2022年1月30日日曜日

衆愚に見える目

 衆愚政治 ochlocracy 民衆を利用した扇動政治家によっておこなわれる、民主制の堕落形態とされる政治。(山川出版社『世界史用語集』より)

ギリシアの政治形態の変遷を読んでいくと必ず登場する用語。「政治」のことを言っているのだけれども、現代にも通じるよなぁ、と感じるところがあり。

息子が「子どもはオミクロンにかかるよりも、ワクチンの副反応の方が怖いんだって」と言ってくる。なるほど、テレビからの情報をとるとこういう理解になるのだな、と感じたところであった。たまたまFacebookを見ていたら「読んでください」みたいな記事があって(私にとってはお行儀の悪い内容で)同様に「子どもにワクチンを接種させないでください」といった懇願の投稿を目にしてしまいました。

確かに、政権や国の機関に信用がなく、「実はね…」という話の方が信ぴょう性がある、ということもある。大勢の人が集まれば、理由がないことであっても「こうなんじゃないか?」という問いの提出が、ある立場を形成して、あたかもそれが真であるかのような理由になることもある。たとえ、全く根拠がないことでも、です。

世の中、立場や背景が違えば、同じ問いに対する回答が異なる、なんてことは珍しくない。「真実は一つ」であっても、その解釈はその当事者、関係者、傍観者で異なり、さらに個人ごと他の誰とも同じではない背景があるので、「真実の解釈」は人の数だけ存在する、といっても過言ではない。ですから、自分の考えを主張して伝える時には、それなりの作法が求められるわけで、それが学術論文の作法であったり、これまでに培われた情報源としての信頼だったりするわけです。

WebやSNSという空間は、そうした作法や信頼をすっ飛ばして、広く多くの人に自分の主張を届けることのできる場なんです。根拠も示さず(あるいは間違ったデータを使って)持論をあたかも真実であるかのように主張するのは控えていただきたい。本当は助けられる生活が根底から崩されてしまう危険を引き受ける覚悟がない人は、きちんと学術論文の作法で主張をしてください。情報選びの邪魔になるだけです。それにしても、そんなデマをまき散らす人たちは一体何を目指しているのだろうか?

と、この投稿もある意味主張ですが、私が言いたいのは「公共の空間(Web)で邪魔しないでください」ということでした。

2021年総括、2022年の抱負

今年もよろしくおねがいします。

昨年は喪中につき、新年の挨拶は控えさせていただきました。

コロナ禍でも元気にやっています。


年末年始はあっという間に過ぎ去って、その後自宅待機などあって落ち着かなかったのですが、例年に倣い昨年の総括と今年の抱負とします。


まずは昨年の抱負のふりかえりから。

1 読書の継続 40冊+Audiobook50冊分

2 10分体操+素振り20,000本

3 機会をつくって帰省する

4 新しい仕事・勉強に前向きに関わり、柔軟に適応する。


毎年反省ばかりなのですが、数値目標には届かないのが常になってしまっています。これは数値にせず淡々と記録するのがいいのかな、とも思います。読書量はもう少し増やしたいけれども、かといって足りていないかというと、不足はしていない。ただ、もっと読みたいという気持ちはある、そんな感じです。

1の結果は、記録できたものを基に数えると、書籍14冊、Audiobook14冊分でした。月2冊分ちょっと、これに雑誌類。ちょっと視点を変えて、情報収集という目的から考えると、ラジオや音声コンテンツの利用時間は確実に増加しています。おそらく倍以上。ラジオの他、Voicyを使うようになったのが大きいか。「藤沢久美の社長Talk」や「話し方のハナシ」など、聴取が習慣化しているものもあったり、気軽に情報収集できるようになっています。こういったことを考慮すると、目標としては未達成とは言い切りにくい。ただ、もう少し本読む時間は作りたいんだよなぁと思うところです。

2の身体づくりは、10分体操はほぼ毎日、木剣等の素振りは15,510本くらいでした。このくらいになるのかな、とも思います。ほぼ毎日ラジオ体操と朝40~50本の素振りは欠かせず、開脚ストレッチやプランクをやっていた時期もありました。土曜朝イチのジョギングを再開させたので、体重を含め身体状況は概ね良好で維持といえるでしょう。

3帰省はできませんでした。2022年初めに3泊4日で帰省できたのは、今オミクロンが猛威を振るっていることを考えたら僥倖だったのだろうと思います。感染症がもう少し安心できる状況(感染そのものが落ち着いてくるor手軽な治療薬ができる、あたりか)になったら、連休を使って帰省しようと思います。母親をはじめ、家族のことが少し心配になってきました。

4は結局異動がなく、主査昇格のみで仕事は整理されずに増えたので、今までよりもしんどい思いをしていますが、それなりに楽しんでいる自分もいるので、前向きといえば前向きに取り組めているのかなと思います。

全体的には、前向きに守りに入っていたといえるでしょう。デルタ株が猛威を振るった後、ワクチン接種に社会が様々に同様し、ある程度落ち着いたら年があけてオミクロン株が猛威をふるっているというところです。いつ終息するのか、まだまだ見通しはつきませんが、変化の波にはきちんと乗りつつ、それでも地に足つけた行動をしたいものです。


ということを受けて、2022年の抱負です。

1 読書の継続 20冊+Audiobook20冊分+α

2 10分体操+素振り15,000本維持

3 30分程度を目安にした勉強習慣をつくる

4 新しい仕事・勉強に前向きに関わる。心穏やかに過ごす。


書籍だけではなく、AudioBookや雑誌、各種資料など、ありとあらゆることを学びの機会としてとらえ、情報や知恵を貪欲に取り入れていきたいと思います。このBlogの更新も発信の機会として、もう少しマメに更新したいものです。ここには数値目標を付けず、ただ、きちんとふりかえられるようにしたいと思います。3との関連で、資格試験を再度挑戦します。

身体づくりは現状維持で。2021年がなかなかいい習慣になってきたので、ジョギングとかウォーキングを取り入れて、平日は体操と素振りで体型も維持を目指します。アプリを使ったウォーキングを楽しみつつ、すべては体調維持・体力づくりに結び付けたいと思います。アプリの動画視聴の罠にははまらないよう。

そして、今年こそ異動かと思いますが、万が一の残留も含め、懐深く、ゆったりと、焦らず、深呼吸しながら、おみやげを残して、新しいところへ飛び込んでいきたいと思います。3月~5月はバタバタしそうだぞ。

もう一つ、身近な人たちとの関わり方で、現在進行形の課題があります。怒らないようにはなれたけれども、自分の心の状態を乱す出来事にいちいち反応してしまい、落ち着かない毎日です。心穏やかに過ごす、というbe課題を意識しつつ、余計な働きかけにも前向きスルーができるようになりたいものです。

ということで。遅くなりましたが、2022年の抱負ということで。今年もどうぞよろしくお願いします。

2021年12月26日日曜日

前川喜平『権力は腐敗する』毎日新聞出版、2021年。

 元文部科学省事務次官。現在は夜間学校のスタッフなどの活動をしているようだ。以前ここでも紹介した『面従腹背』の流れを受けるような内容の著書です。

『面従腹背』 http://iyokiyeha.blogspot.com/2020/03/2018.html


「何が事実なのかわからなくなる」というのが率直な感想。

 私は近年、「出来事は背景があって理解される」という、立場や相対性ということを意識して物事に向かうようにしているので、余計にわからなくなっているのかもしれない。抽象度が高くなればなるほど、それを観察する人の立場や置かれた背景が影響し、同じ場にいた人であったとしても見え方が変わってくる。どのくらい変わるかというと「はい」が「いいえ」になる、180°方向が変わってしまう、ことも珍しくない。公務労働であれば、地方と国とで抽象度が変わってくるし、政治の世界では更にそれを上回る抽象世界なのだろう。それを読み解ける人の読み解き方(深度)によって、解釈は千差万別になる、こういうことを考えさせられた。

 全編を通じて、前川氏が文部科学省幹部で仕事をしていた時から2019年のコロナ禍に至るまでに、政権と中央省庁周辺で起こったことを、前川氏の視点で描かれている。その立場は反政権で貫かれていると言えるが、それを差し引いて読んだとしても、前政権まで(現岸田政権はまだ読み解けない)に起こったことは、超法規対応が重なり、俗人的な政治が行われてきたように思われる。法制度を起点に見れば、そこに弁解の余地はないだろう。

 これは歴史的に見ても危険な兆候といえるのではないか。そんな感覚の中で、賢明な主権者という文脈の中で放った前川氏の一言が刺さる。「学ぶことによって国民は賢明な主権者になれる。賢明な主権者は賢明な政府を持つことができる。賢明な政府は国民のために仕事をする。学ばない国民は政府によって騙される。愚かな国民は愚かな政府しか持つことができない。愚かな政府は腐敗し、暴走する」(242ページ)

 地道に学ぶしかない。私は現在地方公務員として勤務しているから、その歯車の一つとしての顔を持っているが、とはいえ、地道に学び、おかしなことはおかしいと言い続けなければならないのだとも思い至った。

(以下引用)

47 退職してから発言している私などより、現職にいながら内部情報を国民に知らせた彼らの方が、百万倍勇気があると思う。

237 自由であるということは、人が自らの意思で生きるに値する人生を生きるということだ。

同 自ら考え、判断し、行動する「自己決定」「自律」がなければ、人間は本当に自由とは言えない。(中略:Eフロム引用)人間の心には自由を捨てて権威主義に逃げたくなる弱さがある。それは自ら精神的な奴隷になるということだ。「自発的隷従」という言葉もそういう事態を表している。自由から逃走し自発的隷従に陥った人間には、自由の価値が見えなくなる。人がなぜ自由のために戦うのかが理解できなくなる。

2021年10月2日土曜日

再度ポメラニアン

  勉強に書き物に、ときどき仕事っぽいことにも、再度POMERAを使うことにして、DM200を購入しました。10年くらい前にDM5、5年くらい前にDM30ときて3代(台?)目。その時々にテキスト入力をする機会があるために導入してきたのだけれども、いずれも重宝していました。機能を絞り込んで、テキスト入力に特化したこのデバイスは、バッテリーの容量もよく、ハードな使用にも耐えうるもので、私の好みのデバイスです。DM5は当時スマホ+Bluetoothキーボードの組み合わせに作業がとって変わったために友人に譲渡、DM30は樹脂のコーティングが剥がれてしまった(中古で購入したからかな~)のと、ハードに使ったからか、キーボードのジョイントが壊れてしまったので引退。それから2年くらいですが、奮発してDM200というわけです。

 Wi-fiを介したデータ交換が使えるようになっていたり、SDカードがそのまま使えるなど、私好みの機能が追加され、ジョイントもシンプルになっています。ポメラっぽいコンパクトさには欠けるものの、結局普段は鞄に入れるのだからと割り切って、いろんなところで使おうと思います。会議録とるのにいいんだよね。ウェビナー受講時のメモとりとかに期待しています。あとは今まで通り、朝のちょっとした作文とか。

 このテキストも、息子のサッカー送迎の待ち時間にちょいちょいと車の中で作成しています。今まではスマホでどーでもいいことに時間使ってしまっていたところに、一ついい刺激を作ることができそうなデバイスです。当面は試験勉強にも使えるかなーと、期待しています。また、ちょくちょく報告しますね。

葛西眞彦『間接護身入門』日貿出版社、2019年。

  元刑事、現間接護身アドバイザー、現在は台湾で武器を使った競技格闘技に取り組む著者が、「身を守る」ことの全体像を示した一冊。元警察官で、様々な武道・武術に取り組んでいる、ということで、おそらく1対1で向き合えば「身を守る」ことはできるだろう著者が「それでも気をつける、常に気をつけるべき」ことをまとめており、いわゆる肉体的に襲われた時に身を守る直接護身と区別して「間接護身」という概念を提唱している。

・付き合う人間の普段の様子から“要注意”の人物を縁が浅いうちに見定めておくことで、様々な被害や不要なトラブルを回避する。これが間接護身の真髄です。としている(17ページ)。

・誰でも取り組めることでありながら、腕に覚えるある/なしは関係ない。身体技能はあった方がいいが、それが本質ではなく、どちらかというと「トラブルになる可能性の高い人間関係からあらかじめ距離をとる」ことが重要であるとしている。

・直接襲われた時に対応する直接護身は、肉体的にも、精神的にも、そして法的・社会的にもリスクが高いとする。腕に覚えがあったとしても「本気で人を傷つけよう」「殺そう」と思っている人の不意打ちに即応できるのはまれ。運良く相手を制することができたとしても、それが過剰防衛かどうかは検証され、やりすぎれば社会的な罰を受けることも少なくない。

・人をよく見ること、違和感のうちに安全を確保すること、自らトラブルに近づかないこと、これらが「自分と、自分の周りの人の安全を確保する」ことになる。こうした方法論が「間接護身」の考え方といえる。


 「危険を感じる」ことはある。感覚的なものであるときには、それをどうするか、その状況にどう対応するか、どう行動するか、ということについて、これまではそのときの気分を含めた自分の判断、が優先していた。しかし、本書には「自分とは見える世界が全く異なる人」が自分に対して危害を加えてくるリスク(不確実な可能性)について、様々なデータや事例を通じて教えてくれる。著者は、1対1の体術にどれだけ自信があったとしても、不意打ちに対して適切に(肉体的でなく、社会的にも)対応できる人は(ほぼ)いないと断言している。

 このことは、武術を習うことが無意味ということを表すのではなく、むしろ「危険は誰にでも起こりうる。知識や感覚を総動員して、トラブルから未然に距離をとるための考え方や人の見方を説明している。直接護身から「間接護身」を含めた、いわば総合護身というものを想起させる内容である。


■以下引用

290 間接護身に大事なのは仕事も私生活も、情を大事にして、人と付き合うことではないかと、今さらながら改めてよく感じます。情を大事にして人と付き合うことが、護身における最大の武器であり盾となるものなのかもしれません。

2021年8月8日日曜日

石坂典子『絶体絶命でも世界一愛される会社に変える! -2代目女性社長の号泣戦記』ダイヤモンド社、2014年。

  地元にこんな企業があったのか、と素直に驚かされました。休日の遊び場として、石坂産業さんの「三富今昔村」に遊びに行ったことはあったのですが、社長さんの紹介なんかを読んで、興味が出てきて読んでみた一冊。

 いろんな切り口があるのだけれども、一つ取り上げるのであれば、先代から受け継いだ経営理念「謙虚な心、前向きな姿勢。そして努力と奉仕」に全てが集約されていると思う。公害(ダイオキシン)問題の影響を受けて、これまでの実績がゼロどころか、マイナスもどん底まで地に落ちた石坂産業が、先代の英断や典子社長のアイデアとで盛り返していく様子が記録されている。その様々な取り組みを支える細かな方法は、全てこの経営理念に支えられていると思えるものだった。

 取引企業のトラックから液体が漏れだしているのを見て、プラントを止めて全社員で掃除にあたる、環境基準(ISOなど)を短期間で取得する、社員の大半が辞めても「正しい」と考える社員教育を続ける、地域への奉仕の視点を忘れず広大な里山管理を継続している。語られる事例はどれも派手に見えるところがあり、アイデアパーソンとしての典子社長の手腕として語られそうだけれども、その側面は残しつつ取り組みを支えたのは、上記経営理念を体現できる先代の存在と、その遺伝子(生物学的、社会的含む)を引き継いだ典子社長の意思、そしてそれを感じ取って「自ら考える」人に成長した社員さんが、同じ方向を向いて取り組むようになっているから成し遂げられていると思える。人材育成の更なる目標として「社員には、ものを大切にするレベルへ達してほしい。」(125ページ)と言い、シンプルな言葉の中に、価値観の変化や物への愛着など、社会に生きる人として大切なことを詰め込んでいるように感じました。

 もちろん、全ての取り組みには、本著に描き切れない背景があってこその結果があるわけなので、石坂産業の真似をすればうまくいく、というものではないのだけれども、他者(地域)との共存を本気で考え、できることを愚直にまっすぐに取り組むことと、そのための仕掛けが必要、という点については、謙虚に学ぶべきことだと思いました。


石坂産業株式会社(企業Web)

https://ishizaka-group.co.jp/

三富今昔村(当該企業が運営する里山を活かした施設)

https://santome-community.com/

2021年8月1日日曜日

「笑いをとる」とは、「おもしろい」とは

ウチの子どもらと、テレビのバラエティの話。

最近、我が家の子ども達も、芸人さんのネタを引き合いに出しながら会話するようになってきた。「おもしろいこと言って」とか「それは面白くない」など、傍で聞いていたら何が面白いのかよくわからないことを、何やらこねくり回している様子を時々見かける。子どもたちは、そんな父親の様子をおそらく感じ取っており、私にはその手の話をしてこないのだけれども。

長女、長男、次女、三人が三人とも、本気で何かに取り組んでいる時には、その事の大小はともかく感心させられるし、本気でやった時の失敗やへまは、非難すべきことではなく、助言のきっかけだったり、思わず笑ってしまう出来事であったりするわけです。私にとっては、本当の意味で「面白い」ことであるわけですが、どうもこの「面白い」と子ども達が会話の中で使う「おもしろい」との間には、大きな隔たりがあるような気がする。

元々Iyokiyehaはテレビをあまり見ないのですが、子どもが観ている番組が見えると、何が面白いのかわからないような、人をコケにした話題で子どもたちにも爆笑が起こるのを観ると、なんだか複雑な気持ちにさせられる。何だか、最近の「おもしろい」や「笑いをとる」というのは主語が「自分」に留まっているように感じられる。だから、そこに大きな笑いがあっても、それは「自分の集合」でしかなく、本気の芸人さんが狙うような「笑いの場」とはやっぱりちょっと違うような気がするんだよね。そういう中で形作られた「おもしろい」って、他人がどうあれ自分がおもしろければ(それで)いい、といった雰囲気が感じられるので、私はひいてしまいます。むしろ不快感となってしまのだな。

この辺は複雑です。子どもが観たいテレビ番組くらいは気持ちよく観てもらいたいけれども、私が(多分)嫌いなものを楽しんでいる姿が見えてしまうのは、複雑です。でも、こんなことを考えているのは、敏感な子どもたちにはバレているのだろうな。だから、私はそーっと自分の場所で本読んで過ごすとします。うーん、悩ましい。

八尾慶次『やとのいえ』偕成会、2020年。

  多摩丘陵(今の「多摩センター」あたりがモデルか?)の150年間を、その土地に設置された「十六らかん」さんの目を通して描いた絵本。古くからある農家さんが、駅前開発の波にもまれ、一度は家が取り壊されて家族も出ていったのだけれども、また戻ってきて今の家が建つ様子。それを人々の営みとともに描いている。長い期間(150年!)の定点観測と捉えた時には、多摩丘陵の歴史が分かる絵本ともいえる。

 手に取ったのは偶然です。ここ1年くらい、次女と隔週で図書館に行くのだけれども、最近は娘が自分で借りたい本を探せるようになったので、自分も数冊借りて読んでみることにしたところ、素晴らしい絵本に出会えるようになった、というところです。

 「やと(谷戸)」とは、「そこの平らな浅い谷のこと」で、丘陵地の奥深くまで入り込んでいる地形のことです(33ページ)。地域によって「谷津」「谷地」「谷那」などとも呼ばれます。小高い丘や低い山々の低いところの平らな土地で、関東で言えば東京都の西部にその土地が多く見られます。昭和40年代(1960年代後半から1970年代にかけて)これらの丘を切り開き、谷を埋めて、現在の多摩地区(住宅地中心の街並み)となっています。本書では、その移り変わりを「らかん」さん(お地蔵さん)がずっと見ている、という設定で街の移り変わりを描いています。著者にはひょっとしたら、現代へのアンチテーゼみたいな考えがあるのかもしれないのだけれども、読む立場としては、非常に淡々と、時代の移り変わりだけが読み取れます。その土地に暮らす人の生活、嫁いできたことで変化が生まれ、なくなることでまた変化する。人の生活を通じて、家庭の変化をも描いています。

 Iyokiyehaは1979年生まれ。ちょうどこの土地の開発が始まった頃に重なります。農家を営んできた「あるじ」さんが在宅で介護を受けて生活しているのですよね。後年亡くなって、この家は取り壊され、家族も転居するきっかけになるわけです。当時は、一変化、だったのだろうけれども、振り返ってみたら、割と大きな変化にあたるのかもしれません。街並みが変わり、生活が変わり、家庭のありかたも変わる、その時代の転換点だったのかもしれませんね。こればっかりは、歴史を振り返り、ある立場から物事を眺めた時に整理できることであって、その時々は生活の連続でしかないわけですが。

 きれいな絵を眺めているだけでも面白いのだけれども、こうしていろいろなことを考え、変化を感じ、解説によって深められる良い一冊だと思います。

2021年7月25日日曜日

夢や目標は「ない」でいい

先日の続き、になってしまいそうですが…

こないだの投稿の発言の主を批判するつもりは全くない、というのを前提に。矛先は世の中へ向けて。

「藤沢久美の社長Talk」がVoicyで復活して、楽しんでいたところ、株式会社まぐまぐの松田社長のインタビューを聴く。洗濯を干しながらのながら聴きでしたが、「夢や目標を持たなきゃいけないような風潮がある」というくだりに、思わず手をとめて聴き入ってしまう。いや、松田氏は「情報と脳をダイレクトにつなぐイメージ」を持っているので、全く何もないというわけではないのですが、そうした大きなぼんやりしたものがあってもなくても、とりあえず目の前のことをやりながら、「好きなこと」をイメージしながらだんだん何かをイメージすればいい、という考え方に、「あぁ、こんな感じ」と思ってしまう。

Iyokiyehaは、人生の目標管理がたぶん苦手です。行き当たりばったり、とも言う。でも、転職した頃から、それがまずいと思わなくなりました。多分、同じ組織内や同じ業界など、同一尺度で測ることのできる価値観の中で、自分を磨き上げていくためには目標管理に基づく自己啓発が必要なのだと思いますし、そういう人には世に出回っている自己啓発本の内容ってうんと参考になるのだと思う。この手の人達にとって「夢を語れること」は、その人の実現しようとすることを具現化する有効な手段の一つになるのだと思います。

ただ、それとは異なる、多様な価値観の中をサバイブしていくための生き方というのもあるんじゃないだろうか。そこにあたっては、具体的な夢ってイメージはできなくて、二段も三弾も抽象度が上がったものが目標になるのだと思う。例えば「人と関わる生活」とか「好きなものに囲まれる生活」みたいな。それは職業を通じて実現するものかというと、そればかりではないでしょう。仕事をもった生活の中で実現するものかもしれないし、仕事と理想の生活は切り離されて、ON/OFFで語られることかもしれません。

そこまで深めなくても、

Q「将来の夢はなんですか?」 A「なんか、○○みたいな感じだけど、ぼんやりしています」とか「今のところ、ありません。好きなことは□□です」。なんて、回答があってもいいと思う。悩んでいるなら相談できるし、「決めろ」って言われて決まるものではないし。好きなことにコツコツしつこく関わっていくことで、周囲の見え方が変わってきて自分の進むべき道が見えてくるかもしれないし、そうでなくても自分にとって「心地いい」生活に向けて少しずつ変わっていくのかもしれない。そんな変わりかけのところに「もっと具体的に自分の夢を考えなさい」なんてアプローチは、その人の内発的なエネルギーに蓋をしてしまう行為なような気がしてなりません。そんなことを漠然と考えさせられたインタビュー番組でした。


https://voicy.jp/channel/1714/167760

藤沢久美の社長Talk 株式会社まぐまぐ 代表取締役社長 松田 誉史さん

働くことコラム10:生活支援の限界 -生活リズム

 久々の「働くことコラム」です。最近、雇用支援について身内向けに説明文書を作っているので、そこで改めて考えたこと。

 これから書くことの結論を先出しすると、

・生活リズムを治せるのは自分だけ

・目標か危機感の共有がなければ動かない

 ということです。

 職業カウンセリングのなかで、求職者の相談を受けていると、「仕事ができる/できない」以前の問題で、仕事が決まらない、仕事が続かない、という人が少なくない。支援計画にも「生活リズムを整えましょう」と書いてあって、本人の署名があったりします。話を聞いてみると「分かっているのだけども、早起きすると調子が悪いんです」とかなんとか。具体的に就寝時間と就寝前の時間の使い方を聞くと、24時過ぎ就寝で、直前まで動画を観ている、などなど。

 当時はカウンセラーを名乗っていたこともあり、「○○してみましょう」「■■を試してみましょう」なーんて提案(説得?)していたのですが、今振り返ればなんて悠長なことをやっていたのか、とくやしい気持ちで一杯です。もちろん、組織の都合もあったので、当時はそれで「やむをえない」と思いこんで仕事をしていたわけですが。

 今、私が支援者として、こう言ってきたクライアントが目の前にいたらどうするかな、と考える。私が策定する計画には「○時頃起床して、□時に家を出る」という目標にするかな。指標は自宅を出発する時間でドライに評価する。方法は助言をするけど、基本的には本人任せ。2週間経っても変化がなければ、計画再策定や助言を重ねるけど、職業リハビリテーションや就労支援という枠でできるのは、これくらいかな。

 そもそも、生活支援って限界があるんです。自分の目の前で生活を観察することは困難を極めるものだし、万が一観察できたとしても、観察者がノイズになって通常生活を送れなくなる可能性が大なので、やれたとしてもおそらくやらないでしょうし、やる意味を考えたら労力が成果を上回る事例と言えるでしょう。

 大切なのは、「計画策定」の本来の意味のところです。本人のサインをもらうのが本質なんじゃなくて、「本人が納得して同意する」ことが重要。本人(クライエント)、支援者、関係者がみな同じ方向(目的)を向いて、そのための指標(目標)を共有して、これができてはじめて「本人のペースで」取り組んでいくことが求められます。

 はっきり言っちゃえば、理由はどうあれ、なんだかんだ言って生活リズムが変わらない人って、「自分の枠内でしか物事考えない」(≒考えられない)人がほとんどですから、自分の中に危機感や理想像が浮かび上がって、内発的な動機付けにならない限りは、行動が変わることはないでしょう。ただ、内発的な動機に変わった時に急激に変化することがあるので、それはきちんと支えないといけませんが。

 このコラムで繰り返しになるかもしれないけれども、仕事の現場で通用する「自分の力」って、それが「習慣になっているもの」だけです。業務遂行の技能だけは、とってつけた知識が結果を左右することもありますが、もっと土台の日常生活・社会生活の部分に関しては、習慣=土台になると思います。単発の技能は土台になりえない。ということで、支援者に求められる技能は、「助言の知識とスキル」「クライエントをやる気にさせる(危機感を煽る)相談スキル」「変化を見極める評価のスキル」という当たり前のことと、もう一つ「変わらないことを受け入れる覚悟」みたいなものじゃないかな。間違っても「生活リズムを、外(支援者)から変えられる」と思わないことです。

2021年7月17日土曜日

松本俊彦『薬物依存症 シリーズ ケアを考える』ちくま新書、2018年。

  タイトルの通り「薬物」、および「薬物依存症」に関する基礎文献。国立精神・神経研究センターで、長年この分野の治療と研究に携わってきた松本医師による著書。著者は本書を「紆余曲折の最近⑩年あまりのあいだ、薬物依存症の治療と回復支援について私なりに必死に考え、実践してきたことが詰め込まれています」と評しています。

 世界中の知見と、著者の経験が、(おそらく)学術文献並みの内容でもって、新書の体裁を保っているところが、本書の特徴といえるでしょう。この分野に関わったことがある、あるいは興味のある方であれば、内容は充分理解できるものであると思います。この表現力もすごい。

 人間の身体のこと、医療のことって、文字通りの日進月歩の世界で、私が薬物や薬物依存に対して持っていた知識を一新させ、さらに関わり方についてもその認識を改めなければならないと思うほどのインパクトのある一冊でした。今は福祉、以前は雇用の分野で、支援の対象者としての薬物依存者、その人の傍にある薬物に対して、私は傍からみたらちょっと変わった関わり方をしていたのだと思いますが、その関わり方を支持する内容もあり、一歩進む内容もあり、さらに改める必要がある内容もあり。そして、現状維持からちょっと改善の積み重ねていくにあたり「要求や結果を表現できる環境整備」が地域生活を継続する上で不可欠であることをはっきり認識できました。

 「薬物依存症の回復支援とは、薬物という「物」を規制・管理・排除することではなく、痛みを抱える「人」の支援なのだ」(299ページ)、「(ポルトガルの事例を受けて)薬物問題を抱えている人を辱め、排除するのではなく、社会で包摂すること、それこそが、個人と共同体のいずれにとってもメリットが大きい、という科学的事実ではないでしょうか」(310ページ)、「(自傷行為、依存症者の傾向を)『人』に依存できずに『物』に依存する人たちなのです」(322ページ)。

 これまで、「人の支援であり、統制排除ではない」という福祉の本質(だと思っていること)を横滑りさせて関わってきたところですが、本書はすっきりとその範囲を整理してくれたような気がします。

2021年7月3日土曜日

夢を語ること、目標をもつこと

 こども向けの文書を読む機会があり、ある大人が「自分が子どもの時は○○に没頭していたけれども、□□に興味を持つようになり、△△になった。夢は変わっても持ち続けていたらかなえることができる」みたいなことが書いてあったんです。

 この人の人となりはよーく分かっているので、こども向けにわかりやすい例え話を自らの経験から引いてきた、ということは容易に想像がつくのですが、Iyokiyehaにはコツンと引っかかる。「夢=職業」になっていることと「夢を持ち続ける→かなえることができる」という内容なんだろうな。

 「夢」とか「こうありたい」と思う自分語りそのものは、自分のためには必要なこと。他人の「夢」を聞くことは、自分にとって一つの学びの機会になりうる。しかしながら、それは職業と関連して語られることはあるのだろうけれども、「△△になる」ということが果たして「夢」としてふさわしいのかどうか、ということはよくよく考える必要があると思う。世の中には星の数ほど、数えきれないほどの仕事があり、同じ職名で語られても、置かれた場所や背景によって、その仕事が世の中に与える影響はそれぞれ異なるわけで、職業ってその土台だと思うのです。「目標」であったとしても「目的」とはいい切れない。職業で語るとすれば、△△になって自分がどうありたいか、自分がどうなりたいか、自分が何を成し遂げたいか、ということが「夢になりうる」だけで、自分に付与される肩書を「夢」と言ってしまうのは、わかりやすくても本質とはちょいと違うのではないか、と思うわけです。

 こどもたちに夢をわかりやすく語ることは、メッセージを余白に書き込むような行為だから、そこで△△になるのが夢、と言ってしまうのは、それを書き込まれて理解したこどもには「わたしは▲▲になりたい!」「僕は▽▽になる!」という、なりたい自分、ありたい自分を職業に縛り付けてしまうだけで、安易なキャリア教育になりかねないなぁ、と考えてしまいました。

 いや、ライフストーリーをきちんと聞く経験って大切ですよ。ノンフィクションやインタビュー番組とか、メディアにも様々ありますし、著名人でもそうでなくても、ある人の経験を丁寧に聴くことは、大きな学びになりうると思います。ただ、職業=夢、という安易なメッセージが広まって、職業選択を困難にしてしまう働きかけってあるんだよってことは、人に影響を与える仕事に就く人にはちょっと考えてほしいなぁ、と思った次第です。

2021年6月26日土曜日

中西貴之著、宮坂昌之監『今だから知りたいワクチンの科学 -効果とリスクを正しく判断するために』技術評論社、2021年。

  「ヴォイニッチの科学書」のサイエンスコミュニケーター中西貴之氏が、タイムリーな話題に科学の視点から一石投じた一般書。今世の中が求めるべき情報は、わかりやすくて信頼のある行政や公的研究機関の報告だけでなく、こうした長年の蓄積に裏打ちされた信頼できる民間人による一般向けの科学情報、なのだと思う。

 とかく、「科学の話題」というと専門家がきちんと(中にはイマイチなものもあるけれど)説明するものだけれども、その言葉は専門外の人にとって理解しやすいものであるかどうか、という点は疑問がある。かといって、テレビやラジオなどタイムリーなメディアで毎日基礎情報をやるわけにはいかないし、かといってWebの情報は選び取るのが難しい、というのが現状かと思います。

 著者は一貫して「ワクチンを積極的に摂取すべきもの」として、その理由を科学の視点から一般向けにわかりやすい説明をしている。その現時点のまとめが本著である。中学生~高校生レベルの生物学、化学の知識を基に、ワクチン接種を控えた私たちに必要な情報をきちんと説明してくれている。ワクチンは怖いものではないし、デマに踊らされることはない。しくみを知って、きちんと判断するための材料が満載です。これを読んで、接種する/しない、保留をきちんと選択すればいいと思います。

今西乃子著、浜田一男写真『命がこぼれおちる前に -収容された犬猫の命をつなぐ人びと』佼成出版社、2012年。

  前回紹介した『命のものさし』と同じ著者の作品。もっと児童書に近いかな。子どもと図書館へ行った時に探してみて借りたもの。

 Iyokiyeha家は、長女長男が動物アレルギーなので、犬を飼う、猫を飼う、という予定はないのだけれども、Iyokiyehaは昔『名犬ファング』(海外ドラマ)を観て、犬が飼いたかったことがありました。その後、気まぐれで父親が「柴犬を買ってくる」と出かけていったと思ったら、ウェルシュコーギー種を買ってきて12,3年程飼っていたことがありました。我が家だけでなく臨家にも懐いていたので、特に問題がはなく天命を全うし、何か問題を感じたことはありませんでした。

 本著はそのIyokiyehaの常識とは異なる土俵のお話。様々な理由(到底理解できないようなものも少なくない)でいわゆる保健所に持ち込まれる動物たち。ある水準を超えると殺処分される、というのが半ば(我々の世代では)常識となっているのだけれども、この作品はそれに一石を投じたボランティアと行政の協働のお話。

 「捨てるのは一瞬、救うのは大変」「かわいそう、という一言では何も動かない。すべては自分たち次第」「自分たちの気持ちを行動にうつして、はじめて周りが動く」といった、信念をもって活動した人達ならではの言葉がちりばめられているのも心を揺さぶられるが、何よりボランティアの地道な活動によって、千葉市が「殺処分機を動かさないようにする」という判断をした、という記録が私の心を打った。世の中がよい方向に向きを変えた瞬間だなぁ、と感じたところだ。


ココニャン一家の縁結び

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2021年6月20日日曜日

真面目にやればやるほど…

  仕事の量と質によって感じるストレスが異なるというのは、想像に難くない。

 例えば、仕事量が多ければ多いほど、終わらないことに対する疲れと終わりの見えない(目途が立たない)ことへの不安、それらの相乗効果による悪いことが起こるような予感が、螺旋を描くように絡み合って増大していく。

 一方、仕事の質が悪ければ無意味な感覚が、上記の相乗効果に拍車をかける。質の点でもう一つ気を付けないといけないのは、そこそこ質のいい、本質に迫る仕事ができている場合に、悪循環をいい意味で覆い隠して突破できることがあるということだ。これは、心理学用語で何トカって言ったような気はするが、「前向きに乗り越える」という表現が当てはまる状態であれば、人間は結構なところまでがんばることができる。

 それを期待しすぎるのもどうかと思うが、ここで注意しないといけないのは、「まともな仕事を前向きに丁寧に取り組めば取り組むほど仕事が増える」というシンプルな法則である。そして、これは「仕事の絶対量」によって、まともな仕事の結果が充実感になるか、徒労感になるかが、かなりの部分まで決まってしまう。要するに、仕事の全体量がある一定水準以上になっている場合は、どんなにいい仕事をしても、そこから得らえる(小さな)充実感が、仕事の残量が発する圧倒的な徒労感に覆い隠されてしまう、ということだ。

 この事実に気づけるか、あるいは見えるかどうかが、自分のしんどさに気づいたり、周囲のしんどさに気づけたりする要点になるのだと思う。「仕事を削る」発想がないと、現代人はつぶれるか、やさぐれてしまうような気がしてならない。まずは自分を守らねば。