2019年9月16日月曜日

森岡正博『完全版 宗教なき時代を生きるために』法藏館、2019年(初版:同社、1996年)。

・著者の森岡氏が、「生命学三部作」の一巻と位置づける主著の一冊。初版から24年経ち、内容はそのままに、解説となる「まえがき」「あとがき」を書きおろしで追加した完全版。
・生命学とは何か、という定義ついては、後に紹介する書籍にゆずるとして、個別具体的な経験を語り、整理して表し他の人の生き方の参考となるような支えのあり方、といった性質上、そのことを意識して読めるかどうかにより、本著の捉え方が変わってくる。確かに本書は生命学のあり方を表した作品(論文)といえる。
・20年くらい前に初版を読んだ当時には、氏の自分語りが強烈な印象を受け、読了感のあまりよくない一冊だったと記憶している。自分の修士論文の中でも、うまく引用できず(当時の自分には扱いきれず)悶々とした覚えがある。
・自分もそれなりに経験を罪、生き方も考え、自分なりに変わってきた今では、これらの表現が実感を伴い、自分の中に入り込んでくる感覚がある。
・「私」が活きる世界と自分との関係をどのように読み解き、その中で自分がどう生きるのか、ということを考えるための知恵=生命学ともいえるだろう。しかしそれは、結晶としてかくあるべし、という知識の集積ではなく、あくまで自分の生き方として実践され、何らかの形で表現され、その知見が伝わっていくものであり、そしてその目標は、対象となる人も内容も(今のところは)制御できないもの・ことなのだろう。
・自分を拓き(開き)続けること、自分で考えて行動すること。「私が私であり続けるために、私は変わっていかなければならない」(226ページ)ということに凝縮される。

(以下引用)
3 オウム真理教が力を持つような時代に、科学にも満足できず、宗教の道にも進めない私はどう生きていけばいいのかをひたすら考えた。オウム真理教事件の核心は、科学時代における「生きる意味」の問題だ、というのが私の直観だった。これが本書を貫くテーマ(後略)
39(科学「ラディカルな消去法」批判)世界は、無視できない様々なファクターによって、動いているはずだ。
62(生命学とは・第三の道の可能性)それは、生と死や「いのち」や存在の問題に目隠しをする唯物論の社会、科学主義の社会に異議申し立てをしつつも、それらの問題に対する解答をけっして宗教の「信仰」には求めず、そしてどこまでも思考放棄せずに、自分の目と頭と身体とことばを使って自分自身でそれらの問題を考え、追求し、生きていくという道である。そうした生と死と存在の問題の追求を、右の四つのスタンスに立ちながら、他者とのコミュニケーションを通じて、自分ひとりの責任において行い、自分自身の生死に決着をつけていくような道である。
 私はこういうい知性のあり方と、そういう知性に裏づけられた生のあり方を「生命学」ということばで呼んでいる。
99 <自分を目覚めさせてくれたいのちの恩人を、知性をもって相対化しろ>
136 敵は自分の外部にあるのではない。敵はほかならぬ自分の内部に巣喰っているのである。生命を問いなおすとは、そういう生を生きている自分自身の姿を問いなおすことなのだ。
201-2(目隠し構造)自分がもっている「見たくない自分」を見なくても済むようになってきたときに、人はどのような心理状態になるだろうか。その答えは簡単だ。人は、まるで生まれ変わったような自分を体験することになる。
(中略)見たくない自己を見なくてもいいような状態になったとき、人間は、自分の身体が行っていることの意味がほんとうに見えなくなる。「あるべき自己」が「良きこと」をしたのに、なにがおかしいのかという思考回路になってしまう。
216 「ほんとうの自分」とは、目を閉じて自分を真っ白にしていくことによって獲得されるのではない。「ほんとうの自分」とは、目を見開いて、見たくないものをどこまでも見てゆくプロセスのなかで、そのつど立ち現れてくるものなのである。
225 大事なのは「ディスコミュニケーション」(註:お互いに全然わかりあえない状態)から逃げないこと(中略)つねにみずからを「無理解」と「謎」に向けて開き続けること。
226 私が私である続けるために、私は変わっていかねばならない。

2019年9月15日日曜日

養老孟子、森岡正博『対論 脳と生命』筑摩書房、2002年(初版:同『生命・科学・未来』ジャストシステム、1995年)。

・前回読了が2004/2/27とあった。修士論文を執筆しながら読んでいたものと記憶している。15年経って読み返してみたが、内容は古さを感じない。(1)現代社会を生きる私のよろこびとは何か、そして(2)その現代社会と私との関係はどうなっているのか、という点において、氏のテーマは変わっていないのだろう。それだけ普遍的なテーマであるといえる。ただし、現代においてはテクノロジーは確実に変化している。
・40歳を迎えた私にとって、森岡氏の一貫した思考方法において、現代社会におけるテクノロジーをつかんでいくことが組み込まれていることをはっきりと読みとけたことは、大きな進展といえる。「個人のあり方」に偏っていた学生時代の読み解き方とは大きく異なることを実感している。
・人は変わっていく。望むと望まないと関係なく変わっていく。その変化を納得して受け止められるかどうか、受け入れられるかどうか。意図して仕掛けて変わっていくこととは少し異なり、環境(広義:自分以外の全て)の影響を受けて、予期しようがしまいが、私におとずれてくる変化を、とらえて、受け入れて、それに納得できるということが「悔いなく生ききる」ことの意味ではないかと思っている。
・対談集を続けて読んでいるが、本当の意味での議論ってこんなに知的好奇心を刺激させられるのかと実感させられる。テーマが深まり、広がり、触発されて次のステージに移り変わる様子が読みとれる。

(以下引用)
10(「意味」の意味)意味というのは結局いろんなものの関係ですよね。(中略)意味はその人が死というものをどういうシステム・考え方の中に位置づけているかということだと思うんです。死自体が存在するとかしないとか、そういう話じゃなくて、そういうものをめぐる全体的なシステムがどうかという質問になっちゃう。
20(解剖道)死体と向き合っているあいだは、相手は他者なんです。ある段階からそれが他者でなくなって、自分の手が動いていく道筋みたいなものが生まれてきた。自分の手が動いていくといっても、自分で動かしているんですけどね。だけど、それは自然に動いていくので、いってみれば境界がなくなっちゃう。(改行)強いて他者だと考えているうちに、自分が何をしているのかというと、相手に聞いているわけです。自分の動作が相手に質問することになり、相手からの返事は耳でなく体で聞いているという、そういう状態になってくる。
28(人の死と科学の限界)何が人の死であるかを「科学的に決める」ことは原理的にできないということが、まったくわかっていないんですよ。人の死が何であるかを決めるのは、宗教であり、習俗・慣習であり、法であり、政治なんです。
86 システムのなかのひとつの歯車にされてしまった生命は、その「かけがえのなさ」を抑圧される。
89 追試不能な「かけがえのない」ものと、法則とか統計の次元で意味をもってくるものとを、社会のなかでどうやってうまく結合させていけばいいか、ということですね。
92(変化すること)私の成長に応じて、世界の見方も変わるし、真実そのものも変化していく。それだけではなくて、世界を見ようとする私自身が変化していく。(中略)つまり、私が対象を認識したり、何かを考えたりすることの、その全体が変化していく。世界を見たり考えたりするその基準点そのものが変化していく、という感じなんです。生命世界というのは、そういう動き方をする世界じゃないかと。
121(自己家畜化)(第一段階)現代文明は、痛みとか不快なことを自分でコントロールできる範囲内にどんどん繰り入れるという形で進んでいて、われわれの多くがそれを承認しているという事実があると思うんです。(中略)(第二段階)極端な痛みや苦しみは全部排除するけれども、耐えられる痛みや苦しみは自然に任せておくという形での巧妙なコントロールを始めると思うんです。
124 自分は基本的に変わらなくて、ただ環境のある範囲内の変動に応じて、ゆらゆらと揺れているだけ。そういう生のあり方を選択することになるのでしょう。
131 要するに個性とか個人とかいうから死んでしまうわけであって、右の人とか左の人が同じであれば誰も死ななくなる。それが一種の理想社会です。
154(ヒューマニズム)結局ヒューマニズムというのは、人間のあいだにまず差別を設け、強者による弱者の搾取や支配を正当化するイデオロギー装置であるといえる。普通ヒューマニズムは、搾取とか差別とかに対抗するイデオロギーだというけれども、よく考えるとヒューマニズム自身が差別の構造をもっている。
164(二つの「知」)まず単に「知る」こと(中略)学問というのは一つは、現実を広げていく作業(中略)何のためにそういうことをするのかという目的が入ってくる。それが入ってきた「知」というのは、何らかの目的のためのものですから、もはや純粋な「知」ではない。
196(変化すること)われわれがものを覚えていくには二通りあって、人から伝えられて覚えることも確かにあるんですが、もう一つ重要なのは、そういう死んだ人体という自然と自分が密着していくことによって、自分のほうが変わってくるという体験によっても覚える。しかも、これは絶対に口では伝えられない。なぜかというと、いまの自分はかつての自分ではないわけです。
198 ポイントはやはり、自分が変わるということですね。私がいいたいのは、とくに近代の自然科学という「知」が、自分があることを体験したり、ある世界を見たり、この世に生きて何かすることで変わっていくというあり方のなかで育まれる「知」というものを、系統的に排除し、抑圧してきたということです。それが近代から現代の自然科学的な知のあり方であり、それを支えているのが近代的社会の構造だと思うんです。
199 そのためには、生命というもののあり方から突っ込んでいくのがいちばん早いというか、真っすぐな道だと思うんです。なぜかというと、生命というのは結局変わるからです。我々自身が生命そのものであり、生命はほかの生命と関係しながら、成長して変わっていくでしょう。固定したら死んじゃうわけです。だから、まさにいま我々が話題にしている「知」のあり方とか、他人を変えることは自分が変わることであるという問題の本質がそこにある。
215(共犯関係)この社会のシステムは、個々人の意図や動機をうわべでは尊重するように見せかけながら、実はもっと大きなシステムの効率のために、裏側からこっそり利用するようなことをします。そしてその仕組み全体を、我々が無意識に肯定している。抽象的な言い方ですけど、そういう構造の欺瞞というか、システムと個人との共犯関係みたいなものを、きっちりと見ていくことが必要です。それが、いまの「知」の課題でしょうね。

2019年8月16日金曜日

戸塚隆将『世界で活躍する日本人エリートのシンプル英語勉強法』ダイヤモンド社、2018年。

・英語(他の言語も同じ)は、意思表示のための記号(シンボル)である。よって、考えていること、思っていることを「人に伝える」「人から伝えられる」ためのもの。

(引用からのまとめ)
11 「シンプルな英語」を身につけるための6ステップ
(1)「ブロークン」でもいいから、とにかく話す。
(2)正しい発音を「まず頭で」理解する。
(3)英文を「前から」解釈しながら読む。
(4)「音読とセットで」ひたすら聴く。
(5)結論と根拠を明確にして「ロジカルに」書く。
(6)かならず「フルセンテンス」で話す。
といった、いわゆるグロービッシュが求められる。要点は「伝え・伝わる」こと。
65 「シンプルな英語」とは?中身が大切である。
(1)結論が明確でわかりやすい。
(2)論理が明確でストレート。
(3)簡単でわかりやすい語彙。
(4)堂々と存在感がある。
(5)高いリスニング力を備えている。
70 語学レベルの5段階
native ネイティブ
fluent 準ネイティブ
business ビジネスレベル(目指すべき水準)
daily conversation 日常会話
basic 初心者
132 あらゆるコミュニケーションにおいて、「誰が/何か」「どうする/どんなだ」ということが、伝えるメッセージの根幹です。
136 (主語が)もし省略されているとすれば「何が省略されているのか」をしっかり把握する。
194 ライティング:冒頭に結論を述べ、それに続いて根拠を明確に述べます。  結論→根拠(1・2・3・・・)→結論のフレーズ
206 質問に答えられないのは、答えがないから

水谷修『増補改訂版 さらば哀しみのドラッグ』高文研、1998年(初版)、2014年(改訂)。

・夜回り先生によるドラッグ(薬物)の入門書。ドラッグの危険を、依存性と脳への影響という軸で評価し、一般書としてまとめている。薬物依存者への対応についても、類型化して整理している。
・専門機関による介入で対応できる可能性があるのか、それとも介入できる可能性は低いのか、あるいは精神科医療の範疇なのか、これらの段階について、著者によるある程度の基準が示されている。
・少なくともこれまでは、そして読了した今でも、薬物は自分が使用する可能性はないもの、である。どこか、自分とは関係ないものとしてとらえているところはある。しかしながら、身近なところにあって、それを乱用している人がいることも事実である。決して、自分とは関係ない世界の出来事ではなく、すぐそばにある危険であることを改めて感じさせられた。
・ドラッグなんてなくなればいいのに。知れば知るほど、怒りしかわいてこない。

(引用からのまとめ)
11 薬物依存から脱するための3つの方法(本頁ほか)
(1)自分の力で覚醒剤を絶つこと。
(2)専門家、専門病院、自助グループの力を借りて、覚醒剤を絶つこと。
(3)このまま使い続けて、警察のお世話になるか、死に至るか。
他に方法はない。しかし、水谷氏であっても(1)で覚醒剤から脱することができた人はいないと断言している。また、(2)で可能性のある「精神病院」への入院、(3)の「警察のお世話」は、「運のいい場合」である。
12
・ドラッグは、頭も心もからだも、がんじがらめに捕らえるもの。頭で乱用を止めようとしても、心がドラッグを欲します。また、心から乱用を止めようとしても、からだがドラッグを欲します。これが本当の怖さ。
・身体だけでなく、頭までこわしていくもの。そして、心もこわして、人との関係を次々と絶っていくものがドラッグである。
・脱法ハーブは人体実験でしかなく、その成果(結果)はだれかをこわすためのもの。

井上章一、森岡正博『男に世界を救えるか』筑摩書房、1995年。

・国際日本文化研究センターの現役論客井上氏と、同センター勤務時代の森岡氏(現在、早稲田大学)が、ジェンダーを切り口に社会と世界、そして自分の内面をえぐりだしていく対談集。
・大まじめに歴史認識や男女関係を整理し新しい視点を加えていくことはもちろん、その背景となる社会構造や、それを引き受けつつ本音と建て前を揺れ動く自らの思考を率直(赤裸々?)に語ることで、(論理的には)エコロジーや愛と権力、脳死移植などへと展開していく。話題は尽きることがない。
・大胆にテーマを展開させる中で、森岡氏のライフワークである「生命学」の萌芽が読みとれる。「矛盾を抱えながらも、よりよく生きるための知恵」を思索し、その整理が進んでいる。
・時々「中学生かよ!」と言いたくなるような自己開示があるなど、(当時)気鋭の学者が本気で対談すると、人の内面がここまで言語化されてしまうということに、思わず吹きだしてしまいそうになる箇所も随所に含まれている。そういう展開ができること、それ自体が同テーマの他の著書にはみられない特徴であるといえる。
・概念形成や言葉の定義にこだわること、それらを深めていくプロセスは、上記「おもしろい」対談といえど、哲学を基礎とした知的創造の営み、あるいは真剣勝負の記録といえるだろう。
・概要:本書は性的な差異から見える現代社会の姿(1、2章)、環境活動から見える言論や(いわゆる)神話の位置づけと役割(3章)、そもそも「環境」とは何か(4章)、そして環境活動や社会変革における「少女」概念の定義とロリ・エコ・フェミの整理(5章)で構成されている。

(以下、引用)
33 頭を占領したフェミニズムは、やがていつか身体も支配してゆきます。 同 「愛」と「やさしさ」につけこみながら、フェミニズムは男の中に侵入してくる
35 自分の本性をコントロールして、いいことがあるんですよ。マゾ気分を楽しめるのです。私はこんなに美人が好きだ。しかし、倫理としては、それを公の場所で実行してはいけない。ああ、この二律背反、このジレンマ。自分の中のこの分裂に耐えて、苦しんで、生きてゆかねばならない・・・。
44 我々が問うべきは、「本質的に値段などつけようのないもの」ではなく、「本質的に値段なんかをつけるべきではないもの」なのです。(中略)値段をつけるべきではないものに、値段をつけてしまうことへの、倫理的反発。これが、売春を本質的に悪と決めつける人たちの、倫理的根拠なのでしょう。
45 資本主義の波にまったをかける反動勢力としての倫理。これが現代の倫理学に期待されているひとつの役割なのです。
52 臓器移植はすでに政治問題化していますからね。(中略)貨幣を介した市場での交換によって人間活動が運営されている現代日本において、セックスや臓器移植という相互行為に対しては、貨幣交換によってではなく、贈与によって運営すべきであるという、倫理のプレッシャーが働く。 同 現代の倫理は我々に、次のようなことを要求しているのでしょう。セックスにおける贈与の見返りは、たとえば具体的な性交渉行為そのものの中(性交に参与しているという満足感)にだけ見出せ。あるいは自分のセックス・アピールの贈与の見返りは、他人の視線がもたらす快楽の中にだけ見出せ。要するにセックスのカテゴリーの外での見返りを期待するな。臓器提供における臓器の贈与の見返りは、臓器を提供するという行為のただ中(たとえば人類愛への奉仕)にだけ見出せ。臓器提供の外に見返りを期待するな。このようなストイックな囲い込みの思想が、タダならよいが金をとると悪いという倫理の基盤になっている可能性があります。
57 金がからむと「道具化」がすすむという話もあります。売春とは、男が自分の快楽の満足のために女性を道具として利用することだし、臓器売買も、自分の生命と健康のために人間の肉体を道具として扱うことである、というわけです。倫理学は伝統的に、人間や生命を「道具」として扱うことに反対してきました。しかし、我々の癒しがたい本性のうちに、人を道具として使うことへの衝動があることもまた事実であるように思います。
76 運動で負けるからこそ、言説面では敗者が光る、っていうメカニズムを、どこかでちゃんと計算にいれているんじゃないか・・・
82 二つの相容れない勢力が戦いをする。このとき、一方が勝ち、他方は負けます。勝った方は、敗者を徐々に征服し追い詰めていく。ただしこのとき、滅びゆく敗者は、死に際に、強烈な怨念のシャワーを発します。このシャワーの毒は、多くの人々に良くない影響を与えるかもしれない。そこで、勝者は現実世界での勝利と引き換えに、敗者に架空世界での勝利を渡す。そうすることで、敗者の怨念が「鎮魂」をとりおこない、戦いを集結させる。
106 「不自然だ」というのは、人間の気持ちの問題、つまりある種の自然プロセスを見たときに人のこころに湧いてくる「気持ち」の問題
118 自然にかえれという魂の衝動が、生命を抹殺せよという方向へと突き詰められてゆく。たぶん、「自然=生命」と考える人たちは、これとは逆に、「自然にかえれ」とは、<いのち>がつぎの<いのち>を連綿と生み続けてゆく、その生命の連鎖への参与のことだ(後略)
130 ナウシカを見てください。彼女は、自分の意志と判断力で行動する、自立した少女です。そして、危機に直面したときには勇敢に戦うことのできる「戦士」です。ナウシカは、性的には未成熟でありながらも、自分の足で自立して立ち、すなおで、勇敢で、かわいらしくって、ほのかなエロスを備えている。 同 そういう「少女」のエロスこそが、我々に宗教的とさえ言える思想のパラダイム・シフトを引き起こすことができうのですから。思想の次元での転回を導くような、少女系エコ=フェミニズムのことを、私は「ロリコン・エコロジカル=フェミニズム」と呼びたいのです。
172 「正義のいやらしさ」や「権力のドロドロ」をも自らのものとして引き受け、そのうえでそこに還元できない「愛」や「倫理」を見失うことのない地平で、それらすべてとの永遠の格闘を――つまり答えのない闘争を――続けるようなものになるはずなのです。(「生命学」)

水谷修『夜回り先生』小学館文庫(Kindle版)、2011年。/水谷修『夜回り先生と夜眠れない子どもたち』小学館文庫(Kindle版)2011年。

・学生の頃に読んだ2冊である。今回は薬物依存に関する勉強をする必要があり、その情報収集がきっかけで読むことになった。
・薬物依存の詳細は次書に譲るとして、本書は古いものでありながら、氏がライフワーク(?)として行っている「夜回り」と、そこで出会った子どもたちに関して書かれている。
・書籍化されているわけだから、もちろんこれがすべてではないだろうし、この内容で「夜回り」の是非が問えるわけもない。ただ、一つだけ言えるのは、水谷氏の「夜回り」によって、救われた人がいるということである。
・当然、救われなかった人もいるわけだが、要は是非で問えないということである。きっと「やりすぎだ」とか「何かあったら誰が責任をとるのか」等言われてきたのだろう。
・水谷氏は、少なくとも本書においては、この点一貫しているように読むことができた。すなわち、(多くの人の支えがありながらも)自分で負える責任の範囲ですべてを行っている、ということだ。
・水谷氏の立場は明確だ。「支える人」に徹し、「子どもたちを夜の街から出ていく」ようにする。それは、明日のために未来のために、と単純明快な立場である。ただ、その立場を貫くことが、現代においては最大級の困難さを伴い、常に悩み続けなければならないことなのだろう。

(以下、引用)
1:
No204 「水谷先生、彼を殺したのは君だよ。いいかい、シンナーや覚せい剤は簡単にやめさせることができない。それは“依存症”という病気だからだ。あなたはその病気を“愛”の力で治そうとした。しかし病気を“愛”や“罰”の力で治せますか?高熱で苦しむ生徒を、愛情こめて抱きしめたら熱が下がりますか?『お前の根性がたるんでるからだ』と叱って、熱が下がりますか?病気を治すのは私たち医者の仕事です。無理をしましたね」
2:
No43 目的は二つある。一つは薬物の売人や、風俗のスカウトが子どもたちに近づかないように注意すること。もう一つは、より多く子どもたちと出会い、彼らの将来について真剣に語り合うことだ。
No387 会う前に変わってほしかった。自分で決めて、責任を持ち、一歩を踏み出しなさい。私はすべての子どもにそう伝えてきた。さもないと、その子どもは最初に手を貸してくれた人間に依存するようになってしまう。それだけは避けたかった。一人の人間を一時的に手助けすることは簡単だが、一生助け続けることは不可能である。
No577 ドラッグは人を3回殺します。(心、頭、身体)
No672 子どもは失敗して当たり前である。でもその失敗を許せない大人があまりにも多すぎる。

松村卓『ゆるめる力 骨ストレッチ』文藝春秋、2015年。

・スポーツトレーナーとして活躍する著者が、「骨」にこだわって考案したストレッチを紹介する一冊。筋肉ではなく骨の動きと、それらのつながりに着目し、身体の広範囲を「ゆるめ」、心地よい動作を提案している。
・甲野善紀氏の著者等で、筋肉ではなく骨を意識することで得られる動作感覚について、学び、意識してきたことはあったが、具体的なストレッチ(ほぐし方、ゆるめ方)を丁寧に解説しているものは初めて。
・やってみると、確かにいつもと違う感覚はある。これまでと違うリラクゼーションの方法だと思われる。確かに「心地よい」という表現が合う。
・後半の「体をゆるめる=心をゆるめる」のくだりは、実感レベルでは同意できるのだけれども、気持ちや心のもちようにとどまっているため、体のしくみからリラクゼーション効果が導かれると、もっと有用と思えることができるだろう。

(以下引用)
40 バラバラではなく、すべてつながっているのです。(略)体のコリや痛みを取り除き、自然な動きを取り戻すには、まずは体ののパーツをつなげていく必要があります。そこでカギを握るのが「骨」なのです。滑らかな体の動きは、骨をうまく連動させることで実現するのです。
44 体の末端を閉じると、バラバラに動いていた体の各パーツが一つにつながり、体全体で動けるようになる。
78 骨組みで体の重さが支えられているからこそ、必要最小限の筋力でもラクに立つことができるのです。
116 姿勢のゆがみ=猫背は、体に様々な付加をかけてしまいます。主だったものは次の三点が挙げられます。 1.筋肉が硬くなり、肩や首が自由に動く範囲が狭くなる。 2.頸動脈が圧迫され、脳への血流が低下する。 3.横隔膜がふさがり、呼吸が浅くなる。
119 (「骨組み」のポイント)
1.ゆるんでいるけど、だらけてはいない
2.体を「骨組み」で支えている
3.無駄な筋力を使わずに動作ができる
122 固めるよりもゆるめること。固まりやすい生き方をしている私たちは、もっとゆるんだほうがいいのです。
167 つかみどころのない心をコントロールすることに腐心するより、まずは体に目を向け、心地よさを取り戻していってはどうでしょうか。骨ストレッチをこまめに行い、心地よく動ける体が手に入れば、心も自然とほぐれ、気持ちが前向きになっていきます。
180 居着かないように考え、発想することで、心がラクになり、これまで出せなかった力が出せるようになる。
187 常識に縛られ、居着いてしまう自分の存在をまず認めるところから初めてほしいのです。

2019年7月20日土曜日

T’sアフォガード

タリーズさんの(隠れ)メニューに、アフォガードがあります。アイスをやってるタリーズさんならではのメニューで、知っている人は知っている、アイスにエスプレッソかけたやつです。
なにかの本でこの食べ方(飲み方)を読んで、それからこのタリーズさんのアフォガードが一番しっくりきています。10分くらい時間があるときにはちょっとした休憩時間や移動の合間なんかにつついています。
以前はアイス2つにエスプレッソかけてくれたのだけれども、最近はカウンターで「アフォガードできます?」って聞くと「えっ」と言われることも多い。若い店員さんの時にはわからないこともあるみたい。「申し訳ございません」なんて言われたら、「じゃ、エスプレッソをダブルで」という流れなんだけど。「あっ、できますよ」なんて言ってくれるときも、ここ2年ほどアイス1つが続いており、お店の方でもメニューが代わっちゃったのかな~なんて思うところです。
すっかり隠れメニューみたいになっちゃったアフォガードですが、うまいものはうまい。みなさまもご賞味あれ。「あれ?アイス2つじゃないんですか?」って言ったら、2つになるかもよ(笑)。

https://iyokiyeha.blogspot.com/2013/08/tullys.html

2019年6月29日土曜日

後閑愛美『1000人の看取りに接した看護師が教える 後悔しない死の迎え方』ダイヤモンド社、2018年。

・知識を得る読書になった。「様々な死の迎え方がありますよ」というケーススタディだけでなく、豊富な経験から「死の分類」「老衰」「延命治療」「看取りの作法」について論じている。
・死の分類
 人間の死には4つの分類がある(28ページ)
 1.肉体的な死
 2.精神的な死
 3.文化的な死
 4.社会的な死
 -身近な人との関わりが大切だと思う。家族・友人・最期まで自分に関わってくれるあらゆる人との関わり。
 -忘れられること、忘れられないこと、社会的な死は、肉体的な死よりも続くもの。  -意思表示は、肉体よりも続くもの(精神的)
・親の死に目に会えないの本意は、「親よりも先に死ぬこと」であり、立ち会ってほしいこととは少し違う。

(以下引用)
・老衰こそが理想的な死(38ページ)
 すべての臓器の力がバランスを保ちながらゆっくり命の続かなくなるレベルまで低下していく(こと)。一部が衰えて、他に元気な部分があると苦しい。
・口からご飯を食べられなくなったら、胃ろうで延命するか、手足から直接血管に針を入れる抹消点滴か、皮下点滴で老衰による死を待つか、もしくは何もしないか、この3つの選択肢から選ぶ。(159ページ)
・点滴だと体力が回復しない。急性期には胃ろうの選択肢も考える。
・看取りの作法(240ページ)

2019年6月2日日曜日

長尾彰『宇宙兄弟「完璧なリーダー」は、もういらない』学研プラス、2018年。

・ご縁ある方が上梓されたので、確認読書しました。
・グループファシリテーションとチームビルディングの現場からの豊富な事例と、漫画『宇宙兄弟』の引用とで、「リーダーシップ」像を浮き彫りにしており、内容がイメージしやすく、大変読みやすい本である。
・リーダーとは「生き方や働き方のハンドルを自分で握っている人のこと」と定義しており、「それは、あなたがすでにもっているもの」「『発揮するか、しないか』の違いでしかない」「他者だけでなく、自分に対しても発揮されるもの」とする。
・著者のファシリーテーターとしての経験と、そこで見聞きし、出会った人たちから「シェイク」されたことを、率直に素直に表現している定義であると思われる。
・相手に興味をもち、よく観察すること、コミュニケーション量を増やすこと。「タックマンモデル」を意識する、チームビルディングなど、具体的な行動レベルでの助言も多く表されている。チームで仕事をするすべての人に勧められる一冊。
・2019年のGW浜松市に帰省した時、地元の本屋さんで平積みになっていました。

森岡正博『電脳福祉論』学苑社、1994年。

・ヒトの生き方を考える上で、科学技術という背景は切り離して考えることはできないだろう。科学技術は、それが何であれ、我々の生活の中に入り込み、生き方に大きな影響を与えているモノ・コトである。
・それらが、別分野のものとして整理されてしまっているものも多く、私も今まであまり意識してこなかった。しかしながら、それらは日進月歩で進化・変化しているものである。
・森岡氏の提唱する「生命学」は、一貫してこの点を強調し、それらの結びつきの中で「よりよく生きる」ことを論じている。ただ、20年前の私はこの点について、興味はもちながらも「本論ではないもの」として隅にとどめる程度にしてしまっていたと思う。
・技術的な背景があり、社会的な未来予測をする間、今とこれからを生きる私が「どう生きるか」「よりよく生きる」とは何なのかを問う姿勢が、生命学の本質に近づくためのキーワードになるのだろう。
・本書は、25年ほど前の対談集であるが、当時各分野で最先端を走っていた研究者達に、上記のような関心をもった森岡氏が持論を展開し、論点が広がり、深まっていく軌跡が描かれている。
・一部、難しい部分や、ある論述が対談社に論駁されていく様子も記されている。ただ、基本的には無痛文明論が芽を出し、花開く手前のイメージが確かに現れていると思われた。
・学生の頃には流し読みにしたきりになっていた本著であるが、日々新たな技術が世に出される現在だからこそ響く内容であると感じた。

(以下引用)
ⅳ 議論の渦の中心にあるのは、先端テクノロジーと生命をどう考えるかという問い、言い換えれば、情報技術社会における人間の福祉の問題であった。
4 メディアは常に人間の身体を拡張するだけでなく、人間の心も拡張するし、魂も拡張する。
10 電脳社会の特徴として、シャーマニズムとテクノロジーとの奇妙な合体というのがあると思う。つまり、それは、人間の事故変容にかかわる。身体においても意識においても、いままでの情報の処理の仕方と全く異なったテクノロジーが、意識と身体の変容を生み出しているということです。
28 サイボーグ化は、そういう人間のこだわりや執着を克服し、かなえていく一つのプロセスかもしれない。そしてサイボーグ化がとことん進んで、極限の身体性というものがもたらされた場合、そこでは葛藤やコンプレックスはほとんど消滅し、後天的な「完全な意識」が生まれて来るかもしれない。
33 将来本当に意味のあるテクノロジーというのは、苦しみを回避するんじゃなくて、逆にそれらを引き受けるテクノロジーなんですよ。苦しみを引き受けることによって人は奈落の底に落ちるかもしれないけど、それによって人間は成長することができるわけです。こういう人間の逆説を支えるような、新たな文明の形が出てこないと、いまの社会はますます人間の生命を枯渇させてゆくでしょうね。
70 人工臓器化は、集中治療室のように身体を維持するための人工臓器群と、もう一つは閉じこめられてしまった精神活動を解き放つ人工臓器群の二種類に大きく分類することができる。心や精神を解放する人工臓器が、バーチャルリアリティとかマルチメディアとかパソコン通信じゃないかと。
104 進化していけるようなプログラムが自律的に発生して、それが増殖して多様性を増していった場合に、それは一つの自然の系だと言えるんじゃないでしょうか。(補足:自然の本質?)
131 人間が自由と自己決定を拡大させていくこと自体が、実は大きなシステムの効率的な流れの一部となって取り込まれてしまうんじゃないか。
132 そういうネットワーク型社会における人間の自由の保障は、巨大なシステムの微細な管理とコントロールに裏付けられることによって初めて可能になる。
134 将来は、機械にサポートされながら生きていく老人・障害者・病人がマジョリティを形成する社会が、いずれ到来することでしょう。
135 身体のどういう場所が欠損していて、どういういところを機械によって補っているかによって、価値観もむちゃくちゃ多様化してくる。
137 健常者がマジョリティの社会では、マジョリティの人々によるある一つの“標準型”というものが認定され、その標準型からはずれていく程度に応じて多様性が生まれてくるという世界感がある。
162 テクノロジーが人間の自由の範囲をどんどん拡張してゆく結果”不自由”の範囲が縮小しはじめていて、そのおかげでわれわれ先進国の人間は”自由”の価値を実感できなくなってるんじゃないでしょうか。言い換えれば、自由を味わうことから疎外されているんじゃないか。
164 人間の自由は何かと定義することは、自由に対して規定を加えることになる。
168 生命というものが、自由でない領域から操作可能な領域に変わりつつあります。(略)その延長線上で進むとすれば、今までの文化的伝統に類するものが次第次第に衰え、勢力を弱めていくであろうと、私は思う。どれだけ協力な伝統であろうと、かつての勢力はもはや持てなくなると思います。
172 データがあれば社会問題がひとりでに出てくるのではなく、そのデータは大変な問題をはらんでるんだと誰かが政治的に創作して、はじめて社会問題となる。
182 政策の根拠となる報告書をどんどん出すべきです。
185 脳死なんかもふくめて、生命倫理の問題とは、情報化社会のメカニズムによって「作り上がられる」ものなのですね。いままでの生命倫理研究では、この情報社会というファクターが全く無視されてきました。(略)情報社会というのは、科学知識を含めて情報が正確に流れる社会ではない。
200 私は、生命倫理も、電脳メディア論も、マジメにやっているのです。なぜかと言えば、この二つの問題は、ともに現代の先端科学技術が、人間社会と人間の生命に対して突きつけている、文明論的な根本問題だからである。二十一世紀においては、生命を問うことは電脳メディアを問うことになり、電脳メディアを問うことは生命を問うことになるのだ。

出口汪『頭がよくなる!大人の論理力ドリル』フォレスト出版、2016年。

・「論理」とは「規則にしたがって、言葉を速く正確に使」うこと。(P4)
・私たちは、物事を「言葉」を使って考える。その言葉遣い(違い)が速く・正確ならば、「論理力がある(高い)」と評価され、一方で、その言葉使いが巧みであれば「感性がある」と評価される。
・論理が明確な文章であれば、多くの人に伝わる、わかりやすいものになる。一方で、感性豊かな文章は、それが分かる人にとってはより正確により情報量のある理解を得ることができる。
・論理と感性、いずれも言葉を用いるもの。相反するものではなく「ともに、言語処理能力を高めることで、鍛え、磨きあげることができる」もの(P204)。
・地味なドリル形式の本。文学作品に込められた論理を取り出して、論理力を意識した読み方ができるような問題で構成されている。おそらく、ターゲットは私のような一般人向けなのだろう。現代文(小説)程度の内容であると思う。
・文学作品を論理的に、言葉をおいながら丁寧に読むことをこれまでやってこなかったので、本著の内容は大変新鮮だった。

(以下、引用)
4 規則にしたがって、言葉を速く正確に使えれば、「論理力」となります。言葉の微妙な使い方が巧みになれば、豊かな「感受性」となります。
6 論理力が身につくと、次のような能力がどんどん開花していきます。 ①文章を論理的に読み、理解、整理することが楽になり、速読にも威力を発揮。 ②人の話のすじみちを、瞬時に理解できるようになり、のみこみが速くなる。 ③読み取ったことを論理的に考えることによって、思考能力が身につく。 ④自分の考えをすじみち立てて話したり、論理的な文章を書けるようになる。
10 文学作品とは、実に感覚的なものだと、思い込んではいませんか?もちろん、筆者の独自の世界観や鋭い感性がそこにはあるのですが、それを不特定多数の読者に伝えようとするとき、いきおい文章は論理的にならざるを得ないのです。
22 述語から、主語をつかまえることがコツです。
23 文章を論理的に読む基本は、「主語?述語」をおさえることだと考えてください。 同 言葉は必ず他の言葉とつながります。(中略)感動詞以外は必ず他の言葉とつながっているのです。
25 接続語に着目して読むのが、論理的な読解の第一歩なのです。
28 すじみちの立て方=論理は、大きく分けて三つあります。その一つが、「イコールの関係」です。(具体例、引用)
29 あるいは、反対意見Bを持ち出して、それをひっくり返します。そのようにして、自分の意見Aの正しさを説明できるのです。こういったものを、対立関係といいます。
31 論理的な文章では、筆者の主張Aと、その次の主張Bとの間には、「因果関係」が見られます。(中略)「だから」で結ばれた関係が、「因果関係」なのです。(「だから」の前に理由がくる 122)
64 小説の風景描写は視点となる人物の目を通して描かれるもの(略)風景描写には、その視点人物の心情が投影されているのです。
79 小説を読むときは、自分の生活感覚で読まないことが鉄則。
118 主語が省略されるのは、基本的に前の文と主語が変わらないときです。

○現代文読解法(出口汪『NEW 出口現代文講義の実況中継①』語学春秋社、2007年、62,63ページより。)
1.文章を「論理的につかむ」
(1)人間は皆先入観を持っているから、客観的に文章を読むということは不可能である。
(2)だから、自分の頭を信用してはいけない。
(3)入試問題の文章は、論理的である限り一つの結論・主張(A)の形を変えて何度も繰り返す構造になっている。同じ主張を反復しているのだから、それらの主張を重ねて解釈しなさい。
(4)この作業によって、先入観がおおい隠していた影の部分が光の部分と重ね合わされ、そこではじめて筆者の主張が正しく把握できることになる。
2.言葉を「文脈で固定する」
(1)言葉というものは所詮、個人言語であって、一人ひとりの感覚や知識の度合いによって様々な使われ方をするし、また状況や場合によっても揺れ動くものである。
(2)だから、筆者の個人言語を読者の個人言語で理解しようとしてはいけない。筆者の言語は筆者の言語の中でつかむということ。
(3)それは、とりもなおさず、文章の前後関係、つまり文脈から言葉の意味をつかむということである。

2019年5月21日火曜日

森岡正博編著『「ささえあい」の人間学』法藏館、1994年。

・出版時には新進気鋭と呼ばれていた5人の研究者による研究会の報告と、その成果物としての論文集。それぞれが異なる専門的立場から「いのち」に関わっている。研究会のテーマは「新たな社会において人々はどのように関わり合ってゆけばよいか」。1989年から5年間にわたる研究会の成果である。
・人間は決してひとりぼっちでは生きてゆけない。そのような人間たちを我々はどうすればもっと適切にささえてゆけるのか。そのような人間たちをささえる社会システムとは、いったいどのようなものか。(はじめに ⅱより)
・医療、看護、仏教(宗教)科学、社会学、倫理...専門の異なる研究者が、自分の立ち位置に根ざしながらも、その枠組みを超え、時にゆらぎながらも、成果としては確かに新たな議論の場を切り拓いていると感じるものである。
・何よりも、各論文(メモ)が、大変専門的な内容であるにもかかわらず、表現が一般向けになっており、丁寧に説明されているなどの工夫がなされているため、読み手の理解度に合わせて深まっていく内容になっているのだと思った
そして、それぞれの論文から、各人の思いが伝わってくるような、書籍として熱のこもったものとして編集されていることも興味深い。今読んでも全く古さを感じない。学術論文であるにも関わらず、読んで気持ちが高揚してくるのもまた面白い。
・個々の「ささえ」、相互の「ささえあい」が、社会問題と共通する「ささえ」とつながっていることをイメージできる論考に、視野が一気に広がる感覚を得た。
・25年前(現在は2019年)に世に出された本書で語られる未来イメージ(日本型福祉国家)が、パズルのようにパタパタと成立しているような気がしてならない。新たな南北問題に踏み込んでいるような現在の日本とその社会システムの中で生活しながら、冷静にそのしくみを語ることのできる人でありたい。
(再まとめ)
・21世紀、高齢福祉社会を突き進んでいく日本の社会がどうなっていくのか。そこで生きる人達を先導する哲学、人間観、社会観、生命観とは何か、について深く追及する共同研究の軌跡。
・一人では生きていけない社会における「ささえあいの人間学」を追求していく。身体だけでなく心をささえること、何をささえ、どのようにささえたらもっと適切といえるのか。末期医療における「ささえあい」をモデルにして様々な角度から専門の枠組みを超えて議論している。
・気鋭(当時)の学者5人が、5年間にわたり繰り返してきた会合と、その度に提出された論文を編集したのが本書である。研究会の成果というと、一般的には最終報告書が公開されるものだが、本書においては、この研究会に提出されたほぼ全ての論文を編集し公表することで(1)未来図として検討された議論の本筋から外れたいくつかのテーマも紹介している(2)検討の軌跡や、参加者が立場・考え方を変えていく様子がわかる、ような構成となっている。
・こういった形式の論文集(共同研究)に接する機会は滅多になく、大変新鮮な読み物であったということと併せて、哲学的な議論が加わることによって、どの分野からの切り口にもその不足点や要所や言葉の意味や定義のレベルで整理されていくことを感じた。一つのことが分かると、一つ視野が広がるような感覚である。本書の論文一つ一つからそうした深まりが得られたことで、また新たな疑問が提示されるとともに、私の疑問も深まっている。知りたいことは増えているのだが、それが気持ちのいいこととして感じられる。知的好奇心を刺激される感覚を味わうことができた。

(以下、引用)
ⅱ 完全には自律できにくい人間どうしがお互いに「ささえあって」ゆくという形の社会原理の可能性を探ろうとした。
(佐藤雅彦)ささえる人をささえること、既存の価値を現在にあわせて超えていく。
・ささえる人をささえることと、既存の価値を現在に合わせて超えていく。
221 (「仏教学」には)「異論を挟まないで、それはそれとしてきちんと受け止める」というあり方をした、信仰の学問としての一面があります。
222 たとえば、浄土宗の教学はこうあるべきだというものがありますよね。ところが現実の人に接して、いま悲しんでいる人に対してことばを伝えるときに、伝統的ながんじがらめの四角いことばを使ってはとても表現し切れない。やはり、その場ではその人に合った表現をします。けれども、やっぱり自分のこころの中では、どうもこれは本来的な浄土教の教え方からは外れているかもしれないという危惧は感じるわけです。
224 おそらく、現代に対応していこうとすれば、きっと従来の仏教学とか、伝統的な仏教の学問の体系からは、完全に逸脱してくるでしょう。しかし「学問的な体系」から逸脱したとしても、仏教そのものの教えが「真理」である以上、その「真理」から逸脱することはありえないでしょう。旧来の学問の体系からの逸脱を抜きにしては新しい学問の創造や、独創的な発想の展開は成立しないはずです。
229 率直に言って、ささえを受ける人がこころの安らぎを得ることができ、そのグループの中でしっかりとして、サポートができればそれでいいと思いますね。(略)
230 だから、僕はターミナル・ケアに宗教者が直接参加すべきだという画一的な理論には否定的です。
同  宗教はターミナル・ケアに関わる人たちの、知識・感性などさまざまなものを貯蔵する「タンク」として機能するのか、今後の日本で求められる方向性じゃないでしょうか。

(斎藤有紀子)スローガンではなく、対象を想定し、借りものの言葉(外来語)に意味を見出すべき
237 和語の中に私たちが安らぎを見出せるのは事実ですが、和語は「説明不要の安心感」を私たちに抱かせる。→だから「ささえあい」を論じると、心得的になる。
238 ささえが必要な場面では、そこにいる人々はたいてい現実と格闘しています。彼らはぎりぎりの状況に置かれてもなお、目前の現実と向き合っていかなければなりません。その過酷さを少しでもささえるには、具体的な問題解決システムの確立を目指す必要があるでしょう。輸入された概念は、この「問題解決システム確立」過程で、私たちがすべきこと(してはいけないこと)を、具体的原則にして指し示します。それは、ささえを必要としている社会的弱者にとって、和語(耳に心地よいが現実のどの場面を説明するのかよくわからない)よりも、よほど力になるものではないでしょうか。
240 終末期を迎えている患者/看護・介護を必要とする高齢者/判断能力が不十分とされる子どもたち/障害をもつ人々に対し、彼らの主体性を尊重した医療(ケア)を提供しようと考えたとき、果たして現在のような「保護し、保護される」関係でいいのか。保護することと主体性を尊重することは、ときにぶつかるのではないだろうか。
241 私はこれまで権利主張を前面に出す物言いに、かなり抵抗してきました。自己決定「権」といってしまったときに感じる居心地の悪さと、しかしそれに目をつぶっては、私たちが善意と思っていることが空回りしてしまうのでは、という危機感を行きつ戻りつしておりました。(略)しかし「実質的に」制度をささえ、他人が尊重されるためには、やはりまず権利から始めるのも得策だと最近感じ始めています。
242 「ささえあい」という可能性に満ちた和語を「権利」「個人」「自己」という概念なしで使うとき、一つ心配なのは、前回の論文でふれたように、周囲でささえる人の大変さを誰も肩代わりできないことです。(略)冷たいスローガンに終わってしまいます。
243 「個人」を想定し、「権利」を定め、それに対する「社会」の義務をはっきりさせることが、ひとつ実質的なシステムとして、ささえの基盤となってきます。借り物の「権利」「自己」「個人」「共感」「自律」概念を利用しながら、それをいかに私たちらしく、私たちの社会になじむ方法で運用してしまうかが、一つの試されどころでしょう。

(土屋貴志)ささえあいの本質
304-305 「ささえの原則」
 根本原則:「共感」が達成されるよう努めるべきである。
 二次原則:
 (1)相手にかかわっていこうとする
 (2)相手の可能性を信じる
 (3)事実に直面しそれを受け容れなければならないのは、その人自身なのであって、他の人が代わってやることは決してできない
306 自分以外の人が何を考え、何を感じているか、全部わかるわけではないが、全然わからないわけでもない。私たちは言語表現や身体的表現を通じて、他人の体験しているものを限定的に感じ取ることができる。だからこそ、この限られた能力をフルに活用して、なるべく本人の体験しているそのままを感じ取るべきだといえるのです。
 認識に関する命題 ⇔ 存在に関する命題
308 共感の本質とは、重荷を代わりに背負うことではなく、背負っている本人を一人ぼっちにしないこと
310 死に対する恐怖や不安そのものを完全に解消することは、(宗教を含め)いかなる「ささえ」をもってしても不可能かもしれません。しかし、それはしばしば非常に大きな助けになります。この「分かちあい」こそ「ささえあい」の最終的な到達点のように、私には思われるのです。

(赤林朗)ささえ業
319 「ささえ」においては、「ささえ」られる側も「ささえ」る側と同じように重要なのです。(コンサルテーション・リエゾン P321)
322 「ささえ」行の特徴、「調整的仲介的」な機能。もう一つは、常に実践に携わり「ささえ」を必要としている人との直接的・間接的な関与を通じて、「ささえ」を達成していくという特徴です。理解を見出すにしても、それは実践の中から得られるものです。
325 「ささえ」業を現実化させるためには、「実践の科学化」という考え方も参考になります。
(森岡正博)
329 「ささえあい」の実践には専門分化した個別的な「援助」と、それら相互をスーパーヴァイズする「調整・仲介」機能の二種類が必要であるという点が、よりはっきりするように思います。
330 「ささえあいのシステム」の全体像 「『ささえ』の四つのカテゴリー」
 (1)「ものや環境を与える<ささえ>」
 (2)「技術や機能を与える<ささえ>」
 (3)「情報や心の糧を与える<ささえ>」
 (4)「存在を与える<ささえ>」
同  各自はそれらが心得を自分のこころの中で唱えているだけではダメだと思うのです。というのは、まず社会の構造上の問題があって、それが原因でなにかの問題が生じている場合、いくらみんなが心得を唱えて行動しても、事態は全然解決されないからです。
332 (1)について(略)将来は社会の主流になるであろう非健常者が生活できてそして死んでいけるような「都市」を、計画的に作ってゆかねばならないのです。
335 これを成功させる秘訣のひとつは、都市の立体化にあると考えています。
336 (2)について、ボランティアの力が、将来の福祉施設を運営してゆくうえでのキーとなるのはまちがいありません。
337 そこで、ボランティアでもない、パートタイマーでもないという、新しいカテゴリーの援助職を作って運営してゆくべきだと思います。
338 「病院」に対応する「看護院」のような施設
340 (3)について、生老病死にかかわる相談事と情報提供を一括に担当する「人生アドヴァイザー」という職種を作りだし、彼らがそれらの問題に包括的に対処するのです。(略)都市共同体の中では、人生アドヴァイザーの役割を、家族・親戚・近隣のネットワークに求めるのではなく、都市社会の中の「職業人」の中に求めなければなりません。
341 (4)について、家族によるこころのささえを補うものとして、私は「友人」によるささえに注目したいと思います。(略)そのにょうな友人関係のネットワークを、より多く形成させるような「文化」や「生き方」を醸成してゆくこと、これがささえあいのシステムを作り上げることの一部となるのです。
342 ひとつだけ確実に言えることは、ささえあいのシステムが根づいた社会とは、非常に多くの人が「ささえあい」のために働いている社会となるという点です。福祉社会とは、自分のためだけに働く比率が減り、ささえあいのために働く比率が増えるような社会のことです。
343 国外で安い労働力を搾取するという「帝国主義的・植民地的南北問題」から、国内で外国人の安い労働力を搾取するという「福祉型南北問題」への移行です。
同  これが、経済の優等生日本が、二十一世紀に世界に向けて示す<日本型福祉国家>の基本モデルとなるわけです。
344 いままでのささえあいの議論では、ある一つの社会に生きる「個人」の間のささえあいを念頭において、研究を進めてきました。しかし、その個人が所属する「社会」あるいは「国家」のレベルでの、他の社会・国家とのささえあいもまた、実は我々のテーマであったことに気づきます。
同  これからの日本社会を襲うものは、この暗黙の「同質性」の崩壊なのではないでしょうか。

2019年5月4日土曜日

ホセ・ルイス・ゴンザレス・バラド編、渡辺和子訳『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』PHP研究所、1997年。

・ご縁ある思い出の本だが、当時はパラパラと眺めていたものであった。きちんと読んだのは今回が初めてといえるだろう。
・マザー・テレサや「死を待つ人の家」のことを調べたこともあったが、当時「なぜそんなことをするのか」全くわからなかった。今もわからないことではあるのだけれども、マザー・テレサがそうした活動に取り組む「理由」の一端は感じとれたような気がする。
・人を助けることの意味、貧しい人たちとの関わり方、それが清く尊いことは感覚として了承できても、到底納得できることではなかった。今では、分からないなりにも、若い頃に感じていた「拒否」にはならない。「わからなくはない」ところまでは受け入れられるようになった。
・今回つかんだことは、マザー・テレサにとって出会う人ーー友人、先生、道ゆく人、だけでなく、助けを必要としている人、死にかけている人を含めたあらゆる人ーー全てがイエスその人であるとする感じ方、考え方、物事の捉え方というところ。マザー・テレサの様々な言葉に貫かれている意志は、この点の近くにあると思える。
・この学びは、「今、ここ」の感覚や、禅の思想にも通じることのように思える。絶対的な何かを感じ取る、あるいはそれすら手放し「今、ここ」のみを感じ取ることとの接点であるように思えるようになった。

86 ハンセン病者、死にかけている人、飢えている人、エイズに羅っている人々は、すべて皆、イエスその人なのです。
87 あなた方がこれから触れる貧しい人々の姿の中に見るキリストと、ミサ中のキリストは全く同じなのですよ。