2026年2月1日日曜日

お稽古メモ 2026年2月

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1 基本練習
2 一般4~5級審査のサポート
3 連続技(両手持ち、正面打ち)

1 受け身は先に手を着く、腰が伸びる、のがよりよい形。腰がまがると、腰を打つ。
  基本動作。体の変更(一)受け、半身で腕が詰まる、仕手が出てきた分軸足を下げ、反対の足でバランスをとる。
 正面打ち二ヶ条抑え(一)(二)
 正面打ち三ヶ条抑え(一)(二)
 片手持ち側面入り身投げ(一)
 正面打ち正面入り身投げ(二)
 人に技を指導するのは難しい。各技の要点を押さえて、かつ自分がそれをできないと見本も見せられない。とはいえ、一つずつ。精進あるのみ。
 片手持ちの初動の理合。(一)は引かれるのに合わせて線を外す。「持たせておく」のが共通項。(二)は押される線を外す。「力をかけさせておく」位置に外す。横に開きすぎて受けの手に力がぶつかるのは、動かしすぎ。
 三ヶ条は弓なりの形を作る。(一)は横向き、(二)は縦向き。
 側面入り身の初動は、受けの肘を詰まらせるところまで。二挙動目で肩口に抜ける(押さない)。斜行法のような腰の回転の力で運足を確保して投げる。
 正面入り身は、力が入る範囲の中で重心移動により、受けの頭の高さを変えないように崩していく。
3 連続技
・肘当て
 受けの腕を伸ばして、受けの前足に重心を残させる。引っ張りすぎると、受けの前足に重心が乗らなくなる。
・両手持ち
 小手返しはできるが、一ヶ条投げはできない(片手持ちになってしまう)。天地投げ(呼吸投げ)でよい。※逆回転になっていいかどうかは質問できていない。
・正面打ち
 捌く前に、正面打ちを受けた手で受けの腕をつかまないこと。
 8本セット
1 三ヶ条投げ(左外→左)
2 隅落とし(左外→右)
3 四方投げ崩し(右内→右)
4 肘当て呼吸投げ(右内→左)
5 小手返し(左外→右)
6 一ヶ条投げ(右内→左)
7 側面入り身投げ(左外→左)
8 腕絡み(左外→左)

2026年1月27日火曜日

お稽古メモ 2026年1月

260125
1 基礎錬(運足、受け身)
2 基本動作(臂力の養成(一)(二))
3 正面打ち三か条抑え(一)(二)
4 片手持ち呼吸投げ(連続技)
5 二か条

1 受け身
 崩された時に踏ん張らない。(動きが止まって、身体が固まる。投げ技だと勢いがつく)投げられるままついていって、自分から低い姿勢になって受け身に入る。
2 臂力の養成(二)
 前に出した手を、身体の側面で水平に動かすと、腰が引けてしまいがち。前の手は力を抜いて、下から流すように動かしていい。膝と腰の回転がスムーズになる。
3 正面打ち三か条抑え(一)
 三か条をつくるには、受けの手を捻って返すだけでは不十分。三か条の形(弓なり)を作るにあたり、受けの肩を詰める位置で、受けの手を返して固める。(だから半歩出る必要がある)受けの手を落としすぎないように。
4 片手持ち呼吸投げ(連続技)
 片手技。取らせて崩す。横に出る。出た足を軸にもういちど回転して、取られている手を挙上して固める。投げる(下に落とすイメージ)。
5 二か条
 基礎練習。取られた手を内側から方向を変えて挙上し、受けの手首に当てる(ぶつけると痛いし力が切れやすい。手刀を受け側に滑り落とすように力を働かせる。受けは膝が前に折れて崩れる。

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1 体の変更(一)相対
2 半身半立両手持ち四方投げ(一)
3 片手持ち二か条抑え(一)(二)

受け身:腰がつく前に、羽打ち。腰が曲がっていると、腰を打つ。背中-腰-足がしなやかに伸びる、地につかない内に力を殺すのがよりよい受け身。
1 体の変更(一)相対
 引かれる手の方向を変え(15度程度、受けの反対側の肩口)、身体・腰と連動し反対側へ進んでいく。6:4→8:2。前進する勢いを膝で受けて延びる。
2 半身半立両手持ち四方投げ(一)
 誘い手、受けの肘を伸ばす位置。一歩目:受け側の手をまっすぐ挙上するように、寄り過ぎない、身体を捻らない。二歩目:そのまま挙上、立ち上がり。上半身と下半身の動作を同期させる。回転:四方投げなので、とられている手を「持たせたまま」。「縦回転」の意味は、前に押しすぎない後ろに引かない、ほぼ真下に落とすイメージ(重心移動しない)。
3 片手持ち二か条抑え(一)(二)
 (一)二挙動目:受けの動作に合わせる。動かないならその場で、引くようなら詰める。(二)押される力を外す手は、受けに持たせて乗ってくるように。外しすぎると手を引っ張ってしまう(親指・小指が当たってしまう。外れる、引かれる。力比べへ…)。自分の範囲で手を返しながら「持たせておく」。腕で回そうとすると引っ張ってしまうので、二か条をかけた手をそのままに回転を先行すると、受けの腕が出てくる。「出てきたら、とる」。前に力を出しながら、重心移動。

260111 基礎
○構え
・構えの姿勢は最も安定した姿勢。後ろの足には張りが要るが、前の足は柔らかくする。
・手と足は前に出すだけ。肩で止めない、踏ん張る場所を決めない。
・後ろ脚からの前向きの力が、足首→膝→腰→背中→肩→肘→手首(→指先)に抜ける状態。
・腹が前に出ると、腰が伸びてしまう(力が切れて、腰に負担がかかる)。
・踏ん張ると、足首と膝、股関節が固まる。固まると動けない。
・前足は支えているだけで緩んでいる状態。後ろ脚で地面とつながっている感覚。
○動作
・前に出る足を踏ん張って止めない。前に出るまま。
・前に出て、膝で吸収しながらブレーキをかける。
・膝が緩んで、股関節が動く状態ならば、足首の動作が膝→股関節→腰とつながって重心が移動する。
・股関節を曲がるようにする。前足側が緩んで、後ろ足側も緩めば、腰が回転する。
・膝行でも、腰の位置を安定させる。落としておくと押され負けない。

滑り止めに合格する

 今年は長男が高校受験です。今は試験期間の真っただ中。県内私立高校の試験結果が大体出そろったところで、ありがたいことに長男は受験した高校の合格をいただきました。今後は2月下旬の公立高校の受験を目指して勉強を続けることになります。子どもの高校について考えてみました。
 長女の受験がちょうど2年前。近隣では何かと話題になっているいわゆる女子高狙いだった長女は、公立本命の桜は散り、今は都内の女子高に通っています。当時、高校選びの時に(私とはほとんど口を利かなかった)長女が選択肢に女子高を入れた、いや、女子高で固めた時は「大丈夫か?」と思ってしまったものですが、入学してここまでの生活を見ていると、この環境に合う子はいると素直に思っています。少なくとも、ウチの娘にはいい環境だと思う。同性の生徒の集団の中で、(混成集団であるか否かを問わず)当たり前であるがいろんな人間関係があり、面倒なことも抱えながらも、気持ちはのびのびと生活しているように見えます。幼いころからコツコツ取り組んできたエレキギターを、まるで相棒のようにして、軽音部で活躍しています。勉強も自分なりに取り組んでいます。
 私の頃の高校受験は、いわゆる地方都市の事情もあり、公立>私立(費用も価値も)という絶対的な雰囲気の中で、学力調査の点数で高校が序列化されて、自分の学力に合った学校を選ぶ、というものでしたが、近年の、そして埼玉県の受験事情は全く異なるものです。人が多いと多様になるのだな、と思うに至ります。長女の女子高も然り、長男の高校選びにおいても、お目当ての部活の有無、校風、学習プログラムなど、特に私立高校は各校で特色を作ってアピールしていました。学校見学等に参加すると、生徒たちがそういう特長を自分たちの言葉で説明していて、大変興味深く聞き入ってしまうとともに、30年前のそれとはまったく異なることを目の当たりにしました。
 残念ながら、私の高校時代の思い出というのは、部活動の記憶がほとんどを占めるような、楽しみのきわめて少ない時期だと意味づけています。3年生になった時のクラスはなんぼか楽しい思い出が残っていますが、1,2年生の間は勉強(というか宿題と課題)と部活をやったことしか思い出せません。そんな立場の身から見ると、今の高校生の生活は正直羨ましい。いい環境で、効果的な学習と課外活動に取り組めることは、きっと私が大学生の時に感じたそれと異質ではあれ、経験は似たようなことがオーバーラップしてくるのだろうなと思います。しっかり学んで、将来の土台にしてくれることを願うばかりです。…親としては学費を見てびっくりしていますが、まぁ、それはそれ。

2026年1月24日土曜日

大橋禅太郎『すごい会議-短期間で会社が劇的に変わる!』大和書房、2005年。

 意外にも長年書棚に入ってきた書籍で、読んでみてもっと早く読んでおけばよかったと思う本だった。というか、会議のやり方に関しては、いろんな知見を取り入れてこれまで対応してきたつもりで、そんなに困っていなかったから後回しになっていたのだろう、というところに決着した。当時、評判のよい本で、その後もたびたび何かのメディアで目にしてきたが、これは面白い。小説(著者の経験?)と理論とを融合させた一冊です。楽しく学べる良書でした。
 内容は以下のことを愚直に、議論が尽くされるまで、繰り返し行うというもの。
(目次より)
・会議の目的を確認する。
・紙に書いてから発表すること。
・いま達成できていることを考える。
・時間厳守は自分たちで実行する。
・問題を「どのようにすれば」に置き換える。
・見えない問題を言ってみる。
 これらの項目の中には、手法というよりも心構えに近いものもあるが、例えば2つ目「紙に書いてから発表すること」なんてのは、今すぐにでも取り入れることができる。そんな速攻性のあるものから、理論を通じて会議そのもののデザインが変わっていくようなものまで、具体例(経験?)を交えて、理由までよくわかるように示されている。
 さらりと読み飛ばせば「そんなの知ってるよ」という内容もあるのだが、経験談を交えて理由が添えられると、こんなに「試してみよう」となるのだな、と思いました。検討事項がある会議、ディスカッションが求められる時、意見が飛び合う会議になったとき、こういう会議デザインを知っておくと、議論を前向きに進めるための方向付けができるかもしれない。

2026年1月18日日曜日

不愉快なWeb広告

 以前から気になっていたWebの広告ですが、とあるラジオ番組で私が感じていたことをうまいこと言葉にしてくれていたので、改めて考えてみよう。私の感覚はやはり「不愉快」でいいのだと整理できました。

※不愉快(ふゆかい):楽しくないこと。気に入らないこと。また、そのさま。(大辞林)

 なんというか、こう、自分に当たってくる感じを受けるんです。欲していないものを押し付けられているような。そこへいくと、よくできたテレビCMというのは(最近減ったけど)、自分に当たってくる・押し付けてくるようなエネルギーを感じにくくつくっているように思います。それがプロの仕事なのだろうけれども、その見せ方も含めて「うまい」のだと確認できます。

 一日の内、スマートフォンを使っている時間は約5時間、2,600タップするらしいですね。使いこなせる人にとっては大変有益なものであるけれども、ほとんどの人にとっては集中力を途切れさせるツールになってしまいます。実際に、6割以上の人にとってはそれくらいの時間を割かせるためのものになっていると解されるらしいです。その上で、世界に様々なWeb企業はあるけれども、その中でも青いアイコンの会社と、会社名が変わった会社の方針(Web広告によって利益を出すような方針を表明した)を強く批判する意見でした。

 どうでもいいことを、自分に当たる表現で、視聴時間を割く形でスマートフォンの画面に表示されるWeb広告は、依存性のある毒というよりは、知らぬ間にそれが「ある」ことが当たり前の状態に、自分の身体に静かに擦りこまれる毒のような気がしてなりません。やっぱり面白くないし、愉快な気持ちにはならずむしろ怒りすら覚える。そんな怒りは何も生み出さない余計なエネルギーなので、さっさと自分の目に入らないようにすることを自分に強く勧めたい。

 「毒」と表現したけれども、自分にとっても所属組織にとっても、そして大切な人にとっても、身近な誰にとっては誰も幸せになるものではなく、むしろ余計な感情が生まれて、人間関係に影響することは、ほぼ間違いないように思います。そんなろくでもない感情がはびこる世の中を、私は望まないな。

2026年1月10日土曜日

信頼、という古くからある大事なこと

 新規事業の企画運用準備なんかやっていると、いいことはとにかく広く周知されるべき、といったことをよく言われる。それは大事だけれども、昨今のWeb上の情報を見聞きすると、情報でもっとも意識して大切にすべきことは、その内容が信頼に足ることに尽きるように思う。
 仕事でも何かの活動でも、よいことは、正確に知っているべき人に広く周知されるべきだ、という常識がある。それはそうで、直接関係ある人にはすべからく、周辺の人たちにも目に触れて認識はしてもらう、ということが的確になされるのがいい周知活動といえるだろう。
 インターネットが普及して、情報発信が簡便になっているが、ボタン一つで私でも世界中に情報発信ができるというこのしくみは、いよいよ使い方が問われる段階にきているのだろう。要は、必要な人へ必要なだけ正確な情報が伝わる工夫をしなければならない、ということだ。
 最近では、行政の情報でも、自治体間の好事例でもSNSの活用が紹介されているが、その範囲の絞り込みというのは、結構大変なんだと思う。なんというか、個人的な感覚としては、一回りして結局メールとかメーリングリストと同じイメージ、になってしまっている。つまり、対象の絞り込みには登録するチャンネルの整備と更新が必要ということだ。「それならいっそメールにしてもそんなに変わらないんじゃね?」とも思う。まぁ、今となっては、これは暴論であって、受け手のツールにおいてメールはすでに優先順位が下がっている。だからSNSみたいな流れともいえるんだけど、すでにLINEは共通のメッセージツールなので、これを使わない手はないといえる。別に納得はしていないけれども。
 となった時に、Iyokiyehaは「いかに正確な情報を掲載するか」ということにこだわるのだけれども、その時に大事なのはやっぱりWebページなんじゃないかなと思う。つまり根っことなる情報がブレず、それ自体が拡散せず、必要があれば一か所を修正すればいい、というのは、このご時世においては情報の信頼性を担保するのに、いいツールなんじゃないかと。で、そう考えるのであれば、流行りもののツールを使って周知活動をするときも、根っことなるWebにつながっていけばいいわけで。運営する側の利便性は高いだろう。
 以前、行政が共催する、とある集まりに講師として登壇する機会があり、ある程度企画が固まった段階で、個人的に友人にそのことをお知らせしようと思った時に、当該自治体のWebにその掲載がなく、主催団体はWebを持っていなかったので、当該自治体の市報の広告にリンクを貼って連絡した覚えがある。これはこれで信頼性は高いのだけれども、送られた側は、知らん市のイベント情報の中から対象となる記事を見つけなければならず、利便性としては担保されていないような気がしました。担当者に「市のWebには出さないの?」と聞いた時に、「LINEでお知らせ出しているからだいじょぶですよ」と。いやいや、俺に届いてないんだけど~と思ったのを思い出しました。
 改めて、このご時世に信頼できる情報って本当に大切なんじゃないかって思うのです。だって、知りたいことを探しに行ったときにそれが見つかるのと見つからないのとって大きな違いだし、正確な情報は信頼できる背景のあるサイトに掲載されていることが大事です。私のような立場の、行政の内側もある程度知っている人としても、行政のサイトってやっぱり信頼感あるんです。某お笑いコンビのネタでそんなもんくそくらえ、みたいなものがありましたがあれはネタであって、やっぱり信頼感って大事だと思うこの頃です。
 あと一つ。酒飲んで、こんなことを書ききって思ったこと。この文書を800文字くらいでクリアに書きたいですね。ダラダラすみません。

2026年1月6日火曜日

お酒編 焼酎のTwice Up

 こういう記事もまた書いてみよう。とある筋からリクエストもあったので。
 ラベル「酒と肴」第一弾。焼酎!

 実家で教えてもらった飲み方。お酒のTwice Upという飲み方(氷を入れずに、お酒:水=1:1)は、香りが広がりやすく飲みやすいとされているわけですが、それを手間いらずにする方法です。もう長年やっているな。

○作り方
1 焼酎を好きなように飲む。
2 ボトル半分くらいになったら、ボトルに水を足す(1:1で大体1本分に)
3 適当に時間をおいて飲む

 焼酎の種類は何でもいいと思います。私はなんでもこの飲み方です。
 香りがどうとか書きましたが、何より「ぐっと飲みやすくなる」実感ありです。
 飲み方は、そのままでもいいし、氷で割ってもいいし、焼酎苦手な人ならさらに水やお茶で割ってもいい、自由です。

 手間いらずでがぶがぶ飲めるいい飲み方だと思います。のんべえ実家ならではのレシピ。

2026年1月4日日曜日

勝手に新年会

 これまでも何度かアップした記憶はあるが、Iyokiyehaは飲み会無精です。デフォルトは「行かない」のですが、そうはあっても調整する関係軸はある。昨日、横浜で催した会合はそんな中の一つ。前職のご縁だけれども、数年ぶりくらいの会合でした。@野毛
 この参加者に限らず、不思議なものでこの手の会合は、時間を一気にさかのぼる感覚があって面白い。アルコールも手伝うから、どーでもいいことがなんとなく面白い。それでよい。インターネット上で酒を飲みながら語る、みたいな動画や音声コンテンツが出てくるが、他人が酔っ払った話を聞いてもなんとも思わないのだけれども、その渦中に入ると別世界に入ったような感覚になる。この感覚は共有できないまでも、なんとなく一緒になって面白がってくれる人たちとの会合には、なるべく参加することにしている。まぁ、どんな人間軸でも少なからずそういう雰囲気にはなるので、行けば行っただけ楽しいのだろうけれども、ここらへんがIyokiyehaの面倒で病的なところなのだろう「行く」と決めて動くまでの勢いが要る。この勢いが要る部分についてデフォルト行かない、なので面倒なヤツ扱いになる。しょうがない。
 とはいえ、しょうがないよね、で済ませずに少し掘り下げてみると、今自分がおかれている環境は、会合に対して常に逆風が吹いているような感じだということにも気づかされる。人間軸で選ぶだけではなく、自分の周りが会合に対してアゲインストだから、それをおして「行く」と勢いづけるにもエネルギーが余計に必要になる。これが独身時代に人間軸とお財布の状況で参加する/しないを選んでいた時とは決定的に異なる。詰まるところ、ほぼ大体カミさんの存在だ。ここまできて、やっぱり「しょうがない」となる、なぜなら自分の制御下にないアゲインストだから。本当に行きたい会合に行くためには、その瞬間の勢いエネルギーだけじゃなくて、日ごろの貯金も大事な積み重ねになる。そうなると、やっぱりデフォルト「行かない」というのも、自分の病的な部分だけじゃなくて、貯金の一部と考えておくことができる。
 なるほど、くだらんことでも考えてみると思わぬ発見があるものだ、と気づく。このBLOGも定期的に確認しているらしい奇特な方がおられるようですので、日記のこぼれ話は時々メモしておこうと思います。ダラダラがんばってみまーす。

2026年1月2日金曜日

理由が要ること、要らないこと

 いつまで続くかわからんけど、思ったことをアウトプットしておこう。
 「情報があふれている」とか「膨大な情報の渦」みたいな表現が聞きなれるようになった。インターネットが普及して、スマートフォンが行きわたるようになって、さらに加速しているような気がする。しかしながら、自分にとって必要な情報量って今も昔もそんなに変わっていないんじゃないか、と思っている。
 ニュースサイトが見えたり、SNSのチェックなんかをしていると、なんか、それっぽく目をひく情報がある。ついつい見てしまったり、なぜ?と思わされてしまったり。そういうものに注目してしまうと、元々調べていたことや、デバイスを操作している目的がふわっと薄くなって、興味が移ってしまう。最近「これは、嫌だなぁ」と思う。行動の目的を見失うし、調べたり読んだり、見たりするのにえらい時間がかかってしまう。調べきれることなんかほとんどないし、余計にモヤモヤするだけだし、アウトプットには至らない情報ばかりだし。調べたいことを調べられることって、どれくらいかなと振り返るとちょっと怖い。
 「○○の視聴率が低かった理由」は、自分にとっては本当にどうでもいい話である。って考えた時に、自分にとって必要な情報って何だろう?と考える。自分の情報源を「オールドメディア」とか言われても、何の根拠もなければ、自分にとっての意味や価値が損なわれるわけではない。本屋さんが減っていることをもって、書籍が必要ないというのは、あまりに乱暴な意見だなぁと思いながら、いわゆるオールドメディアのお世話になっている。時事ネタを取り入れた漫才なんてのを観て、なんかよくわからない言葉が飛び交っているけれども、まぁ聴いた時に調べてみて、不要なら忘れてもいいと思えば、ずいぶん気楽になるよね。
 結局、情報社会であるとか、多種多様な情報と価値観にあふれているのが最近の日本っぽく語られているけれども、放っておいたら一生会わないような人からの情報に必要なものがどのくらいあるかと言われれば、そんなになさそうだし、身近な人が何かやっていたとしても、それが自分にとって意味のあるものなら付き合えばいいし、そうでなければ、自分の具体と相手の具体を突き合わせて付き合ってどうか判断すればいい。そんな風に考えたら、スマホ以前の自分と今の自分って、必要な情報にそんなに差がないんじゃないかと思えてきた。意味のないことが通り過ぎていくのは見守るだけにして、自分に不愉快等負の感情が生じるならそーっと距離をとればいい、矛先となって自分に向かってくるならそれはかわさないといかんけどね。そうして残る「必要な情報」をきちんと取り入れていきたいものです。

2026年1月1日木曜日

2025年総括と2026年の目標

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 昨年は、まさかの新規事業準備の担当という時限新規の担当者ということで、3月までも要らんことに巻き込まれつつ(継続し)、4月からはすべてが手探りのところに放り込まれて、ここまで何とかやってきました。家族のことでも大きな変化があり、振り返れば本当に激闘の一年だったと感じています。今年も歩き出す方向を決めるための整理をしていきます。なお、年始の挨拶は控えておりますので、あらかじめご了承ください。

 まずは、例年の通り目標の振り返りから。
1 読書の継続 20冊+Audiobook20冊分+αで音声コンテンツ。アウトプットの頻度を上げよう。
2 10分体操+素振り20,000本+週末ジョギング、合気道昇段
3 30分程度を目安にした勉強習慣をつくる(習慣化)
4 仕事のスキルを向上する
5 心穏やかに過ごす

1 読書とか
 ブログでアウトプットしたのが9冊、アウトプットに至っていない読了の本んが2冊目の前にあって、Kindleで7冊で18冊。あとは雑誌とか。Audiobookは23冊分が既読になっていた。細かくみれば若干少なめだけど、まぁ達成としよう。他に、音声コンテンツは毎度おなじみの、「聴く日経」、朝日新聞Podcastアルキキ」はほぼ毎日、「毎日新聞Podcast世の中の「いま」を記者が読み解く」は夏頃から公開されたものはほぼ全て聞いています。obioさんの「ヴォイニッチの科学書」も有料版を購読継続中。他にもいろいろあるけれど、集中して聴いているのは「COTEN RADIO」で、有料会員になって、今ちょうどジェンダーギャップのまとめを聴いているものです。コテンラジオが起点となって、世界史・日本史関連の本はつまみ読みしている、という状況です。アウトプットが課題かな。日記に書き溜めているものはあるけれど、それでよしとするかどうするかは課題。考えてよし、とすることもたくさんあるので。あと、机周りの片付けが進んでいない。今年はオーバーヘッドスキャナを買って、もう二段階くらい整理するかな。

2 運動
 木剣素振りは、35,810回+α(おそらく相当超えている)、毎日合わせると大体100本くらい振っているので、これくらいになった。朝のルーチンは、ラジオ体操第一と素振り70本くらい。冬場からは、正座法10回と合気道の基本動作の内、臂力(ひりき)の養成を左右10回ずつ、ウォーキング500歩ちょっと、をほぼ毎日行っている。本当に年末になって、臂力(ひりき)の養成の左を5回増やして、あとは基本動作連続をやるようにした。下半身の鍛錬に重点をおいている。週末ジョギングは継続。昇段審査12月は見送り、今年の3月か6月には受ける予定でお稽古を進める。達成で差し支えなかろう。

3 勉強習慣をつくる
 なかなか難しいのだが、寝る前に書籍を開いて公務員試験向けの法律に触れる習慣はできてきた。もう少し深い学びになればいいが、ここから先をどうするか、という課題には当たっている。とはいえ、シンプルに問題を解いていくしかないわけで、テキストを開く次は問題を解く、と、法律の該当条文を読む、だな。今年は昇任試験を受けてみようと思う。

4 仕事のスキル
 今年は、手探りでいろんなことをやる機会には恵まれている。公の計画の目標値設定とか(今年からは管理)、例規の整備など、今までやったことがないことを、次々とこなさなければならない環境におかれているので、今までよりは相当力はついているだろう。ただし、きちんと固めていない経験なので、2025年の経験は、折に触れて結晶知識にして蓄えておきたいものだ。

5 心穏やかに過ごす
 アンガーマネジメントが、年末の漫才ネタにもなっていたが、これはもう経験則から一つ一つにきちんと向き合う必要がある。が、だいぶメタ認知が働くようになって、こちらが気分を害する機会はずいぶん減っているのだと思う。それはそれ、これはこれ、人の愛し方は人それぞれ。人の関わり方も人それぞれ、そういうことを少しずつでも認められるようになっていることは大きな前進だと思っておこう。

 これらの他、2025年には実家の母親が夏に緊急手術(腸破裂)→入院、秋にかけて数日帰宅→入所という経緯があり、単身帰省をする機会なんかもあった。ちょうど合気道で夏合宿に参加していた最中の手術だったので、どうにもならず、何かすることも望まれなかった経緯があって、結局11月の連休に帰省することになったもの。父親は早々と一人暮らしの準備をして生活リズムを作っており、姉たちも父親の生活を支えているようなので、過剰な負担のない生活にリニューアルしたような感はある。離れて暮らす自分は完全に(よくもわるくも)蚊帳の外ではあるけれども、たまには母親にも実家にも顔を出していこうと思う。

 一昨年に(自分としては)大きな出来事だった、自分の喘息については特に変わりなく維持。薬も効いているかどうか、よくわからんけれども、まぁ苦しくないので維持できているのだろう。他に悪いところは特にないと思うので、合気道を支える身体づくりを継続しようと思う。とりあえず、健康だ。家族も今のところみんな健康だ。

 あとは、仕事の取組みについて見直しをしつつあったところに、新規事業担当だったので、結局夜遅い日は続いている。その中にあっても、水曜日(ノー残業)は次女の塾のお迎えをして、金曜日は娘たちのギター教室への合流ということにして、なるべく早く職場を出るようにしている。一昨年のようなおサボりができなくなっているので、もう少し休みをとって見聞を広げたいところもある。あ、でも夏にWebセミナーを受ける機会があったな。仕事第一ではなくて、仕事がワンオブゼムになるような生活の柱を育てたい。

 と、振り返ってみて、昨年中もいろいろありました。それを踏まえて、2026年の抱負・目標は、以下の通り。

1 読書の継続 20冊+Audiobook20冊分+αで音声コンテンツ。整理してアウトプットする。
 数値目標は置いておこう。インプットは時と場所とツールを選ばず。
2 10分体操+素振り30,000本+週末ジョギング、合気道昇段
 素振りは今くらいを維持。自宅では、ひたすら基本動作を。
3 15分程度/日の勉強をする(テキストを開く、1問解く)
 やるしかないので、毎日やる。
4 机周り・なんとなく習慣を片付ける
 今年こそ、書籍を半分にする。あとは、なんとなく続いている習慣や惰性で続いていることについては、疑問をもった時点できちんとふりかえり、改善だけでなく廃止も含めてきちんと整理する。SNSやWebサービスについて、だいぶ整理は進めているけれども、物理的な環境とともにもう少し進めたい。忙しいのは否定しないが、できるだけ余白のある生活を目指したい。
5 心穏やかに過ごす
 怒らず。イライラせず。家族や人との関わりは丁寧に。

 以上、2025年のふりかえりと2026年の当初の目標でした。今年もよろしくお願いします。

2025年12月31日水曜日

宮島未奈、「成瀬」シリーズ、『婚活マエストロ』『それいけ!平安部』、小学館。

 Iyokiyehaは小説で外すことはあまりない(少し読んで面白いと思ったものしか読みきらないのだろうが)ですが、宮島未奈のこれらの小説は、ドはまりして2025年に全部読みました。すべてに共通しているのは、
・ぶっ飛びすぎず、「きっとその辺にいるんだろうな」という人物が物語を展開する。
・「あるよね」の範疇を外へ押し出すような「やってくれたな(にやり)」というエピソード。
・大筋の随所随所に差し込まれる、くすりと笑える「常識人の叫び」のようなつぶやき。
・ちょっと変わった普通の人たちの等身大のやりとりが織りなす、まきこまれながら何か元気になっている物語。
というあたりでしょうか。

 成瀬シリーズは関連しながら時系列は進んでいる短編集、他2編は長編?になるのでしょうが、一貫して流れている宮島ワールドは、元気な時に読んでも前向きに面白いし、疲れた時にも外から元気がしみこんでくるようにじわじわと身体を暖めてくれるような文字列が心地よい。「いみじ!」とか、多分流行らないけれども、どこかで使ってみたいと思えてしまう。

○『成瀬は天下を取りにいく』2023年。
 「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」(No.16)から始まる短編集。西武大津店の閉店を個人で応援しようと、西武ライオンズのユニフォームを着て「閉店まであと○日」と、ローカルニュース番組に映りこむ…という行為に巻き込まれる成瀬の友人である島崎。島崎の視点で語られる成瀬の人物像には、ついつい引き込まれてしまうような魅力が詰まっている。小学生の卒業文集に書いた将来の夢が「二百歳まで生きる」とか「大きなことを百個言って、ひとつでも叶えたら『あの人すごい』になる」など、突飛な発想と思いがちだけれども、なんとなく「…そうかも」と思ってしまうような力強さのある成瀬あかりが、地元滋賀県の膳所(?)という町で縦横無尽に活躍する様子を描く物語。
○『成瀬は信じた道をいく』2024年。
 成瀬シリーズ2作目。期待値は上がっていたが、それを上回って更に加速する成瀬あかりの活躍を描く。成瀬に巻き込まれていく膳所の住民、家族、友人。地元の小学生も、ちょっと生きづらかった人たちも、成瀬と関わってもう少し元気になっていく様子が描かれる。成瀬のペースに巻き込まれているのに、どこか楽しそう。「びわ湖大津観光大使」に選ばれた成瀬の活躍も見逃せない。私のイチオシは、語呂合わせ「コンビーフはうまい」だった。Audiobookで通勤途中に聞いていておもわず噴き出してしまったのを思い出した。
○『婚活マエストロ』2024年。
 婚活パーティー企画運営会社ドリーム・ハピネス・プランニングに、ひょんなことから関わることになった、40歳猪名川健人と実質パーティを取り仕切る鏡原奈緒子さんが繰り広げる人間模様を描く作品。パーティーに参加する人たちの一癖も二癖もあるやりとりと、そこに垣間見えるそれぞれの思いや悩み、期待など、様々な感情をとりしきる鏡原さんと、それをサポートすることになってしまう猪名川さん。ラブコメ要素もふんわりほっこりで思わずほほえましい気持ちになってしまう。そんな本筋に高野社長が入れ込んでくる小ネタの一つ一つにもインパクトがあって、とにかく面白い一冊でした。Audiobook版の感想にも書いたけど、舞台が私の故郷静岡県浜松市というのも高ポイントでした。
○『それいけ!平安部』2025年。
 期待と不安が渦巻く高校入学。初日に前の席の子から「ねぇ、あなた。平安時代に興味ない?」(No.37)と言われたら、どんな反応になってしまうだろう。そして、戸惑っていたら「あないみじ…これ、運命の出会いだよ」と言われてしまったら…という冒頭エピソードのインパクトが強い。あれよあれよと流され、出会い、更に流されるままに様々な取り組みに巻き込まれ、戸惑いながらも楽しんで、学園祭へ臨む、そんなありがちな高校生を描く物語。個性的な部員たちの、ちょっとずつ常識の範疇を内から外へ突き続けるような、軽快でありながら、どことなくほほえましくなってしまうのが大変心地よい。
○『成瀬は都を駆け抜ける』2025年。
 いやぁ、とてもすがすがしい読了感だった。2025年最後の日に、こういう小説を読んで締めくくれるのはきっと幸せなことなのだろう。大学に入学して、新たな人間関係の中でさらにいろんな人が元気になって、締めくくりはやっぱり島崎でした。とある事が起こって、膳所に帰ってきた島崎が、知人から成瀬の活躍を聞いて一言「このまちには成瀬がいるのだ」(187ページ)とつぶやくくだりが、一言で三部作の成瀬の活躍を表現しているなと、見事な表現に思わず手を打つ。そして、私と同じようなことをやはり一言で「思えばきのうから会う人会う人、みんな成瀬に照らされている」(212ページ)と表しているところが、やっぱり小説ならではの読み応えだと思った。

 どの小説も、楽しく読めて、自分まで少し元気になったような気になれる小説でした。
(2025年分)

奥村正子『すごい90歳』ダイヤモンド社、2019年。

 何かを始めるのに「遅すぎる」ことはない。地道に、楽しんで、挑戦し続けることは、健康な心身に支えられることではあるけれども、取り組むことそれ自体には必ず意味がある。歳を重ねることで思いが確信になるのだろうが、それを人に語ることは経験の継承として、必ず意味がある、ということを読み取りました。
 70歳を過ぎてから、ベンチプレス選手となり、80歳代では世界大会で連覇。2019年までに5つの金メダルを獲得し、2020年に90歳で他界された奥村氏の最初で最後の著書。この時期、私はすでにテレビを観ない生活となっていたので、噂程度にしか聞いたことがなかった方だけれども、本書を読んでその生きざまに触れ、経験の継承の一部になれたかもしれないと思う。
 率直に、内容をふりかえれば、お年をとられた方の一方的な「○○なのよ」的な、年長者の上から目線を感じることもある。とはいえ、本著の随所で語られる奥村氏の生い立ちや家族との関わり(特にパートナーさん)を、そうした言葉に重ねてみると、それらのすべてに奥村氏なりの根拠があって、それは奥村氏と関わる身近な方たちの存在を伴って語られていることが読み取れる。年長者のお小言、ではなく、奥村氏の人生に裏打ちされた言葉であることがわかると、その生活習慣の一つ一つが奥村氏の経験として、私を含めた読者に届けようとしていることが感じられる。この地点で本書を読み解けば、冒頭の「遅すぎることはない」ということに加え、「身体のメンテナンスが大事」ということとベンチプレスがつながってくる。「高齢でもベンチプレスに取り組む変わった人」ではなく、健康に留意して興味をもっていろんなことに取り組んでいたらベンチプレスに出会った人、というのが奥村氏の経験についてより本質的に知ることができる立場だろう。
 言葉の端々を否定的にとらえるのではなく、本書が世に出た経緯と著者の思いを丁寧に読み解くことによって、著者の主張がより響く。言ってみれば「何歳からだって、なんだって始められる。それが本気で取り組めるものであれば」ということ。そういう何かに出会えるように心身ともに感度よく生活したいと思えるようになった一冊でした。

以下、引用
125 私は、なんでも歳のせいにするのは、やめたほうがいいと思うんです。歳だからできないのではなく、なんでも、やるか、やらないかです。年齢をいい訳にして、やらない理由を並べてしまうのはもったいないです。
160 ひとりでは何もできない だから私はいつも感謝の気持ちを忘れない
(2025年分)

2025年12月30日火曜日

年末に向けて 人格の捨象と具体的に関わること

 2025年もあと数日。Iyokiyehaさんは、キャリアを通じて人と関わることについて、いろいろと考えてきているが、今年はとある音声コンテンツで聴いた「人格の捨象」という言葉の意味する地点でいろんな事象を考えた。人と人とが具体的にかかわり合う時に、そこに「人間関係」が生じるということだ。
 このことを考えるには、辞書的な言葉の意味が必要だった。
・捨象:概念を抽象する際に、抽象された諸表象以外の表象を考察の対象から切り捨てること。
・抽象:事物や表象を、ある性質・共通性・本質に着目し、それを抽き出して把握すること。
※その際、他の不要な性質を排除する作用(=捨象)をも伴う(略)。⇔具象
・具象:①目に見える形のあること。姿や形をもっていること。具体。⇔抽象 ②形でわかりやすく表すこと。
 物事を抽象化するときには、そのものを構成する様々なものを捨て去って本質に近づいていくことになるので、それは本当に知的な営みであると思っていたが、抽象化の過程はその「構成する様々なものを捨て去って」いくことで成立する。つまり、抽象化のために捨てられる事象があるわけで、それを「捨象」と呼ぶ。よって、抽象化は捨象を伴うといえる。逆に具体化は捨象されたものを取り戻していく過程ともいえる。なるほど、捨てられることを「捨象」と呼ぶのか、と説明を聞いたのち、これまでの経験の中でいくつかのことがつながってきた。
 私は、職業通じて、生活においても「人間関係」を大切に扱うようにしている。形の見えないことであるからこそ、自分のイメージと理性を同時に、交互に働かせないと構築できないし、できたと思っても崩れていくような脆弱性をも伴うもの・ことであるからこそ、古来より人は他人に対して様々な感情を抱くものであると考えている。何千年何万年と人間関係が繰り返されているはずなのに、良い・悪いで判断できない、あるいは「誰にとってもよい人間関係」が存在しないという現代のこの事実に、ライフワークとして考える興味がある、というのがより正確な表現だろう。研究者というよりも生活者、職業人としてのレベルで考えて表現することで、自らの生き方に反映させていきたいと考えている。
 この言葉の意味を意識することで、冒頭の表現に行き着く。「人と人とが具体的にかかわり合う時に、そこに『人間関係』が生じる」ということだが、これは人と人とが関わる中には、人格の捨象が進んだ関係を故意に作り出す人がいると思われることから、浮き彫りになった経験に言葉を与えたもの。要は、人と人との関わりには本当にいろんな形があるけれど、本当に「人間関係」と言える関わりは、その人とその人とが具体的なやりとりを行った時に通じる何かによって結びつき、構築されていくものであって、人格の捨象後のやり取りにおいては、損得が入り込む。「楽しければいい」「自分が得したい」「他者が得するのは許せない」といった考え、発言は、そのいずれにおいても、周囲の他人との間に「人間関係」は生じない。人間関係のないところに、仲間はできない。
 人格の捨象が当たり前に行われるところには、人間関係それも仲間となりうる人間関係は生まれないということ。それはつまり、人間関係を適切に構築するためには、具体的な関わりが不可欠であるということ。それはお互いの相互作用であって、片方では成立しない。
 どうだ、これはかなり本質をついた説明じゃないかな。言葉にすると「具体的」ってあまりに一般的過ぎて聞き流してしまいそうだけど、目の前にいるその人と、どのくらいきちんと関われるか、ということが人間関係の本質なのだろう。

2025年12月20日土曜日

ネットの世界との付き合い方

 矛先の方向が合っているのか、ということと、自衛が必要だなと思うこと。
 オーストラリアで、こどものSNSの利用制限が法制化されたらしく、ラジオをつけていると、その是非がどうこうという話が聞こえてくる。どうしてこういうやりとりになっているのだろうと疑問であることと、私は賛否いずれでもないということの確認ができたことと、まずは自分から、と再確認できたことがあった。
 自分の立場は「こどものSNS制限に対して賛否いずれの態度もとらず、その子がどう使うか自ら考えること。こどもに対する制限では、こどもの何を守ろうとしているのかわからない」ということ。平たく言えば、制限かけるならこどもに限定せず、大人も一緒に制限しちゃったら、とか、そんなことできないんだから、目的がよくわからない範囲の制限はやめたほうがいいんじゃない、こどもが大人と一緒に使い方を考えたらどうでしょう、ということ。
 Iyokiyehaは、これまでにも何度か態度を示してきたけれども、利用の賛否というよりは、自分はちょっと使い、で留めているだけ。自分のこどもには、あんまり使ってほしくないなぁとは思うけど、ガミガミ言いません、という立ち位置です。将来どうとか、そんな見えないことじゃなくて、SNSに限らずスマホいじっている時はとにかく話を聞いていない、音がだだ漏れで聴覚過敏な私には不快な刺激になる、という自分が受けている不利益に対する抵抗というわけです。子どもらがスマホで何しているのか、知らないし、知りたくもない。ただ、いわゆるリアル世界を生きるのにもなかなかいろいろあるのに、ネットの世界にも時間と労力を割かなきゃいけないなんて、大変だな。そんなにいろいろ手を出さなくてもいいんじゃない?と思うだけで。
 そんな大変さを煽って煽られて、SNSやネット情報でさらに煽られて。前にも言ったけどネットは「増幅装置」だから、そんなところに身を置かざるを得ない環境は、自分のリアル生活に割く時間を削るしかないのになぁ、と思うこの頃です。

戦場の選択

 何事にも「戦うべき場所」がある。自分に向けられる刃をすべて受ける必要はないということです。
 「絶対にかなわない相手こそ土俵に上がってこない」(宮島未奈『成瀬は都を駆け抜ける』Kindle版、位置No.1218。)という箇所を読んで、なぜかいろんな経験がつながってきた。楽しく読んでいる小説は、油断しているとこういうことが起こる。今日は自宅に誰もいないから、近所のカフェでサンドイッチを注文して待ち時間に本書を読んでいてこれである。人間の頭って面白い。
 自分の気づきは、要するに「自分に見えているものがすべてではない」ということ。普段の生活でも、何か窮地に陥っていても、心地よい場所でも、不快極まりない場所でも、自分の視野の外に無限の世界が広がっている、ということです。本当に対峙したい人やコトが、自分の土俵の上にのっているのかどうかって、気づけるようでいてそうでもないかもしれない。自分が「戦うべき」と思っていることが、実はお釈迦様の手の平で踊っているだけだったり、逆に何も特別な環境でもない時に起こったことが、後で自分の人生を変える(変えた)ことであったのかもしれないし、何か「よくわからんなぁ」というくらいでいた方が、多分視野が広がるんだろうな、ということです。もう一つつなげて広げると、どんなにしんどい時であっても、自分に恥じない生き方さえしていれば、きっとどこかに味方はいるのだろうな、ということです。このことに気づいて自分はもう一つ楽になったな、と思う。
 小説の文脈ともちょっと違うし、なんでこんなことを考えたのか、とよくわからないことがあるけれども、いい意味で方の力を抜いて、視野を広くすると、今いる場所は、いるべき場所(戦わなくていい場所)ではないかもしれない、ということです。思考は無限だ。