・知識を得る読書になった。「様々な死の迎え方がありますよ」というケーススタディだけでなく、豊富な経験から「死の分類」「老衰」「延命治療」「看取りの作法」について論じている。
・死の分類
人間の死には4つの分類がある(28ページ)
1.肉体的な死
2.精神的な死
3.文化的な死
4.社会的な死
-身近な人との関わりが大切だと思う。家族・友人・最期まで自分に関わってくれるあらゆる人との関わり。
-忘れられること、忘れられないこと、社会的な死は、肉体的な死よりも続くもの。 -意思表示は、肉体よりも続くもの(精神的)
・親の死に目に会えないの本意は、「親よりも先に死ぬこと」であり、立ち会ってほしいこととは少し違う。
(以下引用)
・老衰こそが理想的な死(38ページ)
すべての臓器の力がバランスを保ちながらゆっくり命の続かなくなるレベルまで低下していく(こと)。一部が衰えて、他に元気な部分があると苦しい。
・口からご飯を食べられなくなったら、胃ろうで延命するか、手足から直接血管に針を入れる抹消点滴か、皮下点滴で老衰による死を待つか、もしくは何もしないか、この3つの選択肢から選ぶ。(159ページ)
・点滴だと体力が回復しない。急性期には胃ろうの選択肢も考える。
・看取りの作法(240ページ)
2019年6月29日土曜日
2019年6月2日日曜日
長尾彰『宇宙兄弟「完璧なリーダー」は、もういらない』学研プラス、2018年。
・ご縁ある方が上梓されたので、確認読書しました。
・グループファシリテーションとチームビルディングの現場からの豊富な事例と、漫画『宇宙兄弟』の引用とで、「リーダーシップ」像を浮き彫りにしており、内容がイメージしやすく、大変読みやすい本である。
・リーダーとは「生き方や働き方のハンドルを自分で握っている人のこと」と定義しており、「それは、あなたがすでにもっているもの」「『発揮するか、しないか』の違いでしかない」「他者だけでなく、自分に対しても発揮されるもの」とする。
・著者のファシリーテーターとしての経験と、そこで見聞きし、出会った人たちから「シェイク」されたことを、率直に素直に表現している定義であると思われる。
・相手に興味をもち、よく観察すること、コミュニケーション量を増やすこと。「タックマンモデル」を意識する、チームビルディングなど、具体的な行動レベルでの助言も多く表されている。チームで仕事をするすべての人に勧められる一冊。
・2019年のGW浜松市に帰省した時、地元の本屋さんで平積みになっていました。
・グループファシリテーションとチームビルディングの現場からの豊富な事例と、漫画『宇宙兄弟』の引用とで、「リーダーシップ」像を浮き彫りにしており、内容がイメージしやすく、大変読みやすい本である。
・リーダーとは「生き方や働き方のハンドルを自分で握っている人のこと」と定義しており、「それは、あなたがすでにもっているもの」「『発揮するか、しないか』の違いでしかない」「他者だけでなく、自分に対しても発揮されるもの」とする。
・著者のファシリーテーターとしての経験と、そこで見聞きし、出会った人たちから「シェイク」されたことを、率直に素直に表現している定義であると思われる。
・相手に興味をもち、よく観察すること、コミュニケーション量を増やすこと。「タックマンモデル」を意識する、チームビルディングなど、具体的な行動レベルでの助言も多く表されている。チームで仕事をするすべての人に勧められる一冊。
・2019年のGW浜松市に帰省した時、地元の本屋さんで平積みになっていました。
森岡正博『電脳福祉論』学苑社、1994年。
・ヒトの生き方を考える上で、科学技術という背景は切り離して考えることはできないだろう。科学技術は、それが何であれ、我々の生活の中に入り込み、生き方に大きな影響を与えているモノ・コトである。
・それらが、別分野のものとして整理されてしまっているものも多く、私も今まであまり意識してこなかった。しかしながら、それらは日進月歩で進化・変化しているものである。
・森岡氏の提唱する「生命学」は、一貫してこの点を強調し、それらの結びつきの中で「よりよく生きる」ことを論じている。ただ、20年前の私はこの点について、興味はもちながらも「本論ではないもの」として隅にとどめる程度にしてしまっていたと思う。
・技術的な背景があり、社会的な未来予測をする間、今とこれからを生きる私が「どう生きるか」「よりよく生きる」とは何なのかを問う姿勢が、生命学の本質に近づくためのキーワードになるのだろう。
・本書は、25年ほど前の対談集であるが、当時各分野で最先端を走っていた研究者達に、上記のような関心をもった森岡氏が持論を展開し、論点が広がり、深まっていく軌跡が描かれている。
・一部、難しい部分や、ある論述が対談社に論駁されていく様子も記されている。ただ、基本的には無痛文明論が芽を出し、花開く手前のイメージが確かに現れていると思われた。
・学生の頃には流し読みにしたきりになっていた本著であるが、日々新たな技術が世に出される現在だからこそ響く内容であると感じた。
(以下引用)
ⅳ 議論の渦の中心にあるのは、先端テクノロジーと生命をどう考えるかという問い、言い換えれば、情報技術社会における人間の福祉の問題であった。
4 メディアは常に人間の身体を拡張するだけでなく、人間の心も拡張するし、魂も拡張する。
10 電脳社会の特徴として、シャーマニズムとテクノロジーとの奇妙な合体というのがあると思う。つまり、それは、人間の事故変容にかかわる。身体においても意識においても、いままでの情報の処理の仕方と全く異なったテクノロジーが、意識と身体の変容を生み出しているということです。
28 サイボーグ化は、そういう人間のこだわりや執着を克服し、かなえていく一つのプロセスかもしれない。そしてサイボーグ化がとことん進んで、極限の身体性というものがもたらされた場合、そこでは葛藤やコンプレックスはほとんど消滅し、後天的な「完全な意識」が生まれて来るかもしれない。
33 将来本当に意味のあるテクノロジーというのは、苦しみを回避するんじゃなくて、逆にそれらを引き受けるテクノロジーなんですよ。苦しみを引き受けることによって人は奈落の底に落ちるかもしれないけど、それによって人間は成長することができるわけです。こういう人間の逆説を支えるような、新たな文明の形が出てこないと、いまの社会はますます人間の生命を枯渇させてゆくでしょうね。
70 人工臓器化は、集中治療室のように身体を維持するための人工臓器群と、もう一つは閉じこめられてしまった精神活動を解き放つ人工臓器群の二種類に大きく分類することができる。心や精神を解放する人工臓器が、バーチャルリアリティとかマルチメディアとかパソコン通信じゃないかと。
104 進化していけるようなプログラムが自律的に発生して、それが増殖して多様性を増していった場合に、それは一つの自然の系だと言えるんじゃないでしょうか。(補足:自然の本質?)
131 人間が自由と自己決定を拡大させていくこと自体が、実は大きなシステムの効率的な流れの一部となって取り込まれてしまうんじゃないか。
132 そういうネットワーク型社会における人間の自由の保障は、巨大なシステムの微細な管理とコントロールに裏付けられることによって初めて可能になる。
134 将来は、機械にサポートされながら生きていく老人・障害者・病人がマジョリティを形成する社会が、いずれ到来することでしょう。
135 身体のどういう場所が欠損していて、どういういところを機械によって補っているかによって、価値観もむちゃくちゃ多様化してくる。
137 健常者がマジョリティの社会では、マジョリティの人々によるある一つの“標準型”というものが認定され、その標準型からはずれていく程度に応じて多様性が生まれてくるという世界感がある。
162 テクノロジーが人間の自由の範囲をどんどん拡張してゆく結果”不自由”の範囲が縮小しはじめていて、そのおかげでわれわれ先進国の人間は”自由”の価値を実感できなくなってるんじゃないでしょうか。言い換えれば、自由を味わうことから疎外されているんじゃないか。
164 人間の自由は何かと定義することは、自由に対して規定を加えることになる。
168 生命というものが、自由でない領域から操作可能な領域に変わりつつあります。(略)その延長線上で進むとすれば、今までの文化的伝統に類するものが次第次第に衰え、勢力を弱めていくであろうと、私は思う。どれだけ協力な伝統であろうと、かつての勢力はもはや持てなくなると思います。
172 データがあれば社会問題がひとりでに出てくるのではなく、そのデータは大変な問題をはらんでるんだと誰かが政治的に創作して、はじめて社会問題となる。
182 政策の根拠となる報告書をどんどん出すべきです。
185 脳死なんかもふくめて、生命倫理の問題とは、情報化社会のメカニズムによって「作り上がられる」ものなのですね。いままでの生命倫理研究では、この情報社会というファクターが全く無視されてきました。(略)情報社会というのは、科学知識を含めて情報が正確に流れる社会ではない。
200 私は、生命倫理も、電脳メディア論も、マジメにやっているのです。なぜかと言えば、この二つの問題は、ともに現代の先端科学技術が、人間社会と人間の生命に対して突きつけている、文明論的な根本問題だからである。二十一世紀においては、生命を問うことは電脳メディアを問うことになり、電脳メディアを問うことは生命を問うことになるのだ。
・それらが、別分野のものとして整理されてしまっているものも多く、私も今まであまり意識してこなかった。しかしながら、それらは日進月歩で進化・変化しているものである。
・森岡氏の提唱する「生命学」は、一貫してこの点を強調し、それらの結びつきの中で「よりよく生きる」ことを論じている。ただ、20年前の私はこの点について、興味はもちながらも「本論ではないもの」として隅にとどめる程度にしてしまっていたと思う。
・技術的な背景があり、社会的な未来予測をする間、今とこれからを生きる私が「どう生きるか」「よりよく生きる」とは何なのかを問う姿勢が、生命学の本質に近づくためのキーワードになるのだろう。
・本書は、25年ほど前の対談集であるが、当時各分野で最先端を走っていた研究者達に、上記のような関心をもった森岡氏が持論を展開し、論点が広がり、深まっていく軌跡が描かれている。
・一部、難しい部分や、ある論述が対談社に論駁されていく様子も記されている。ただ、基本的には無痛文明論が芽を出し、花開く手前のイメージが確かに現れていると思われた。
・学生の頃には流し読みにしたきりになっていた本著であるが、日々新たな技術が世に出される現在だからこそ響く内容であると感じた。
(以下引用)
ⅳ 議論の渦の中心にあるのは、先端テクノロジーと生命をどう考えるかという問い、言い換えれば、情報技術社会における人間の福祉の問題であった。
4 メディアは常に人間の身体を拡張するだけでなく、人間の心も拡張するし、魂も拡張する。
10 電脳社会の特徴として、シャーマニズムとテクノロジーとの奇妙な合体というのがあると思う。つまり、それは、人間の事故変容にかかわる。身体においても意識においても、いままでの情報の処理の仕方と全く異なったテクノロジーが、意識と身体の変容を生み出しているということです。
28 サイボーグ化は、そういう人間のこだわりや執着を克服し、かなえていく一つのプロセスかもしれない。そしてサイボーグ化がとことん進んで、極限の身体性というものがもたらされた場合、そこでは葛藤やコンプレックスはほとんど消滅し、後天的な「完全な意識」が生まれて来るかもしれない。
33 将来本当に意味のあるテクノロジーというのは、苦しみを回避するんじゃなくて、逆にそれらを引き受けるテクノロジーなんですよ。苦しみを引き受けることによって人は奈落の底に落ちるかもしれないけど、それによって人間は成長することができるわけです。こういう人間の逆説を支えるような、新たな文明の形が出てこないと、いまの社会はますます人間の生命を枯渇させてゆくでしょうね。
70 人工臓器化は、集中治療室のように身体を維持するための人工臓器群と、もう一つは閉じこめられてしまった精神活動を解き放つ人工臓器群の二種類に大きく分類することができる。心や精神を解放する人工臓器が、バーチャルリアリティとかマルチメディアとかパソコン通信じゃないかと。
104 進化していけるようなプログラムが自律的に発生して、それが増殖して多様性を増していった場合に、それは一つの自然の系だと言えるんじゃないでしょうか。(補足:自然の本質?)
131 人間が自由と自己決定を拡大させていくこと自体が、実は大きなシステムの効率的な流れの一部となって取り込まれてしまうんじゃないか。
132 そういうネットワーク型社会における人間の自由の保障は、巨大なシステムの微細な管理とコントロールに裏付けられることによって初めて可能になる。
134 将来は、機械にサポートされながら生きていく老人・障害者・病人がマジョリティを形成する社会が、いずれ到来することでしょう。
135 身体のどういう場所が欠損していて、どういういところを機械によって補っているかによって、価値観もむちゃくちゃ多様化してくる。
137 健常者がマジョリティの社会では、マジョリティの人々によるある一つの“標準型”というものが認定され、その標準型からはずれていく程度に応じて多様性が生まれてくるという世界感がある。
162 テクノロジーが人間の自由の範囲をどんどん拡張してゆく結果”不自由”の範囲が縮小しはじめていて、そのおかげでわれわれ先進国の人間は”自由”の価値を実感できなくなってるんじゃないでしょうか。言い換えれば、自由を味わうことから疎外されているんじゃないか。
164 人間の自由は何かと定義することは、自由に対して規定を加えることになる。
168 生命というものが、自由でない領域から操作可能な領域に変わりつつあります。(略)その延長線上で進むとすれば、今までの文化的伝統に類するものが次第次第に衰え、勢力を弱めていくであろうと、私は思う。どれだけ協力な伝統であろうと、かつての勢力はもはや持てなくなると思います。
172 データがあれば社会問題がひとりでに出てくるのではなく、そのデータは大変な問題をはらんでるんだと誰かが政治的に創作して、はじめて社会問題となる。
182 政策の根拠となる報告書をどんどん出すべきです。
185 脳死なんかもふくめて、生命倫理の問題とは、情報化社会のメカニズムによって「作り上がられる」ものなのですね。いままでの生命倫理研究では、この情報社会というファクターが全く無視されてきました。(略)情報社会というのは、科学知識を含めて情報が正確に流れる社会ではない。
200 私は、生命倫理も、電脳メディア論も、マジメにやっているのです。なぜかと言えば、この二つの問題は、ともに現代の先端科学技術が、人間社会と人間の生命に対して突きつけている、文明論的な根本問題だからである。二十一世紀においては、生命を問うことは電脳メディアを問うことになり、電脳メディアを問うことは生命を問うことになるのだ。
出口汪『頭がよくなる!大人の論理力ドリル』フォレスト出版、2016年。
・「論理」とは「規則にしたがって、言葉を速く正確に使」うこと。(P4)
・私たちは、物事を「言葉」を使って考える。その言葉遣い(違い)が速く・正確ならば、「論理力がある(高い)」と評価され、一方で、その言葉使いが巧みであれば「感性がある」と評価される。
・論理が明確な文章であれば、多くの人に伝わる、わかりやすいものになる。一方で、感性豊かな文章は、それが分かる人にとってはより正確により情報量のある理解を得ることができる。
・論理と感性、いずれも言葉を用いるもの。相反するものではなく「ともに、言語処理能力を高めることで、鍛え、磨きあげることができる」もの(P204)。
・地味なドリル形式の本。文学作品に込められた論理を取り出して、論理力を意識した読み方ができるような問題で構成されている。おそらく、ターゲットは私のような一般人向けなのだろう。現代文(小説)程度の内容であると思う。
・文学作品を論理的に、言葉をおいながら丁寧に読むことをこれまでやってこなかったので、本著の内容は大変新鮮だった。
(以下、引用)
4 規則にしたがって、言葉を速く正確に使えれば、「論理力」となります。言葉の微妙な使い方が巧みになれば、豊かな「感受性」となります。
6 論理力が身につくと、次のような能力がどんどん開花していきます。 ①文章を論理的に読み、理解、整理することが楽になり、速読にも威力を発揮。 ②人の話のすじみちを、瞬時に理解できるようになり、のみこみが速くなる。 ③読み取ったことを論理的に考えることによって、思考能力が身につく。 ④自分の考えをすじみち立てて話したり、論理的な文章を書けるようになる。
10 文学作品とは、実に感覚的なものだと、思い込んではいませんか?もちろん、筆者の独自の世界観や鋭い感性がそこにはあるのですが、それを不特定多数の読者に伝えようとするとき、いきおい文章は論理的にならざるを得ないのです。
22 述語から、主語をつかまえることがコツです。
23 文章を論理的に読む基本は、「主語?述語」をおさえることだと考えてください。 同 言葉は必ず他の言葉とつながります。(中略)感動詞以外は必ず他の言葉とつながっているのです。
25 接続語に着目して読むのが、論理的な読解の第一歩なのです。
28 すじみちの立て方=論理は、大きく分けて三つあります。その一つが、「イコールの関係」です。(具体例、引用)
29 あるいは、反対意見Bを持ち出して、それをひっくり返します。そのようにして、自分の意見Aの正しさを説明できるのです。こういったものを、対立関係といいます。
31 論理的な文章では、筆者の主張Aと、その次の主張Bとの間には、「因果関係」が見られます。(中略)「だから」で結ばれた関係が、「因果関係」なのです。(「だから」の前に理由がくる 122)
64 小説の風景描写は視点となる人物の目を通して描かれるもの(略)風景描写には、その視点人物の心情が投影されているのです。
79 小説を読むときは、自分の生活感覚で読まないことが鉄則。
118 主語が省略されるのは、基本的に前の文と主語が変わらないときです。
○現代文読解法(出口汪『NEW 出口現代文講義の実況中継①』語学春秋社、2007年、62,63ページより。)
1.文章を「論理的につかむ」
(1)人間は皆先入観を持っているから、客観的に文章を読むということは不可能である。
(2)だから、自分の頭を信用してはいけない。
(3)入試問題の文章は、論理的である限り一つの結論・主張(A)の形を変えて何度も繰り返す構造になっている。同じ主張を反復しているのだから、それらの主張を重ねて解釈しなさい。
(4)この作業によって、先入観がおおい隠していた影の部分が光の部分と重ね合わされ、そこではじめて筆者の主張が正しく把握できることになる。
2.言葉を「文脈で固定する」
(1)言葉というものは所詮、個人言語であって、一人ひとりの感覚や知識の度合いによって様々な使われ方をするし、また状況や場合によっても揺れ動くものである。
(2)だから、筆者の個人言語を読者の個人言語で理解しようとしてはいけない。筆者の言語は筆者の言語の中でつかむということ。
(3)それは、とりもなおさず、文章の前後関係、つまり文脈から言葉の意味をつかむということである。
・私たちは、物事を「言葉」を使って考える。その言葉遣い(違い)が速く・正確ならば、「論理力がある(高い)」と評価され、一方で、その言葉使いが巧みであれば「感性がある」と評価される。
・論理が明確な文章であれば、多くの人に伝わる、わかりやすいものになる。一方で、感性豊かな文章は、それが分かる人にとってはより正確により情報量のある理解を得ることができる。
・論理と感性、いずれも言葉を用いるもの。相反するものではなく「ともに、言語処理能力を高めることで、鍛え、磨きあげることができる」もの(P204)。
・地味なドリル形式の本。文学作品に込められた論理を取り出して、論理力を意識した読み方ができるような問題で構成されている。おそらく、ターゲットは私のような一般人向けなのだろう。現代文(小説)程度の内容であると思う。
・文学作品を論理的に、言葉をおいながら丁寧に読むことをこれまでやってこなかったので、本著の内容は大変新鮮だった。
(以下、引用)
4 規則にしたがって、言葉を速く正確に使えれば、「論理力」となります。言葉の微妙な使い方が巧みになれば、豊かな「感受性」となります。
6 論理力が身につくと、次のような能力がどんどん開花していきます。 ①文章を論理的に読み、理解、整理することが楽になり、速読にも威力を発揮。 ②人の話のすじみちを、瞬時に理解できるようになり、のみこみが速くなる。 ③読み取ったことを論理的に考えることによって、思考能力が身につく。 ④自分の考えをすじみち立てて話したり、論理的な文章を書けるようになる。
10 文学作品とは、実に感覚的なものだと、思い込んではいませんか?もちろん、筆者の独自の世界観や鋭い感性がそこにはあるのですが、それを不特定多数の読者に伝えようとするとき、いきおい文章は論理的にならざるを得ないのです。
22 述語から、主語をつかまえることがコツです。
23 文章を論理的に読む基本は、「主語?述語」をおさえることだと考えてください。 同 言葉は必ず他の言葉とつながります。(中略)感動詞以外は必ず他の言葉とつながっているのです。
25 接続語に着目して読むのが、論理的な読解の第一歩なのです。
28 すじみちの立て方=論理は、大きく分けて三つあります。その一つが、「イコールの関係」です。(具体例、引用)
29 あるいは、反対意見Bを持ち出して、それをひっくり返します。そのようにして、自分の意見Aの正しさを説明できるのです。こういったものを、対立関係といいます。
31 論理的な文章では、筆者の主張Aと、その次の主張Bとの間には、「因果関係」が見られます。(中略)「だから」で結ばれた関係が、「因果関係」なのです。(「だから」の前に理由がくる 122)
64 小説の風景描写は視点となる人物の目を通して描かれるもの(略)風景描写には、その視点人物の心情が投影されているのです。
79 小説を読むときは、自分の生活感覚で読まないことが鉄則。
118 主語が省略されるのは、基本的に前の文と主語が変わらないときです。
○現代文読解法(出口汪『NEW 出口現代文講義の実況中継①』語学春秋社、2007年、62,63ページより。)
1.文章を「論理的につかむ」
(1)人間は皆先入観を持っているから、客観的に文章を読むということは不可能である。
(2)だから、自分の頭を信用してはいけない。
(3)入試問題の文章は、論理的である限り一つの結論・主張(A)の形を変えて何度も繰り返す構造になっている。同じ主張を反復しているのだから、それらの主張を重ねて解釈しなさい。
(4)この作業によって、先入観がおおい隠していた影の部分が光の部分と重ね合わされ、そこではじめて筆者の主張が正しく把握できることになる。
2.言葉を「文脈で固定する」
(1)言葉というものは所詮、個人言語であって、一人ひとりの感覚や知識の度合いによって様々な使われ方をするし、また状況や場合によっても揺れ動くものである。
(2)だから、筆者の個人言語を読者の個人言語で理解しようとしてはいけない。筆者の言語は筆者の言語の中でつかむということ。
(3)それは、とりもなおさず、文章の前後関係、つまり文脈から言葉の意味をつかむということである。
2019年5月21日火曜日
森岡正博編著『「ささえあい」の人間学』法藏館、1994年。
・出版時には新進気鋭と呼ばれていた5人の研究者による研究会の報告と、その成果物としての論文集。それぞれが異なる専門的立場から「いのち」に関わっている。研究会のテーマは「新たな社会において人々はどのように関わり合ってゆけばよいか」。1989年から5年間にわたる研究会の成果である。
・人間は決してひとりぼっちでは生きてゆけない。そのような人間たちを我々はどうすればもっと適切にささえてゆけるのか。そのような人間たちをささえる社会システムとは、いったいどのようなものか。(はじめに ⅱより)
・医療、看護、仏教(宗教)科学、社会学、倫理...専門の異なる研究者が、自分の立ち位置に根ざしながらも、その枠組みを超え、時にゆらぎながらも、成果としては確かに新たな議論の場を切り拓いていると感じるものである。
・何よりも、各論文(メモ)が、大変専門的な内容であるにもかかわらず、表現が一般向けになっており、丁寧に説明されているなどの工夫がなされているため、読み手の理解度に合わせて深まっていく内容になっているのだと思った
そして、それぞれの論文から、各人の思いが伝わってくるような、書籍として熱のこもったものとして編集されていることも興味深い。今読んでも全く古さを感じない。学術論文であるにも関わらず、読んで気持ちが高揚してくるのもまた面白い。
・個々の「ささえ」、相互の「ささえあい」が、社会問題と共通する「ささえ」とつながっていることをイメージできる論考に、視野が一気に広がる感覚を得た。
・25年前(現在は2019年)に世に出された本書で語られる未来イメージ(日本型福祉国家)が、パズルのようにパタパタと成立しているような気がしてならない。新たな南北問題に踏み込んでいるような現在の日本とその社会システムの中で生活しながら、冷静にそのしくみを語ることのできる人でありたい。
(再まとめ)
・21世紀、高齢福祉社会を突き進んでいく日本の社会がどうなっていくのか。そこで生きる人達を先導する哲学、人間観、社会観、生命観とは何か、について深く追及する共同研究の軌跡。
・一人では生きていけない社会における「ささえあいの人間学」を追求していく。身体だけでなく心をささえること、何をささえ、どのようにささえたらもっと適切といえるのか。末期医療における「ささえあい」をモデルにして様々な角度から専門の枠組みを超えて議論している。
・気鋭(当時)の学者5人が、5年間にわたり繰り返してきた会合と、その度に提出された論文を編集したのが本書である。研究会の成果というと、一般的には最終報告書が公開されるものだが、本書においては、この研究会に提出されたほぼ全ての論文を編集し公表することで(1)未来図として検討された議論の本筋から外れたいくつかのテーマも紹介している(2)検討の軌跡や、参加者が立場・考え方を変えていく様子がわかる、ような構成となっている。
・こういった形式の論文集(共同研究)に接する機会は滅多になく、大変新鮮な読み物であったということと併せて、哲学的な議論が加わることによって、どの分野からの切り口にもその不足点や要所や言葉の意味や定義のレベルで整理されていくことを感じた。一つのことが分かると、一つ視野が広がるような感覚である。本書の論文一つ一つからそうした深まりが得られたことで、また新たな疑問が提示されるとともに、私の疑問も深まっている。知りたいことは増えているのだが、それが気持ちのいいこととして感じられる。知的好奇心を刺激される感覚を味わうことができた。
(以下、引用)
ⅱ 完全には自律できにくい人間どうしがお互いに「ささえあって」ゆくという形の社会原理の可能性を探ろうとした。
(佐藤雅彦)ささえる人をささえること、既存の価値を現在にあわせて超えていく。
・ささえる人をささえることと、既存の価値を現在に合わせて超えていく。
221 (「仏教学」には)「異論を挟まないで、それはそれとしてきちんと受け止める」というあり方をした、信仰の学問としての一面があります。
222 たとえば、浄土宗の教学はこうあるべきだというものがありますよね。ところが現実の人に接して、いま悲しんでいる人に対してことばを伝えるときに、伝統的ながんじがらめの四角いことばを使ってはとても表現し切れない。やはり、その場ではその人に合った表現をします。けれども、やっぱり自分のこころの中では、どうもこれは本来的な浄土教の教え方からは外れているかもしれないという危惧は感じるわけです。
224 おそらく、現代に対応していこうとすれば、きっと従来の仏教学とか、伝統的な仏教の学問の体系からは、完全に逸脱してくるでしょう。しかし「学問的な体系」から逸脱したとしても、仏教そのものの教えが「真理」である以上、その「真理」から逸脱することはありえないでしょう。旧来の学問の体系からの逸脱を抜きにしては新しい学問の創造や、独創的な発想の展開は成立しないはずです。
229 率直に言って、ささえを受ける人がこころの安らぎを得ることができ、そのグループの中でしっかりとして、サポートができればそれでいいと思いますね。(略)
230 だから、僕はターミナル・ケアに宗教者が直接参加すべきだという画一的な理論には否定的です。
同 宗教はターミナル・ケアに関わる人たちの、知識・感性などさまざまなものを貯蔵する「タンク」として機能するのか、今後の日本で求められる方向性じゃないでしょうか。
(斎藤有紀子)スローガンではなく、対象を想定し、借りものの言葉(外来語)に意味を見出すべき
237 和語の中に私たちが安らぎを見出せるのは事実ですが、和語は「説明不要の安心感」を私たちに抱かせる。→だから「ささえあい」を論じると、心得的になる。
238 ささえが必要な場面では、そこにいる人々はたいてい現実と格闘しています。彼らはぎりぎりの状況に置かれてもなお、目前の現実と向き合っていかなければなりません。その過酷さを少しでもささえるには、具体的な問題解決システムの確立を目指す必要があるでしょう。輸入された概念は、この「問題解決システム確立」過程で、私たちがすべきこと(してはいけないこと)を、具体的原則にして指し示します。それは、ささえを必要としている社会的弱者にとって、和語(耳に心地よいが現実のどの場面を説明するのかよくわからない)よりも、よほど力になるものではないでしょうか。
240 終末期を迎えている患者/看護・介護を必要とする高齢者/判断能力が不十分とされる子どもたち/障害をもつ人々に対し、彼らの主体性を尊重した医療(ケア)を提供しようと考えたとき、果たして現在のような「保護し、保護される」関係でいいのか。保護することと主体性を尊重することは、ときにぶつかるのではないだろうか。
241 私はこれまで権利主張を前面に出す物言いに、かなり抵抗してきました。自己決定「権」といってしまったときに感じる居心地の悪さと、しかしそれに目をつぶっては、私たちが善意と思っていることが空回りしてしまうのでは、という危機感を行きつ戻りつしておりました。(略)しかし「実質的に」制度をささえ、他人が尊重されるためには、やはりまず権利から始めるのも得策だと最近感じ始めています。
242 「ささえあい」という可能性に満ちた和語を「権利」「個人」「自己」という概念なしで使うとき、一つ心配なのは、前回の論文でふれたように、周囲でささえる人の大変さを誰も肩代わりできないことです。(略)冷たいスローガンに終わってしまいます。
243 「個人」を想定し、「権利」を定め、それに対する「社会」の義務をはっきりさせることが、ひとつ実質的なシステムとして、ささえの基盤となってきます。借り物の「権利」「自己」「個人」「共感」「自律」概念を利用しながら、それをいかに私たちらしく、私たちの社会になじむ方法で運用してしまうかが、一つの試されどころでしょう。
(土屋貴志)ささえあいの本質
304-305 「ささえの原則」
根本原則:「共感」が達成されるよう努めるべきである。
二次原則:
(1)相手にかかわっていこうとする
(2)相手の可能性を信じる
(3)事実に直面しそれを受け容れなければならないのは、その人自身なのであって、他の人が代わってやることは決してできない
306 自分以外の人が何を考え、何を感じているか、全部わかるわけではないが、全然わからないわけでもない。私たちは言語表現や身体的表現を通じて、他人の体験しているものを限定的に感じ取ることができる。だからこそ、この限られた能力をフルに活用して、なるべく本人の体験しているそのままを感じ取るべきだといえるのです。
認識に関する命題 ⇔ 存在に関する命題
308 共感の本質とは、重荷を代わりに背負うことではなく、背負っている本人を一人ぼっちにしないこと
310 死に対する恐怖や不安そのものを完全に解消することは、(宗教を含め)いかなる「ささえ」をもってしても不可能かもしれません。しかし、それはしばしば非常に大きな助けになります。この「分かちあい」こそ「ささえあい」の最終的な到達点のように、私には思われるのです。
(赤林朗)ささえ業
319 「ささえ」においては、「ささえ」られる側も「ささえ」る側と同じように重要なのです。(コンサルテーション・リエゾン P321)
322 「ささえ」行の特徴、「調整的仲介的」な機能。もう一つは、常に実践に携わり「ささえ」を必要としている人との直接的・間接的な関与を通じて、「ささえ」を達成していくという特徴です。理解を見出すにしても、それは実践の中から得られるものです。
325 「ささえ」業を現実化させるためには、「実践の科学化」という考え方も参考になります。
(森岡正博)
329 「ささえあい」の実践には専門分化した個別的な「援助」と、それら相互をスーパーヴァイズする「調整・仲介」機能の二種類が必要であるという点が、よりはっきりするように思います。
330 「ささえあいのシステム」の全体像 「『ささえ』の四つのカテゴリー」
(1)「ものや環境を与える<ささえ>」
(2)「技術や機能を与える<ささえ>」
(3)「情報や心の糧を与える<ささえ>」
(4)「存在を与える<ささえ>」
同 各自はそれらが心得を自分のこころの中で唱えているだけではダメだと思うのです。というのは、まず社会の構造上の問題があって、それが原因でなにかの問題が生じている場合、いくらみんなが心得を唱えて行動しても、事態は全然解決されないからです。
332 (1)について(略)将来は社会の主流になるであろう非健常者が生活できてそして死んでいけるような「都市」を、計画的に作ってゆかねばならないのです。
335 これを成功させる秘訣のひとつは、都市の立体化にあると考えています。
336 (2)について、ボランティアの力が、将来の福祉施設を運営してゆくうえでのキーとなるのはまちがいありません。
337 そこで、ボランティアでもない、パートタイマーでもないという、新しいカテゴリーの援助職を作って運営してゆくべきだと思います。
338 「病院」に対応する「看護院」のような施設
340 (3)について、生老病死にかかわる相談事と情報提供を一括に担当する「人生アドヴァイザー」という職種を作りだし、彼らがそれらの問題に包括的に対処するのです。(略)都市共同体の中では、人生アドヴァイザーの役割を、家族・親戚・近隣のネットワークに求めるのではなく、都市社会の中の「職業人」の中に求めなければなりません。
341 (4)について、家族によるこころのささえを補うものとして、私は「友人」によるささえに注目したいと思います。(略)そのにょうな友人関係のネットワークを、より多く形成させるような「文化」や「生き方」を醸成してゆくこと、これがささえあいのシステムを作り上げることの一部となるのです。
342 ひとつだけ確実に言えることは、ささえあいのシステムが根づいた社会とは、非常に多くの人が「ささえあい」のために働いている社会となるという点です。福祉社会とは、自分のためだけに働く比率が減り、ささえあいのために働く比率が増えるような社会のことです。
343 国外で安い労働力を搾取するという「帝国主義的・植民地的南北問題」から、国内で外国人の安い労働力を搾取するという「福祉型南北問題」への移行です。
同 これが、経済の優等生日本が、二十一世紀に世界に向けて示す<日本型福祉国家>の基本モデルとなるわけです。
344 いままでのささえあいの議論では、ある一つの社会に生きる「個人」の間のささえあいを念頭において、研究を進めてきました。しかし、その個人が所属する「社会」あるいは「国家」のレベルでの、他の社会・国家とのささえあいもまた、実は我々のテーマであったことに気づきます。
同 これからの日本社会を襲うものは、この暗黙の「同質性」の崩壊なのではないでしょうか。
・人間は決してひとりぼっちでは生きてゆけない。そのような人間たちを我々はどうすればもっと適切にささえてゆけるのか。そのような人間たちをささえる社会システムとは、いったいどのようなものか。(はじめに ⅱより)
・医療、看護、仏教(宗教)科学、社会学、倫理...専門の異なる研究者が、自分の立ち位置に根ざしながらも、その枠組みを超え、時にゆらぎながらも、成果としては確かに新たな議論の場を切り拓いていると感じるものである。
・何よりも、各論文(メモ)が、大変専門的な内容であるにもかかわらず、表現が一般向けになっており、丁寧に説明されているなどの工夫がなされているため、読み手の理解度に合わせて深まっていく内容になっているのだと思った
そして、それぞれの論文から、各人の思いが伝わってくるような、書籍として熱のこもったものとして編集されていることも興味深い。今読んでも全く古さを感じない。学術論文であるにも関わらず、読んで気持ちが高揚してくるのもまた面白い。
・個々の「ささえ」、相互の「ささえあい」が、社会問題と共通する「ささえ」とつながっていることをイメージできる論考に、視野が一気に広がる感覚を得た。
・25年前(現在は2019年)に世に出された本書で語られる未来イメージ(日本型福祉国家)が、パズルのようにパタパタと成立しているような気がしてならない。新たな南北問題に踏み込んでいるような現在の日本とその社会システムの中で生活しながら、冷静にそのしくみを語ることのできる人でありたい。
(再まとめ)
・21世紀、高齢福祉社会を突き進んでいく日本の社会がどうなっていくのか。そこで生きる人達を先導する哲学、人間観、社会観、生命観とは何か、について深く追及する共同研究の軌跡。
・一人では生きていけない社会における「ささえあいの人間学」を追求していく。身体だけでなく心をささえること、何をささえ、どのようにささえたらもっと適切といえるのか。末期医療における「ささえあい」をモデルにして様々な角度から専門の枠組みを超えて議論している。
・気鋭(当時)の学者5人が、5年間にわたり繰り返してきた会合と、その度に提出された論文を編集したのが本書である。研究会の成果というと、一般的には最終報告書が公開されるものだが、本書においては、この研究会に提出されたほぼ全ての論文を編集し公表することで(1)未来図として検討された議論の本筋から外れたいくつかのテーマも紹介している(2)検討の軌跡や、参加者が立場・考え方を変えていく様子がわかる、ような構成となっている。
・こういった形式の論文集(共同研究)に接する機会は滅多になく、大変新鮮な読み物であったということと併せて、哲学的な議論が加わることによって、どの分野からの切り口にもその不足点や要所や言葉の意味や定義のレベルで整理されていくことを感じた。一つのことが分かると、一つ視野が広がるような感覚である。本書の論文一つ一つからそうした深まりが得られたことで、また新たな疑問が提示されるとともに、私の疑問も深まっている。知りたいことは増えているのだが、それが気持ちのいいこととして感じられる。知的好奇心を刺激される感覚を味わうことができた。
(以下、引用)
ⅱ 完全には自律できにくい人間どうしがお互いに「ささえあって」ゆくという形の社会原理の可能性を探ろうとした。
(佐藤雅彦)ささえる人をささえること、既存の価値を現在にあわせて超えていく。
・ささえる人をささえることと、既存の価値を現在に合わせて超えていく。
221 (「仏教学」には)「異論を挟まないで、それはそれとしてきちんと受け止める」というあり方をした、信仰の学問としての一面があります。
222 たとえば、浄土宗の教学はこうあるべきだというものがありますよね。ところが現実の人に接して、いま悲しんでいる人に対してことばを伝えるときに、伝統的ながんじがらめの四角いことばを使ってはとても表現し切れない。やはり、その場ではその人に合った表現をします。けれども、やっぱり自分のこころの中では、どうもこれは本来的な浄土教の教え方からは外れているかもしれないという危惧は感じるわけです。
224 おそらく、現代に対応していこうとすれば、きっと従来の仏教学とか、伝統的な仏教の学問の体系からは、完全に逸脱してくるでしょう。しかし「学問的な体系」から逸脱したとしても、仏教そのものの教えが「真理」である以上、その「真理」から逸脱することはありえないでしょう。旧来の学問の体系からの逸脱を抜きにしては新しい学問の創造や、独創的な発想の展開は成立しないはずです。
229 率直に言って、ささえを受ける人がこころの安らぎを得ることができ、そのグループの中でしっかりとして、サポートができればそれでいいと思いますね。(略)
230 だから、僕はターミナル・ケアに宗教者が直接参加すべきだという画一的な理論には否定的です。
同 宗教はターミナル・ケアに関わる人たちの、知識・感性などさまざまなものを貯蔵する「タンク」として機能するのか、今後の日本で求められる方向性じゃないでしょうか。
(斎藤有紀子)スローガンではなく、対象を想定し、借りものの言葉(外来語)に意味を見出すべき
237 和語の中に私たちが安らぎを見出せるのは事実ですが、和語は「説明不要の安心感」を私たちに抱かせる。→だから「ささえあい」を論じると、心得的になる。
238 ささえが必要な場面では、そこにいる人々はたいてい現実と格闘しています。彼らはぎりぎりの状況に置かれてもなお、目前の現実と向き合っていかなければなりません。その過酷さを少しでもささえるには、具体的な問題解決システムの確立を目指す必要があるでしょう。輸入された概念は、この「問題解決システム確立」過程で、私たちがすべきこと(してはいけないこと)を、具体的原則にして指し示します。それは、ささえを必要としている社会的弱者にとって、和語(耳に心地よいが現実のどの場面を説明するのかよくわからない)よりも、よほど力になるものではないでしょうか。
240 終末期を迎えている患者/看護・介護を必要とする高齢者/判断能力が不十分とされる子どもたち/障害をもつ人々に対し、彼らの主体性を尊重した医療(ケア)を提供しようと考えたとき、果たして現在のような「保護し、保護される」関係でいいのか。保護することと主体性を尊重することは、ときにぶつかるのではないだろうか。
241 私はこれまで権利主張を前面に出す物言いに、かなり抵抗してきました。自己決定「権」といってしまったときに感じる居心地の悪さと、しかしそれに目をつぶっては、私たちが善意と思っていることが空回りしてしまうのでは、という危機感を行きつ戻りつしておりました。(略)しかし「実質的に」制度をささえ、他人が尊重されるためには、やはりまず権利から始めるのも得策だと最近感じ始めています。
242 「ささえあい」という可能性に満ちた和語を「権利」「個人」「自己」という概念なしで使うとき、一つ心配なのは、前回の論文でふれたように、周囲でささえる人の大変さを誰も肩代わりできないことです。(略)冷たいスローガンに終わってしまいます。
243 「個人」を想定し、「権利」を定め、それに対する「社会」の義務をはっきりさせることが、ひとつ実質的なシステムとして、ささえの基盤となってきます。借り物の「権利」「自己」「個人」「共感」「自律」概念を利用しながら、それをいかに私たちらしく、私たちの社会になじむ方法で運用してしまうかが、一つの試されどころでしょう。
(土屋貴志)ささえあいの本質
304-305 「ささえの原則」
根本原則:「共感」が達成されるよう努めるべきである。
二次原則:
(1)相手にかかわっていこうとする
(2)相手の可能性を信じる
(3)事実に直面しそれを受け容れなければならないのは、その人自身なのであって、他の人が代わってやることは決してできない
306 自分以外の人が何を考え、何を感じているか、全部わかるわけではないが、全然わからないわけでもない。私たちは言語表現や身体的表現を通じて、他人の体験しているものを限定的に感じ取ることができる。だからこそ、この限られた能力をフルに活用して、なるべく本人の体験しているそのままを感じ取るべきだといえるのです。
認識に関する命題 ⇔ 存在に関する命題
308 共感の本質とは、重荷を代わりに背負うことではなく、背負っている本人を一人ぼっちにしないこと
310 死に対する恐怖や不安そのものを完全に解消することは、(宗教を含め)いかなる「ささえ」をもってしても不可能かもしれません。しかし、それはしばしば非常に大きな助けになります。この「分かちあい」こそ「ささえあい」の最終的な到達点のように、私には思われるのです。
(赤林朗)ささえ業
319 「ささえ」においては、「ささえ」られる側も「ささえ」る側と同じように重要なのです。(コンサルテーション・リエゾン P321)
322 「ささえ」行の特徴、「調整的仲介的」な機能。もう一つは、常に実践に携わり「ささえ」を必要としている人との直接的・間接的な関与を通じて、「ささえ」を達成していくという特徴です。理解を見出すにしても、それは実践の中から得られるものです。
325 「ささえ」業を現実化させるためには、「実践の科学化」という考え方も参考になります。
(森岡正博)
329 「ささえあい」の実践には専門分化した個別的な「援助」と、それら相互をスーパーヴァイズする「調整・仲介」機能の二種類が必要であるという点が、よりはっきりするように思います。
330 「ささえあいのシステム」の全体像 「『ささえ』の四つのカテゴリー」
(1)「ものや環境を与える<ささえ>」
(2)「技術や機能を与える<ささえ>」
(3)「情報や心の糧を与える<ささえ>」
(4)「存在を与える<ささえ>」
同 各自はそれらが心得を自分のこころの中で唱えているだけではダメだと思うのです。というのは、まず社会の構造上の問題があって、それが原因でなにかの問題が生じている場合、いくらみんなが心得を唱えて行動しても、事態は全然解決されないからです。
332 (1)について(略)将来は社会の主流になるであろう非健常者が生活できてそして死んでいけるような「都市」を、計画的に作ってゆかねばならないのです。
335 これを成功させる秘訣のひとつは、都市の立体化にあると考えています。
336 (2)について、ボランティアの力が、将来の福祉施設を運営してゆくうえでのキーとなるのはまちがいありません。
337 そこで、ボランティアでもない、パートタイマーでもないという、新しいカテゴリーの援助職を作って運営してゆくべきだと思います。
338 「病院」に対応する「看護院」のような施設
340 (3)について、生老病死にかかわる相談事と情報提供を一括に担当する「人生アドヴァイザー」という職種を作りだし、彼らがそれらの問題に包括的に対処するのです。(略)都市共同体の中では、人生アドヴァイザーの役割を、家族・親戚・近隣のネットワークに求めるのではなく、都市社会の中の「職業人」の中に求めなければなりません。
341 (4)について、家族によるこころのささえを補うものとして、私は「友人」によるささえに注目したいと思います。(略)そのにょうな友人関係のネットワークを、より多く形成させるような「文化」や「生き方」を醸成してゆくこと、これがささえあいのシステムを作り上げることの一部となるのです。
342 ひとつだけ確実に言えることは、ささえあいのシステムが根づいた社会とは、非常に多くの人が「ささえあい」のために働いている社会となるという点です。福祉社会とは、自分のためだけに働く比率が減り、ささえあいのために働く比率が増えるような社会のことです。
343 国外で安い労働力を搾取するという「帝国主義的・植民地的南北問題」から、国内で外国人の安い労働力を搾取するという「福祉型南北問題」への移行です。
同 これが、経済の優等生日本が、二十一世紀に世界に向けて示す<日本型福祉国家>の基本モデルとなるわけです。
344 いままでのささえあいの議論では、ある一つの社会に生きる「個人」の間のささえあいを念頭において、研究を進めてきました。しかし、その個人が所属する「社会」あるいは「国家」のレベルでの、他の社会・国家とのささえあいもまた、実は我々のテーマであったことに気づきます。
同 これからの日本社会を襲うものは、この暗黙の「同質性」の崩壊なのではないでしょうか。
2019年5月4日土曜日
ホセ・ルイス・ゴンザレス・バラド編、渡辺和子訳『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』PHP研究所、1997年。
・ご縁ある思い出の本だが、当時はパラパラと眺めていたものであった。きちんと読んだのは今回が初めてといえるだろう。
・マザー・テレサや「死を待つ人の家」のことを調べたこともあったが、当時「なぜそんなことをするのか」全くわからなかった。今もわからないことではあるのだけれども、マザー・テレサがそうした活動に取り組む「理由」の一端は感じとれたような気がする。
・人を助けることの意味、貧しい人たちとの関わり方、それが清く尊いことは感覚として了承できても、到底納得できることではなかった。今では、分からないなりにも、若い頃に感じていた「拒否」にはならない。「わからなくはない」ところまでは受け入れられるようになった。
・今回つかんだことは、マザー・テレサにとって出会う人ーー友人、先生、道ゆく人、だけでなく、助けを必要としている人、死にかけている人を含めたあらゆる人ーー全てがイエスその人であるとする感じ方、考え方、物事の捉え方というところ。マザー・テレサの様々な言葉に貫かれている意志は、この点の近くにあると思える。
・この学びは、「今、ここ」の感覚や、禅の思想にも通じることのように思える。絶対的な何かを感じ取る、あるいはそれすら手放し「今、ここ」のみを感じ取ることとの接点であるように思えるようになった。
86 ハンセン病者、死にかけている人、飢えている人、エイズに羅っている人々は、すべて皆、イエスその人なのです。
87 あなた方がこれから触れる貧しい人々の姿の中に見るキリストと、ミサ中のキリストは全く同じなのですよ。
・マザー・テレサや「死を待つ人の家」のことを調べたこともあったが、当時「なぜそんなことをするのか」全くわからなかった。今もわからないことではあるのだけれども、マザー・テレサがそうした活動に取り組む「理由」の一端は感じとれたような気がする。
・人を助けることの意味、貧しい人たちとの関わり方、それが清く尊いことは感覚として了承できても、到底納得できることではなかった。今では、分からないなりにも、若い頃に感じていた「拒否」にはならない。「わからなくはない」ところまでは受け入れられるようになった。
・今回つかんだことは、マザー・テレサにとって出会う人ーー友人、先生、道ゆく人、だけでなく、助けを必要としている人、死にかけている人を含めたあらゆる人ーー全てがイエスその人であるとする感じ方、考え方、物事の捉え方というところ。マザー・テレサの様々な言葉に貫かれている意志は、この点の近くにあると思える。
・この学びは、「今、ここ」の感覚や、禅の思想にも通じることのように思える。絶対的な何かを感じ取る、あるいはそれすら手放し「今、ここ」のみを感じ取ることとの接点であるように思えるようになった。
86 ハンセン病者、死にかけている人、飢えている人、エイズに羅っている人々は、すべて皆、イエスその人なのです。
87 あなた方がこれから触れる貧しい人々の姿の中に見るキリストと、ミサ中のキリストは全く同じなのですよ。
内山興正『〔新装版〕坐禅の意味と実際 ー生命の実物を生きる』大法輪閣、2003年。
・マインドフルネスの瞑想から、坐禅の実際へ。マインドフルネスが「頭の体操」と割り切り、宗教性を排除したプログラムとなっているのに対し、坐禅は仏教に根ざした実践の一つの形といえる。
・「『自己が自己の実物を生きること』を、実際にやるのが坐禅です。」(14頁)表現にはいくつかあって、「自己の真実を生きること」「自己が自己を自己すること」(同頁)「ただかくの如く生きている」(30頁)など。
・正しい姿勢を、骨と筋肉でネラウのみ。よい(坐禅)、悪い(坐禅)の価値判断ではなく、「何か」を目指すこともない。ただ坐禅すること。「祇管打坐(しかんたざ)」という。
・何かになるための坐禅ではなく、自分を取り戻す、ただ自分である時間が坐禅である。なにも目指さないが、何からも解放されること。
(以下、引用)
6 おのおの自己自らの目をもって、自己から出発することこそが、真に仏教的な求道の態度そのものにほかならないのですから。
13 あなたはいつも、ただ他との関係(かねあい)においてだけで生きていて、本当の自分を生きていないから、自分の人生がさびしくなるのでしょう
14 『自己が自己の実物を生きること』を、実際にやるのが坐禅です。
48 坐禅とは、まさしく「ただかくの如くある実物」を、もっともよくネラウ姿勢なのであり、この「ただかくの如くある実物をネラウ姿勢」をねらって「ただかくの如くある」というのが、祇管打坐(ただ坐禅する)ということなのです。
51 坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい、そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません。
52 坐禅の姿勢をネラウと同時に思いを手放しにすることによって、心身ともに「坐禅する気になって坐禅する」ことになります。この「坐禅する気になって坐禅する」ことを、決して「思う」のではなしに「実行する」のが坐禅です。
このことを道元禅師は薬山和尚の語をひいて「不思量底の思量」といわれます。骨組と筋肉で坐禅しながら、思いの手放し(不思量底)をネラウ(思量する)のだからです。また瑩山禅師は「覚触(かくそく)」という語をつかわれます。これははっきり覚めて(覚)実物を実物する(触)のだからです。
61 いま仏祖正伝の坐禅(真実生命の坐禅)はそうではありません。欲望も煩悩もじつは生命力のあらわれなのですから、これを憎み、断滅していいはずはなく、しかしそうだからといって、もし欲望、煩悩にひかれてそれを追うならば、それによって、かえって生命は呆けてしまいます。この際大切なことは、思いによって呆けさせることなく、かえって思いもすべて生命の地盤にあるものとして、在らしめながら、しかしそれにひきずりまわされないことです。いやそれにひきずりまわされまいと頑張るのでなしに、ただ覚めて生命の実物に帰ることです。
63 ふだんのわれわれの日常生活の行動では、ほとんどこのような思いを追った結果、まざまざとある似た姿を固定せしめ、この固定した煩悩妄想にかえって重みがかかり、この煩悩妄想によってふりまわされて行動していることばかりです。いやむしろ、ふだんのわれわれときたら、今の自分がこのような煩悩妄想にふりまわされているのだということさえもわからないで、ふりまわされている、といった方があたっています。
64 このような坐禅体験が充分に身についてくれば、ふだんの生活においても、たとえさまざまな思いが往き来しつつも、それにふりまわされることなく、自らの生命を覚触して、そのことにより真新しい生命の実物から出発しなおすことができるでしょう。
82 坐禅で大切なことは、それらいずれにもかかわらず、とにかくただ坐禅をねらい、坐禅を覚触して、ただ坐ることです。
96 自己の生命の実物とは、小さな個体的な私の思いをはるかに超えたところにありながら、現にこの小さな個体的私に働いている力なのです。
99 生命の実物としていえば、この小さな個体としての私の思い以上のところで、根本事実として、自己は「生きとし生けるもの、ありとあらゆるもの」(一切生命、一切存在)と不二、ぶっつづきの生命(尽一切自己)を生きているのです。これに反し、ふだんのわれわれは小さなこの個体的自分の思いによって、この尽一切自己の生命の実物を見失い、くもらせてしまっております。そこで今、思いを手放しにすることにより、この生命の実物に澄み浄くなり、この生命の実物をそのまま生きる(覚触する。非思量する)ーーそれが坐禅なのです。(このような坐禅を「証上修の坐禅」といいます。100頁)
102 (前略)「不疑」という、信についての第二の意味がでてきます。このことも、単に他人のいうことを聞いて疑わないというのではなく、「それを本当と思っても思わなくても、信じても疑っても」ーーそんな自分の思いにかかわらないところでーー事実として不二の生命の実物を生きているということを疑わない、ということだけが、仏教の信の意味です。
・「『自己が自己の実物を生きること』を、実際にやるのが坐禅です。」(14頁)表現にはいくつかあって、「自己の真実を生きること」「自己が自己を自己すること」(同頁)「ただかくの如く生きている」(30頁)など。
・正しい姿勢を、骨と筋肉でネラウのみ。よい(坐禅)、悪い(坐禅)の価値判断ではなく、「何か」を目指すこともない。ただ坐禅すること。「祇管打坐(しかんたざ)」という。
・何かになるための坐禅ではなく、自分を取り戻す、ただ自分である時間が坐禅である。なにも目指さないが、何からも解放されること。
(以下、引用)
6 おのおの自己自らの目をもって、自己から出発することこそが、真に仏教的な求道の態度そのものにほかならないのですから。
13 あなたはいつも、ただ他との関係(かねあい)においてだけで生きていて、本当の自分を生きていないから、自分の人生がさびしくなるのでしょう
14 『自己が自己の実物を生きること』を、実際にやるのが坐禅です。
48 坐禅とは、まさしく「ただかくの如くある実物」を、もっともよくネラウ姿勢なのであり、この「ただかくの如くある実物をネラウ姿勢」をねらって「ただかくの如くある」というのが、祇管打坐(ただ坐禅する)ということなのです。
51 坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい、そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません。
52 坐禅の姿勢をネラウと同時に思いを手放しにすることによって、心身ともに「坐禅する気になって坐禅する」ことになります。この「坐禅する気になって坐禅する」ことを、決して「思う」のではなしに「実行する」のが坐禅です。
このことを道元禅師は薬山和尚の語をひいて「不思量底の思量」といわれます。骨組と筋肉で坐禅しながら、思いの手放し(不思量底)をネラウ(思量する)のだからです。また瑩山禅師は「覚触(かくそく)」という語をつかわれます。これははっきり覚めて(覚)実物を実物する(触)のだからです。
61 いま仏祖正伝の坐禅(真実生命の坐禅)はそうではありません。欲望も煩悩もじつは生命力のあらわれなのですから、これを憎み、断滅していいはずはなく、しかしそうだからといって、もし欲望、煩悩にひかれてそれを追うならば、それによって、かえって生命は呆けてしまいます。この際大切なことは、思いによって呆けさせることなく、かえって思いもすべて生命の地盤にあるものとして、在らしめながら、しかしそれにひきずりまわされないことです。いやそれにひきずりまわされまいと頑張るのでなしに、ただ覚めて生命の実物に帰ることです。
63 ふだんのわれわれの日常生活の行動では、ほとんどこのような思いを追った結果、まざまざとある似た姿を固定せしめ、この固定した煩悩妄想にかえって重みがかかり、この煩悩妄想によってふりまわされて行動していることばかりです。いやむしろ、ふだんのわれわれときたら、今の自分がこのような煩悩妄想にふりまわされているのだということさえもわからないで、ふりまわされている、といった方があたっています。
64 このような坐禅体験が充分に身についてくれば、ふだんの生活においても、たとえさまざまな思いが往き来しつつも、それにふりまわされることなく、自らの生命を覚触して、そのことにより真新しい生命の実物から出発しなおすことができるでしょう。
82 坐禅で大切なことは、それらいずれにもかかわらず、とにかくただ坐禅をねらい、坐禅を覚触して、ただ坐ることです。
96 自己の生命の実物とは、小さな個体的な私の思いをはるかに超えたところにありながら、現にこの小さな個体的私に働いている力なのです。
99 生命の実物としていえば、この小さな個体としての私の思い以上のところで、根本事実として、自己は「生きとし生けるもの、ありとあらゆるもの」(一切生命、一切存在)と不二、ぶっつづきの生命(尽一切自己)を生きているのです。これに反し、ふだんのわれわれは小さなこの個体的自分の思いによって、この尽一切自己の生命の実物を見失い、くもらせてしまっております。そこで今、思いを手放しにすることにより、この生命の実物に澄み浄くなり、この生命の実物をそのまま生きる(覚触する。非思量する)ーーそれが坐禅なのです。(このような坐禅を「証上修の坐禅」といいます。100頁)
102 (前略)「不疑」という、信についての第二の意味がでてきます。このことも、単に他人のいうことを聞いて疑わないというのではなく、「それを本当と思っても思わなくても、信じても疑っても」ーーそんな自分の思いにかかわらないところでーー事実として不二の生命の実物を生きているということを疑わない、ということだけが、仏教の信の意味です。
2019年3月24日日曜日
稲田将人『経営参謀 ―戦略プロフェッショナルの教科書』ダイヤモンド社、2014年。
・平成31年2月に読んだ『戦略参謀』の続編。本書もビジネス小説の体裁をとった、事業運営、企業経営の仕組みと、改善・改革の手法とその実態を描いている。またも読み物として大変おもしろいものであると併せて、市場や事業の分析や解説について、親書なら数冊分くらいの内容が詰め込まれているように思う。
・コンサルタントの安部野が、経営企画を一から解説していった前著と比べ、市場分析や消費者心理、経営リーダーシップといった、より大局的な話題を丁寧に解説している印象を受けた。
・Iyokiyehaの今の職場や職位で考えた時には、率直に二つも三つも土俵が異なる内容で、業務とは直接関わらないようなものであるといえる。ただし、事業全体、組織全体を俯瞰し、さらに社会情勢を踏まえて思考するためには、こいった内容に触れ、普段の業務とは異なる視点を自分の中に作っておくことが必要だろう。
(以下、引用)
37ページ:巷で言われていることを鵜呑みにせず、市場の実態を捉える。
38ページ:(前略)気づいた側がそれぞれの異なる時間帯の客層をプロファイリングしたうえで能動的にアイデアをだし、それを試すというイニシアティブをとり、その結果の検証をするべきです。
51ページ:「購買」までのプロセスは、実は極めて情緒的なプロセスなのだ。
52~53ページ:RVAPSサイクル(66ページ解説)
(前略)これが小売業やファッションビジネスのBtoCビジネス繁栄のサイクルだ。(中略)RVAPSサイクルと読んでいる」
R:Recognition 認知:PR、雑誌の広告など
V:Visit 来店:数ある店の中から自店を選んでもらう明確な動機
A:Approach 接近:「あれは何だろう」「良さそうだ、面白そうだ」
P:Purchase 購買:納得して購買
S:Satisfaction 満足:使ってみて満足
84ページ:新規事業の企画においては、言葉で論理的に説明する努力を徹底的に行うべきだが、それでも言葉だけで伝えることには常に限界がある価値もあるということだ。
262ページ:しかし、「人は、性善なれど、性怠惰」なものです。(中略)せっかくの万人の幸せにつながる施策であっても、己にとって不利益があると思うと、それを阻みに行く行為が画策されるのは、人類の歴史をさかのぼっても、そして現在においてもあとを絶つことはありません。
310ページ:物事は「なるようにはなる。しかし、なるようにしかならない」ものだ
311ページ:もうひとつ、「どうでもいいことは、どうでもいい」ってこともある
・コンサルタントの安部野が、経営企画を一から解説していった前著と比べ、市場分析や消費者心理、経営リーダーシップといった、より大局的な話題を丁寧に解説している印象を受けた。
・Iyokiyehaの今の職場や職位で考えた時には、率直に二つも三つも土俵が異なる内容で、業務とは直接関わらないようなものであるといえる。ただし、事業全体、組織全体を俯瞰し、さらに社会情勢を踏まえて思考するためには、こいった内容に触れ、普段の業務とは異なる視点を自分の中に作っておくことが必要だろう。
(以下、引用)
37ページ:巷で言われていることを鵜呑みにせず、市場の実態を捉える。
38ページ:(前略)気づいた側がそれぞれの異なる時間帯の客層をプロファイリングしたうえで能動的にアイデアをだし、それを試すというイニシアティブをとり、その結果の検証をするべきです。
51ページ:「購買」までのプロセスは、実は極めて情緒的なプロセスなのだ。
52~53ページ:RVAPSサイクル(66ページ解説)
(前略)これが小売業やファッションビジネスのBtoCビジネス繁栄のサイクルだ。(中略)RVAPSサイクルと読んでいる」
R:Recognition 認知:PR、雑誌の広告など
V:Visit 来店:数ある店の中から自店を選んでもらう明確な動機
A:Approach 接近:「あれは何だろう」「良さそうだ、面白そうだ」
P:Purchase 購買:納得して購買
S:Satisfaction 満足:使ってみて満足
84ページ:新規事業の企画においては、言葉で論理的に説明する努力を徹底的に行うべきだが、それでも言葉だけで伝えることには常に限界がある価値もあるということだ。
262ページ:しかし、「人は、性善なれど、性怠惰」なものです。(中略)せっかくの万人の幸せにつながる施策であっても、己にとって不利益があると思うと、それを阻みに行く行為が画策されるのは、人類の歴史をさかのぼっても、そして現在においてもあとを絶つことはありません。
310ページ:物事は「なるようにはなる。しかし、なるようにしかならない」ものだ
311ページ:もうひとつ、「どうでもいいことは、どうでもいい」ってこともある
自分であること
元々自分の身体感覚には興味のあるIyokiyehaです。学生時代に運動は苦手だったのですが、サッカー、軟式テニス、ハンドボールと部活に所属し、大学生の時にはワンダーフォーゲル部で山登り。この経歴に一貫性はないのですが、その根っこでは、身体の感覚とかしくみとか、そういったことへの興味がありました。
甲野善紀氏の井桁理論に触れたことをきっかけに、木剣を振るようになり、縁あって合気道(昭道館)に接し、雇用支援の中で精神障害者のプログラムを運営することになったことで、精神保健福祉士の勉強をしました。精神衛生に関する勉強において、脳の働きや循環器・呼吸器などにも触れ、運動だけでなく、リラクゼーションや呼吸法なんかを学んで、実践してきました。メンタルヘルスの知見を下敷きに、筋弛緩法やシステマブリージング、アンガーマネジメントに触れ、近年たどり着いた一つの到達点がマインドフルネスと合気道(錬身会)です。
瞑想や型稽古に取り組みつつ、ここ最近は坐禅もやってみて仏教思想への展開が予想されます。昨年末から生命学の森岡論を一からなぞっていることも影響しているでしょうし、20年間で仕事の内外でこれだけのことに浮気し続けている自分が、今後も何か一つのことに傾倒することはないんだろうなと思いつつ過ごしています。こういうことを振り返ったのは初めてです。
なんでこんな振り返りをしたかというと、マインドフルネスや禅の考え方・思想の中核に近い「ありのままでいること」「いま、ここ」「実物の自己」「自己ぎりの自己」といったモノ・コト(という表現しかできないな・・・)は、少なくともキリスト教にも通じるものなんじゃないかと、マザーテレサの言葉を読んで感じたからです。今後予想される仏教思想への展開は、そのまま歴史学習を通じたキリスト教やその後多分イスラム教、他の勉強につながっていくように思います。偶然にも高校倫理を学びなおしているところでもあるわけで。宗教が戦争の材料ではなく、本来人々にやすらぎや生活規範を与える基盤となるモノ・コトである、あるいはそうした側面があるならば、新興宗教等を含めたどのモノ・コトにも核に近いところにそうした考え方があるんじゃないか、と思い至っているわけです。
人の能力解放みたいなことをライフワークに位置づけているIyokiyehaとしては、宗教的な考え方は避けて通れないと思っていますし、その中に何らかの共通点が見いだせるのではないかと考えてきたところの思いつきです。悩みがなくなるわけではなく、その苦しみから解放される、みたいな考え方って、多分に宗教的でありながら、それだけじゃないような気がするんですよね。それをプログラム化したものがマインドフルネスの瞑想だとすれば、これをつくる背景となるモノ・コトには、頭の休息以上の何かがあるはず。仏教では「悟り」という言葉があるけれども、そんな雲の上の存在みたいなものではなくて、もっと身近でありながら、もっと深いところで、それでいて現代社会を生き抜く知恵みたいなものを探っていきたいと思います。
あれやこれやと浮気しているように見えて、実はすべてがつながっている、なんてよく言われるけれども、それって後で自分の都合のいい解釈をするだけだよね?と思うところだったりします。それでいいじゃないですか。
甲野善紀氏の井桁理論に触れたことをきっかけに、木剣を振るようになり、縁あって合気道(昭道館)に接し、雇用支援の中で精神障害者のプログラムを運営することになったことで、精神保健福祉士の勉強をしました。精神衛生に関する勉強において、脳の働きや循環器・呼吸器などにも触れ、運動だけでなく、リラクゼーションや呼吸法なんかを学んで、実践してきました。メンタルヘルスの知見を下敷きに、筋弛緩法やシステマブリージング、アンガーマネジメントに触れ、近年たどり着いた一つの到達点がマインドフルネスと合気道(錬身会)です。
瞑想や型稽古に取り組みつつ、ここ最近は坐禅もやってみて仏教思想への展開が予想されます。昨年末から生命学の森岡論を一からなぞっていることも影響しているでしょうし、20年間で仕事の内外でこれだけのことに浮気し続けている自分が、今後も何か一つのことに傾倒することはないんだろうなと思いつつ過ごしています。こういうことを振り返ったのは初めてです。
なんでこんな振り返りをしたかというと、マインドフルネスや禅の考え方・思想の中核に近い「ありのままでいること」「いま、ここ」「実物の自己」「自己ぎりの自己」といったモノ・コト(という表現しかできないな・・・)は、少なくともキリスト教にも通じるものなんじゃないかと、マザーテレサの言葉を読んで感じたからです。今後予想される仏教思想への展開は、そのまま歴史学習を通じたキリスト教やその後多分イスラム教、他の勉強につながっていくように思います。偶然にも高校倫理を学びなおしているところでもあるわけで。宗教が戦争の材料ではなく、本来人々にやすらぎや生活規範を与える基盤となるモノ・コトである、あるいはそうした側面があるならば、新興宗教等を含めたどのモノ・コトにも核に近いところにそうした考え方があるんじゃないか、と思い至っているわけです。
人の能力解放みたいなことをライフワークに位置づけているIyokiyehaとしては、宗教的な考え方は避けて通れないと思っていますし、その中に何らかの共通点が見いだせるのではないかと考えてきたところの思いつきです。悩みがなくなるわけではなく、その苦しみから解放される、みたいな考え方って、多分に宗教的でありながら、それだけじゃないような気がするんですよね。それをプログラム化したものがマインドフルネスの瞑想だとすれば、これをつくる背景となるモノ・コトには、頭の休息以上の何かがあるはず。仏教では「悟り」という言葉があるけれども、そんな雲の上の存在みたいなものではなくて、もっと身近でありながら、もっと深いところで、それでいて現代社会を生き抜く知恵みたいなものを探っていきたいと思います。
あれやこれやと浮気しているように見えて、実はすべてがつながっている、なんてよく言われるけれども、それって後で自分の都合のいい解釈をするだけだよね?と思うところだったりします。それでいいじゃないですか。
働くことコラム08:会社を選ぶ理由2 -夢を語るか、現実を語るか
Q「志望動機がうまくかけないんです」
就職活動をしている人と関わると、立場はどうあれこういった質問があります。履歴書や応募書類に記載する「志望動機」欄の内容ですね。
Q「この会社に入って、どうしたいかわからないんです」
先に「立場はどうあれ」と書きましたが、Iyokiyehaさんは支援者としてだけでなく、就職活動をする身であった時期があるので、当事者として同じ問いを発していました。○○という会社に入った自分はどうしたいのか?地方公務員になった自分は何をしたいのか?
「企業分析が足りません」と言われてしまうかもしれませんが、実際に就職活動をする身になると、対象となる組織のことを調べれば調べるほど、自分の能力との乖離を感じ、何もできないような気になってくるし、まして地方公務員なんていう職は、配属課が違えばやる仕事なんか全く違うわけで、Iyokiyehaさんの場合は特に「自分の10数年の経験がそのまま活かせる部署はない」ため、どうしたものかと悩んだものです。
もう少し突っ込むと、私の場合は相手が勘違いしてくれる経験でしたので、その勘違いを逆手にとりこちらの土俵に引き込んだ上で「経験に関わらず何でも挑戦したいです」みたいに広がりをつけて自分を見せていくという手法をとることが結果につながったわけですが、世の中そううまくいくことばかりではないわけで。
とはいえ、上記を含めて、基本的な考え方は「労働市場や応募者属性の中で、自分はどう位置づけられるだろうか」ということを考えた上で、その「見え方」に沿った準備をする、ことは変わらないと思います。このことは先にコラムでとりあげた話題である「自分はどのようにみられているのか」ということと関係してきます。
わかりやすい例をあげれば、新卒採用と中途採用とでは見られ方(≒採用基準)が異なるわけです。では、それぞれ何が求められているのか。
一言でいえば、新卒採用者には「大きな可能性」が求められ、中途採用者には「経験に基づいた柔軟な発想を持ち込むこと」または「最先端の知識・技能を生かした、新しい事業の原動力」といったところでしょう。中途採用の場合は、どんな求人かということによってもその内容は大きく変わってきます。要は、どんな求人なのか、そこに応募してくる人はどんな人達なのか、その中で自分はどんな位置づけなのか・どうあるべきなのか、ということから、ある程度は答えが導かれると思います。
「志望動機」を考えていく時に、この点を外してしまうと「御社の企業理念に共感しました」みたいな、ちょっとかっこいい言葉を並べて、自分のことを何も伝えられない内容になってしまいます。
人によって、求人によっては、大きな夢を語ることが回答となるようなものがあるのかもしれません。自己啓発に関する読み物や、いわゆる成功者の手記やインタビューなどには、そうした「夢」を言葉にすることが語られていることがあります。ただ、私がこれまでに接してきた自他併せ数百件就職活動において、そうした大きな「夢」を語るよう求められたのは1件のみです。多くの場合は「現実を伝わる言葉にする」ことが求められるのでしょうし、たとえ「夢」を語ることが求められたとしても、その時は「自分の描く夢を、伝わる言葉にする」ことが求められるのだと思います。そう考えれば、これまでに重要としてきた「自己分析」を広く深く行い、自分の核と言えるものを伝わる言葉にする作業はどんな就職活動にも求められる基本動作だと考えることができます。この基本動作と、求人や採用の背景とが交差したところに、「求められる志望動機」があるわけです。
よく言われる「自己分析」と、いつも足りないと言われる「企業分析」。「企業分析」は「求人分析」とも読めるでしょう。どんな会社が、どんな人を求めているのか、自己分析によってまとまる自分は、そのどこに当てはまるのか。その「接点」が、応募する理由でしょうし、いわゆる「志望動機」になるんじゃないでしょうか。
ちなみに、Iyokiyehaの地方公務員への転職活動においては、転職動機の核は「子どもたちのふるさとにしたい」で、この街に住み続ける理由で理論武装しました。自分のキャリアに関しては、公務労働を「人権を守る仕事」「住民を(様々な角度から)守る仕事」とまとめ、この言葉に今までの仕事の意味とこれからの未知の仕事の意味とをこれらのキーワードに乗せて面接に臨みました。その問答がどう評価されたかはわかりませんが、少なくとも「まずい回答」にはならなかったと思います。
就職活動をしている人と関わると、立場はどうあれこういった質問があります。履歴書や応募書類に記載する「志望動機」欄の内容ですね。
Q「この会社に入って、どうしたいかわからないんです」
先に「立場はどうあれ」と書きましたが、Iyokiyehaさんは支援者としてだけでなく、就職活動をする身であった時期があるので、当事者として同じ問いを発していました。○○という会社に入った自分はどうしたいのか?地方公務員になった自分は何をしたいのか?
「企業分析が足りません」と言われてしまうかもしれませんが、実際に就職活動をする身になると、対象となる組織のことを調べれば調べるほど、自分の能力との乖離を感じ、何もできないような気になってくるし、まして地方公務員なんていう職は、配属課が違えばやる仕事なんか全く違うわけで、Iyokiyehaさんの場合は特に「自分の10数年の経験がそのまま活かせる部署はない」ため、どうしたものかと悩んだものです。
もう少し突っ込むと、私の場合は相手が勘違いしてくれる経験でしたので、その勘違いを逆手にとりこちらの土俵に引き込んだ上で「経験に関わらず何でも挑戦したいです」みたいに広がりをつけて自分を見せていくという手法をとることが結果につながったわけですが、世の中そううまくいくことばかりではないわけで。
とはいえ、上記を含めて、基本的な考え方は「労働市場や応募者属性の中で、自分はどう位置づけられるだろうか」ということを考えた上で、その「見え方」に沿った準備をする、ことは変わらないと思います。このことは先にコラムでとりあげた話題である「自分はどのようにみられているのか」ということと関係してきます。
わかりやすい例をあげれば、新卒採用と中途採用とでは見られ方(≒採用基準)が異なるわけです。では、それぞれ何が求められているのか。
一言でいえば、新卒採用者には「大きな可能性」が求められ、中途採用者には「経験に基づいた柔軟な発想を持ち込むこと」または「最先端の知識・技能を生かした、新しい事業の原動力」といったところでしょう。中途採用の場合は、どんな求人かということによってもその内容は大きく変わってきます。要は、どんな求人なのか、そこに応募してくる人はどんな人達なのか、その中で自分はどんな位置づけなのか・どうあるべきなのか、ということから、ある程度は答えが導かれると思います。
「志望動機」を考えていく時に、この点を外してしまうと「御社の企業理念に共感しました」みたいな、ちょっとかっこいい言葉を並べて、自分のことを何も伝えられない内容になってしまいます。
人によって、求人によっては、大きな夢を語ることが回答となるようなものがあるのかもしれません。自己啓発に関する読み物や、いわゆる成功者の手記やインタビューなどには、そうした「夢」を言葉にすることが語られていることがあります。ただ、私がこれまでに接してきた自他併せ数百件就職活動において、そうした大きな「夢」を語るよう求められたのは1件のみです。多くの場合は「現実を伝わる言葉にする」ことが求められるのでしょうし、たとえ「夢」を語ることが求められたとしても、その時は「自分の描く夢を、伝わる言葉にする」ことが求められるのだと思います。そう考えれば、これまでに重要としてきた「自己分析」を広く深く行い、自分の核と言えるものを伝わる言葉にする作業はどんな就職活動にも求められる基本動作だと考えることができます。この基本動作と、求人や採用の背景とが交差したところに、「求められる志望動機」があるわけです。
よく言われる「自己分析」と、いつも足りないと言われる「企業分析」。「企業分析」は「求人分析」とも読めるでしょう。どんな会社が、どんな人を求めているのか、自己分析によってまとまる自分は、そのどこに当てはまるのか。その「接点」が、応募する理由でしょうし、いわゆる「志望動機」になるんじゃないでしょうか。
ちなみに、Iyokiyehaの地方公務員への転職活動においては、転職動機の核は「子どもたちのふるさとにしたい」で、この街に住み続ける理由で理論武装しました。自分のキャリアに関しては、公務労働を「人権を守る仕事」「住民を(様々な角度から)守る仕事」とまとめ、この言葉に今までの仕事の意味とこれからの未知の仕事の意味とをこれらのキーワードに乗せて面接に臨みました。その問答がどう評価されたかはわかりませんが、少なくとも「まずい回答」にはならなかったと思います。
2019年3月17日日曜日
Groovy! グルーヴィ!
-groove 名
1 溝、わだち、車の跡
2 決まりきったやり方、慣例
3 適所
4(俗)楽しいこと〔経験〕、すてきな〔いかす〕もの、名演奏のジャズ
Iyokiyehaは自室で何かやるときによく音楽をかけます。ラジオも多いですが、何か作業をやる時は音楽の方が多いです。「好きなジャンルは何ですか?」と聞かれますが、何でも聞きます。つまらない回答で申し訳ない。友人の軸によっては「あいつはジャズなんか聞いている」とか「クラシックのライブ行くんだよね」とか「IyokiyehaというとHOUNDDOGのイメージ」などなど、いろいろ言われますが、どれも事実でどれもすべてではない。よく言えば広い趣味になるし、悪く言えば雑食とか浅く広い、とか。
個人的には結構どうでもよくて、一言でまとめたら「よいものは『良い』」と思っているだけです。そのくらいでいた方が気が楽だし、素直に音楽を感じられると思っているので「浅い」と言われても結構です。
話は少し変わって。
先日、PTA活動で学区にある中学校の卒業式に来賓として臨席させていただく機会がありました。自分が小さい頃「来賓席に座る人って、偉い人なんだろうな」「自分には縁のない人達なんだろうな」と思っていた来賓席に座る自分という新鮮さがあったという話題もあるのですが、今日は音楽の話。
Iyokiyehaが住む所沢市の学校では「合唱」に力を入れているそうで、この学校では卒業式に「リフレイン(作詞:覚和歌子 作曲:信長貴富)」という歌を見事に合唱していました。これがまた聴かせる歌で、素直に感動してきました。
こんなIyokiyehaが感動したんです。学生の頃「合唱」は大嫌いでした、「男子ちゃんと歌って」と言われる側(ふざけている、ではなくて私は音程が合わせられないんです。真面目な子が言う「ちゃんと」にゃならないんだよ~)でした。卒業証書授与式なので、250人弱が壇上に上がる式でした、正直にちょっと疲れていました。それだけでなく、式典の関係は基本的に苦手です、来賓席も仕事ですから仕方がないと思って行ったのも事実です。こんなIyokiyehaです。しかし、感動しました。
歌詞がいいというのもあるのでしょうが、それはさておいても、ただそこにいた自分を突き抜ける何かがあった、そんな素敵な時間でした。ツーン、と何かが頭を貫いて、一瞬の透明感と澄み切った気持ちが自分の中にやってくる、そんな歌でした。とても心地よかった。
私が勝手に師匠と言っている(弟子ではない)あるジャズバーのマスターは、本投稿冒頭で紹介した「groove」のことを、
それは どこからともなくやってきて
いつの間にか去っていく
たしかにあるものだけれども
見えないし聞こえない
ただ その場にいるひとはみんな感じている
みたいに表現していた。こんな感じ、って渦巻きを書いてくれたのが懐かしいです。
なんで卒業式からジャズになったかというと、来賓席に座っていた自分が、このグルーヴ感を勝手に感じていたっていうだけの話なんだけどね。
いや、普通の感覚じゃ、卒業式とジャズバーは結びつかないと思うのだけれども、Iyokiyehaの自由な思考は、「リフレイン」を聞いて何かに貫かれちゃったんだな~
1 溝、わだち、車の跡
2 決まりきったやり方、慣例
3 適所
4(俗)楽しいこと〔経験〕、すてきな〔いかす〕もの、名演奏のジャズ
Iyokiyehaは自室で何かやるときによく音楽をかけます。ラジオも多いですが、何か作業をやる時は音楽の方が多いです。「好きなジャンルは何ですか?」と聞かれますが、何でも聞きます。つまらない回答で申し訳ない。友人の軸によっては「あいつはジャズなんか聞いている」とか「クラシックのライブ行くんだよね」とか「IyokiyehaというとHOUNDDOGのイメージ」などなど、いろいろ言われますが、どれも事実でどれもすべてではない。よく言えば広い趣味になるし、悪く言えば雑食とか浅く広い、とか。
個人的には結構どうでもよくて、一言でまとめたら「よいものは『良い』」と思っているだけです。そのくらいでいた方が気が楽だし、素直に音楽を感じられると思っているので「浅い」と言われても結構です。
話は少し変わって。
先日、PTA活動で学区にある中学校の卒業式に来賓として臨席させていただく機会がありました。自分が小さい頃「来賓席に座る人って、偉い人なんだろうな」「自分には縁のない人達なんだろうな」と思っていた来賓席に座る自分という新鮮さがあったという話題もあるのですが、今日は音楽の話。
Iyokiyehaが住む所沢市の学校では「合唱」に力を入れているそうで、この学校では卒業式に「リフレイン(作詞:覚和歌子 作曲:信長貴富)」という歌を見事に合唱していました。これがまた聴かせる歌で、素直に感動してきました。
こんなIyokiyehaが感動したんです。学生の頃「合唱」は大嫌いでした、「男子ちゃんと歌って」と言われる側(ふざけている、ではなくて私は音程が合わせられないんです。真面目な子が言う「ちゃんと」にゃならないんだよ~)でした。卒業証書授与式なので、250人弱が壇上に上がる式でした、正直にちょっと疲れていました。それだけでなく、式典の関係は基本的に苦手です、来賓席も仕事ですから仕方がないと思って行ったのも事実です。こんなIyokiyehaです。しかし、感動しました。
歌詞がいいというのもあるのでしょうが、それはさておいても、ただそこにいた自分を突き抜ける何かがあった、そんな素敵な時間でした。ツーン、と何かが頭を貫いて、一瞬の透明感と澄み切った気持ちが自分の中にやってくる、そんな歌でした。とても心地よかった。
私が勝手に師匠と言っている(弟子ではない)あるジャズバーのマスターは、本投稿冒頭で紹介した「groove」のことを、
それは どこからともなくやってきて
いつの間にか去っていく
たしかにあるものだけれども
見えないし聞こえない
ただ その場にいるひとはみんな感じている
みたいに表現していた。こんな感じ、って渦巻きを書いてくれたのが懐かしいです。
なんで卒業式からジャズになったかというと、来賓席に座っていた自分が、このグルーヴ感を勝手に感じていたっていうだけの話なんだけどね。
いや、普通の感覚じゃ、卒業式とジャズバーは結びつかないと思うのだけれども、Iyokiyehaの自由な思考は、「リフレイン」を聞いて何かに貫かれちゃったんだな~
久賀谷亮『世界のエリートがやっている 最高の休息法 ー「脳科学×瞑想」で集中力が高まる』ダイヤモンド社、2016年。
・アメリカで活躍する日本人医師がマインドフルネスに関して、小説形式で描いた本。
・論文というよりは、実践本といえる。小説ではあるが、学術的成果を参考文献として押さえている。英語が読める人ならば、原著にあたってもっと深めることができる構成になっている。
・物語は大変シンプルなサクセス&ハッピーエンドである。ただ、マインドフルネスが視野に入れている社会貢献的な内容に触れられており、ビジネスマンとしての成功の定義にも疑問を投げかける。小説としても面白い。
・マインドフルネスのプログラム(取り組み方)がとてもシンプルなので、取り組みやすく、効果も実感しやすい。
・Iyokiyehaが山梨に住んでいた頃に、「精神(思考・考え方)は身体(内蔵機能や循環器機能を含めた)に影響する」ことを、認知行動療法(CBT)の学習で学んだ。その時に逆(つまり、身体が精神に影響すること)もあり得ると漠然と考えていたことがある。そのことが、マインドフルネスにおいて実証されつつあることを知った本である。
・個人の能力が開放されることにより、社会的意義が生まれることにも触れている。
・個人的には大変可能性のあるプログラムであると思っている。自分で身につけたいし、広めていくことも今後考えていきたい。
・課題としては、宗教っぽさ・うさんくささが付加されてしまいがちな点だろう。語る言葉/説明を持つ必要がある。
・「いま、ここ」という言葉は、理解の度合いや背景の学びによって意味が変化するものだと思うのだけれども、「自分に執着しない」「価値判断・評価を自分の外に出す」「今の自分で頭を満たす」といってキーワードで、実践を伴う理解が必要になるのだと思う。
(以下引用)
1ページ:たいていの人は、「休息=身体を休めること」だと思い込んでいます。(中略)しかし、それだけでは回復しない疲労があります。それが脳の疲れです。
そう、脳には脳の休め方があるのです。
2ページ:「科学的に脳を癒す方法」が模索されている
4ページ:脳は体重の2%ほどの大きさにもかかわらず、身体が消費する全エネルギーの20%を使う「大食漢」です。さらに、脳の消費エネルギーの大半は、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)という脳回路に使われています。
5ページ:このDMNは、脳の消費エネルギーのなんと60%?80%を占めていると言われています。
6ページ:DMNの活動を抑える脳構造をつくっていかないと、あなたに真の休息は訪れないというわけです。
同:マインドフルネスとは「瞑想などを通じた脳の休息法の総称」です。
9ページ:本書が目指す休息は、ただの「充電」ではありません。なぜなら、脳は変わるからです(これを脳の可塑性と言います)。(中略)あなた自身の脳を変えて、高度な集中力を手に入れることが、「最高の休息法」の真の目的です。
60ページ:マインドフルネスの起源は原始仏教にあると言われている。19世紀ビクトリア朝時代のイギリス人がスリランカを訪れた際、この概念に出会って西洋に持ち帰ったのだという。西洋人が東洋の思想や瞑想法を自分たち用にアレンジしたものだと言えばいいだろうか。そのため、もともとあった宗教性は排除されており、どちらかといえば実用面に比重が置かれている。
61ページ:「評価や判断を加えずに、いまここの経験に対して能動的に注意を向けること」
67ページ:DMNとは、内側前頭前野、後帯状皮質、楔前部(けつぜんぶ)、そして下頭頂小葉などから成る脳回路であり、意識的な活動をしていないときに働く脳のベースライン活動だ。いわば脳のアイドリング状態といったところだろうか。(中略)DMNは「心がさまよっているときに働く回路」として知られている。
71ページ:マインドフルネスは脳の一時的な働き具合だけでなく、脳の構造そのものを変えてしまう
72ページ:脳が絶えず自らを変化させるということ、いわゆる脳の可塑性については以前から明らかになっている。
84ページ:呼吸を意識するのは、いまに注意を向けるためなんじゃ。(中略)脳のすべての疲れやストレスは、過去や未来から生まれる。
87ページ:(前略)毎日続けること。このとき大事なのは同じ時間・同じ場所でやることじゃ。脳は習慣を好むからな。(中略)脳の変化には継続的な働きかけも欠かせんというわけじゃ。
126ページ:マインドフルネスにはだいたい3つの経験段階があると言われておる。初期はいまここに注意を向けることに躍起になる段階。中期は心がさまよったことに気づき、いまここへと注意を向け直せる段階。(中略)そして最終段階が、努力せずともつねに心がいまここにある状態じゃ
127ページ:前頭葉あ人間の理性なのだとすれば、扁桃体は自らの恐怖の対象から守るべく活動する感情ないし本能である。扁桃体は数臆年前の魚類にも存在していたという、脳の中でも最も原始的な部位だ。通常は扁桃体がストレスに過剰反応したときには、前頭葉がそれを抑えるつける格好で鎮静化を図ろうとする。
196ページ:マインドフルネスは身体にも効く。脳の状態を変化させることで、間接的に身体の問題を解決していくというわけじゃからな。
197ページ:脳の状態は、自律神経やホルモンを介して身体に反映される。心と身体はつながっている
229ページ:マインドフルネスは休息法じゃと言ったが、これが癒すのは個人だけではない。拡張していけば、組織や社会をも癒すことができるんじゃ。
・論文というよりは、実践本といえる。小説ではあるが、学術的成果を参考文献として押さえている。英語が読める人ならば、原著にあたってもっと深めることができる構成になっている。
・物語は大変シンプルなサクセス&ハッピーエンドである。ただ、マインドフルネスが視野に入れている社会貢献的な内容に触れられており、ビジネスマンとしての成功の定義にも疑問を投げかける。小説としても面白い。
・マインドフルネスのプログラム(取り組み方)がとてもシンプルなので、取り組みやすく、効果も実感しやすい。
・Iyokiyehaが山梨に住んでいた頃に、「精神(思考・考え方)は身体(内蔵機能や循環器機能を含めた)に影響する」ことを、認知行動療法(CBT)の学習で学んだ。その時に逆(つまり、身体が精神に影響すること)もあり得ると漠然と考えていたことがある。そのことが、マインドフルネスにおいて実証されつつあることを知った本である。
・個人の能力が開放されることにより、社会的意義が生まれることにも触れている。
・個人的には大変可能性のあるプログラムであると思っている。自分で身につけたいし、広めていくことも今後考えていきたい。
・課題としては、宗教っぽさ・うさんくささが付加されてしまいがちな点だろう。語る言葉/説明を持つ必要がある。
・「いま、ここ」という言葉は、理解の度合いや背景の学びによって意味が変化するものだと思うのだけれども、「自分に執着しない」「価値判断・評価を自分の外に出す」「今の自分で頭を満たす」といってキーワードで、実践を伴う理解が必要になるのだと思う。
(以下引用)
1ページ:たいていの人は、「休息=身体を休めること」だと思い込んでいます。(中略)しかし、それだけでは回復しない疲労があります。それが脳の疲れです。
そう、脳には脳の休め方があるのです。
2ページ:「科学的に脳を癒す方法」が模索されている
4ページ:脳は体重の2%ほどの大きさにもかかわらず、身体が消費する全エネルギーの20%を使う「大食漢」です。さらに、脳の消費エネルギーの大半は、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)という脳回路に使われています。
5ページ:このDMNは、脳の消費エネルギーのなんと60%?80%を占めていると言われています。
6ページ:DMNの活動を抑える脳構造をつくっていかないと、あなたに真の休息は訪れないというわけです。
同:マインドフルネスとは「瞑想などを通じた脳の休息法の総称」です。
9ページ:本書が目指す休息は、ただの「充電」ではありません。なぜなら、脳は変わるからです(これを脳の可塑性と言います)。(中略)あなた自身の脳を変えて、高度な集中力を手に入れることが、「最高の休息法」の真の目的です。
60ページ:マインドフルネスの起源は原始仏教にあると言われている。19世紀ビクトリア朝時代のイギリス人がスリランカを訪れた際、この概念に出会って西洋に持ち帰ったのだという。西洋人が東洋の思想や瞑想法を自分たち用にアレンジしたものだと言えばいいだろうか。そのため、もともとあった宗教性は排除されており、どちらかといえば実用面に比重が置かれている。
61ページ:「評価や判断を加えずに、いまここの経験に対して能動的に注意を向けること」
67ページ:DMNとは、内側前頭前野、後帯状皮質、楔前部(けつぜんぶ)、そして下頭頂小葉などから成る脳回路であり、意識的な活動をしていないときに働く脳のベースライン活動だ。いわば脳のアイドリング状態といったところだろうか。(中略)DMNは「心がさまよっているときに働く回路」として知られている。
71ページ:マインドフルネスは脳の一時的な働き具合だけでなく、脳の構造そのものを変えてしまう
72ページ:脳が絶えず自らを変化させるということ、いわゆる脳の可塑性については以前から明らかになっている。
84ページ:呼吸を意識するのは、いまに注意を向けるためなんじゃ。(中略)脳のすべての疲れやストレスは、過去や未来から生まれる。
87ページ:(前略)毎日続けること。このとき大事なのは同じ時間・同じ場所でやることじゃ。脳は習慣を好むからな。(中略)脳の変化には継続的な働きかけも欠かせんというわけじゃ。
126ページ:マインドフルネスにはだいたい3つの経験段階があると言われておる。初期はいまここに注意を向けることに躍起になる段階。中期は心がさまよったことに気づき、いまここへと注意を向け直せる段階。(中略)そして最終段階が、努力せずともつねに心がいまここにある状態じゃ
127ページ:前頭葉あ人間の理性なのだとすれば、扁桃体は自らの恐怖の対象から守るべく活動する感情ないし本能である。扁桃体は数臆年前の魚類にも存在していたという、脳の中でも最も原始的な部位だ。通常は扁桃体がストレスに過剰反応したときには、前頭葉がそれを抑えるつける格好で鎮静化を図ろうとする。
196ページ:マインドフルネスは身体にも効く。脳の状態を変化させることで、間接的に身体の問題を解決していくというわけじゃからな。
197ページ:脳の状態は、自律神経やホルモンを介して身体に反映される。心と身体はつながっている
229ページ:マインドフルネスは休息法じゃと言ったが、これが癒すのは個人だけではない。拡張していけば、組織や社会をも癒すことができるんじゃ。
2019年3月2日土曜日
タロット占い
今年の初めに、ある兄妹と会った時に見せてもらったタロットカードが気になって、少しの勉強とカードのデッキを買って、毎朝ワン・オラクルで運勢を占うことが習慣になってきた。
占いにはいろんなものかあるけれども、自分でやってみるとなかなか考えさせられる。
「カード占いで選ぶカードは全て確率だ」「なんの根拠もないよね」という意見があることは想像に難くない。確かに確率の側面があることは理解できる。根拠については、まぁ、わかりませんね。個人的な意見は「別にいいじゃん」ですが。「占いなんか信じてるの~?」という問いは、疑問のすべてを含んでいるような気もします。
私にとってタロット占いが面白いのは、カードのイメージを解釈して意味づけること、です。「当たるか当たらないか」ではなくて、「こんな感じだろう」というイメージですね。…言葉としてはわかりにくくなっちゃいましたが、タロットに触れたことがある人なら「そうかも!」って言ってくれそうかと。
私の使い方は、毎朝1枚のカードをひいて、一日の運勢をイメージします。その日、判断に迷うことがあれば、カードによって解釈できる「気を付けるべきこと」を意識して、選択の指針にすることがあります。あとは、翌朝、前日のふりかえりをする時の視点します。この二つのことを意識して使うことにしているのですね。未来を占う、なんて使い方はまだまだできません。高度な解釈が可能になれば、そういう使い方もできるのだろうけど。
昨年末から日記をつけるようになったのだけれども、このこととタロットとがうまくかみ合っているようで、毎朝の面白い習慣になりつつあります。
別に人に勧めるわけではないのだけれども、先日タロットの話をしたら「意外だ…」と数人から立て続けに言われたので、自分なりの意味を整理してみました。
占いにはいろんなものかあるけれども、自分でやってみるとなかなか考えさせられる。
「カード占いで選ぶカードは全て確率だ」「なんの根拠もないよね」という意見があることは想像に難くない。確かに確率の側面があることは理解できる。根拠については、まぁ、わかりませんね。個人的な意見は「別にいいじゃん」ですが。「占いなんか信じてるの~?」という問いは、疑問のすべてを含んでいるような気もします。
私にとってタロット占いが面白いのは、カードのイメージを解釈して意味づけること、です。「当たるか当たらないか」ではなくて、「こんな感じだろう」というイメージですね。…言葉としてはわかりにくくなっちゃいましたが、タロットに触れたことがある人なら「そうかも!」って言ってくれそうかと。
私の使い方は、毎朝1枚のカードをひいて、一日の運勢をイメージします。その日、判断に迷うことがあれば、カードによって解釈できる「気を付けるべきこと」を意識して、選択の指針にすることがあります。あとは、翌朝、前日のふりかえりをする時の視点します。この二つのことを意識して使うことにしているのですね。未来を占う、なんて使い方はまだまだできません。高度な解釈が可能になれば、そういう使い方もできるのだろうけど。
昨年末から日記をつけるようになったのだけれども、このこととタロットとがうまくかみ合っているようで、毎朝の面白い習慣になりつつあります。
別に人に勧めるわけではないのだけれども、先日タロットの話をしたら「意外だ…」と数人から立て続けに言われたので、自分なりの意味を整理してみました。
働くことコラム07:会社を選ぶ理由1 -まずは自分の理由
就職活動の相談において、これまたよくあるやりとりでした。
Q(提出された求人票を見て) 「どうして、この会社を選んだの?」
A1「仕事内容が希望している『事務』だからです。」
A2「ホームページを見たら、経営理念がよかったからです。」
A3「希望条件と合うからです。」
まぁ、様々だったわけですが、Iyokiyehaさんは「もっと個人的な理由はないの?」と追い打ちをかけていました。大抵、黙ってしまうか「・・・通いやすいから」といった回答だったでしょうか。
面接対策にも通じる「志望動機」ですが、労働市場にいる多くの人が「『近いから』じゃだめと言われた。会社を調べてみて経営理念がいいと思ったから、書いてみた」と持ってきます。支援者が「これじゃあだめだ」と言ってしまうと、就職者はなにを書いたらいいかわからなくなってしまいます。しかし「これでよし!」と言えるものが出てこない。就職活動を支える現場において、お互いの言葉がすれ違いやすいところだと思います。
一支援者だったIyokiyehaとしては、「近いから」でもいいと思っています。ただしこれには条件があります。それは「自分の就職(転職)における企業選定の理由と合致していること」です。例えば、足に障害があるので長距離通勤が困難であるから、自宅に「近い」企業を選んだ、という理由ならば納得感を得られやすいでしょう。あるいは、震災の時に帰宅難民になったことがあって、家族を守る必要があるから、最悪の事態でも3時間歩けば帰れる場所で選んだ、というのも理由にはなりそうです。「電車の振動で酔いやすく、電車通勤が自分にとっては苦痛でしかないので、徒歩か自転車で通える場所にした」でもいいでしょう。この「近いから」が唯一無二の理由でなければ、上記はいずれも就職活動の場面でも通用するある程度の理由になりえます。
「近いから」で盛り上がってしまいましたが、ここでの要点は、「自分にとっての就職(転職)理由は、個人的なことでもいい」ということです。理想的には「キャリアにとってどういう位置付けか」を加えて両輪となるのがよい、とされています。志望動機対策全般にも通じてきますが、上記を企業の選定理由にも反映させて「見せる」ことが重要です。ちょっとまとめてみると、
1 自分にとっての就職(転職)理由を明確にする。
2 会社の選定理由を1と連動させる。
ということです。ここはバラバラに考えがちだけれども、連動させることが、相手の納得感につながりますし、何よりここを考え抜くことによって、面接対策になってきます。自分の核が定まって、それが一つか二つの文章に集約できれば、それが決めセリフにもなるし、どんな質問がきてもその核を外さなければ一貫性のある回答が可能となります。
ちなみに、上記のまとめだと1→2の順で考えがちですが、2→1の順に考えが深まっていく、ということもあります。その意味ではこれらはサイクルとなって、就職活動が終わるまでいつまでもいつまでも考え、意識することになってきます。
ということで、会社の選び方は「自分の就職(転職)理由と連動した理由で選ぶ」か「適当に選んで、自分の就職(転職)理由と連動させてみる」と、大きく2つあることになります。選んで、考えて、書いてみる。考えて、書いて、選んでみる。あるいは、書いてみたら、深まって、選べるようになる」など、様々なパターンがあると思います。求人は生物(なまもの)ですので、自分にとって「最も良い」ものを選びたいところですが、実際には、「その時々で、自分にとっての最善を選ぶ」ことになると思います。
Q(提出された求人票を見て) 「どうして、この会社を選んだの?」
A1「仕事内容が希望している『事務』だからです。」
A2「ホームページを見たら、経営理念がよかったからです。」
A3「希望条件と合うからです。」
まぁ、様々だったわけですが、Iyokiyehaさんは「もっと個人的な理由はないの?」と追い打ちをかけていました。大抵、黙ってしまうか「・・・通いやすいから」といった回答だったでしょうか。
面接対策にも通じる「志望動機」ですが、労働市場にいる多くの人が「『近いから』じゃだめと言われた。会社を調べてみて経営理念がいいと思ったから、書いてみた」と持ってきます。支援者が「これじゃあだめだ」と言ってしまうと、就職者はなにを書いたらいいかわからなくなってしまいます。しかし「これでよし!」と言えるものが出てこない。就職活動を支える現場において、お互いの言葉がすれ違いやすいところだと思います。
一支援者だったIyokiyehaとしては、「近いから」でもいいと思っています。ただしこれには条件があります。それは「自分の就職(転職)における企業選定の理由と合致していること」です。例えば、足に障害があるので長距離通勤が困難であるから、自宅に「近い」企業を選んだ、という理由ならば納得感を得られやすいでしょう。あるいは、震災の時に帰宅難民になったことがあって、家族を守る必要があるから、最悪の事態でも3時間歩けば帰れる場所で選んだ、というのも理由にはなりそうです。「電車の振動で酔いやすく、電車通勤が自分にとっては苦痛でしかないので、徒歩か自転車で通える場所にした」でもいいでしょう。この「近いから」が唯一無二の理由でなければ、上記はいずれも就職活動の場面でも通用するある程度の理由になりえます。
「近いから」で盛り上がってしまいましたが、ここでの要点は、「自分にとっての就職(転職)理由は、個人的なことでもいい」ということです。理想的には「キャリアにとってどういう位置付けか」を加えて両輪となるのがよい、とされています。志望動機対策全般にも通じてきますが、上記を企業の選定理由にも反映させて「見せる」ことが重要です。ちょっとまとめてみると、
1 自分にとっての就職(転職)理由を明確にする。
2 会社の選定理由を1と連動させる。
ということです。ここはバラバラに考えがちだけれども、連動させることが、相手の納得感につながりますし、何よりここを考え抜くことによって、面接対策になってきます。自分の核が定まって、それが一つか二つの文章に集約できれば、それが決めセリフにもなるし、どんな質問がきてもその核を外さなければ一貫性のある回答が可能となります。
ちなみに、上記のまとめだと1→2の順で考えがちですが、2→1の順に考えが深まっていく、ということもあります。その意味ではこれらはサイクルとなって、就職活動が終わるまでいつまでもいつまでも考え、意識することになってきます。
ということで、会社の選び方は「自分の就職(転職)理由と連動した理由で選ぶ」か「適当に選んで、自分の就職(転職)理由と連動させてみる」と、大きく2つあることになります。選んで、考えて、書いてみる。考えて、書いて、選んでみる。あるいは、書いてみたら、深まって、選べるようになる」など、様々なパターンがあると思います。求人は生物(なまもの)ですので、自分にとって「最も良い」ものを選びたいところですが、実際には、「その時々で、自分にとっての最善を選ぶ」ことになると思います。
2019年2月24日日曜日
雄谷良成『ソーシャルイノベーション ー社会福祉法人佛子園が「ごちゃまぜ」で挑む地方創生!』ダイヤモンド社、2018年。
・優良事例を扱うこういった書籍は、私にとって読み方が難しいと感じてしまいます。その事例の特徴や迫力が言葉として伝わってくる一方で、ほとんどの場合その実際のところは「理想」ではなく「現実」であるからだ。
・もちろん、その「理想」が素晴らしい・面白い・インパクトがある、から書籍化され、広く知らせ・知らされるわけだが、その内実となる事例を知っていると、その評価がとたんに揺らぐ。しかしながら、その揺らぎは自分にとっても必要不可欠な「栄養」であるから、難しさを感じても、読み続けている。
・参考にすべきだけれども、全ての事業にはその前提となる条件があり、背景が違うところに安易に事例をはめ込もうとしても大概上手くいかないものである。だから、こういう書籍は知識や視野を広げるために読むものだと考えている。
・この前提のもとで本著を読む。「ソーシャルインクルーシヴ」を地でいく事例だと感じられる。
・言葉に迫力はある。ただ、その素晴らしさだけではなく、「人が人と関わり、役割(を得る)がある」という、いわゆる「自立した」生活を考慮して、施設の設計(ハード面)からも支える構造となっている。この点が本当に面白い。
・制度上、介護保険サービスと障害福祉サービスは別物であり、それらを共存させる発想は、「制度上」想定外なのだろうが、この点に工夫を加え、施設として実現しているところに、この事例の面白さがある。
・この事例の特徴は、制度上「特殊」といえる。しかし、本著のキーワードである「ごちゃまぜ」は、社会にとってごくごく当たり前のことであり、本事例は見る角度を変えれば、いわばある地域に見えない線を引いてその場所を福祉の制度で運営する、だけであるとも見える。社会を上手に縮小(ミニチュア化)する手法については、大変勉強になるものの、そこでの営みは社会の「当たり前」のように感じるところだ。
(以下引用)
44ページ:「三草二木」は、法華経で説かれるたとえ話にちなんでいる。仏の慈悲は育ち方の異なる大小さまざまな草木に降り注ぐ雨のように差別なく平等に注がれていることを指す。
47ページ:(略)社会福祉の仕事で最も重要なのは、障害者や高齢者が自ら役割を見つけ、生きる力を取り戻すことで、サービス提供に自分たちが頑張り過ぎるのは、彼らから力を発揮する機会を奪い逆効果なのではないかと痛感したという。
58ページ:福祉を核とするまちづくりでは、高齢者、障害者、子ども、住民の誰もが地域の支えとなりうる。「三草二木西圓寺」では期せずして地域に人口増加ももたらした。たとえ小さなことでも、住民や高齢者、障害者の声を引き出し、主体性を発揮できる機会や場を設けることが重要だ。
66ページ:「地域に溶け込むというより、さらに踏み込んで、まちづくりそのものを自分たちで手がけるくらいのことをしないと、思うような施設をつくれない」
75ページ:クリストファ・アレグザンダーの『パタン・ランゲージ』:人々が「心地よい」と感じるまちなかの環境をヒューマンスケールで分析して、狭い路地や窓からの眺め、目にとまる植裁など253のパターンを挙げている。
80ページ:医療の世界では、外来医療、入院医療に次ぐ「第三の医療」として、在宅医療が位置づけられている。一方、雄谷は「三草二木西圓寺」で認知症高齢者や重度障害者の症状改善を目の当たりにして、人と人とのつながりのある暮らしが、住民の生きがいややりがいを生み出すだけでなく、介護予防や健康増進、場合によっては要介護状態の改善にも役立つ「第三の医療」になるのではないかと考え(略)
112ページ:ビールの製造を始めたのをきっかけに「酒税」を納めるようになったのである。
115ページ:「障害者福祉」と「ビールづくり」のマッチングに、どうやら「福祉を食い物にしているのではないか」と疑いの目を向けられていたようだ。
152ページ:(認知症)清掃活動などで地域に貢献することで、「介護される側」から地域にとって貴重な「人的資源」となり得ます。そして、そういう仕組みをデザインすることが自分たちの仕事だと思っています。
154ページ:どんな生きづらさを抱えていても、その当事者にこそ、よりよく生きる力が備わっているという信念、人や地域の暮らしを支えるのは福祉だけじゃないという検挙さをもって、領域を超えてそれが発揮される環境をつくっていくうちにソーシャルイノベーターとみなされるようになってきたのは、示唆深いことです。
162ページ:「きれいな人たち」心を磨き、人としての美しさや品格を育てていることを学生が見抜いて(略)
・もちろん、その「理想」が素晴らしい・面白い・インパクトがある、から書籍化され、広く知らせ・知らされるわけだが、その内実となる事例を知っていると、その評価がとたんに揺らぐ。しかしながら、その揺らぎは自分にとっても必要不可欠な「栄養」であるから、難しさを感じても、読み続けている。
・参考にすべきだけれども、全ての事業にはその前提となる条件があり、背景が違うところに安易に事例をはめ込もうとしても大概上手くいかないものである。だから、こういう書籍は知識や視野を広げるために読むものだと考えている。
・この前提のもとで本著を読む。「ソーシャルインクルーシヴ」を地でいく事例だと感じられる。
・言葉に迫力はある。ただ、その素晴らしさだけではなく、「人が人と関わり、役割(を得る)がある」という、いわゆる「自立した」生活を考慮して、施設の設計(ハード面)からも支える構造となっている。この点が本当に面白い。
・制度上、介護保険サービスと障害福祉サービスは別物であり、それらを共存させる発想は、「制度上」想定外なのだろうが、この点に工夫を加え、施設として実現しているところに、この事例の面白さがある。
・この事例の特徴は、制度上「特殊」といえる。しかし、本著のキーワードである「ごちゃまぜ」は、社会にとってごくごく当たり前のことであり、本事例は見る角度を変えれば、いわばある地域に見えない線を引いてその場所を福祉の制度で運営する、だけであるとも見える。社会を上手に縮小(ミニチュア化)する手法については、大変勉強になるものの、そこでの営みは社会の「当たり前」のように感じるところだ。
(以下引用)
44ページ:「三草二木」は、法華経で説かれるたとえ話にちなんでいる。仏の慈悲は育ち方の異なる大小さまざまな草木に降り注ぐ雨のように差別なく平等に注がれていることを指す。
47ページ:(略)社会福祉の仕事で最も重要なのは、障害者や高齢者が自ら役割を見つけ、生きる力を取り戻すことで、サービス提供に自分たちが頑張り過ぎるのは、彼らから力を発揮する機会を奪い逆効果なのではないかと痛感したという。
58ページ:福祉を核とするまちづくりでは、高齢者、障害者、子ども、住民の誰もが地域の支えとなりうる。「三草二木西圓寺」では期せずして地域に人口増加ももたらした。たとえ小さなことでも、住民や高齢者、障害者の声を引き出し、主体性を発揮できる機会や場を設けることが重要だ。
66ページ:「地域に溶け込むというより、さらに踏み込んで、まちづくりそのものを自分たちで手がけるくらいのことをしないと、思うような施設をつくれない」
75ページ:クリストファ・アレグザンダーの『パタン・ランゲージ』:人々が「心地よい」と感じるまちなかの環境をヒューマンスケールで分析して、狭い路地や窓からの眺め、目にとまる植裁など253のパターンを挙げている。
80ページ:医療の世界では、外来医療、入院医療に次ぐ「第三の医療」として、在宅医療が位置づけられている。一方、雄谷は「三草二木西圓寺」で認知症高齢者や重度障害者の症状改善を目の当たりにして、人と人とのつながりのある暮らしが、住民の生きがいややりがいを生み出すだけでなく、介護予防や健康増進、場合によっては要介護状態の改善にも役立つ「第三の医療」になるのではないかと考え(略)
112ページ:ビールの製造を始めたのをきっかけに「酒税」を納めるようになったのである。
115ページ:「障害者福祉」と「ビールづくり」のマッチングに、どうやら「福祉を食い物にしているのではないか」と疑いの目を向けられていたようだ。
152ページ:(認知症)清掃活動などで地域に貢献することで、「介護される側」から地域にとって貴重な「人的資源」となり得ます。そして、そういう仕組みをデザインすることが自分たちの仕事だと思っています。
154ページ:どんな生きづらさを抱えていても、その当事者にこそ、よりよく生きる力が備わっているという信念、人や地域の暮らしを支えるのは福祉だけじゃないという検挙さをもって、領域を超えてそれが発揮される環境をつくっていくうちにソーシャルイノベーターとみなされるようになってきたのは、示唆深いことです。
162ページ:「きれいな人たち」心を磨き、人としての美しさや品格を育てていることを学生が見抜いて(略)
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