2021年7月25日日曜日

夢や目標は「ない」でいい

先日の続き、になってしまいそうですが…

こないだの投稿の発言の主を批判するつもりは全くない、というのを前提に。矛先は世の中へ向けて。

「藤沢久美の社長Talk」がVoicyで復活して、楽しんでいたところ、株式会社まぐまぐの松田社長のインタビューを聴く。洗濯を干しながらのながら聴きでしたが、「夢や目標を持たなきゃいけないような風潮がある」というくだりに、思わず手をとめて聴き入ってしまう。いや、松田氏は「情報と脳をダイレクトにつなぐイメージ」を持っているので、全く何もないというわけではないのですが、そうした大きなぼんやりしたものがあってもなくても、とりあえず目の前のことをやりながら、「好きなこと」をイメージしながらだんだん何かをイメージすればいい、という考え方に、「あぁ、こんな感じ」と思ってしまう。

Iyokiyehaは、人生の目標管理がたぶん苦手です。行き当たりばったり、とも言う。でも、転職した頃から、それがまずいと思わなくなりました。多分、同じ組織内や同じ業界など、同一尺度で測ることのできる価値観の中で、自分を磨き上げていくためには目標管理に基づく自己啓発が必要なのだと思いますし、そういう人には世に出回っている自己啓発本の内容ってうんと参考になるのだと思う。この手の人達にとって「夢を語れること」は、その人の実現しようとすることを具現化する有効な手段の一つになるのだと思います。

ただ、それとは異なる、多様な価値観の中をサバイブしていくための生き方というのもあるんじゃないだろうか。そこにあたっては、具体的な夢ってイメージはできなくて、二段も三弾も抽象度が上がったものが目標になるのだと思う。例えば「人と関わる生活」とか「好きなものに囲まれる生活」みたいな。それは職業を通じて実現するものかというと、そればかりではないでしょう。仕事をもった生活の中で実現するものかもしれないし、仕事と理想の生活は切り離されて、ON/OFFで語られることかもしれません。

そこまで深めなくても、

Q「将来の夢はなんですか?」 A「なんか、○○みたいな感じだけど、ぼんやりしています」とか「今のところ、ありません。好きなことは□□です」。なんて、回答があってもいいと思う。悩んでいるなら相談できるし、「決めろ」って言われて決まるものではないし。好きなことにコツコツしつこく関わっていくことで、周囲の見え方が変わってきて自分の進むべき道が見えてくるかもしれないし、そうでなくても自分にとって「心地いい」生活に向けて少しずつ変わっていくのかもしれない。そんな変わりかけのところに「もっと具体的に自分の夢を考えなさい」なんてアプローチは、その人の内発的なエネルギーに蓋をしてしまう行為なような気がしてなりません。そんなことを漠然と考えさせられたインタビュー番組でした。


https://voicy.jp/channel/1714/167760

藤沢久美の社長Talk 株式会社まぐまぐ 代表取締役社長 松田 誉史さん

働くことコラム10:生活支援の限界 -生活リズム

 久々の「働くことコラム」です。最近、雇用支援について身内向けに説明文書を作っているので、そこで改めて考えたこと。

 これから書くことの結論を先出しすると、

・生活リズムを治せるのは自分だけ

・目標か危機感の共有がなければ動かない

 ということです。

 職業カウンセリングのなかで、求職者の相談を受けていると、「仕事ができる/できない」以前の問題で、仕事が決まらない、仕事が続かない、という人が少なくない。支援計画にも「生活リズムを整えましょう」と書いてあって、本人の署名があったりします。話を聞いてみると「分かっているのだけども、早起きすると調子が悪いんです」とかなんとか。具体的に就寝時間と就寝前の時間の使い方を聞くと、24時過ぎ就寝で、直前まで動画を観ている、などなど。

 当時はカウンセラーを名乗っていたこともあり、「○○してみましょう」「■■を試してみましょう」なーんて提案(説得?)していたのですが、今振り返ればなんて悠長なことをやっていたのか、とくやしい気持ちで一杯です。もちろん、組織の都合もあったので、当時はそれで「やむをえない」と思いこんで仕事をしていたわけですが。

 今、私が支援者として、こう言ってきたクライアントが目の前にいたらどうするかな、と考える。私が策定する計画には「○時頃起床して、□時に家を出る」という目標にするかな。指標は自宅を出発する時間でドライに評価する。方法は助言をするけど、基本的には本人任せ。2週間経っても変化がなければ、計画再策定や助言を重ねるけど、職業リハビリテーションや就労支援という枠でできるのは、これくらいかな。

 そもそも、生活支援って限界があるんです。自分の目の前で生活を観察することは困難を極めるものだし、万が一観察できたとしても、観察者がノイズになって通常生活を送れなくなる可能性が大なので、やれたとしてもおそらくやらないでしょうし、やる意味を考えたら労力が成果を上回る事例と言えるでしょう。

 大切なのは、「計画策定」の本来の意味のところです。本人のサインをもらうのが本質なんじゃなくて、「本人が納得して同意する」ことが重要。本人(クライエント)、支援者、関係者がみな同じ方向(目的)を向いて、そのための指標(目標)を共有して、これができてはじめて「本人のペースで」取り組んでいくことが求められます。

 はっきり言っちゃえば、理由はどうあれ、なんだかんだ言って生活リズムが変わらない人って、「自分の枠内でしか物事考えない」(≒考えられない)人がほとんどですから、自分の中に危機感や理想像が浮かび上がって、内発的な動機付けにならない限りは、行動が変わることはないでしょう。ただ、内発的な動機に変わった時に急激に変化することがあるので、それはきちんと支えないといけませんが。

 このコラムで繰り返しになるかもしれないけれども、仕事の現場で通用する「自分の力」って、それが「習慣になっているもの」だけです。業務遂行の技能だけは、とってつけた知識が結果を左右することもありますが、もっと土台の日常生活・社会生活の部分に関しては、習慣=土台になると思います。単発の技能は土台になりえない。ということで、支援者に求められる技能は、「助言の知識とスキル」「クライエントをやる気にさせる(危機感を煽る)相談スキル」「変化を見極める評価のスキル」という当たり前のことと、もう一つ「変わらないことを受け入れる覚悟」みたいなものじゃないかな。間違っても「生活リズムを、外(支援者)から変えられる」と思わないことです。

2021年7月17日土曜日

松本俊彦『薬物依存症 シリーズ ケアを考える』ちくま新書、2018年。

  タイトルの通り「薬物」、および「薬物依存症」に関する基礎文献。国立精神・神経研究センターで、長年この分野の治療と研究に携わってきた松本医師による著書。著者は本書を「紆余曲折の最近⑩年あまりのあいだ、薬物依存症の治療と回復支援について私なりに必死に考え、実践してきたことが詰め込まれています」と評しています。

 世界中の知見と、著者の経験が、(おそらく)学術文献並みの内容でもって、新書の体裁を保っているところが、本書の特徴といえるでしょう。この分野に関わったことがある、あるいは興味のある方であれば、内容は充分理解できるものであると思います。この表現力もすごい。

 人間の身体のこと、医療のことって、文字通りの日進月歩の世界で、私が薬物や薬物依存に対して持っていた知識を一新させ、さらに関わり方についてもその認識を改めなければならないと思うほどのインパクトのある一冊でした。今は福祉、以前は雇用の分野で、支援の対象者としての薬物依存者、その人の傍にある薬物に対して、私は傍からみたらちょっと変わった関わり方をしていたのだと思いますが、その関わり方を支持する内容もあり、一歩進む内容もあり、さらに改める必要がある内容もあり。そして、現状維持からちょっと改善の積み重ねていくにあたり「要求や結果を表現できる環境整備」が地域生活を継続する上で不可欠であることをはっきり認識できました。

 「薬物依存症の回復支援とは、薬物という「物」を規制・管理・排除することではなく、痛みを抱える「人」の支援なのだ」(299ページ)、「(ポルトガルの事例を受けて)薬物問題を抱えている人を辱め、排除するのではなく、社会で包摂すること、それこそが、個人と共同体のいずれにとってもメリットが大きい、という科学的事実ではないでしょうか」(310ページ)、「(自傷行為、依存症者の傾向を)『人』に依存できずに『物』に依存する人たちなのです」(322ページ)。

 これまで、「人の支援であり、統制排除ではない」という福祉の本質(だと思っていること)を横滑りさせて関わってきたところですが、本書はすっきりとその範囲を整理してくれたような気がします。

2021年7月3日土曜日

夢を語ること、目標をもつこと

 こども向けの文書を読む機会があり、ある大人が「自分が子どもの時は○○に没頭していたけれども、□□に興味を持つようになり、△△になった。夢は変わっても持ち続けていたらかなえることができる」みたいなことが書いてあったんです。

 この人の人となりはよーく分かっているので、こども向けにわかりやすい例え話を自らの経験から引いてきた、ということは容易に想像がつくのですが、Iyokiyehaにはコツンと引っかかる。「夢=職業」になっていることと「夢を持ち続ける→かなえることができる」という内容なんだろうな。

 「夢」とか「こうありたい」と思う自分語りそのものは、自分のためには必要なこと。他人の「夢」を聞くことは、自分にとって一つの学びの機会になりうる。しかしながら、それは職業と関連して語られることはあるのだろうけれども、「△△になる」ということが果たして「夢」としてふさわしいのかどうか、ということはよくよく考える必要があると思う。世の中には星の数ほど、数えきれないほどの仕事があり、同じ職名で語られても、置かれた場所や背景によって、その仕事が世の中に与える影響はそれぞれ異なるわけで、職業ってその土台だと思うのです。「目標」であったとしても「目的」とはいい切れない。職業で語るとすれば、△△になって自分がどうありたいか、自分がどうなりたいか、自分が何を成し遂げたいか、ということが「夢になりうる」だけで、自分に付与される肩書を「夢」と言ってしまうのは、わかりやすくても本質とはちょいと違うのではないか、と思うわけです。

 こどもたちに夢をわかりやすく語ることは、メッセージを余白に書き込むような行為だから、そこで△△になるのが夢、と言ってしまうのは、それを書き込まれて理解したこどもには「わたしは▲▲になりたい!」「僕は▽▽になる!」という、なりたい自分、ありたい自分を職業に縛り付けてしまうだけで、安易なキャリア教育になりかねないなぁ、と考えてしまいました。

 いや、ライフストーリーをきちんと聞く経験って大切ですよ。ノンフィクションやインタビュー番組とか、メディアにも様々ありますし、著名人でもそうでなくても、ある人の経験を丁寧に聴くことは、大きな学びになりうると思います。ただ、職業=夢、という安易なメッセージが広まって、職業選択を困難にしてしまう働きかけってあるんだよってことは、人に影響を与える仕事に就く人にはちょっと考えてほしいなぁ、と思った次第です。

2021年6月26日土曜日

中西貴之著、宮坂昌之監『今だから知りたいワクチンの科学 -効果とリスクを正しく判断するために』技術評論社、2021年。

  「ヴォイニッチの科学書」のサイエンスコミュニケーター中西貴之氏が、タイムリーな話題に科学の視点から一石投じた一般書。今世の中が求めるべき情報は、わかりやすくて信頼のある行政や公的研究機関の報告だけでなく、こうした長年の蓄積に裏打ちされた信頼できる民間人による一般向けの科学情報、なのだと思う。

 とかく、「科学の話題」というと専門家がきちんと(中にはイマイチなものもあるけれど)説明するものだけれども、その言葉は専門外の人にとって理解しやすいものであるかどうか、という点は疑問がある。かといって、テレビやラジオなどタイムリーなメディアで毎日基礎情報をやるわけにはいかないし、かといってWebの情報は選び取るのが難しい、というのが現状かと思います。

 著者は一貫して「ワクチンを積極的に摂取すべきもの」として、その理由を科学の視点から一般向けにわかりやすい説明をしている。その現時点のまとめが本著である。中学生~高校生レベルの生物学、化学の知識を基に、ワクチン接種を控えた私たちに必要な情報をきちんと説明してくれている。ワクチンは怖いものではないし、デマに踊らされることはない。しくみを知って、きちんと判断するための材料が満載です。これを読んで、接種する/しない、保留をきちんと選択すればいいと思います。

今西乃子著、浜田一男写真『命がこぼれおちる前に -収容された犬猫の命をつなぐ人びと』佼成出版社、2012年。

  前回紹介した『命のものさし』と同じ著者の作品。もっと児童書に近いかな。子どもと図書館へ行った時に探してみて借りたもの。

 Iyokiyeha家は、長女長男が動物アレルギーなので、犬を飼う、猫を飼う、という予定はないのだけれども、Iyokiyehaは昔『名犬ファング』(海外ドラマ)を観て、犬が飼いたかったことがありました。その後、気まぐれで父親が「柴犬を買ってくる」と出かけていったと思ったら、ウェルシュコーギー種を買ってきて12,3年程飼っていたことがありました。我が家だけでなく臨家にも懐いていたので、特に問題がはなく天命を全うし、何か問題を感じたことはありませんでした。

 本著はそのIyokiyehaの常識とは異なる土俵のお話。様々な理由(到底理解できないようなものも少なくない)でいわゆる保健所に持ち込まれる動物たち。ある水準を超えると殺処分される、というのが半ば(我々の世代では)常識となっているのだけれども、この作品はそれに一石を投じたボランティアと行政の協働のお話。

 「捨てるのは一瞬、救うのは大変」「かわいそう、という一言では何も動かない。すべては自分たち次第」「自分たちの気持ちを行動にうつして、はじめて周りが動く」といった、信念をもって活動した人達ならではの言葉がちりばめられているのも心を揺さぶられるが、何よりボランティアの地道な活動によって、千葉市が「殺処分機を動かさないようにする」という判断をした、という記録が私の心を打った。世の中がよい方向に向きを変えた瞬間だなぁ、と感じたところだ。


ココニャン一家の縁結び

https://ameblo.jp/coconyanikkanoenmusubi/


2021年6月20日日曜日

真面目にやればやるほど…

  仕事の量と質によって感じるストレスが異なるというのは、想像に難くない。

 例えば、仕事量が多ければ多いほど、終わらないことに対する疲れと終わりの見えない(目途が立たない)ことへの不安、それらの相乗効果による悪いことが起こるような予感が、螺旋を描くように絡み合って増大していく。

 一方、仕事の質が悪ければ無意味な感覚が、上記の相乗効果に拍車をかける。質の点でもう一つ気を付けないといけないのは、そこそこ質のいい、本質に迫る仕事ができている場合に、悪循環をいい意味で覆い隠して突破できることがあるということだ。これは、心理学用語で何トカって言ったような気はするが、「前向きに乗り越える」という表現が当てはまる状態であれば、人間は結構なところまでがんばることができる。

 それを期待しすぎるのもどうかと思うが、ここで注意しないといけないのは、「まともな仕事を前向きに丁寧に取り組めば取り組むほど仕事が増える」というシンプルな法則である。そして、これは「仕事の絶対量」によって、まともな仕事の結果が充実感になるか、徒労感になるかが、かなりの部分まで決まってしまう。要するに、仕事の全体量がある一定水準以上になっている場合は、どんなにいい仕事をしても、そこから得らえる(小さな)充実感が、仕事の残量が発する圧倒的な徒労感に覆い隠されてしまう、ということだ。

 この事実に気づけるか、あるいは見えるかどうかが、自分のしんどさに気づいたり、周囲のしんどさに気づけたりする要点になるのだと思う。「仕事を削る」発想がないと、現代人はつぶれるか、やさぐれてしまうような気がしてならない。まずは自分を守らねば。

2021年6月13日日曜日

今西乃子『命のものさし』合同出版、2019年。

 児童書なんだけど、新聞の書籍欄に掲載されていて、図書館で借りて読んでみた本。テーマとタイトルのインパクトでひかれた。

 舞台は愛媛県。公務員として勤務する渡邉清一氏を中心に語られるノンフィクション。清一氏は、獣医師でありながら、野良犬駆除、と畜場、動物園、動物愛護センターに勤務してきた。獣医師として本来は動物の命を救う立場であるべきなのに、野良犬を捕獲して殺処分したり、食肉として出荷される牛の検査、動物園では動物園の移転という仕事を任された後、繁殖を通じて日本における動物の現状を意識し、再度動物園に戻ってくる。そんなキャリアを通じて、いつも悩み、いつも見据えていたのは「命の重さ」。人間の都合で殺される命があれば、人間の都合に合わせて生きられる動物がいる。整合性がとれない現実の狭間で悩み、動物たちの「死」を目の当たりにし続けてきた筆者は、このことについて社会の前向きな変化を希望として感じとっている。

 平易な文章でありながら、扱うテーマは深く、さらに深い。表紙のイラストもかわいいので、気軽に手にとることができるが、こんなに迫力のある内容の本に出合ったのは久々である。「児童書」かどうかは置いておいて、一気に引き込まれる文章と、モチーフとなっている渡邊清一氏が見てきた現場を通して語られる、やるせなさと迷い、怒り、慈しみ、数々の感情が言葉の端々に感じられる。

 Iyokiyehaが修士論文の中で描きたかったのは、こういう人間の内面だったのだろうなと思う。本著は、本気で動物たちの命と向き合ってきた一人の公務員の生きざまが語ることを、見事に表現しているように思える一冊だった。

33 農業用の倉庫で子犬を生んだ母犬。捕獲のために対峙した時の母犬の表情。

54 と畜場に寄せられるご意見や、食肉ができる過程を知らない現代人の言動。

128 殺処分の現実。

158 動物園が「死」を語ること。


2021年6月5日土曜日

PTAについて考えてみた(総括)

  2018年度~2020年度の3年間、子どもが通う小学校のPTA本部に在籍していました。この度、ようやく退任となったことからこれまでの総括をしておきます。

 総じてどうだったかというと、前向きに「学校を身近に感じられるようになったこと」「保護者として学校に関わることに関する距離感がわかったこと」などがあげられるでしょうか。PTAの役員として学校に関わったことで、これまでは役割-役割での接点だったものが、個人-役割(学校)とでやりとりすることについて、変に気負う必要がないことがわかりました。学校予算については、これまで全く意識してこなかったのだけれども、地域や社会の要請にこたえるだけの①人的資源、②裏付けとなる予算、がないということがわかりました。

 ①は質的(優秀かどうか、世の動向を把握しているかどうかなど資質に関すること)なことは話題にしません。○○をやった方がいい、やるべきだ、と意思決定して、職員間での共通認識もある、と言った時に「じゃあ、誰がやるか」となるわけです。すでに予定も労力もいっぱいいっぱいのところで何か事を起こせばそれは兼務になり、現状に足す発想にしかなりません。片手間でやるべきでないことも、片手間でやらざるをえないことになりかねない。これは全てにおいて先生方の負担になり、その被害をこうむるのはまわり回って子どもたちでしょう。

 それに加えて、②予算です。余剰予算は全くない状態で何をさせようとしているのか。地域も国も再考の必要があると思います。

 いずれにせよ、PTA活動をする個人ではどうしようもない、と思うのですが、どうでしょう。教員の資質や事務分掌に関することは、学校の判断によるものだし、予算については学校でもどうしようもなくて教育委員会、果ては文部科学省にまで達するものです。もちろん、課題を整理して明るみに出すことは必要だけれども、それ以上の圧力を、権限のないところ(学校)にかけるのは、マナー違反といっても過言ではないでしょう。その行為が学校の活動を邪魔をすることになると思います。

 しかしながら、残念なことに周りを見回すと、この「マナー違反」が横行しているのが今の学校を取り巻く環境ともいえます。市内でも、「○○を廃止した」「役員のなり手がいないからPTAそのものを廃止した」などの情報があります。そして、それを自慢げに語る当事者を名乗る方もおられます。それを実績に、PTA不要論を展開する方々がおられるのも、それに便乗して地域にも必死に「要らない、要らない」と言って回っておられる方がおられます。

 もちろん、今のPTA活動が「本当にやるべきことだけで構成されているのか」と いう検証は必要です。Iyokiyehaが3年間地味に考えてきたことは、活動の見直しを通して、「必要最低限の活動にすること」「役員は有志で行うこと」「いろんな人に、PTAを通じて気軽に学校に関わってもらうしかけをつくること」でした。一部できたけど、まだまだこれからだ、という時の退任です。ちょっと残念。でも、私としては一旦ここまでかな、という思いもあります。

 現行の活動の中で、学校の教育活動に「きちんと資する」ものは何だろう。それを有志で行うことのできる範囲としくみってどんなイメージだろう、コロナ禍だから一旦ゼロベースで考えてみたらいいんじゃないの?本部での私の発言は、全てこんな背景からだったはずです。ただ、(面白いことに)そのことを発すれば発するほど、意外や意外「これまでは○○だった」「○○を楽しみにしている人もいる」「そんなに悪いものじゃない」「コロナの中でどうやったらできるか」という内側からの現状維持の妙な圧力があったり、思わぬ外野から、直接・間接に「あーだこーだ(聞くに堪えない意見が多すぎました)」言われるなどして、もはやストレスなんて上品なものではなく、呆れ果ててしまった、というのが正直な感想です。

 内側の刺客に対しては、「やりたくないならやらなくて結構。変化が怖いのはそれでも結構。ただ、あなたの心無い一言が、他の人達のやる気 をどれだけ削っているか考えた方がいいんじゃね?」「あなたが、議員や地元の名士?を使ってまで主張したいことは何ですか?」「家庭教育学級の本質は、親の学習権ですよ。やってもいない、参加してもいない家庭教育学級不要論は聞きたくない。『俺は 学ばないから学校なんか要らねぇぜ。よくわからないけど俺には必要ないからみんなも必要ないよな、やめようぜって言っているのと同じです。ちょっと付き合いたくないですね」。

 養老孟司さんが昔言っていた「バカの壁」って身近なところにたくさんあるんだな、ということも存分に学ばせていただきました。その中で私の主張は伝わりきらず、一部の先進的な取り組みの方向と、なんだかよくわからない便所の落書きで盛り上がっている方向のそれぞれ双方から刺され過ぎて、ちょっと痛くなってきました。地域活動の面倒なところってこういうところなのだろうな。それぞれへの懸念は、前者(先進的な取り組み)は本部役員から「無言の排他的雰囲気」がでないといいなと思っています。活動方向や意思決定にWebの仕組みを活用する、というのは、私が本部役員になった当初から主張してしくみを用意して昨年度ようやく花開いたものですが、そのコンテンツや利用方法がすごすぎて、「PTAすごい」が突き抜けてしまうと、別の意味で「負担」を感じる人が出てしまう懸念です。こちらの点はほどほどに取り組む、シンプルなしくみ、を意識することが必要かな。後者(便所の落書き、不要論など)は、過剰反応せず、便所の落書きには逐一対応せず、筋を通ってきたことについて、きちんと対応する、という超基本的な対応が必要かと思います。あまりにアホな内容は報告で曝す、くらいの戦略はあった方がいい。「説得すればみな納得する」という性善説は危険です。

 声の大きな考えない人達や、地元の名士?が何と言おうとも、私の結論は変わりません。PTAは学校を支えるために必要な、緩衝材のような存在。親が学ぶ機会を提供する家庭教育学級はカルチャー講座ではなく学習権の保障(だから、もっとしゃきっとせい!)、個人の文句は個人で言っていなさい、本当の主張と悪口増幅装置を通っている情報を分けなさい、ということです。

 私は、PTA活動は必要で存在も賛成の立場です。活動している人達は応援します。手伝います。学校も見守ります。誰かに負担をかけて派手な活動をするんじゃなくてさ、いろんな人がちょっとずつ学校を気にかけて、子ども(たち)を気にかけて、一緒に盛り上がって楽しめる。役員じゃない親御さんも、卒業生の親御さんも、親御さん自身が卒業生でも、他所からきてたまたま学区に住んでいる人だって、公民館を使うだけじゃなくて(これはこれで思うところがあるけれど)学校に関わっていいんじゃないかな。その窓口としてPTAがある、と思ってもらえるような活動になって欲しいなと思います。

 先日、別の活動で校長先生と会った時に「一旦引退ですが、再登板もありますよね」「いやぁ、Iyokiyehaさんは話を聞いてくれたからやりやすかったですよ」「お互いに結構言いたいこと言ってましたもんね」などと言ってもらえました。再登板するかしないかは全く未定としておいても、学校からそんな風に思ってもらえたならば、内側からどう思われていたとしても、まぁ成果はあったんじゃないかなと思うところです。コロナのせいで、家庭教育学級に全く手がつけられなかったことは純粋に残念でしたが、これは社会教育の枠で考え続けたいと思います。

 あとは、地域活動に参加して感じたこと。私のマネジメントの癖は「異質な声の大きな人を取りまとめるのには、そんなに向いていない」「仕事ほど粘れない」「作業に集中させてもらえた方がいい」「言葉が稚拙」といったことがあることに(改めて)気づきました。学校より広い概念「学区」と関わる時には、ハードなマネジメントは馴染むところと全く馴染まないところがあるので、あえてぼんやりさせておくことを確認する必要もある。地域における「認識の違い」は、仕事などの関係で起こるような「言葉の認識の違い」だけでなく「同じ組織の中でも、関わり方・立場の違いがある」ことに留意する必要がある。こんなことを感じました。

2021年5月23日日曜日

摂食障害 10代からの相談増える 毎日小学生新聞 210519

 摂食障害(その1) 10代からの相談増える

毎日小学生新聞 2021(令和3)年5月19日(一面)


 摂食障害に関する、10歳代からの相談件数が増加している。国は、宮城、静岡、福岡、千葉の4県に「摂食障害治療支援センター」を設置し、相談件数を集計している。その結果、2018年度と2020年度比較で、10歳代からの相談が1.8倍程度になっていることがわかった。また、2018年度には20歳代からの相談件数が最多だったが、2019年度からは10歳代が最大となっている。相談者の抱える問題は、「やせ」「食事の制限」「過食」が目立つ。やせたい願望だけでなく、大人よりもストレスに弱い面も見られる。

 専門家は、新型コロナウイルスの感染拡大防止対策のために、友達とも会わず(会えず)家で一人で過ごす時間が増えていることを背景に、ダイエット動画などの視聴機会の増加が、この結果の背景にあると指摘している。


https://mainichi.jp/maisho/articles/20210519/kei/00s/00s/015000c


 まず、摂食障害。これは「体重が増えるのを怖がり食べるのを極端に制限したりする」と説明がありました。ただ、食べない、やせたいと思う、だけでなく、身体の仕組みとして脳や消化器のしくみに変化が生じてしまうのが「摂食障害」の段階です。イスラム教徒のラマダーンやお寺で時々やっている断食のプログラムとは、表出する行動は同じでも脳や身体の状態は全く違うという認識は必要です。身近な人に摂食障害の疑いがあった時に、声をかけてあげるのは大切だけれども、治療はお医者さんの仕事です。これは勘違いしてはいけない。

 この記事の専門家の指摘通り、動画等で紹介される情報の影響ってあるだろうなと思う。インターネットやSNSの使い方とか、その被害とか、予防・防止なんていろいろ言われています。ただ、私はこうした指摘から一歩ひいて、インターネットやSNSは目の前にあって使う生活が前提、として考えないといけないと思っています。端末を与える、与えないという違いはあれど、情報端末一つで瞬時に世界につながってしまう。これは良し悪しではなくて、それが前提、背景であると考えるべきで、むしろ今の子どもたちの置かれた環境が、徐々に広がる世界ではなく瞬時に広がる世界にあると考えています。となると、端末の使い方、情報の制限などのルール作りは重要であってもそれで充分ではなく、やはり基本に立ち返った「情報を選ぶ力」「悪いものが入ってきてもバランスをとる力」「ファクトベースで物事を見る姿勢」というものを、折に触れて伝えていくべきなのだろうなと思う。

 ここからはおじさん発言だけど、ティーンの情報誌や様々な動画で「個性」をうたっていても、その人気にのまれたら結局同じ尺度に乗せられて、潜在的な競争状態に常にさらされる生活を余儀なくされてしまうではないか、と思うわけです。


(参考)摂食障害治療支援センター

https://www.ncnp.go.jp/nimh/shinshin/edcenter/center.html

2021年5月16日日曜日

精神私宅監置を映画に 毎日新聞 210514

 毎日新聞 令和3年5月14日(15面 くらしナビ)

精神障害者私宅監置を映画に


精神障害のある人を小屋などに隔離する「私宅監置」が、かつて法律で認められていた。沖縄においては、本土復帰する1972年まで続いていた。非人道的な環境に置かれたいわゆる「闇の歴史」といわれる。このことを、独自の調査で明らかにしたドキュメンタリー映画「夜明け前のうた 消された沖縄の障害者」が各地で上映されている。


https://mainichi.jp/articles/20210514/ddm/013/100/022000c

(Web版 精神障害者私宅監置を映画に(有料))


 法律とは、1900年施行精神病者監護法。いわゆる「座敷牢」を合法化したものといわれる。私宅監置者数は毎年3,000人~7,000人ほどになったという。これを問題視した呉秀三氏(精神科医)が入院治療を強く主張した歴史がある。1950年に当該法は廃止となったが、米軍統治が続いた沖縄においては、精神科医療の不足を背景に、1972年まで琉球精神衛生法としてこのしくみが続いてきた歴史がある。

 ドキュメンタリーとしては過去の話題をテーマにしたものです。ただ、「人権侵害」として位置づけると、様々な分野で現代にも続く課題といえると思います。誰かの犠牲の上になりたつ生活。厳密い言えば、私の生活もこうした犠牲があるのでしょう。物事を知るにつれ、そうしたことが見えるようになる。見えなければ、その改善はありえない。生活者として学び続ける意味はこういうところにあるし、このドキュメンタリーもそうした一つの成果だと思う。


■参考

https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c030123/

(ニッポンドットコムおすすめ映画 松本卓也「歴史の闇「私宅監置」に迫る:映画『夜明け前のうた ~消された沖縄の障害者~』」

https://www.jspn.or.jp/modules/forpublic/index.php?content_id=12

(日本精神神経学会 「歩み3:私宅監置と拘束具」

https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/83/

(NHKハートネット 精神障害者の監禁の歴史 精神科医 香山リカさんに聞く)

https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n228/n228_01-01.html

(障害保健福祉研究情報システム(DINF)秋元波留夫「精神障害者は20世紀をどう生きたか」)

2021年5月9日日曜日

緩みを正当化させるムード

  「ムード」という言葉を当てたら、勝手に納得してしまった。

 「コロナ疲れ」とか「自粛疲れ」という言葉が聞こえてくる。COVID-19の感染拡大とその防止対策をとることに対して出てきた言葉である。

 もちろん、それまでと違った生活リズムを余儀なくされ、そのために心身に影響が出る人がいる。労働市場の急変に伴い、将来への不安から体調を崩してしまう、不穏になる、自暴自棄になる人もいる一方、そんなことは俺には関係ないとばかりに路上でごきげんになっている人もいる。夜の飲食がだめなら昼にすればいい、店がだめなら路上でやる。まぁ人間の知恵というのはどこまでも広がっていくものだと、報道を見て感じることがある。

 そういう、周囲への影響を感じないごく一部の人へは「反知性主義」の文脈が当てはまるので、それはもう「基本に帰れ」と言ってその人が気づくまで放っておくしかない。しかし、確かにいる前者の人達(心身への影響が出ている人)に対して、最近の「自粛疲れ」報道は、弱者に冷や水をかけるような「あおり」が生じていないかと、ちょっと心配になる。「この大変な状況で、タガが外れている人がいます。これも『自粛疲れ』でしょうか」みたいな報道って、「それもしょうがいないか」みたいなゆる~いムードを蔓延させていないか?私はそれを感じつつ突っぱねているけれども、弱っている人にとって、こうした報道のもつメッセージってどんな風に受け止められてしまうのかと心配になる。

 できないことをやれと言われても、そりゃ無理だとなるわけだけれども、これまで提案(?お願い?)されてきた対策の中に、基本的なものがあります。そういうことを丁寧に、そして「これしかできない」なら「これをしっかり」やることで、新しい日常をつくって自分なりに安定していくしかないのかな、と思いました。「疲れているから、みんな緩むんです。どうにかしてください」ではあまりに無責任でないか?「ここが正念場、がんばろうぜ。しんどいならこういうところに相談よ」くらいの冷静な報道を期待します。

障がい者スポーツ→パラスポーツに変更へ 毎日小学生新聞 210319

 障がい者スポーツ→パラスポーツに変更へ

毎日小学生新聞 令和3年3月19日 3面

日本障がい者スポーツ協会JPSAは、これまでの「障がい者スポーツ」という言葉を「パラスポーツ」に統一することにした。このことについて、常務理事(高橋秀文氏)は、「『パラスポーツ』の用語が一般化している。障害のある人もない人も楽しめることを強調したい」と説明した。

https://mainichi.jp/articles/20210316/k00/00m/050/274000c

(毎日新聞本紙Web版)


 パラリンピックの「パラ」は、元々は「麻痺させる、立ちすくむ」という意味のparalyzeのparaだと何かで読んだことがありましたが、確かに最近の使い方は「平行、もう一つの」といったparallelのparaとして扱っていることに気づきました。あまり違和感がない変更ではありますが、より包摂的な意味になった、と考えたら、ユニバーサルデザインの言葉版、というイメージもあるなぁと思いました。


https://www.jsad.or.jp/

(参考)日本障がい者スポーツ協会

2021年5月5日水曜日

のんびり自宅で過ごす連休

 自宅と職場以外がいまいちぱっとしないIyokiyehaです。まぁ、自宅と職場が安定してくれていれば問題はないのだけれども。

 くそったれなCOVID-19感染拡大の影響で、今年度の我が家は自宅で過ごすGWでした。子どもたちも諦めモードで、近所で遊ぶことに忙しくしています。私も自宅でごはん作ったり身の回りを整理するなどして過ごしています。ようやく最終日。頭の中は完全に緩んでしまったので、明日から仕事ができるのか?と思うところと、衣替えしてスーツも一新、ちょっと気分を変えてがんばろうとするところとが行きつ戻りつしています。

 中学生になった長女は、親離れが加速し、今までのような軽口は受け止めてもらえなくなってきています(笑)。変化に気づくのは早い方なので、行動を修正して小康状態を保っています。まぁ、口きいてもらえなくなるのも時間の問題だな。息子はなぜか歴史にはまっており、勝手に図書館通いしています。男子ってこういうところあるよね。漫画も多いけれども活字を読んで過ごす時間が増えているようなので、見守るとします。学校から持ち帰った「将来のゆめ」に「サッカー選手」とか書いてあってちょっと面白い。小学生になった次女は、まだ相変わらずかな。我が出てきたので、こちらの思い通りに動かないことも多くなってきているけれども、これもまた成長。こちらはまだ公園とか図書館とか言ってくれる(?)ので、もうしばらくは遊んであげようと思います。

 そんな子どもの変化が見えるのも、少し心に余裕ができたからかな。子への接し方はそれぞれ、愛し方もそれぞれ。「どっか連れていってやれよ」という声が聞こえてきそうですが、こんな状況でねぇ…ということもあり、ふりかえって「これでよし」と思った方がいいと思っています。

2021年5月4日火曜日

本田美和子、イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ『ユマニチュード入門』医学書院、2014年。

 「この本には常識しか書かれていません。しかし、常識を徹底させると革命になります。」

 「ユマニチュード」とは、認知症ケアに関して、クライアントを「人」として扱う、知覚・感情・言語による包括的コミュニケーションに基づいたケアについて、「人とは何か」「ケアをする人とは何か」を問う哲学とそれに基づく実践技術から成り立つ技法のことです。(4ページより)

 本書は、「ユマニチュード」について、核となる技術を紹介しながら、認知症患者さんとその人達にケアする人のことを考えていきます。技術といっても、「見る」「話す」「触れる」「立つ」の動作に関することと、それらのケアを行うための準備や約束事に関すること、例えば「出会い」「ケア」「知覚」「再開」について、図を用いて簡潔に説明しています。

 核となることは、日本語で言う「人間」という言葉に含まれる、「人と人との感情を交えた関わり方」ということになります。技術一つ一つはそれほど難しいものではない「(上記)常識」であるにも関わらず、一貫してそれを行うためには「自分や周囲の環境」が邪魔するので、一連の技法としてはなかなか困難な内容になります。それでも、一つ一つ取り組んでいく必要がある、と思える技法です。

 確かに、ケアの現場でこうした技法が一般化すれば、虐待や不適切介護なんてのはなくなっていくような気がします。人としての安心感があれば患者(クライアント)は落ち着くことができるでしょうし、「問題のある人」を「生み出さない」ための技法であると思います。自分がいろんな人と接する時に役に立つ技法であると思ったのと同時に、何か折に触れて対人支援業務にあたる人に紹介したい一冊でした。