悲しい思いからくるしんどさは、怒りよりも自分の身体をむしばむようで、とある身近なメンタルチェックで、二週連続「軽うつリスクあり」という診断がでるほど、すり減り感が続いているのだろう。理由があったりなかったりの心拍数の増加や、目は見えているのに読んでいる文書の内容が全く頭に入ってこないこと、物の場所が分からなくなったり、なんかちょっとイライラしたりと、ちょっと良くない。
なんでもそうなんだけど、よかれと思ってやったことが、その主旨を理解されないまま、こちらの意図とは異なる解釈のまま増幅装置(Web)を通して、なんかとんちんかんな主張をものすごい勢いでぶつけられる、そんな役回り。主張する側も、本質に迫る主張ではなくて、自分の欲を生のまま、「もっと自由に」「もっと多様に」「暮らしのために」といった毛布にくるむだけで投げつけてくる。その欲も、制度を実際に利用する人のためというものに絞らず、それによって被害被る自分のため、言ったもんがちの主張の正当性を認めさせるため、といった感情をぶつけられると、正直「主旨と違うんだけどな」と悲しい気持ちになる。悲しいとしんどいので、というサイクロジックである。
こちらはあくまで「健全な対話」(自分の主張だけでなく、相手の主張・説明をきちんと取り入れて、次の段階へ進む)を申し出て、試みるのだけれども、最近の主張は一方的であり、それに対応する人をとことん疲弊させていく。揚げ足取り、高圧的、一方的、説明を聞いているようで、全く聞いていないから、根拠乏しく主張を押し通そうとするだけで、何も変わらないという不毛な時間ばかり過ぎていくわけで。そりゃ、健康も害しますよ。
前の仕事の時って、カウンセラーを名乗っていたこともありますが、やっぱりわからずやはいました。クライアントの種別を問わず。とはいえ、それぞれ責任ある立場ですから、分からず屋は分からず屋なりにタイムアウトだったり離脱したものでしたが。この辺が、責任ある立場、看板を背負っているかどうか、我がこととして認識しているかどうか、なんでしょうね。思い込みと欲で突っ走れる人は、どうやっても信用できないな。