな人」の戦略書 -騒がしすぎるこの世界で内向的が静かな力を発揮する法』ダイヤモンド社、2022年。

  いろんなリーダーシップ論が紹介される昨今ですが、なんだか読んでほっとする一冊に出会えたような気がしました。「自分にぴったり」と言ったら、著者に失礼ではあるのですが、とはいえ自分が悩みながら人を率いて仕事をしてきたことに、一つの裏付けができたような気がして、とても励みになる一冊でした。

 所管業務を理解した上で、正しい、よりよい判断を下す、そんなリーダーが求められているのはなんとなく感じてます。ただ、職場での立ち位置が上がり、今の職場のように異動に伴い仕事ががらりと変わる環境では、そういったリーダースキルを発揮できる人はよほど優秀な、ほんの一握りの人だけなんだろう。少なくとも、そうしたスキルを求められたら、私のリーダーとしての評価はよくてC(合格ギリギリか、もう少し足りないくらい)だろう。今の担当業務のように、正確さを求められる法律業務なんかやっていると、そもそも勉強偏差値の低い私には、やっぱり無理だって。

 結局そんな中でできることって、法律の主旨とか所管業務の目的をおさえて磨いて、日々持ち込まれる問題や相談に、筋で考えて判断していくしかないわけで。業務の正確とかやり方を知ることで、より正確な判断ができるようになっていくと。すでに業務を行っていて詳しい人に教えてもらいながら、立ち位置を少し替えて「それが間違っていないか」「もっとよくなる方法はないか」と共に考えていくしかないと思うのです。

 それに加えて、人からどう見られるかは考えずに言えば、私は本書で言うところの外交的な人間ではなく、むしろ内向的な人間に分類されると思うわけで。この手の性格診断は、信頼性がどうか、ということを差し引いても、いくつかやってみた結果が一つも外向にはならないんです。大分類として「私は内向的ですよ」と言って「全くのウソ」と言い切る根拠はないわけで。そうなると、本著で語られる内向的リーダーの性質や行動、その対策やよりよくなるための助言というのは、私にとってとても有益なものでした。

 なにより「今の自分でだいたいよかった。もっとよくする方法はある」と感じることができた一冊だということが、私にとって役に立つ本でした。

2025年3月15日土曜日

残念、というストレス

なんというか、ひどいことを言われたり、罵声を浴びせられたり、いわゆるハラスメント行為を受けるというストレスは結構なものなんですが、私の場合はどうやら、そういう外からのパワーというよりも、どちらかというとそういう刺激によって、内側から湧き上がってくる感情に削られているような気がする。

あー、なんでこんなになっちゃうんだろう。
そういう言い方、どうしてできるのかなぁ。
あっ、話通じないや。

いろいろいろいろいろいろいろいろ言われながら、メモを取りながら、なんか言われていることがよくわからないなぁ、とか、こんなやつさっさと電話切っちゃえよとか、2人のメタIyokiyehaさんのうち、ブラックメタさんがやいのやいの言ってくる。
ブラックメタさんの言い分って、私が「言っちゃいけない」ことを言語化してくれているような気がするんだけど、それだけじゃなく、ブラックメタさんが優位な時は、相手の主訴が明確でないことが多い、ということが分かってきた。きちんと聞こうとすればするほど、認識のズレや主訴不明瞭が明らかになってくるから、余計に何がなんだかわからなくなる。「○○ということですか?」と切り返すと、だいたい「そういうことじゃなくて」とついてくる。これは焦らなくていいんだな。
こういう状況って、相手に対して怒りというよりは、呆れ、が優位になる。呆れって諦めにも近いから、まじめにかかわろうとすればするほど、このストレスが大きくなるんだよね。
この手の、ざんねんだなぁ、と思えてしまう人たちと、関わらざるをえないのは、言葉の刃物で切り付けられる(そんなに切られないけど)よりも、自分の内側から避けられないストレスを食らっちゃうんだよね。きちんとやればやろうとするほど、そのストレスも強い。これは、よくよく気をつけておかないといけません。

2025年3月9日日曜日

言葉や制度だって、丁寧に扱うべきもの

「エビデンスはあるの?」

「…? 説明は○○に書いてありますが…」

「だから、そのエビデンスは何?」

 不毛なやりとりのような気がしてならない。まがりなりにも、研究者の端くれに身を置いていた私としては、「エビデンス」という言葉は「科学的根拠」と訳されることの多い、「きちんと裏付けのある証拠。有識者の合議体による結論から、ランダム化比較実験で証明されたものまで、正確さに段階がある」くらいの意味で使っている。研究成果って、いかにエビデンスレベルを上げるか、に躍起になる段階があるくらい。なので、制度の説明をしていて「そのエビデンスは?」と聞かれることに、とっても違和感がある。「●●の時は□□になる」という説明をしているのに、「エビデンスは?」と問われる。要は、説明していることがどこに記載されているのか、ということを質問する文脈で「エビデンス」という言葉を使われると、その内容に関する証拠を問うているのか、よくわからなくなる。これは私の認識が甘いのか、言葉の使い方の問題なのか。

 前者は私の理解度だから、ある程度は仕方がない。でも、仕事の世界で「エビデンス」という言葉は、単に「根拠」を問う時に使われることが増えてきているような気がする。

「(集計の結果)○○という結果となりました」

「そのエビデンスは?」

みたいな使い方。ん?と思う。情報ソースを聞いているのか、科学的な根拠まで問われているのか?「私の知る範囲では証明されたものではありません」「そうじゃなくて、どこの数字なの?」という問答は、本当に不毛だと思う。そのまま「どこの数字からとってきたの?」と質問してくれよ。そんなことまでハイテクストなやりとりに入れ込まないでくれよ。

 とはいえ、せめてもの救いは、身内にこの使い方をする人はほぼいないということ。この疑問を身内に対して抱くようになってしまうと、これは面倒だ。あくまでお客さんとのやりとりだから、まだ我慢できるのだけどね。まぁ、ハラに近いやりとりでこれをやられると、なんか腹が立ってしまうこともあるが、まぁ、それも落ち着いて深呼吸、ですね。

2025年3月2日日曜日

深呼吸して、隙間をつくる

 小川糸さんの『針と糸』をオーディオブックで聴いている。まだ、序盤でドイツの暮らしを表現しているところなので、まだまだ今後の展開が楽しみなのだが、日曜日は国全体が休み感覚であることや、週末の喫茶店ではWi-Fiが使えないとか、個人商店の魚屋さんが週末に広場で商売をしていること、自宅周辺には個人商店が軒を連ねて、わざわざ遠出してショッピングセンターに行かなくても、近所で生活はまかなえてしまうというくだりを聞いて、羨ましい気持ちが湧き上がるとともに、普段の生活がいかに「あたりまえ」に支配されているのかを考えるに至る。

 ちょっと考えてみると、普段の生活の中であたりまえのようにやっているけれども、実はやらなくても困らないことって結構あるな、と思うこともある。なんとなくあたりまえで使っているお店で定期的に買っているものも、実は近所で同等のものが手に入ったり、そんなこともある。最近は宅配サービスもあるから、便利ならそういうものも使ったら、自分の生活から緊張感が減っていくかもしれない、とそんなことを思った次第です。

 まぁ、要は、何か余裕がない時でも、軽く深呼吸してみると意外と視野が広がるかもしないってことです。これってやらなきゃいけないんだっけ、これって今日ホントに必要なんだっけ、明日までがまんすればあとは要らないんじゃね?とか、いろんなアイデアが出てくれば、その時々でよりよい判断を行うことは、そんなに難しくないかもしれない。あるいは、切羽詰まっていると思っていたことも、実はちょっと急ぎで片付いてしまったり、急ぎでと思っていたことが、別にいいじゃん、と思えてきたり、こういう時も0か100かじゃなくて、「ちょっと楽」くらいで10点くらい削れたらそれでいいかもしれない、そういうことです。

 しんどいときこそ冷静に、忙しい時こそ呼吸を意識してゆったりと、いろんなものと適切に距離を保って、いろんなことに向き合っていきたいと思うこの頃です。

2025年2月26日水曜日

目的は何なのだろう?

 いろんな「何だろう?」がある。
 言ってることと、やっていることが違うんじゃない?と思うことが多くなってくると、だんだんすり減っていく感があるんだよね。そんなことで、自分の大事なことを削られてたまるか、と奮起するのだけれども、私は凡人だからさすがにイライラすることもある。
 とはいえ、そんな時は「時そば」とか慣れた笑いでクッションになるようにしている。金属バットのカルタみたいのは、少し元気じゃないと勢いにやられてしまう(大好きなんだけどね)。
 落ち着いてくると、「やっぱり自分っておかしくないよな」と確認できたりする。なるべく二度怒りはしないように(不毛だから)するけど、ときどき突き抜けてくるな。気を付けよう。
 あぁそうか、いい気づきがあった。「人がしくみをダメにする」というのが、最近のIyokiyehaのトレンドだったんだけど、毒抜いてお引き取りいただくとか、納得しなくても鎮火させるといった、私の渋いスキルは、まわりまわってしくみに「悪影響を与えない」ための一助になっているのかもしれないですね。相談(カウンセリング)は世界をよくする、と公言してきた私が、今の状況にモチベーションを保つなら、このレベルで「世直し」していると思うしかないな。まぁ、理解してくださる方がおられるわけだから、そういう人たちを大切に、理解されない人は亡霊化させないように、一つでも世直しを増やしていくと考えるかね。

2025年2月15日土曜日

対話の力

 正直、辟易しています。内外からの人の悪意に触れすぎて、「結局、人と人ってわかりあえないんだな」「健全な対話って成り立たないんだな」って思うことばかりで、しんどいというよりも、呆れてしまったり、残念に思ったりと、悲し気分になりがちなのが、なによりもしんどい。
 悲しい思いからくるしんどさは、怒りよりも自分の身体をむしばむようで、とある身近なメンタルチェックで、二週連続「軽うつリスクあり」という診断がでるほど、すり減り感が続いているのだろう。理由があったりなかったりの心拍数の増加や、目は見えているのに読んでいる文書の内容が全く頭に入ってこないこと、物の場所が分からなくなったり、なんかちょっとイライラしたりと、ちょっと良くない。
 なんでもそうなんだけど、よかれと思ってやったことが、その主旨を理解されないまま、こちらの意図とは異なる解釈のまま増幅装置(Web)を通して、なんかとんちんかんな主張をものすごい勢いでぶつけられる、そんな役回り。主張する側も、本質に迫る主張ではなくて、自分の欲を生のまま、「もっと自由に」「もっと多様に」「暮らしのために」といった毛布にくるむだけで投げつけてくる。その欲も、制度を実際に利用する人のためというものに絞らず、それによって被害被る自分のため、言ったもんがちの主張の正当性を認めさせるため、といった感情をぶつけられると、正直「主旨と違うんだけどな」と悲しい気持ちになる。悲しいとしんどいので、というサイクロジックである。
 こちらはあくまで「健全な対話」(自分の主張だけでなく、相手の主張・説明をきちんと取り入れて、次の段階へ進む)を申し出て、試みるのだけれども、最近の主張は一方的であり、それに対応する人をとことん疲弊させていく。揚げ足取り、高圧的、一方的、説明を聞いているようで、全く聞いていないから、根拠乏しく主張を押し通そうとするだけで、何も変わらないという不毛な時間ばかり過ぎていくわけで。そりゃ、健康も害しますよ。
 前の仕事の時って、カウンセラーを名乗っていたこともありますが、やっぱりわからずやはいました。クライアントの種別を問わず。とはいえ、それぞれ責任ある立場ですから、分からず屋は分からず屋なりにタイムアウトだったり離脱したものでしたが。この辺が、責任ある立場、看板を背負っているかどうか、我がこととして認識しているかどうか、なんでしょうね。思い込みと欲で突っ走れる人は、どうやっても信用できないな。

2025年2月9日日曜日

行動する理由は一つじゃないんです。人間だから。

プログラミングの世界は、〇〇なら▲▲、□□なら◎◎と一から十まで指示してあげないと動かないものだけれども、人間というのは、その辺かなり緩やかだ。緩やかというよりも、こういうことを考えると、やっぱり人間というのは機械にはできない複雑なものを「判断する」ことができる生き物だと思える。
だから、自分の行動も、すべてに理由があるかというとそうでもなくて、その時楽しいかどうか、それすらもあいまいなまま、何かを行う、あるいは行わないという判断を下して行動している。そういうものだ。
なんとなく時間が経っているのも、そういうことで、目的がない行動も日常の中にはたくさんある。それらを律して、すべてに目的を持たせるというのは、一見やった方がいいこと、道徳的なこと、やるべきこと、とついつい思ってしまいがちで、そう思われがちなんだけど、それって結局は、自分という人間を機械に近づけていくことに他ならないのかもしれないな、と思いました。堕落という言葉はあるけれども、それとは少し異なる目的のない間みたいな行動・時間、それも含めて人間だと考えれば、そうした間も人間を構成する要素であるといえるな。

2025年2月8日土曜日

少しずつ習慣化

 週末に少し時間をとって、一週間をふりかえる、というのは、かなり贅沢な時間なのだろう。今日は自分の用事もないので、妻と買い物に出て、明日のスープ作りの材料を買いに行く。あとは、部屋でラジオをかけて本を読んだり、だらだらしたり。
 先週「悪意」について考えた通り、ここ2~3週間は、仕事の方で考えること、悩むこと、焦ること、困ることに囲まれて、とにかく余裕がなかった。仕事中に心拍数があがったり、気圧の変化にぐわんぐわんして眩暈がしたりと、心身ともに削られていた感じでした。
 相変わらずやることは多いので、余裕があるかと問われるとそうでもないのですが、結局テンポが周り(上司とか)と合わないと、それはそれでちょっと大変な時はあるわけで。でも、それは言い出したらキリがないので受け入れつつ。
 何がしんどいかというと、やっぱり「折り合いがつかない」状態が続くのがしんどいんですよね。削られるというか。それも「自分に責任がないとは言い切れない」状態が続くのがいかんともしがたい。分かり合えない、はある程度しょうがいないんだけども、相手が何を考えているのかわからない、あるいはその本音が「悪意」によって覆い隠されている、見つけられても相手が本音でかかわってくれないとなると、これは行き場をなくした感情が渦巻いて逃げ場がなくなってしまうわけです。離脱をかけているのに、それ以上の力で抜け出せないような、そんな感覚です。
 とはいえ、それが今週はちょっとガス抜きができたのかな、と思える事象があって、ようやく感情が解放された感じがしました。自分が解放されれば、隘路に追い込まれないような行動はとりやすいので、巻き込まれないように、距離を慎重に測って関わっていけばいいわけで。ようやくストレス性の頭痛からも抜け出せるかな、というところです。
 今回の反省点は、悪意と悪意の間で思わず巻き込まれてしまったこと。対面の場で感情が動いてしまったことが冷静な判断力を鈍らせてしまったのでしょうが、悪意対悪意というのがあまり経験のないところなんだなと気づく。善意対悪意の善意側に立つことは多かったのだけれども、悪意対悪意でどこにも真実がない、というのは第三者は邪魔なだけなんだなと思いました。早めに離脱しておかないといけないところに踏み込んでしまった、というのが今回の反省点でした。よし、今度は気を付けよう。
 読書が再開できるかな、という兆しが見えるので、ちょっと無理してでも活字に触れることを再開しようと思います。ここのところ耳からばかりだったので。鍛錬は継続しよう。

2025年2月2日日曜日

最近の悪意

  悪意を感じられる、というのはただの敏感さんなのかもしれないけれども、思い切ってgifted的なIyokiyehaのちょっと特異な能力として位置付けてみる。今まで人にはあまり言わなかったけれども、前回投稿のような「悪意」や、嘘や騙そうとする意志とか、一見もっともらしいことを言っているけれどもその実は自分の欲を満たそうとすることだったり、そういう感情を感覚レベルで感じられる(≠読み解ける)のは、ある程度自分の能力なのかもしれないなと思う。対面であれば、スクリーニング6割、相談後8割くらいで自分の感覚の裏付けがとれるような気がしているし、どことなく自分もその感覚に頼っているように思う。まぁ、感覚に頼って長いことやってきたから、その説明を求められると冗長になりがちなんですが。

 ということを前提に置き換えて、最近の傾向を考えてみると、1つは、安っぽい感情がむき出しになって世の中に氾濫している、2つは、人のことを心配している言動を盾に、自分の欲を何とか達成しようと嘘をつくのも厭わない人が増えている、3つは、何かをきっかけに目の前の人への態度が変わってしまうことに疑問をもたない人がいる、あたりだろうか。これまでにいろいろぼやいてきたこととも、大体一致する。

 今のところは完全に主観ですが、ポイ活のためのやむを得ない動画広告とか見えると、違和感のあるものが結構ある。演技の良しあしも大きいのだと思うが、発している言葉と表情の間にある隙間が感じられると、Web上の情報にはそういう感情があふれているように思う。その点テレビの方がマシな感じが、少し前までにはあったが、バラエティなんかを中心にほころびが出てきているように感じられる。このあたり、ドラマやノンフィクション番組なんかがまだマシか。俳優さんの活躍はまだまだプロ意識を感じる。

 2つ目のことは、上記と関連するのだけれども、身近な対面でも言っていることと欲求との差が大きい人が多い。これを感じてしまうと、気を遣わざわるを得ないのでとても疲労する。こういうのって、多分普段仕入れている情報が蓄積してその人の言動に反映されているのだろうな、と思う。と、ここまでくると、ウチの身内も動画視聴に割く時間が長いので、心配といえば心配である。

 で、こういうことを気にしつつも、こちらの筋を説明してやりとりを重ねることによって、不満がたまる結果なのか、主張や苦情としてそれが出てくるときには、明確な本質を突くものではなく、なぜか矛先が目の前に向いてしまうというもの。もともとは何かを守ろうとしていたはずなので、いつのまにか「おれ」「自分」になってしまう。あれあれ、達成したいことはなんですか?あなたの欲求がむき出しになっていませんか?それは私には関係ないことなのに、なんで痛めつけられようとしているのかな?と、なんか逸れていく感覚があるんだよね。

 そういうことをひっくるめて、感じとれてしまうことを「悪意」として考えてみる。何かいいいなしかた、かわし方が見つかるといいんだけどね。

2025年1月26日日曜日

悪意を考える

あくい 【悪意】

他人に害を与えようとする心。他人を憎む心。ほか(大辞林アプリ版)

他人や物事に対していだく悪い感情、または見方。ほか(岩波国語辞典第7版)


 他も調べると面白いかもしれない。最近、人の「悪意」に触れる機会が多いように思ったので、その意味するところを確認してみました。上記2つの意味を見ても、①他者に向く感情、②自分に生じる感情、の二つがあるように思いました。連動するのかもしれない。

 仕事のクレーム対応や、個別に食ってかかられる時、かつその内容がクライアントの納得を得られないようなものだった時、事の本質を離れて「私=Iyokiyeha」への攻撃になることがある。または、直接そういった言動ではないとしても、元となる感情に基づいて発せられる態度、言動が、Iyokiyehaからは見えてしまうことがある。どちらも気分のいいものではないが、on goingの対応になると、それなりに対応が必要になる。

 自分に向けられる言動にそれが感じられる時には、慎重に距離を保ちつつ、その言動の内容を共有して、それが「何も生み出さないこと」を感じ取ってもらうような戦術を試みる。納得は得られないまでも、そのことに「意味がない」と気づいたならば、あきらめてお引き取りいただけるタイミングがやってくる。この時、明らかにしすぎないのがコツで、正面から反論するような見せ方は、かえって相手のプライドをたたいてしまうことがある。あくまで「〇〇ということですかね?」のように確認と混ぜつつ、結論を表現せずに気づかせるやりとりが望ましい。

 というような、基本的な対応の心構えみたいなものがあるのだけれども、時にそれが全く通用しないことがある。上記でいえば②のパターンの内、(1)自覚がない時、(2)自覚してやっている場合の一部がこれにあたる。とはいえ、(1)に関する戦術は基本的には上記と同じで、受けきることになる。自覚がないので感情的なやりとりが多くなるが、突然飛んでくる飛び道具に注意して、慎重に粘り強くである。

 やっかいなのが(2)だ。明らかに悪意をもってやっているパターンがある。まぁ、要は不当要求であることがほとんどなのだが、その目的がこちらの疲弊や、ちょっとした揚げ足取りであれば、平行戦が続くことになる。こちらがちょっと悪くなるような雰囲気が続けば、ただただ疲弊する。前置きが長くなったが、これが「悪意のあるパターン」だ。

 最近、この手の悪意を感じ取ってしまうことが多い。なんというか、風潮なのだろうか?ここ10年くらいで様相が変わってしまったのだろうか、以前からこの手の悪意を持ってやってくる人たちはいたのだけれども、よくよく話を聞くと困りごと起点であることが多かったように思う。今もよくよく話を聞いたらそういうことなのかもしれないけれども、制度の変遷を反映しているのか、どちらかというと「自分の都合」が前面に出た悪意の件数が多いように思う。特に自らの立ち位置は全く変えずに、人にばかり都合を押し付けるような言動が目立つように感じている。

 しかしながら、その中でもクライアント目線はまだ「何とかしなきゃ」と思えるけど、専門職や同業者からこの手の「悪意」が見えてしまうと、なんとも言えない気持ちにさせられた上、自分の感情がこれでもかとすり減らされる。最近は、そんなことばっかりだ。


2025年1月18日土曜日

引っかかることがあると、いろいろ考えて、いろいろ試してみたくなる。

 朝、ジョギングをしていると、向こうから若い男性が歩いてくるのが見えます。特に気にしていなかったのだけれども、すれちがいざま彼が「あけましておめでとうございます!」と結構大きな声であいさつされる。距離も声の大きさも絶妙。一瞬びっくりしたのは自分が未熟なところだけれども、すぐさま「はい、おめでとうございます!」と回答できました。おそらく自閉傾向のある若者だろう。ジョギングを続けて、なんだか温かな、穏やかな気持ちになりました。たかが挨拶、されど挨拶。人と人との関わりには、人のきもち(気分、感情、思考、様々な「自分の中の見えない動き全部」)を動かすエネルギーがあるな、と感じた。

 先週、考えていた「陸でもないこと」は、週末に何とか落ち着かせることができて、今週は「あほらし」と穏やかな気持ちでいられました。一瞬動きがありましたが、まぁ、成り行きで結果を出して、きっとその人にとっては面白くない結果だから、怒られていきましょう、ということで。あとは野となれ山となれ。お手紙書かなくてよかった。

 その落ち着きをつくることができた合気道のお稽古を経て気づいたこと。演武の時も、仕事の時も、なんかいろんな場面で、自分は「呼吸が乱れがち」「力が入りすぎ」「視野が狭まりがち」ということに気づいた。あらゆる場面で、気づいた時には呼吸を整えて、様々な力みに気づいて脱力を心がけ、結果として穏やかに視野を広げて保っていようと思いました。呼吸と力み、今年のキーワードです。

 娘に買って、自分が読めていなかった天気痛に関する本を読んで、「耳」のケアが大事であることを知り、併せて自分は三半規管に関して指摘されていたことがあることを思い出し、これを機に耳ケアを心がけようと思い立つ。とりあえず、家の中で耳を冷やさないようにすること、屋外でイヤーマフなんかを積極的に使うこと、をやってみようと思う。

 いろんな刺激があって、どんな場面であれ、考えて行動目標としてことは、やってみようと思うし、試してみることにワクワクする。まとまった時間がなくても、ここまで思考を進めることができることについては、楽しいし行動の結果を評価できる。

 …ということを考えた一週間でした。

2025年1月12日日曜日

寒稽古 ~頭が働かなくなるほど、身体を使うことの効能

  本当に陸(ろく)でもない一週間を終えて、土曜日を迎えた1月11日。悶々と朝ジョグをしていても、頭に浮かんでくるのは、さらに陸でもないこと。ふりかえってびっくり。

 マズいレベルの無理難題を押し付けられそうになり、頭の中の怒りだけでなく、呆れと、嫌気が同時にやってきて。そうなると、感情レベルも動き出すんだよね。必死で抑え込もうとしたのだけれども、ちょっと無理でした。個人的には「呆れ」が動くと、自分の中の耐性が著しく低下するのだな、と今回感じた。それでも単発ならイライラしながらも、時間が経つにつれて、少しずつ薄めていけるとも思っているのだけれども、毎日次から次へと降りかかってきた件について、怒りと呆れが同時にやってきたときに、何かがフッと途切れてしまったように思う。「心が折れる」という表現が口をついてでてきたけれども、これが身体に影響すると、多分うつ状態となるのだろう。緊急避難的に、そうならないよう自分を守っているけれども。

 それで、土曜日の朝にジョギングしていると、自然といろんなことが頭に浮かんで消えていくのだけれども、まぁ自分でもびっくりするほどの悪手が次から次へと。怪文書攻撃を思いついた時には、たまたま神社の前にたどりついていたので、手を清めてお参り、「あほらしい」と自分につぶやいて、要らんことをせずにすみました。それで、たまたま合気道の寒稽古。まぁ、半日黒帯のみなさんに技かけてもらって、技かけて。くたくたになったら、なんか先週頭にきていたことも、ある程度リセットできたように思います。意味のあることはやむなくやってもいいけど、意味のないことはやらない。それくらいシンプルに考えていいのだろうと、いつもの自分に戻れました。

 頭がやばい方に行っているときには、身体に余裕をなくして何も考えられないようにするのも悪くない、と感じた出来事でした。


2025年1月1日水曜日

2024年総括、2025年の抱負

 2024年総括、2025年の抱負

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 昨年は、イレギュラー体制から解放されたと思ったら、今度は純粋に仕事に追いまくられる一年でした。併せて、家族のことや、家族の中で生きる自分を意識させられる出来事がいくつか続いて自分の身に降りかかったことで、ますます生活のことを考える機会ができました。

 まずは、例年の通り目標の振り返りから。

1 読書の継続 30冊+Audiobook30冊分+αで音声コンテンツ

2 10分体操+素振り15,000本+週末ジョギング、合気道昇級

3 30分程度を目安にした勉強習慣をつくる(習慣化)

4 仕事のスキルを向上する

5 心穏やかに過ごす

 1について。どうにも書籍に触れる時間が後半にかけて、ガリガリと削られてきた感があります。書籍は10冊止まり。Audioboookも15冊程度。その代わりといってはなんだけど、ラジオや音声コンテンツはほぼつけっぱなしなので、NHKジャーナルとか、他いくつかの番組を通じて、インプットはそれなりに維持しているとは思うのだけれども、そうしたことをまとめたり、深く考えたり、思考がつながって何かに気づくような感覚が例年よりもぐんと減ってしまったような気がします。知識ばかり、なんとなく頭の中は通っているけれども、それが知恵に昇華していないといった感じです。これは良くない。

 2について。鍛錬は継続できた。体操はほぼ毎日できた。多分休んだ日はないか、あっても数日程度です。覚えていない程度。毎日の歩数は、年間平均(iPhone)によると、10,610歩と出た。木剣素振りは、ざっくり計測で22,220本。毎日60本くらい振った計算になります。去年より、平均で10本くらい多く振れた。臂力の養成と組み合わせて振っているので、少しずつ感覚の変化は実感していますが、まだまだ「腰が入った」振り方の感覚がよくわからないので、分かるまで降り続けます。

 3について。微妙でした。週に1回は、仕事帰りにコーヒーを飲みながら本を読む、ことを意識してきたけれども、どうにも、ウチに帰ってくると眠気が勝ってしまう。何とかしてこの程度の勉強時間は捻出したいものです。

 4について。なんでもいい、と思っていたので、うまく目標設定できませんでした。来年は「法律」縛りですね。昇任試験と、そのずっと先の行政書士を目標に。

 5について。これが課題。改善留まりです。率直に。日常生活の中に気にくわないことはたくさんあるのですが、今までより穏やかに、感情をある程度平坦にすることができるようになってきたのは改善。ただ、ふつふつと湧き上がるような不満にはまだまだ課題。なにかあっても「ふぉっふぉっふぉ~」と笑ってやり過ごせるようになりたい。まず呼吸法、そしてアンガーマネジメントかな。

 この他、今年強烈に感じたことは、身体症状やら診断による自分の身体について。元々、身体は丈夫でなくとも、健康が当たり前だと思っていました。ただ、夏前から続いた咳に喘息の診断がついて、吸引剤の処方が始まったこと、それを継続しなければならないようになったこと。その診断の過程で、肺の深部に炎症性と思われる影があること、これが癌かも~と精密検査を受けることになり、結論「悪性じゃないだろう」だけれども、フォローで毎年CTとらなきゃいけなくなったことをきっかけに、自分の身体についてはいままでより一層気をつけないと、と思うに至りました。

 仕事第一の生活になってきていることが、どうにも不満なので、このあたりを意識から方法まで一つずつでも改善していきたいと、思います。隔月くらいで、仕事サボりはできているので、これは継続しつつ、普段の仕事ももう少しうまいことやりたいですね。散策先はもう少し増やしていいかも。

 あと、合気道はようやく黒帯までリーチになっているので、きちんとお稽古したいです。基本から応用まで、理合いを意識して、ドリルは自主練含めて、コツコツ積み重ねたいです。

 と、振り返ってみて、昨年中もいろいろありました。それを踏まえて、2025年の抱負・目標は、以下の通り。

1 読書の継続 20冊+Audiobook20冊分+αで音声コンテンツ。アウトプットの頻度を上げよう。

 ちょっと見直し。分量は減らしても、きちんとアウトプットしよう。いろんな機会を使って、このブログにもアップしていこう。机周りは3分の1くらいは整理してきたので、このまま整理に努めよう。要らないモノは処分。

2 10分体操+素振り20,000本+週末ジョギング、合気道昇段

 継続。合気道で黒帯目指したいから、その基礎体力は習慣化の中でつけていくことにしたい。基本動作と技のドリルは日常で。曜日によってやること変えるとかあっていいかも。通勤は徒歩で、10,000歩/日の維持を目指す。今年は昇段したい。

3 30分程度を目安にした勉強習慣をつくる(習慣化)

 再度、今年こそ。時間を捻出するというよりは、仕事の切り上げ方をうまくしよう。勉強時間は週単位で管理(1時間)する。内容は法律。入り口は何でもいい。昇任試験もそろそろ意識しないと。

4 仕事のスキルを向上する

 維持。でも、メリハリを意識する。勉強時間と仕事のバランスを週単位で管理すること。

5 心穏やかに過ごす

 これだな。これは継続。数年越しだ。自分にメタ認知が働くように。穏やかに。感情の揺れに意識的になって、自分に「ちょっと待った」って言える余裕を作ること。気にくわないことは、その場から離れることと、平素の呼吸法にも、意識を向けたい。

 以上、2024年のふりかえりと2025年のとりあえずの目標でした。今年もよろしくお願いします。なお、去年も書きましたが、年賀状による新年の挨拶については、諸事情により完全に縮小しています。いただいた年賀状に年賀状でお返しできていない方が出てきてしまっていますが、あらかじめご了承ください。