2018年2月25日日曜日

ラジオ好きな理由

 大人になってからラジオを聴くようになったIyokiyehaですが、なぜ好きなのだろうと考える。
 一つには、映像ほど強制力がないこと。強制力というとちょっと違うのかもしれないけれども、テレビはぼーっとしていても、その内容が頭に入り込んでくるような気がするのに対し、ラジオはぼーっとしていれば内容があまり入ってこないで、そのまま眠りを誘ってくれるように思います。
 二つには、(意外と)いいコンテンツがあること。昨日の英会話じゃないですが、テレビじゃまずウケないだろうと思われる歴史に関する専門家のインタビュー番組とか、商業的にはあまり人気がなくても、限られた人たちにとっては話題となっているようなトピックを短時間で取り上げるような内容がある。
 三つには、どこでも聴くことができること。自宅ではテレビ優勢ですが、自室でもラジオはかけられるし、携帯ラジオがあれば出先でも情報が得られます。インターネットの時代にあって、無料で良質なコンテンツがやまほどある。
 個人的には、地上波のテレビ番組の内良質コンテンツと思うものの割合よりも、ラジオ番組の方がいい割合なんじゃないかと思っています。若い頃から使っていたわけじゃないので、深夜放送には疎く完全にもぐりなリスナーですが、頭が良くないような気がするので、多分今後も聴き続けると思います。

2018年2月24日土曜日

ラジオと英語

 先日、YOUNG RIDERSという海外ドラマDVDボックスを購入しました。Iyokiyehaが高校生の頃(20年以上前か…)にNHKBSで放送されていた西部劇です。ドラマがネット配信されるこのご時世ではありますが、ネット配信されないことと、いつまで待っても日本語字幕が表示されるDVDが見つからないので、思い切って輸入盤を購入したのですが、やはり全て英語なので、会話はほとんど聞き取れずにいます。
 ただ、面白いのは、さすが映像の力!といったところで、血気盛んな若者ガンファイターを戦争を潜り抜けたベテランガンファイターがサウナで諭す場面や、インディアンを追放しようとする町の人たちに演説する女性の語る内容はわからなくても、なんとなく「そういうことだよな」と話の筋はわかってしまうところを実感しています。カミさんに「また観てるの?」と言われつつ、夜更かしを楽しむこの頃です。
 こんな背景があり、最近読書の合間に英会話のアプリを起動することが多くなっていたのですが、普段聴いているラジオをNHK第二に合わせたところ、たくさんの英会話番組をやっていることを知ったところです。毎日、いろんな時間帯にやっているのねですね。
 相変わらず、ラジオ好きなIyokiyehaですが、ますますラジオ漬けになりそうです。インターネットで様々なコンテンツが公開されているこの頃、ガラケー片手にラジオを聴くおじさんは、一体どこへ行けるのかな~と面白がっています。

2018年2月10日土曜日

余談:インフルエンザの流行

2月6日火曜日。長女のクラスが学級閉鎖になりました。
その晩に長女が熱を出しました。急な発熱と、クラスの状況からインフルエンザだろうと推定。
2月7日水曜日。長女インフルエンザB型の診断。昼頃長男発熱による早退。時を同じくして次女も発熱。夕方に通院し検査なしでインフルエンザ治療薬を処方してもらう。
2月8日木曜日。妻発熱。通院のため私は遅刻して出勤。

今日は2月10日土曜日です。
私はまだ発熱なし。今日は一日家事やって疲れましたが、子どもがなんぼかよくなってきているのが、せめてもの救いです。
私も倒れないように気を付けます。

世の理に合わせていく

こと-わり【理】
物事の理非を分かち定める意から
1.道理、条理。
2.格式・礼儀にかなっていること。
3.理由。わけ。
4.当然のこと。もっともなこと。
(以下略)

そして、結局今年の一文字は「合」としました。
「談合の”ごう”ですね」
と場を緩めつつ、意味するところは、自分は何に合わせていくのか本気で考えて仕事せよ、という戒めを込めた一文字としました。
勤務先に合わせたら組織としては使い勝手がいいけれども本業を全うできるのか、法制度に合わせて仕事を進めるのは当然だけれども制度があるから考えなくてもいいのか、世界を見据えて仕事をするには漠然としているのではないか、そうではなくて、きっと私が今置かれている立場としては「世の理」みたいなものに合わせていくべきではないか。
ただ、このことは中途採用だからということではなく、みんなが本質的に考えていることだから、我々はプロパーとはちょっと違う観点から「世の理」に近づくための意見をどんどん場に出さなければならないし、組織内部のマイノリティが発言するためには今いる人たちと共に汗をかき、動きを作りつつ、場合によってはそれを「転轍(てんてつ)」してもっといい動きにしていくことが求められているのだろう。
と、幹部の前でこんなことを語ってみました。
途中で、プレゼンの神様が降りてきたので、儀式モードからいつものモードに切り替わってしまったようです。懇親会では随分ネタにされてしまいました。

こんな機会でもないと、考えないことなので、なかなかいい機会になりました。
もともと「ヘラヘラいい仕事をする」のがこだわりなので、誰に何言われようともあんまり気にしないのですが、「改革のエンジン」とか求められてしまうと、孤軍奮闘して仕組みをバンバン変えていくような革命家が求められてしまうイメージがありましたが、入庁して周りを見回すと、さすがに大学卒業して間もなく試験をパスしてくるような人たちなので、みんな優秀です。優秀な頭脳が周りにあるならば、改革だってそれを使わない手はないでしょ?みんなできるよね、時々口出すからみんなでやろうよ、っていうあたりまえのことを、ようやく自分の腑に落ちる言葉でまとめられたように思います。「転轍」も初めて自分にとって意味のある文脈で使うことができたし。

あと、派生したもので、合気道の「合」パターンも頭の中にはありました。
「合気にて、よろづの力を働かし、美しき世と易く和すべし」
という短歌を引用し、
持っている力を要点に集中させるのだけれども、それは「一番自然な型」であるから、対立軸ではなくむしろともに働くことになる、みたいな。

要は、職場が変わっても、考えることはあまり変わらないのだなとも思う。

2018年1月28日日曜日

今後の抱負を示す一文字

ほう-ふ【抱負】
 心中に抱き持っている計画や決意。
(広辞苑より)

 昨年度、職場でこんな課題が出されて、私は「根」という字を発表しました。意味するところは、(1)前職の雇用条件から岡山-山梨-埼玉(富士見-所沢)と拠点を変えてきて、所沢で3人目の子どもが生まれたことをきっかけに、仕事の都合で家族の生活拠点を変えてしまうことに違和感を持ってしまったために転職する決心をしたこと。(2)生活拠点が定まったため、土地に「根」ざした仕事に取り組みたいこと。(3)民間企業とはちょっとことなる公的機関出身者であるため、職場での「根」の張り方を考えていきたい。といった説明をしたのだろうと思われます。
 よしよし、切り抜けたと思ってから10か月。再度、同じ課題を出されて「さて、どうしたものか」と考えているところです。経験者枠で地方公務員になった私としては、人事に対して自分の希望を強く主張する必要もなく、「や~めた」と言わない限りは身分が保障されていることから、これまで以上に「ヘラヘラといい仕事をする」ことに磨きをかけていこうと思っているわけですが、専門性を伸ばして尖った存在になったところで、異動一発で役に立たなくなる可能性があり、自分のキャリア形成を考えた時に一言にまとまらないもどかしさを感じているとことです。
 ベタなところでは「伸」とでもしておいて、(1)立場を変えてもやることに大差なし。自分が伸びれば、情報の質が変わる。成長の可能性が広がる。(2)「根」を張ったから「伸」びるだけ。「伸」び方考え中。(3)自分が「伸」びないと、後ろが「伸」びない、みたいな感じでまとめていくのだろうけれども。さて、もうひとひねりないものか。

2018年1月27日土曜日

ジブンゴト

自分のことを振り返って最近実感していること。
何事も「自分の事」として関わるか否かにより、そのことから学ぶことの大きさが変わるということ。
「何を今さら」と言われるのだろうけれども、40歳を前にして意識に顕在化したとても大きな気づきです。
何が大きいのかというと、このことが自分(iyokiyeha)だけのことではなくて、世の中全ての人に当てはまっているのだろうという感覚を得たことです。
最近、AudioBookのレパートリーが少し自己啓発的なものが重なったことによって、自分の経験を対象に向き合ってみる時間があったからだと思うのだけれども、この「ジブンゴト」に気づいた意味は大きい。
わかりやすい例だと、「○○合格率97%!」みたいな広告があったときに、そこから読みとれる意味に広がりがでる。この広告から「じゃあ自分も合格できそうだ」と飛躍した理解一つで終わってしまうのか、それとも「結構な実績だ、テキストがいいという根拠だな」と広げてから、実績を裏付けるしかけに注目していくのかというように行動が変わってくることになる。
今までどんなに教材に触れていても上達しなかった英語学習も、あるドラマをしっかり観たい!と思って英語に触れるのとで、全く成果が変わってくる、みたいなことです。
他人をうらやむばかりでなく、周囲を眺めながら自分のスタイルをよく検討して、「これだ」と思うものにはこだわっていく。そんな姿勢を確立していくための根っこになりうる「ジブンゴト」。この立場でいろいろ見直してみたいと思う。

2018年1月6日土曜日

老いと向き合う 2018年抱負を兼ねて

あけましておめでとうございます。
細々と続けているBlogですが、iyokiyehaの思考の足跡にもなっているので、このページを閲覧してくださっている皆様につきましては、どうぞ今後ともよろしくお願いします。

さて、今年は新年明けて1日に浜松へ帰省し、昨日5日の夕方に所沢市へ帰ってきました。
ここのところの私の関心は、仕事どうこうは置いておいて、実家の、特に母親の老いに関することになってきました。
身体的にはあちらこちらの痛みを訴えるものの、特に大きな問題はなく、むしろ健康体。
であるにも関わらず、物事の忘れの度合いが大きく、日常生活にも若干の支障をきたしつつあるというところです。
私は離れて暮らしているので、帰省の度に「話が重なるなぁ」とか「さっき言ったのに」と思う程度でしたが、半同居している父親や姉にとっては、なかなかストレスになってしまう症状のようです。
昨年5月に地域包括支援センターへの相談へ言ったことを皮切りに、夏には姉同伴で再度相談、その後秋口にかけて、認知症の検査を受けたのですが、診断としては「加齢に伴うもの」とされてしまったようで、特に積極的治療はなくここまできているという経過です。

iyokiyeha本人としては、「認知症の診断が出ていない以上、加齢に伴う認知機能の低下」であるとして、母親が何かを忘れてしまうことを前提に関わり方を変えていく、ということが知識としてはあるわけですが、同居していない以上、それをそのまま同居している父親や姉たちに求めてしまうのは、どこか他人目線になってしまいそうで。
さて、いかがなものか。私はどのように母親と向き合うのか、家族と関わるのか、というのが目下一番の課題であり、考えどころであると思っているところです。

率直なところ、転職して仕事に燃えるかというと、そうではなく、プライドは保ちつつも人生の休養期間をもらったと思い、ヘラヘラ過ごしていたら、やはりこういう課題に直面するのだなと感じています。決して怠惰に過ごしていたわけではないのですが、仕事「だけ」に邁進しなかったから見えてきた視野のように思っています。

こうした背景もあって、帰省後に整理した今年の抱負は、
1.加齢に伴う身体機能の変化および認知症に関することを、きちんと学ぶこと。
2.障害福祉関連法規および制度を概括できるように学ぶこと。
3.上期に世界史、下期に日本史を通読すること。
としました。

いずれも、効果測定しにくい目標ですが、今は手あたり次第のところがあるので、きっかけを作ってどんどん文献に当たっていきます。それぞれ、自分の言葉で語れるようになることが当面の目標かな。
1.は背景となる実家の事情への対応を含めています。一人称、二人称として我が家の課題に向き合うことを切り口に、必要な情報は集められるだけの学びと人脈を作っていこうと思います。
2.は仕事との接点です。障害福祉の専門家として立っていくかどうかは今後の課題や周囲の評価で決めていくとして、自分が今所属している部署、関わっている仕事をそろそろ概括できないといけないかと思っていることからの目標です。関連法規は都度都度目を通していますが、それらを横断的につなぐことができていない現状から、一歩踏み出して俯瞰していくための学習を深めていくことで、ケースワークに留まらないこの分野での取り組み可能性を作っていきたいと思います。
3.は、1.2.をさらに広げていくための教養として、まずは通史に取り組み、世の中の動きを自分なりに読み解く視点を作っていきたいと思います。とりあえず歴史ですが、このことに関連して読書量を増やしていこうと思っています。

とはいえ、ここ数年は実家のこと中心に考えていくことになるんだろうなと思います。離れて暮らすことを選択した時点から、こうなることは予想していたので、どっしり構えて考えていこうと思っています。

2017年12月11日月曜日

ごみの集積所

先々週まで利用していた、自宅目の前のごみ集積所が閉鎖されることになった。その理由は、ご近所さんが自家用車の駐車の利便性を高めるために、ガードレール撤去を検討したからとのことである。なんだか、そのご近所さんと住宅大家さんとの衝突も、集積所閉鎖の一因となっているらしい。
居を構えるということは、こんな近所付き合いも発生するのだなと実感している。「来週までは使えますので」というタイミングでは、新たな場所への移転ということも準備が難しい。
そして集積所が変更となったわけだけれども、この地区の元々の集積所は、歩いて片道3分くらいかかってしまうところに、隣のブロックの集積所を横目に3つ程通過するというおまけ付きの場所である。おまけついでに、多くの世帯が利用する集積所なので、カラス被害も出ているという、何ともいえないところになる。
ということで、なんとなくごみ集積所開設に動くIyokiyehaでした。それぞれの世帯の話を聞いていると、どこどことどこどこは仲が悪いの、お互いさまだの、いろんな人間模様が見えてくる。そういうのは面倒だけれども嫌いじゃない。

2017年11月26日日曜日

においと記憶

人間にとって嗅覚は、身の危険を察知することに使われるので、記憶と結びつきやすい、といったことを聞いたことがある。もう少し正確に表現しないといけないような気がするけれども、調べるのはまた今度ということにして。
オレガノという香辛料がある。普段あんまり使わないのだけれども、最近カリオカ豆を煮る時に使うので、自分にとっての使用頻度が上がったものである。
オレガノを使った時に、ふいに静岡に住んでいた時のある記憶がよみがえった。不思議な感覚である。当時使っていた鍋とか、その時に作っていた料理、バジルを切らしてオレガノを使ったことなど、何も特別なことがないある日の記憶が思い出された。とっても不思議な感覚であり、においと記憶が結びつくってこういうことなんだなと思った出来事だった。

2017年11月25日土曜日

身体操法における正しい線

今年に入ってから合気道を始めました。
山梨県甲府市に住んでいた時に、学生時代の先輩に稽古をしてもらってから10年弱経って、新しい土地で、新しい人間関係の中での合気道再開です。楽しい。
甲府で習っていた時には、短刀乱取りありの昭道館合気道で、基本17本と乱取りを中心に稽古していたのですが、
https://shodokanaikido.com/
所沢では興武館合気道で、基本動作から技を一つずつ練習していくもの。
http://renshinkaitokorozawa.web.fc2.com/

最近は技の練習もするようになったので、少しずつ昭道館との違いを感じつつ身体を動かしています。
合気道の技のほとんどは、基本動作が組み合わさってできているので、わからなくなった時には基本動作に立ち返ってみると、いわゆる「正しい動作」のヒントが得られたりします。自分の立ち位置や相手の相手の立ち位置、体格なんかによってそれぞれ「正しい動き」が決まってくるのでしょうが、それに近づくと身体がすっと動く感覚は、他の運動では得られない身体感覚です。今のところ私はそれに「正しい線」という言葉をつけているのですが、これは稽古が進んでくれば、また違う言葉になるかもしれません。
基本動作一つとっても、膝を抜くタイミングによって、前に出る足の距離が変わったり、毎回自分の身体動作に発見があり、大変刺激的です。


2017年11月11日土曜日

参観会?

最近の小学校は土曜日に参観会(学校開放日)を行う。
今日は参観日だったので、長女と長男が通う学校へ。
2時限目、静かに算数の授業を受ける長女と、なぜかトレーナーを脱いで下着で学級活動に参加している長男。長男の行動にあきれながらも、次女(3歳)が退屈してしまうので、一旦帰宅。
4時限目、再度学校へ。長女が学級活動の司会、長男が「あきまつり」と称した体育館での出し物があるというので、様子を見に行く。
長女の教室前で授業時間開始を待っていると「○○(iyokiyehaの苗字)さ~ん。おられますか~○○さ~ん」と呼ぶ声。「ウチですかぁ~」と名乗り出ると、息子が保健室でぐったりしているとのこと。迎えに出るワタシ。
「熱はないんですけれども、2時間目の途中からぐったりしてしまって…いや、ケガではないんですが、とっても元気一杯だったのに、急にぐったりしてしまったので、念のためということで」と呼び出しを受ける。
「一年生の男の子だと、よくあるんですかね?」と問うと、保健教諭は「う~ん、大きく2つですね。一つは限界まで頑張って突然ぐったりしてしまう子、もう一つは吐くまでのぼせて、吐いたらケロっとしている子。◇◇君(長男)は前者ですね~。

ごめいわくおかけしました。
でも、そんなことも笑い話にしてくれる担任は頼りになるなぁ。

2017年11月8日水曜日

「対象にする」とは 2

何かを考える、という時には、必ず「何か」という対象が存在する。
それについて思いを巡らし、いろいろな角度から見て、物理的であるか否か問わずそれに触れ、時に分解したり、他のものと比べることによって、それについていろいろなことを知り、他の何かとの関係の中で位置づく。
では、その「何か」に言葉がなかったら、いったいどのように物事を考えるのだろうか。
言葉にならない「○※〒☆◇」について、考えることはできるだろうか?
否。
考える対象には、必ず言葉が存在する。そしてその言葉は多様であればあるほど、他のこととの違いを浮き彫りにすることができる。

2017年11月6日月曜日

「対象にする」とは 1

物事は、それを意味する言葉があることで、自分にとっての対象となる。

ラベリングとか命名など呼ばれるが、物理的なものに限らず、頭の中の思考や感情、出来事など、自分事として考えるためには、「それ」が自分という常に動き回るものから離れて存在しなければならない。なぜならば、今生きている自分は常に揺れ動き、感情も刻一刻と変化する。自分でも予想不可能な自分の中にあるものは、それがたとえ自分にとって大切なものであったとしても、そのことについて深く考えを巡らせることはできない。

2017年11月5日日曜日

書くことと頭の中

書くことを避けてきたのだろう。
書くことを避けてきた、がより正しい。

職業人となって、14年目になる。
小手先の技術、というかごまかす方法、要領のよさ、みたいなものが身について、本気で単語一つにこだわって「表すこと」をいつもいつも避けてきた。
正直なところ、毎日毎回単語一つにこだわっていたら、おそらく身体がいくつあっても仕事は終わらないだろう。ただ、書くべきところ=表すべきところ、にあって、言葉にこだわれないようでは、やはり一流の職業人ではないのだろうと思うところである。

考えていること、思うこと、やろうとすること、よかったこと、楽しいこと、悩み、いろいろなことがあるのだけれども、言葉によってそれに価値を与えてあげないと、次の考えや行動には至らない。
これまでにも感じることはあったし、それと向き合ってきたこともあったのだけれども、改めてここでスタートラインに立ってみようと思う。

池井戸潤『銀翼のイカロス』ダイヤモンド社、2014年。Kindle版

「やられたらやりかえす、倍返しだ!」の半沢直樹シリーズ第4弾。今度は国会議員とやりあう銀行員のお話です。
小説なので、純粋に楽しませてもらいました。水戸黄門のように安心して読めるこのシリーズ、大好きです。

-以下、小説だけど引用。
No.729 正論がいつのまにか端に追いやられ、詭弁がそれにすり替わる。考えすぎた挙げ句、時としてバカでもやらないようなことをするのが組織というやつだ。
No.996 袋小路に見える状況でも、どこかに解決策が転がっていることもある。
No.2255 従うより、逆らうほうがずっと難しい。
No.3075 隠蔽は隠蔽を生む。隠蔽はあくまで結果であって、原因は組織の体質にある。
No.4092 欲を捨てれば、真実がみえてくる。
No.4634 物事の是非は、決断したときに決まるものではない。

何か、組織人として引っかかる感じがあるんだよね。別にやましいことはしていないけれど。