2024年8月17日土曜日

リスペクトして、リスペクトされる。リスペクトを感じる。240704

  re-spect 

動1 尊敬する

 2 尊重する

名1 尊敬、敬意、尊重

 2 箇所、点(=point)

 3 注意、考慮

  ほか

 「リスペクト」について調べてみる。尊敬。敬意。また、それを表すこと。「敬意」とは、相手に対する尊敬の気持ち。じゃあ、尊敬は?1 人格・識見・学問・経験などのすぐれた人をとうとびうやまうこと。そんきょう。2 文法で~(略)尊敬語。とうとぶ=敬って大切にする。あがめる。たっとぶ。うやまう=人や神仏を尊いものと考え、それを行動や態度に表す。あがめる。尊敬する。あがめる=1 この上ないものとして扱う。尊敬する。敬う。2 大切にし、寵愛する。などなど。

 要は、相手を相手として大切にすること。言動で相手を大切にすること。そういうことなのだろう。横文字で「リスペクト」っていうと、この言葉を使うハードルがぐっと下がるのだけれども、意味するところは同じ。相手を大切にすること。

 今まであれこれと身近な人にあーだこーだ言ってきたのって、一言で表すと「お互いにリスペクトしようよ」というだけのことなのだろう。忙しいと、相手のことを気に留めにくくなる、大切にしようとする言動が弱くなる=「リスペクト度が低くなる」、くらいか。何か面白そうに盛り上がっているけど、ある人がそれにはのっていないよね?=「リスペクトしきれていない」「大切に扱われていない人がいるよね」、ということなのか。

 なるほど、先日はパーソナリティが一方的なコメントに対して、冷静に(聞こえたけど、キレていたのかな?)「リスペクトが感じられないよね」と言い切ったことに、心の中拍手だったんだけど、もっと身近に、もっとあたりまえのところに「リスペクト」の感覚って感じ取りたいし、まき散らしたいと考えてしまう。派手なリスペクトじゃなくて、地味でいい。今風なら「陰キャのように静かに」でもいい(←この「キャ」も思うところはあるけど)。リスペクトを感じられて、リスペクトができる、自分の周りに時々でも双方向リスペクトが生じると、周りがどんどんよくなっていくのではないか?これってIyokiyehaが時々酔っ払って言い放つ「個別相談(カウンセリング)は世界を変える」みたいなものと相性がいいんじゃないか?と思い込んでいる。

武田惇志、伊藤亜衣『ある行旅死亡人の物語』毎日新聞出版社、2022年、Kindle版。

  「人を感じる取材」と感じた。記者さんの仕事すべてがこの密度で行われるとは思わないのだけれども、いわゆる「取材力」というのは、こういう形で発揮されるのだろう。そんなことを感じた一冊。取材プロセスが(おそらく大部分の地味な大変なところは省略されているのだろうが)表現されているのが、読んでいて大変面白い。

 確かに「ある行旅死亡人」だから、「あぁ、そういうことがあったのね」で済んでしまう出来事でしかないが、そこに気がつき(認知して)、調べていき、まとめていく。記者の仕事って、一つの表現活動なのだな、と思いながら読んでいった。一つの表現のために、膨大な準備と取材をして、入手した情報を、正確かつ伝わるように表現し、発表する。直線的に表現できるこの活動の見えない部分は、地道な情報収集、取材など、ほとんどが思い通りにいかないことばかりだが、時に点と点、線と線がつながってくる感覚があるのだろう。そういうかすかな情報をつなぎ合わせて、一つの記事(作品)になる。模索、練習、振り返りの膨大な繰り返しの上、作品として立ち上がってくる、そんなことが垣間見えるノンフィクション?であった。最初から最後まで、興味をもって読み通しました。

本橋信宏『全裸監督 村西とおる伝』太田出版、Audiobook版。

  私が小学生から中学生の頃に、世間?をこんな風に騒がせた人がいたとは、全く知らなかった。いわゆる18禁の世界の話だから、当時知らないのは当然といえば当然だが、まぁ、すごい(といっていいのかな)人がいたものだ。

 「成功者」というのは定義が難しいもので、最近の使い方は、とかく「自分が使えるお金を、サラリーマンよりも多く集めた人」くらいの意味で使われているように思う。そのくらいの意味ならば、本著のモチーフとなっている村西氏は大成功を治めた人に位置付くだろう。しかしながら、この手のセレブが残している読み物や、本著にも村西氏の発言とされている言葉のように、「稼げば稼ぐほど、不安が大きくなる」という共通の感覚があるらしい。不思議な者で、村西氏は体制と戦うことにはモチベーションを保つことができたようだが、どうあれ自由になる金銭を、心理的には持て余していた様子がうかがえる。

 私のようないわゆる凡なサラリーマンの立場で見たら、破天荒とか荒唐無稽、非常識なんて言葉がしっくり感じてしまうエピソードの数々であるが、価値判断を極力抜いて村西氏を眺めた時に、人間の内側からほどばしるようなエネルギー量が、新鮮かつ驚きの連続であり、人間の生き様という一点だけ切り取れば、ここまで何かに打ち込めるというのは、少しばかりうらやましく感じることもある。やっていることはむちゃくちゃだと思うし、いわゆる常識からみたら筋が通らないことを押し通しているようにも見えるのだけれども、生き様偏差値みたいなものがあるならば、到底かなわないところにいる人だなと、素直に脱帽である。

 とはいえ、価値判断を戻すならば、踏み込みたくない領域ではあるのだけれども。。

宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』新潮社、Audiobook版。

  「成瀬シリーズ」第2作。どハマリしている。このすがすがしい聴ききった感が何からくるのかと考えたところ「成瀬あかりを取り巻く人達が、風変わりな成瀬の言動に巻き込まれ、笑顔になっている」と感じること。「どうなるんだろう、どうなるんだろう」と思いつつも、随所にプププと笑ってしまう言動があり、短編のそれぞれのオチは、みんなが笑顔になっている様子が表現されていること。平凡とは言えないが、突飛なことを言う成瀬が、マイペースにやりたいことをこなしていく様子は、聴いていて心地よく「よし、明日もがんばろう!」と思えるから不思議だ。続編も楽しみです。

永井陽右『共感という病』かんき出版、Audiobook版。

  自分が関わっていてとても気分がいいと思える人がいる。関係や考え方はどうあれ、人と人という次元で「共感」できているのだと思う。一方で、何か関わってくるんだけれども、一緒にいても何かしっくりこない人がいる。「やっぱり大切なのは共感なんですよね」とか言われる。何かピンとこないのだけれども、それでも使う言葉は「共感」だったりする。

 「共感」を辞書でひくと、

 きょう かん【共感】

1 他人の考え・行動に、全くそのとおりだと感ずること。同感。

2 心 sympathy 他人の体験する感情を自分のもののように感じとること。

ほか(大辞林より)

 なるほど、使い方でその方向が変わるし、焦点となる内容も少し違う。おそらく、心地いい前者の事例は、表層的な言動はどうあれ、もう少し深いところ、無意識も含めて何か同調を感じているのだろうし、ピンとこない後者は方向がバラバラで食い違っているのだろう。共感を求められても私がそれを望んでいないのか、私の共感とは異なる共感を求めているような、そんなちぐはぐな感じなのだろう。

 と、少し調べたり考えてみてみると、確かに「共感」という言葉の使い方は難しい。この微妙な違いとか、些細な感情をどこまで入れ込むか、という方向・視野の違いが、著者の言うところの「共感過剰社会」の背景にはあるのだと思う。「共感」によって、人々がつながることもあれば、「共感」によって結ばれた外側で排除されるかのような感覚や状況がある。広く「共感」を求めれば求めるほど、なんとなくうさんくささが生じたり、同調圧力みたいなものを感じられてしまう集団も、見え隠れする。「それは『共感』ではない」と言いきるには、ちょっと無責任ではないか?意味のすり替えによって拡大する局面もあれば、それによって弾き出される人もいる。じゃあ、「いい共感」と「悪い共感」があるの?とも思えてしまう。

 著者はおそらく「そうではない」と主張しているのだと思う。むしろ「共感」を良いものとしてしか扱わない、「よい共感」を是とすることをも一旦否定して、「『共感』のもつ負の側面を理解して、付き合っていく」ことの意味を説いているのだと思う。それは、著者がテロリストの社会復帰?更生?に取り組んできた経験から感じ取った違和感であったり、いわゆるムーブメントを起こした社会活動が、「共感」ではないものを求めたり、時に「共感」によって傷つけられたりといった事例を、ロジックとともに、それだけでなく感情を丁寧に語ることによって積み重ねられた知見なのだと感じとるに至った。

 いわゆる「よい共感」を求めたいが、「共感」の本質はあくまで相互関係であって、求めたから得られるものではない、自分の考える「共感」が人の考える「共感」とはイメージが異なることもあり、それは小さな差であるとは限らず、正負の全く逆のイメージとなることも少なくない。よかれと思ってやったことを、全く理解されずに否定されてしまう、ということが起こっているのがいい事例だろう。おそらくそうしたことを積み重ね積み重ね、言葉にしてきたという言葉の数々、視野の広さを感じる一冊でした。大変迫力のある内容です。