2024年12月29日日曜日

住野よる『腹を割ったら血が出るだけさ』双葉社、2022年(Audiobook版、2024年)

  昔は昔、今は今。「今の若い子たちは、考えることやいろんな見られ方への対応とか、大変だな」と思っていたが、こういう現代小説から感じられる、いわゆる「今の若者」の姿ってやっぱりイメージでしかなくて、結局は個別の感覚なのだな、と思ってしまう。少なくとも自分の土俵とは異なる土俵に皆立っているわけで、同世代の人達が共通認識をもっているのかというと甚だ疑問ではある。案外、いわゆる「今の若者」を仮想敵と仮定したときに、「敵の敵は味方」的に、ワン・プロジェクトっぽく手を結んでいるだけかもしれない。だって、同世代だって物事の捉え方の感覚は個別だから。

 内容は、作中に登場する『少女のマーチ』なる読む人の解釈を許すような小説をモチーフに、自分の本音で生きたいと願いながらそれが成就しない女子高生と、表裏のギャップにアイデンティティを揺さぶられているアイドル、彼女らを取り巻く人間関係が語られる。ミステリとは言い難いが、モチーフに解釈が入り込むために、登場人物の思考が読み切れずついつい引き込まれてしまう。

 Iyokiyehaの人間関係の捉え方とは全く異なるそれを、ある若者の視点を、節毎に切り替えながら一つの物語を組み立てていく。「自分とは異なる考えを押しつけられる」。本書の一節だが、そういうものなのだなと感じる。若者の人間関係なんて、多分理解できないし、自分の考えるそれとは全く異なるものだから、摩擦すら感じるのに、それでも興味深く聴き進めてしまうのは、この作者のプロダクトに対して素直になれたと考えることにしよう。

---(続)

 とはいえ、小説というのはすごいプロダクトなのだと思う。若者達の会話と思考を言語化することによって、人間の感情というものをそれを読む人に重ねながら、空想世界を展開していく。それは「そんなバカなことあるかぃ!」って思うようなフィクションであったとしても、どこか自分の感情に重なったりかすったりするので、ついつい小説の世界にひきこまれてしまう。普段から小説にはそういうところがあったように思うが、感情の言語化とそれが立つ基盤に「解釈」が入り込むというしかけが、こう思う自分を客観視できた一助となっているのだろう。

赤字体質 241009

  こづかい管理が甘くなっていたな。電子決済って手軽が故に、消費刺激にはなるんだけど、一方で管理が甘くなるのも事実。半年くらい消費刺激が優位になっていたようで、蓄えが削られていることをようやく清算できた。どんぶり勘定はよくない。あとは、会合の機会が増えているのもいい刺激になっているな。

 とりあえず年末まで、緊縮財政モードでいきます。

博物館の解説 241009

  引き続き、川越ネタ。

 去年末から5回くらいになるか。サボり先に認定されている川越。本川越駅を中心に、観光案内に載っているところで、歩いて行けるところは大体回っている。蔵造りの街並みの近辺は目的地が明確なら、地図なしで大体たどり着けるくらいに、主要な横道くらいまではほぼ歩き尽くした感がある。

 昨年末から改装工事をしていたらしい、川越市の博物館。今回は特に予定がなかったので、じっくり観に行くことができた。川越市の歴史があけぼのから、中世を経て近代まで概観できる展示が大変面白かった。でも、今日はもっとツイていた。市内の小学生が社会科見学か総合学習あたりで、団体利用があり、なんとガイドの声が丸聞こえ。ラッキーすぎて1時間以上滞在してしまう。

 博物館なんかでも「キュレーション」って使える言葉なのだろうか。展示物の並べ方や組み合わせの見せ方で学びの質が変わる、ということは、自分なりに感じ取れることだけれども、やっぱり「インタープリテーション」って大事だよな、って改めて思いました。私にとっての「インタープリテーション」って自然体験活動が入り口なんだけど、物言わない展示物を使った語りやプレゼンテーションも「インタープリテーション」って使っていいよね。キュレーションとインタープリテーションがかみ合った時に自分に起こるインプットって、知識が背景や時系列を伴って、文字面だけじゃない生きた知識みたいなものとして入り込んでくる感覚があるよね。いわば「じーんとくる体験」みたいなもの。そういうプレゼンに出会えると、いやぁホントラッキーだと思う。今日はそんなラッキーデーでした。

 現在にも残る地名や建造物から、その仕組みを展示物を使って動きを伴って説明する。川越は江戸時代に大きな家事があったことから、蔵造りの建物には家事を防いだり、被害を抑えるような仕組みが備わっている・・・北側に窓がなくて、土壁が備わっているというのはそういうことなんだな、と分かると、街並みの見え方もちょっと変わって見えてくる。博物館から昔の川越にタイムスリップできたような、そんな気分になれたひとときでした。

 生徒さんが退出した後に、山車の写真を一通り見て出口へ。説明していた職員さんから「お騒がせしました」なんて言われたので、「いえいえ、大変勉強になりました。ありがとうございました」と御礼。最後まで気持ちいい寄り道でした。

何も考えないことを一生懸命やってみる 241009

  ここのところ、偏頭痛を思われる体調不良が続いており、一昨日は気持ち悪くなる程度、昨日は朝から鎮痛剤を服用しての仕事だった。以前から、今日は自分のための休みを決めていたこともあったのだが、ちょうどいい頃合いでサボりに突入。

 秩父まで行こうかと計画をしていたが、あいにくの天気(朝から結構な雨)なので、予定変更していつもの川越へ。いつものお店でうまい昼飯を食ってエネルギー補給しようと考える。PePeのスタバで作戦休憩をと思うが、予定変更。テキトーなPODCASTを聴きながら、日記をつけてぼんやり。雨がやんできたのを横目に見つつ、合気道ページの構想・コンテンツを少しずつ作ってぼんやり。Audiobookで小説を聴きながらぼんやり。「いろいろやってるじゃん」と言われるかもしれないが、自分にとっては、普段やらない(できない)ことを表に出すかどうかは別として、のんびり・無計画にやってみているので、頭の稼働率が適度に保たれており、心地いいのではなく「ちょうどいい」。職場で何かを読んだり、書いたり、話したりするときにキリキリと痛む頭はどこにもなくて、自分の状態に合わせてインプット・アウトプットがなされている。寝る前の自分座禅で頭の稼働率を落としていくのとはちょっと違った感覚、これが俗に言うところの「ととのう」なのかもしれない。表現はともかく、歯止めや摩擦がなくするすると自分の身体と頭が働いているような感覚に、ちょっと戸惑いながらも、とても楽な時間を過ごしていると実感する。

 川越へくると、とっても楽しかったり、なんだか心地よかったりするので、すっかり自分の中では手軽な小旅行、身近なサボり先、になっているのだけれども、こういう前向き刺激はいくらあってもいいと、改めて感じる。自分にとってのこういう場所が他にもあっていいと思うけど、川越にはしばらくご厄介になると思うな。よろしく。

2024年11月20日水曜日

情報収集の偏り

  情報収集とメディアの評価、そういう角度から兵庫県知事選の結果に感じていたことを、森下和哉さんが的確に指摘してくれていました。情報の質と選び方ってとても大事だと思う。

#330 兵庫県知事選の結果を受けてテレビ局報道マンの個人的な本音


寛容さがなくなっていく

 寛容 名 -かんよう

 心が寛大で、よく人を受けいれること。過失をとがめだてせず、人を許すこと。(岩波国語辞典 第7版)

 結局、まわりまわって自分のことしか考えていない人がいるということなんだよね。多いとか多くなっているとか、そういう変化ではなくて、人の言動を許せない人っていうのがいつの時代にも一定数いるわけで。そういう人たちが「安易に意見を表明できる」ツールを手に入れた時に、寛容さのなさが社会に垂れ流されていく。表現の稚拙さが、それに拍車をかけていく。近年、IyokiyehaがWeb閲覧の時間を削っているのは、この辺に理由がある。要は「眺めていて快刺激よりも不快刺激の方が多い」からだ。

 人がやることをすべて受け容れられるとは限らないが、じゃあそれが「不快だ」と思ったときに、不快感情をWeb上ひいては社会に垂れ流すことに、世のためになる「何か」はあるのだろうか?と考えると、垂れ流しにする必要はないよね。なら、その感情は飲み込んでおいたらいい。飲み込むには辛いことがあるなら、そんな辛いことは不特定多数の人間じゃなくて、信頼できる誰かにきちんと相談した方がいい。

 理想的には、「不快な感情」が自分にやってきたら、その要因となる人や言動に矛先を向けるんじゃなくて、その要因を許して、そんな感情に襲われている自分も許して、三方よし○印をつけられるのがいいと思う。そこから憎しみはうまれないはず。憎しみが外に出なければ、いざこざや小競り合いは起こらないはず。そういう姿勢を磨きながら、そういう姿を追いかけてもらえるような、感情の受け止め方ができるようになりたい。


2024年11月9日土曜日

ルールの中で働くこと

  「闇バイト」なんて言葉が、ラジオを聴いているとほぼ毎日聞こえてくる。社会問題と化している、ヤバい仕事だけど、それを提供する人たちの得体の知れなさと、それに手を出す若者たちが注目されているのだけれども、それとは少し視点を変えて、制度や社会的な構造みたいなところから、いわゆる「闇バイト」を見てみようと思う。

 結論から言うと、個人的な要因として、働いて得るお金が「労働の対価」という認識が希薄になっていることが一つ。もう一つ、社会的な構造として、契約に基づく雇用という人と社会が作り上げてきた人を安心・安全の元で自由にするための仕組みが、得られる対価が少ない=効率の悪い営みだと勘違いされているように思える。

 仕事に貴賎なしとは言うけれども、ここでいう「仕事」というのは、世の中のルールの中にあるものだという当たり前のことを、あえて記しておこう。世の中のルールというのは、法制度のように明文化されたものから、社会で生きていくための人としてのルールのような不文律のようなものまで含みます。そうした「ルール」に従って提供される仕事においては、その内容によって貴賎はないわけで、いわゆる「労働法」というものはそれを担保するためのもの、というわけです。労働法にのっとった仕事は(ブラックとかいろいろ言われるところも、そういうことも少なからずあるけれども)安心・安全に、人を社会のルールの中で自由にしていく機能を備えているといえる。

 こう見ていくと、いわゆる「雇用者(雇われている人)」がイメージしやすいのだけれども、それを離れてみたときはどうだろう?最近ではフリーランスや自営業は身近になってきている。これらは「雇われる」ではなく、自分が使用者となって人を雇う立場になったり、個人であっても事業主として働く主体となるものである。これらの働き方は、労働法の一部は適用されないものの、人を雇う上ではルールに則った使用を求められるわけで、提供される、から提供する側に移ることにはなるが、やはり各種ルールの中に入っているものだ。個人事業主として働く場合はルールの中にとどまることも、そこから出ていくことも選択はできるのだけれども、ルールの中にとどまる選択をした人たちは、(基本的には)安心・安全が担保されることになる。

 と、このようなことに「常識」なんてラベルを貼っておくと、こういうことはあまりに当たり前すぎて、常識ラベルが貼ってあることに気づかない人、あるいは悪意をもって働き方ルールの外側に飛び出している人が、「闇バイト」を提供し提供されることになる。「普通の若者が『闇バイト』に手を出してしまう」ということの背景には、こういう見え方がある。普通(カタギ)か普通じゃないかが問われているのではなく、まずは常識ラベルに自覚的であるかどうか、こういうことが課題になってくるんじゃないかな、と思ったわけです。

 なにかというとSNSが取り上げられますが、これはただの道具であって「闇バイト」を支えたり、支持するものではないはず。道具の良しあしではなく、個人的な要因と、社会構造をしっかりと見据えていたいものです。

2024年10月14日月曜日

改めて、読書の秋

 じっくりと座って本を読むことが、すっかりなくなってしまったのだけれども、どんな生活状況に置かれたとしても、本は読みたい。本を読む理由を問われると、費用対効果とか、信頼に足る情報とか、以前から小説を読むのが好き、とか、適当な意味はいくらでも思いつくのだけれども、それよりも何よりも「自分の内側に人の意思が入り込んでくるような感じ」が味わえるから、というのが本音に近いのだと思う。「なんだコイツ?」と思われそうだし、ちょっと重めの話なので、人にはあんまり言わないけど。

 人と話をすることも同じようなことがあるけれども、知らないことを知る、知識を得るだけの時間と、自分と他者とが情報という知識の交換ではなくて、いわば内面の交換ともいうべき時間を過ごすことができると、それはとても充実した、時計の時間を超越したような時間を過ごす経験になりうる。「充実した」と思えるのは、こういう経験が背景にあるのだろう。

 これが、ひとりで本を読む行為にも時折訪れる。それは小説だけじゃなくて、ビジネス書であったり、思想や自己啓発を描いたものにもありうるが、一方でそういうことを期待して読んだ本が期待外れだったり、逆に何も期待していなかった本が、そういう存在になることも時々起こりうる。要は、その辺が偶然に依っている、というのも読書への期待になるのだと思う。やっぱりいろいろ読みたい。

2024年10月6日日曜日

忙しい時にこそ、いろんなことが頭に浮かぶ 241005

  9月議会が終わったにも関わらず、地味に仕事が多い。突発的な対応にも追いまくられてしまっており、何か去年とあまり変わらない焦った雰囲気が蔓延している。

 帰宅してからは、やることやって、洗濯物を干してほぼバタンキューと寝てしまうため、日記もおろそかになるし、合気道の復習もできないし、読書もほぼ足踏み。留まって考えるということをしなくなっているのが気になってしまうので、土曜の夜にラジオをお供にちょっとまとめてみる。

●食い違い起点のトラブル

 「普通のことをやってください」「普通のことしかしていないし、できないので」「どうして普通にできないんですか」そんなやりとりが続いているある案件について。もはや「普通」って何だよ?って話になってしまっている。事業者側は「特別なことはしていませんよ。例えば・・・」と同義で『普通』を使っているのに対し、利用者は自分たちの中にある標準という意味で『普通』と言っている。具体的なイメージがすれ違っているので、分かり合う気がなければ、ずっと平行線だろう。第三者の決定を期待して、私の職場に「同席」を求めるが、こちらとしては判断する権限も理由もないので「同席する必要はない」としている。これもかみ合わない。多分「これだから役に立たない」くらいに思われている節もある。無理もないが面白くもない。かみ合わない状況のまま、何かを強行したときにしわ寄せがどこくるのか、ということを見据えていないといけないな、と思う。(特別でないという意味での)「普通」の場所に、(ある水準をイメージした)「普通」を求める人が集まって主張すれば、衝突は必至。

●スマートフォンの扱い

 一言本音。みんなででかけても、旅行へ行ったとしても、そういう「非日常」を、一瞬で「日常」に変えうる可能性を秘めたスマートフォン。旅行いってもずっとスマホいじってるなら、別に行かなくてもいいじゃん、とか思ってしまう。

●近所を騒がせている事件について

 逃げている人に対しては、人として、早くお縄になるか、無事でいられる場が見つかるかすればいいけれども、そうならない可能性もあるような気がしています。罪はつぐなうべきだけど、どうか無事でとも思うところです。そういう世界ですよね。思うところはあるけれども、Webだからこれ以上は触れずに。

●日中ぐうたら

 台風のせいなのか、気圧のせいなのか、それ以外なのか、今週一週間は体調が悪い。だるい、疲れやすい、集中力が(いつもにまして)ない。それで終末の悪天候。それも、土砂降りじゃなくてしとしとぐだぐた。これは気分もあがらない。もちろん、なにかあるなら、身体を動かして多少の補正はできる技能はあるけれども、まぁ、とはいえ、そんなに気合い入れる必要もないので、土曜日はぐだぐだしてみた。日頃滅多にみないテレビを見て、ごろごろぐだぐだ。朝ジョグはしているのでそれほど罪悪感もなく、なーんにも考えずに過ごしてみました。これはこれで、ありだな。年2~3回でいいけど。

●先日の動画の件

 前回の雑記投稿の件、要するに「発信は、どう受け止められるかわからないよ」ということが危うさに見えたのでもやもやもやもやしていたのだろう。私もここでBlog長くなっているから、今まで以上に気を付けないといけないよね。解釈の余地が含まれる、何かを想起させるようなコンテンツには、十二分に気をつけねば。

動画作品

  まだはっきりと整理できていないので、書きながら考えてみる。

 最近違和感があること。動画共有サイトで公開されている、家族の様子を紹介するような動画から思うこと、考えること。今回の題材は子ども(姉弟)の様子を映したもの。

 キーワードだけ列挙しておくと、子どもたちの顔がデータとしてWeb上にアップされること、幼い姉が一般的にやってひまう弟に対する自分本位の行動/一般的に弟が姉に従わざるを得ない状況で理不尽に振り回される様子、Webにアップする目的、共有?曝し?ネタ?

 年齢にして、3~4歳の女の子(姉)と1~2歳の男の子(弟)の関わり合いの様子を動画に収めたものが公開されているものを見せてもらう。その動画では、歩行器で移動する弟を振り回して、自分の進路を確保する姉の様子や、何かと言えばお姉ちゃんが弟に高圧的(に見える)な態度でやりとりする様子が記録されている。たしかにかわいらしいし微笑ましい。姉弟のきょうだいを育ててきた経験者としては「あるある、ウチもそうだった」と思えるような内容であった。

 この面白さって、大人のような邪気はなく、ただただ「弟という小さい家族」を思うように動かそうとするしっかり者お姉さんを、全身全力で表現していること、それであってもやっぱり子どものやりとりであって、どちらも思い通りになっていないこと、を微笑ましく切り取った生活の一部である。

 見ていて微笑ましいのだが、ふとした瞬間に我に返る「これって、誰のためのアップなんだ?」。自分のために、家族の記録を録画してとっておく、ということであれば、それで充分だ。それ以上になると、私には抵抗感が出てきてしまう。自分の子どもを見世物にする意識はなくとも、Webに公開するということは結果として世界中に公開してしまうわけで。この微笑ましさを、完全にニュートラルな感情で受け止められているのかどうか、自分にもちょっと自信は無いのだけれども、「発信者の意向」×「受け止め側の認識」となったときに、そこにあるのは発信者には制御できない感情がアウトプットされることになりかねない。率としてはどうあれ、「弟はこうやって虐げられて育つんだよ」とか「姉はコントロールしたがるんだよね」とか正負いずれかでも感情が振れてしまうことになれば、その幅はもはや制御不能になる可能性もありうる。Webは感情増幅装置だと思うので。

 となると、SNSが流行りだした時から、私はできるだけ守っていることだけれども、自分以外の家族の写真のアップロードには、これでもかというくらい慎重になってもおかしくないだろうし、それくらいの思いやりを持ったときには、公開される動画の質っていうのも随分変わってくるんじゃないのかと思うところもある。古くさいと言われるかもしれないのだけれども、やっぱり世界に開かれたWebの世界というのは、想像力がないと何が起こるかわからない、と思うのです。

スティーブン・R・コヴィー著、フランクリン・コヴィー・ジャパン訳『7つの習慣 最優先事項』キングベアー出版、2015年(Audiobook版、2016年)。

  「7つの習慣」関連の書籍っていくつか聴いているのだけれども、いつも「フツーのことだよね」と思ってしまっていた。だけど、そのフツーが難しい、基本はいつも大事なんだよね。

 優先すべきことは、緊急のことよりも本来は優先しなきゃいけないことなので、いつの間にか雑事に追われて・・・というのは、古今東西誰にでも課題となりうることで、Iyokiyehaも例外ではない。いや、むしろ、面倒事を喜んで引き受けてしまう節もあるよう(←よく指摘されます)なので、むしろ自分のための論考なのかもしれない。要は時間の使い方と目的意識のように考えて、受け止める。

 (Audiobookの紹介より引用)「時間管理の基本を、『いかにスピーディーにこなすか』ではなく、『なぜそれをするのか』という視点から見つめ直します。『なぜそれをするのか』、その目的をしっかりと見据えてプランニングすることで、最優先事項がみえてくるのです」。本書の訴えることは、大体ここに集約される。

 書籍中「コンパス時間」という言葉が出てくる。コンパスが常に北を指していることと、「時間管理のための時間」を批判的に捉えたときの言葉だと理解した。要は、より大きな目的のために行うことを、目の前にあることに適用させたり、場合によっては目の前にあるものを回避することも必要になるかもしれない。ただこなす、ではなく大きな目的を意識して、そのために目の前のことを行う、といったように、優先すべきことを意識して万事目的につながっていることが見えてくると、人生の成果に取り組んでいるといえる。そのことが幸せにつながるのだ、というようなことを文書随所で語っているように思いました。

 今は、いろいろ悩みながら、いろんなことに取り組んでいるけれども、それも人生の糧と思いながら、それでもオーバーワークにならないように「なぜ」を問い続ける姿勢は必要だと思います。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』太田出版、2015年(Audiobook版、2020年)。

  退屈の反対は楽しさとか楽しいこと、ではなく、興奮である。楽しいことがないのは退屈なのではなく、興奮を伴う刺激に乏しいということ。つまらないことが退屈なのではない。

 熱意は幸福と関係があるが、熱意があれば幸福かということには違和感がある。熱意が暴走して刺激を際限なく求めたところの一つに、戦争という事象がある。(ラッセル?)

 現代は、生産が欲求に先行する。やることがない人にやることを与えるのがレジャー産業の側面でもある。

 なるほど、暇とか退屈というものを、倫理的に哲学的に分析して深めていくと、いろんな感情や事象とつながっていくことができる。暇というのは単にやることがない、ということではないし、楽しいことがないのが退屈とは言い切れない。今を生きる私たちの社会の仕組みと実は密接に関係がありながら、その関係がとても見にくくなっているのが暇とか退屈の本質に近づきにくくしている一因ともいえる。

 Audiobookでなければ、おそらく触れられない一冊。哲学的思考や歴史的な論考が学術的に引用されているので、読み解いていくのが困難だった。聞き流している部分もあるが、それでも上記のような気づきや学びがあった一冊でした。

猪俣武範『ハーバード×MBA×医師 働く人のための最強の休息法』ディスカヴァー・トゥエンティワン、Audiobook版。

  やはり睡眠は大事。量も必要。眠りの質を上げることだけでなく、7時間程度の睡眠時間は認知機能を発揮するためには必須といえる。

2024年9月22日日曜日

旧友

  20年くらいの付き合い、となると「旧友」と言ってしまっても差し支えないか。昨日(9/21)に前職の同期と会う機会に恵まれた。初めて出会ったときは、私も24歳。私は11年勤務して転職したけど、みんなそれぞれ歩んできて、当初20人いた同期の内、15人は退職に至っている。その是非はともかくとして、それぞれ生活のステージが変わっていて、昨日会った人たちは、それぞれの生活を営んでいる。

 共有できる体験があると、話は弾みやすいものだけれども、男女、既婚未婚、子どもの有無、今の仕事などなど、一つずつ見ていけば、誰もが異なる経験を有しているもので、そんな違いや大変なこと、楽しいことなんかを確認するだけでも、面白い。昨日は私も疲れていたこともあり、聴いてばかり(ぼーっとしていた)だったのかもしれないのだけど、おいしい料理とお酒に舌鼓をうちながら、なんてことのない会話で十分楽しい時間を過ごすことができました。

 「離職者友の会」とか言いながら集まったわけだけれども、もはや前職を辞めていても、続けていてもどうでもいいじゃない、って雰囲気で、いろんな人にもっと声をかけていこう、なんて話も飛び出す。「同期が出世したら、幕張で」なんて言ったら、本部勤務歴のある人たちからは「反対!」なんて意見も出ましたが(笑)、それもほほえましいものです。

 「同期」って、これまた不思議な集団ですよね。お友達が少ないIyokiyehaですが、誘ってくれる人たちの集まりは大切にしようと思うこの頃です。ちなみに、昨日のハシゴは、

・プティ デリリウム タップ カフェ(ベルギービールと肉料理。新宿サザンテラス)

・信州味噌・料理のお店@新宿の南側

・焼き豚を食べなかったTONTON?とか言うお店@歌舞伎町

・コンビニで缶アルコール買って、歩き飲み@歌舞伎町

・焼き鳥の焼き場はあるが、奥にバーカウンターもある、謎なカフェバー@歌舞伎町

・24H営業のケバブスタンド@↑のお店のすぐ隣 西武新宿近辺

でした。お付き合いいただいたみなさま、ありがとうございました。

2024年9月16日月曜日

今年の夏は、いろいろあったが、なにはともあれ、暑い。

 なんかもう、いろいろありすぎてお腹いっぱいなんだけど、今年の夏を一言で言い表すと、もはや「暑い」としか浮かばない。語彙力のなさを露呈するようで嫌なんだけど、もう単純に「暑い」んだよね。暦じゃ「残暑」とか言うのだろうけど、30度超えちゃったら真夏だよね。着るものも変わらないし、汗かくし、意識して塩分とらないとぼーっとしてくるし。

 こまごま書き溜めていた日記を一緒にするのもちょっと面倒なので、ざっくりこの夏を振り返ると、

・6月下旬から続く咳・たんの絡みはどうやら喘息らしい。

 今までこんなこと言われたことがなかったのだけれども、どうやらアレルギー性の喘息があると疑うのが、一番しっくりくる病名とのこと。ビレーズトリエアロスフィアという薬が処方されて、服用(吸引)を始めたら症状がずいぶん軽減した、というのが決め手らしい。かかりつけ医→耳鼻科→呼吸器科ときて、診断が出るまでざっと2か月。身体のことだから、気を付けないとね。

・不可解なことが多い。Amazonの謎。焼肉店の話題。

 私とAmazonさんとの関係はもはやカミさんよりも長いので、私はWebで買い物といえばだいたいAmazonさんを使うのだけれども、最近、新刊本を検索すると同じものがやたらと高い値をつけて複数出てくる。そういうことをしたくなる理由はわかるようでいて、そういう行動をする人のことは理解し難いのだけれども、あんまりいい商売じゃないような気がするんだよね。不可解つながりで、最近新聞でもWebニュースなんかでも目にする某焼肉屋さんのセールに対する指摘の内容が、よくわからないようでいて、統一の主張になっていないような気がして、やっぱりよくわからない。世代間ギャップなら少し冷静に立場を保たないと老害まっしぐらなので気を付けないといけないのだけれども、それも含めて不可解だ。

・ちょっと距離のある、身近な人の他界に、気分が揺らぐ。

 カミさんが働いていた会社の社長で、私の後輩の知人という方が、急逝されたことを知る。また、息子が通う学校の生徒さんが亡くなられたお知らせを聞いたところ、私の師匠の幼馴染のお子さんだった、ということを知る。身近なところで人が亡くなられるというのは、なんとなく胸がざわざわするんだけど、少し距離があると余計に何もできない感が強く感じられたりする。不思議なものです。

・お稽古の時間を増やす。

 合気道がもっとうまくなりたい、と前向きに考えるようになった。黒帯間近なのもあるけれども、多分、一生モノの趣味になりつつあるのだろう。生活の中の動作にいかに型を組み込んでいくか、という発想にたどり着く。木剣を振るときには、基本動作を組み込んでやってみるとか、身体の向きを変えるときに、腰の位置を確認してみるとか、そういうことの繰り返しって、身体動作の質を変えていくように思えるのですよね。私器用じゃないので、繰り返し繰り返しやらないと身につかないから。

 今年は結局、地震のせいで帰省もできなかったのだけれども、その代わりといっては何だが、深谷の室内プールへ行ったり、次女のお友達と明治の工場見学へ行ったり、今年再開した合気道の合宿へ行ったりと、なかなか詰め込んだ夏になったようには思う。子供たち目線だとどうかはわからないけれども、仕事しながら、カミさんと合わせながら、だとこのくらいになっちゃうのかな。長期休みはそれぞれの生活リズムが変わるので、それに合わせるのは大変。私自身のリズムを変えないようにしたいけれども、周りが変わると細部が変わってくるので、なんだか落ち着かない。そういうことも高校生、中学生の運動部、となってくると起こりうることなんだよね。とはいえ、私は変わらないところは変わらないように、うまく合わせていく、を心掛けたい。

2024年8月17日土曜日

リスペクトして、リスペクトされる。リスペクトを感じる。240704

  re-spect 

動1 尊敬する

 2 尊重する

名1 尊敬、敬意、尊重

 2 箇所、点(=point)

 3 注意、考慮

  ほか

 「リスペクト」について調べてみる。尊敬。敬意。また、それを表すこと。「敬意」とは、相手に対する尊敬の気持ち。じゃあ、尊敬は?1 人格・識見・学問・経験などのすぐれた人をとうとびうやまうこと。そんきょう。2 文法で~(略)尊敬語。とうとぶ=敬って大切にする。あがめる。たっとぶ。うやまう=人や神仏を尊いものと考え、それを行動や態度に表す。あがめる。尊敬する。あがめる=1 この上ないものとして扱う。尊敬する。敬う。2 大切にし、寵愛する。などなど。

 要は、相手を相手として大切にすること。言動で相手を大切にすること。そういうことなのだろう。横文字で「リスペクト」っていうと、この言葉を使うハードルがぐっと下がるのだけれども、意味するところは同じ。相手を大切にすること。

 今まであれこれと身近な人にあーだこーだ言ってきたのって、一言で表すと「お互いにリスペクトしようよ」というだけのことなのだろう。忙しいと、相手のことを気に留めにくくなる、大切にしようとする言動が弱くなる=「リスペクト度が低くなる」、くらいか。何か面白そうに盛り上がっているけど、ある人がそれにはのっていないよね?=「リスペクトしきれていない」「大切に扱われていない人がいるよね」、ということなのか。

 なるほど、先日はパーソナリティが一方的なコメントに対して、冷静に(聞こえたけど、キレていたのかな?)「リスペクトが感じられないよね」と言い切ったことに、心の中拍手だったんだけど、もっと身近に、もっとあたりまえのところに「リスペクト」の感覚って感じ取りたいし、まき散らしたいと考えてしまう。派手なリスペクトじゃなくて、地味でいい。今風なら「陰キャのように静かに」でもいい(←この「キャ」も思うところはあるけど)。リスペクトを感じられて、リスペクトができる、自分の周りに時々でも双方向リスペクトが生じると、周りがどんどんよくなっていくのではないか?これってIyokiyehaが時々酔っ払って言い放つ「個別相談(カウンセリング)は世界を変える」みたいなものと相性がいいんじゃないか?と思い込んでいる。

武田惇志、伊藤亜衣『ある行旅死亡人の物語』毎日新聞出版社、2022年、Kindle版。

  「人を感じる取材」と感じた。記者さんの仕事すべてがこの密度で行われるとは思わないのだけれども、いわゆる「取材力」というのは、こういう形で発揮されるのだろう。そんなことを感じた一冊。取材プロセスが(おそらく大部分の地味な大変なところは省略されているのだろうが)表現されているのが、読んでいて大変面白い。

 確かに「ある行旅死亡人」だから、「あぁ、そういうことがあったのね」で済んでしまう出来事でしかないが、そこに気がつき(認知して)、調べていき、まとめていく。記者の仕事って、一つの表現活動なのだな、と思いながら読んでいった。一つの表現のために、膨大な準備と取材をして、入手した情報を、正確かつ伝わるように表現し、発表する。直線的に表現できるこの活動の見えない部分は、地道な情報収集、取材など、ほとんどが思い通りにいかないことばかりだが、時に点と点、線と線がつながってくる感覚があるのだろう。そういうかすかな情報をつなぎ合わせて、一つの記事(作品)になる。模索、練習、振り返りの膨大な繰り返しの上、作品として立ち上がってくる、そんなことが垣間見えるノンフィクション?であった。最初から最後まで、興味をもって読み通しました。

本橋信宏『全裸監督 村西とおる伝』太田出版、Audiobook版。

  私が小学生から中学生の頃に、世間?をこんな風に騒がせた人がいたとは、全く知らなかった。いわゆる18禁の世界の話だから、当時知らないのは当然といえば当然だが、まぁ、すごい(といっていいのかな)人がいたものだ。

 「成功者」というのは定義が難しいもので、最近の使い方は、とかく「自分が使えるお金を、サラリーマンよりも多く集めた人」くらいの意味で使われているように思う。そのくらいの意味ならば、本著のモチーフとなっている村西氏は大成功を治めた人に位置付くだろう。しかしながら、この手のセレブが残している読み物や、本著にも村西氏の発言とされている言葉のように、「稼げば稼ぐほど、不安が大きくなる」という共通の感覚があるらしい。不思議な者で、村西氏は体制と戦うことにはモチベーションを保つことができたようだが、どうあれ自由になる金銭を、心理的には持て余していた様子がうかがえる。

 私のようないわゆる凡なサラリーマンの立場で見たら、破天荒とか荒唐無稽、非常識なんて言葉がしっくり感じてしまうエピソードの数々であるが、価値判断を極力抜いて村西氏を眺めた時に、人間の内側からほどばしるようなエネルギー量が、新鮮かつ驚きの連続であり、人間の生き様という一点だけ切り取れば、ここまで何かに打ち込めるというのは、少しばかりうらやましく感じることもある。やっていることはむちゃくちゃだと思うし、いわゆる常識からみたら筋が通らないことを押し通しているようにも見えるのだけれども、生き様偏差値みたいなものがあるならば、到底かなわないところにいる人だなと、素直に脱帽である。

 とはいえ、価値判断を戻すならば、踏み込みたくない領域ではあるのだけれども。。

宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』新潮社、Audiobook版。

  「成瀬シリーズ」第2作。どハマリしている。このすがすがしい聴ききった感が何からくるのかと考えたところ「成瀬あかりを取り巻く人達が、風変わりな成瀬の言動に巻き込まれ、笑顔になっている」と感じること。「どうなるんだろう、どうなるんだろう」と思いつつも、随所にプププと笑ってしまう言動があり、短編のそれぞれのオチは、みんなが笑顔になっている様子が表現されていること。平凡とは言えないが、突飛なことを言う成瀬が、マイペースにやりたいことをこなしていく様子は、聴いていて心地よく「よし、明日もがんばろう!」と思えるから不思議だ。続編も楽しみです。

永井陽右『共感という病』かんき出版、Audiobook版。

  自分が関わっていてとても気分がいいと思える人がいる。関係や考え方はどうあれ、人と人という次元で「共感」できているのだと思う。一方で、何か関わってくるんだけれども、一緒にいても何かしっくりこない人がいる。「やっぱり大切なのは共感なんですよね」とか言われる。何かピンとこないのだけれども、それでも使う言葉は「共感」だったりする。

 「共感」を辞書でひくと、

 きょう かん【共感】

1 他人の考え・行動に、全くそのとおりだと感ずること。同感。

2 心 sympathy 他人の体験する感情を自分のもののように感じとること。

ほか(大辞林より)

 なるほど、使い方でその方向が変わるし、焦点となる内容も少し違う。おそらく、心地いい前者の事例は、表層的な言動はどうあれ、もう少し深いところ、無意識も含めて何か同調を感じているのだろうし、ピンとこない後者は方向がバラバラで食い違っているのだろう。共感を求められても私がそれを望んでいないのか、私の共感とは異なる共感を求めているような、そんなちぐはぐな感じなのだろう。

 と、少し調べたり考えてみてみると、確かに「共感」という言葉の使い方は難しい。この微妙な違いとか、些細な感情をどこまで入れ込むか、という方向・視野の違いが、著者の言うところの「共感過剰社会」の背景にはあるのだと思う。「共感」によって、人々がつながることもあれば、「共感」によって結ばれた外側で排除されるかのような感覚や状況がある。広く「共感」を求めれば求めるほど、なんとなくうさんくささが生じたり、同調圧力みたいなものを感じられてしまう集団も、見え隠れする。「それは『共感』ではない」と言いきるには、ちょっと無責任ではないか?意味のすり替えによって拡大する局面もあれば、それによって弾き出される人もいる。じゃあ、「いい共感」と「悪い共感」があるの?とも思えてしまう。

 著者はおそらく「そうではない」と主張しているのだと思う。むしろ「共感」を良いものとしてしか扱わない、「よい共感」を是とすることをも一旦否定して、「『共感』のもつ負の側面を理解して、付き合っていく」ことの意味を説いているのだと思う。それは、著者がテロリストの社会復帰?更生?に取り組んできた経験から感じ取った違和感であったり、いわゆるムーブメントを起こした社会活動が、「共感」ではないものを求めたり、時に「共感」によって傷つけられたりといった事例を、ロジックとともに、それだけでなく感情を丁寧に語ることによって積み重ねられた知見なのだと感じとるに至った。

 いわゆる「よい共感」を求めたいが、「共感」の本質はあくまで相互関係であって、求めたから得られるものではない、自分の考える「共感」が人の考える「共感」とはイメージが異なることもあり、それは小さな差であるとは限らず、正負の全く逆のイメージとなることも少なくない。よかれと思ってやったことを、全く理解されずに否定されてしまう、ということが起こっているのがいい事例だろう。おそらくそうしたことを積み重ね積み重ね、言葉にしてきたという言葉の数々、視野の広さを感じる一冊でした。大変迫力のある内容です。

2024年6月29日土曜日

感情を意識に置くって大事だな

 雑記ですが…。

 定期的に聴いているある番組で、パーソナリティの一人が放った一言が印象的だった。視聴者からのある批判的なコメントを受けて、冷静に「この指摘は、我々に対するリスペクトが感じられない。私たちもリスペクトできない内容だから、議論にならない。このままならもう聴いてくれなくてもいい」という主旨のことを言ったことに対し、Iyokiyehaは想定範囲を超えたやりとりに感動しつつ、この新しい視点を得たことに併せて感動した。もう一歩だけ、このコメントの主に歩みよる方法もあるのだろうが、このパーソナリティは「お互いのリスペクトがなければ議論にならない。批判的になったとしても、相手へのリスペクトは必須」という姿勢を貫いたことに、心の中で拍手をしていた。

 いろんな情報に振り回されることがあるのだけれども、判断基準の一つに「自分の人生を、自分で歩いているかどうか」という点が意識下に上がってきた。新しい情報に寄って行くことも大事な姿勢なのだけれども、それによって自分の意志に反する行動をとらなくてはならないとなったら、それは自分にとっては正しくない言動になりかねない。自分の気持ちにも意識的にならないと、ついつい何かに振り回されてしまう世の中に生きているのだと、改めて感じさせられた。

 スターバックスは、世界的な大企業。ただ、それだけの理由で利用を控えていた時期があったのだが、最近は自宅近所に店舗があることも手伝って、割と抵抗なく利用している。自分もアップデートしないといけない。生活者の視点からは見えない、同社の資本がやっていることはとりあえずさておき(というか、判断材料がないので判断保留とする)、見えるところでの商品の品質や、接客のなんというか感情的にプラスになるようなやりとりは、世界を平和にするための基礎の基礎ともいえる、人間関係の円滑さと気持ちよさを作り出しているように感じる。「どうぞ、お楽しもください!」と声をかけられたことに、新鮮さだけでなく、気持ちが伝わってくる感じがして、とてもいい気分で休憩時間を過ごすことができた。

 というように、世の中、ロジックで見えることもたくさんあるのだけれども、感情的なものや見えない力みたいなものを意識にのぼらせることが、自分にとって大事なことなのではないかとの仮説に行き着く。自分のことは自分が一番よく知っている、それは真であり偽でもある。わかっていることだけでなくて、例えば自分に触れているところから、どんな力が自分に伝わっているのか、ということを説明できる人がどのくらいいるか、というとどうだろう。少なくとも、自分は合気道をやっていても、どこに力が入りすぎているのかしょっちゅう忘れてしまう。でも自分の状態を詳細に知っていくことが、自分をコントロールすることになり、自分の感情がある程度コントロールできると、言動レベルでいい発信ができるようになり、人々のいい発信が、いい場を作り、いい場がいい地域を、いい地域がいい社会を…と広がっていくようなイメージが、なんだかここ数日で意識にのぼってきた。たぶん、これは、いい感情だと思うので、言葉の限界まで書き残しておくことにする。

渡部陽一『晴れ、そしてミサイル』ディスカヴァー21、2023年、Kindle版。

  渡部氏が最も「柔軟」だと気づかされる。戦争の中に日常があることを語る。人を理解することが、相互理解の土台となり、真の意味での国際理解、平和への一歩だとする。さらに、ジャーナリストとしての情報の読み解き方についても言及がある。「戦場カメラマンの~」という独特な口調が印象的な渡部氏だが、本当にすごい人なのだと再認識させられた。Voicyもやってますよ。

https://voicy.jp/channel/2673

塩田武士『罪の声』講談社、Audiobook版。

  人物描写がすごい、と感じる。何がすごいのか、うまく説明できないのだけれども、これだけの登場人物をきちんと書き分けている。それも、人物の説明書きではなく、見た目の描写、語り、それらから見える経験の描写などが、ほかの小説と比べて圧倒的だったから、そう感じたのかな。

 いわゆる悪人、事件を起こした当事者にも、家族があって生き様がある。アウトローの生き様とその苦悩を描いている点で、印象的な一冊でした。

山口周『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティーを取り戻す』プレジデント社、Audiobook版。

  (Audiobook.jpのサマリーより)筆者は、以下4点を掲げている。これはよかった。書籍で確認しよう。

1.私たちの社会は、明るく開けた「高原社会」へと軟着陸しつつある

2.高原社会での課題は「エコノミーにヒューマニティを回復させる」こと

3.実現のカギとなるのが「人間性に根ざした衝動」に基づいた労働と消費

4.実現のためには教育・福祉・税制等の社会基盤のアップデートが求められる


アレックス・シアラー著、金原瑞人訳『世界でたったひとりの子』竹書房、2005年。

  子どもが生まれること、それ自体が大変希少な出来事となった世界二生きる子どもタリンの視点で描かれる物語。PP(永遠の子ども)手術が一般化しており、老化を止めることができる世界では、「子ども」が大変重宝がられている。

 「僕は大人になりたいんだ!」と守られた環境から抜け出て、希少であることを捨てて、自分を生ききる選択をするタリンの物語。

ハンス・ロスリング『FACTFULNESS -10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』日経BP、Audiobook版。

 希望の書。世界が「いい」方向に向かっていることを、数々の数的データから導きだしながら、偏った解釈から脱して、広い視野で物事を観ることの重要性を説く。いい内容でした。これは書籍版もきちんと読んでおきたい。

 感情的な主張ではなく、データを通じて自分の「偏り」に気づくことこそが、データの扱い方の本質であるとのパラダイム転換を促す。そう言われてみれば当たり前なのだが、ついつい相手の主張に巻き込まれて、冷静に物事を観て判断することを忘れてしまう。そういう人の癖、みたいなことも含めて、調査データや研究成果を結びつけ、世界の希望を語る。

宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』新潮社、Audiobook版。

 本屋大賞受賞作品。ちょっと前からメディアでも取り上げられていたのかな。私は本屋さん店頭と、新聞で知りましたが。

 主人公成瀬とその友達島崎の二人の関わりを中心に展開される短編集のような構成だけれども、どの物語も他の物語と少しずつ関わり、読了すると成瀬の性格が浮き彫りになるような読み物でした。大変面白い。

 実際にいたら、少し関わりにくい成瀬だけれども、「私は200歳まで生きたいと思っている」とか「希望がたくさんあれば一つはかなうかもしれない」みたいな、見方によっては人生訓か?とも思えるような発言が随所に見られ、それでいて軽く面白い読み物としても充分楽しめる作品です。日常(より少しぶっとんでるけど)を描いた物語なので、さらに続編を期待してしまう。きっとドラマ化されるんだろうな。そういう展開もまた楽しみになる小説です。

三度小江戸 240527

 お忍び小江戸旅行3回目。週末も思わぬ一人時間があって、一人温泉なんかを楽しんでしまったので、ちょっと緩みっぱなしだけれども、この緩み方って悪い感じはしない。

 どハマりした食事処が不定休のようなので、改めて駅前で手に取ったパンフレットで昼食へ。評判通りのおすすめに舌鼓を打ち、デザートもたいらげる。大変満足したのだけれども、4回目で選択に迷うかなと考えると、そうでもないことに気づく。不思議なものだ。マイナスポイントは一つも無いのに。いつか、何かの折に選択することはあるかもしれないけれども、両者開店なら前者を選んでしまうのだろうと考える自分がいる。満足感とリピートのニーズって、少し違うのだなと気づく。

 サービス業は月曜定休が多いので、自然と選択肢も絞られてしまう。これまでの散策とは異なる地域へ、特に予定もなく歩き回ってみたが、新しいところには刺激がある。ちょっとした街並み、入らなくても「おやっ」と思わせるお店を見つけたりすると、身体はちょっと疲れていても、頭はクリアになっていく。それでも数時間そういう刺激を浴び続けたら、テンションは上がりつつも心身ともに疲れているから注意。最近は、自分の疲れに敏感だから、特にそう思う。今日は相当疲れている。

 少し意識して、歩く速さを緩めてみる。いろんな音や視覚情報を浴びることに気づくのだけれども、気分がいいと、何事にも余裕をもった上で、楽しいをプラスして、捉えることができる。身体に疲労感はあったとしても、この状態ってとっても健康的だよな、と思う。それと同時に、この速さで本屋さんを歩くと、いろんな本に呼ばれる感覚がある。この感覚って、学生の頃とか、岡山の本屋さん(名前忘れた)にあった感覚で、久々にこの感覚が意識できて、心に栄養が入り込んできた気がする。

 勝手に、お忍びなので、ひょっとかしたらいろんな人に迷惑をかけているのかもしれないけれども、自分の感覚・自分のペースを確認するために、こういう時間って大事なんだと思う。

悪しき心が痛い 240523

 目の前にはっきりと「6月」と書かれている書面があるのに、「そんなことは知らない」「書いた覚えがない」「分からない」とわめき立て、4月から適用させろと一歩も引かない人。アベノマスクの時にも感じたけれども、定額減税の給与明細記載について、Web上で罵詈雑言を並べたてて騒ぐ人とか。望む結果を出すために手段を選ばず、多分不正行為だろうことをしてまで申請をする人。

 個人的には全く認められない。むしろ、公平性の原則を破る行為であるから、発覚した時点でお引き取りねがうものが、ここのところ立て続けに起こっており、正直なところ「気持ちが悪い」。

 バレなきゃいい、ワンチャン言ってみよう、うやむやにして大声を出してみよう、そもそも私のせいじゃない、しくみや制度のせい、自分と自分の身内が「当たる」なら他はどうでもいい、というか他人は気にしない。こういうことを考えているかどうか別として(なーんにも考えていない、という可能性が否定できない)、自分さえ良ければいい、が全面に出てくる事案が、ぼちぼち出てくることに「気持ちが悪い」。

 古き良き日本、というつもりはない。他者を気にする日本人、の文脈も持ち出さない。私が気になるのは「公平性を求めながら、どこまでも私利私欲に忠実で、望む結果のためなら人が犠牲になっていても気にならない」という矛盾に満ち満ちた行動を、「自分が正しい」としてとりつづける人が、どうにも理解できないだけである。

 今のところ「土俵が違う人(=拠り所となる思考が全く異なる人≒異文化に属する人)」として一線引いた対応をしてしまうのだが(←そうしないと、自分がしんどい)、自分と似たような生活をしているだろう人が、そうした行動をとって、その矛先がこちらに向く、という事案がある。私が「土俵が違う」という場合は、ほとんどの場合、ソーシャルランクや属性、人種、文化などが「異なる」人と冷静に接するために一旦カテゴライズしていたのだけれども、そういう「異なる」には至らない人が「気持ち悪い」言動をとる場面に直面すると、心が痛んでくる。

 いろいろ思うところはあるけれども、ここのところの世の中には、他人を揶揄する、人の言動を見下す、マウントをとって他人を見下す、どうでもいいことを世に発信する、自分中心に何かになりたいことを公言する、ことを是とするような雰囲気・グルーブみたいなやつが周囲にグルグルと渦巻いているように思う。その中で取り残されているからこそ、そういう言動に心を痛めてしまうのかもしれない。でも、こういうことを気にする感覚が麻痺してしまったら、世の中の期待通りに私もなぁなぁに、下品にゲラゲラ笑って、知らず知らずのうちにとりあえず心地のいい「気持ち悪い」になっていくのだろうな。

要らんことばっかり 240422

 新聞を読むのは日課になりつつあるけれども、夜読むことが多いので、その日の疲れ具合でどれくらい読み解けているか、ということにはムラがある。そういう前提があっても感じることは、記事の中には要るものと要らないものとが混在するなぁ、ということ。それを読み解けないと、それこそ時間の無駄になりかねない。

 だいたい、某国の元大統領が、女性問題で裁判沙汰になっている、なんてのは必要な情報なのか、という話です。先日、息子が「Tって260億も訴えられているんだって」と言ってくる。単位もめちゃくちゃで、意味しか通じない発言なのだけれども、中学生が見聞きするような情報に、こういうものが混ざっている。いや、関係者に言わせれば「某国大統領選挙の結果は、回り回って自分たちの生活にも関わりかねないから」とでも言われるのだろうけれども、それならそう書けばいい。その人の発言が、世界経済に影響するのかもしれないけど、まぁ、ほとんど関係ないだろう。

 それよりももっと知っておいた方がいいことはたくさんあるだろう。見る人読む人はぐっと減ってしまうけれども、国会で審議中の法案一覧を出してもらった方がよっぽど生活に影響があるよな、と思ってしまう。

2024年6月22日土曜日

せめて自分からはいい発信をしよう

 都知事選でもすったもんだ、「これが面白い」と言われて見せられた動画もなんかピンとこない。人の言動をけなすこと、人をいじって笑うこと、感情的になった人を見ておもしろがること、「知らなかった」とルールを破ること、おそらくわざとルール違反をして注目を浴びること自体に何か価値を見出している人、見つからなければいいと趣旨を無視して個人的な利益を得ること、ほかにもいろいろあるけれど、理由がわかりそうでいて、たぶんそれとは違うことを求めていたり面白がっていたりする言動を見ていると、何か気持ち悪い。自分に関わることが少しでもあれば、避ける行動の一手である。

 ということで、それに気づいた今日からは、せめて自分からWebへの投稿は、中立~いいことに限定しようと思う。Webというのは(いいことも、わるいことも)増幅する装置なので、せめて0(ゼロ)、1でもプラスのことを自分からは発信しようと、ここで宣言しておくことにする。

 もう一回だけ、数か月書き溜めているものをアップしたときに、一部マイナス感情のものが入っているかもしれませんが、それはご了承いただくとして、今日以降、自分が書くことはいいことを書いていこうと思う。という宣言でした。世の中、よくなれ。悪い感情が一人歩きする空間はできるだけないほうがいい。

2024年6月1日土曜日

食事中の作法

 気になっていること、そして今のところ気に食わないことの一つに、「人が作ったものを食べる時に、スマホをいじるな」ということがある。暫定的ではあるが。

 個人的な経験から、食べながらスマホで何かやったり、本を読んだりすると、食事の味がしなくなる、というか味が気にならなくなってくる。食べることに集中できない、ということだ。これは、気づいたからわかることなのか、個人的なことなのか、厳密にはわからないのだが、少なくとも自分の経験では、何かをしながら食べるものは、その味に意識が向かない。感動もなければ、違和感も減じられる。要は感情が平坦になって、外界から口を経て食道へと流し込む行為になってしまう。それは機能的には必要を満たしているけれども、「食事」という視点に立ったならば、それが必要を満たしているか判断しかねることになる。

 だから、外食を含んで、人が作ったものを食べる時には、Iyokiyehaさんはスマホ禁止を自分に課している。ポイ活の動画再生はボタンを押すだけ(で観ていない)なので許容にしているが、家族で食卓を囲む時にはスマホを持たないことにしている。

 が、周囲を見回すと、家族を含め、そうでもないらしい。外食に出た時にも、多くの人がスマホとにらめっこ、が多い。だいじょぶなのかなぁ、と思ってしまう。基本的なことがないがしろにされてしまっているようにも思えてしまってならない。

2024年5月22日水曜日

根っこの疲労感

年明けから年度末までやってきて、ようやくひと段落ついてきた感がある。いや、正直には暇な持ち場じゃないので、いろいろと追われてはいるのだけれども、とはいえ、少し身体は楽になってきた。本も少し読めるし、夜も少しだけ早く寝られるようになった。

不思議なもので、そうやって少し気が抜けると、身体の疲れがどっと出てくる感じがある。今まで通りにやっているはずなのに、なぜか眠い。眠いのも、顔を洗ってスッキリするような一時的なものかといえば、そうでもない。何をしても頭の中に霧がかかったような、身体の動きも鈍くなってくる。何を読んでも頭に入ってこなかったり、報告を受けていても、言葉だけが上滑りしたり、悪い時には聞いていることに思考がついていかないことを実感できることもある。ひと昔前のテレビで「海外とつないでいます~」の後のタイムラグみたいな感じ。遅れっぱなしだから、焦っているとパニックなんだけど、初めてじゃないので「あぁ、疲れているなぁ」と思うにとどまっている。

困ったものだから、休みをとって、カミさんとランチした後は、一人で買い物にでて、そのあと存分に昼寝をしてみた。少しだけ身体の詰まりが軽くなった気がする。時々、何も考えずに身体を休める時間をとろう。

2024年5月19日日曜日

結局広告かよ

 数年前から感じていたことで、多くの人が感じていることなのだろうけれども、SNSの時代だって結局広告なんだ、結局スパムなんだ、結局ウイルスとか乗っ取りなんだと。

 SNSって、匿名性の低いやりとりを促進するために、同じプログラム内にログインしてアカウントを持っている人がWeb上であっても直接に近いやりとりを可能とするしくみとして開始されたサービスだったと記憶しているのだけれども、最近のそれらに広告を見ないことはなく、ひどいものになると必要な画面遷移の時に、短い?広告が挟まれる。これならSNSじゃなくてもいいじゃん。

 確かに、数年会っていなかった知り合いとコンタクトをとる機会ができる、といったメリットはある。ただ、それ以外に今までのしくみと何が違うのか?と考えると、シンプルに疑問が残る。WebとEメールの頃と何が違うのか。世界を取り巻く便利なプラットフォームとそれを行きかうEメール。今ではEメールの9割5分がスパムメールだというからデッドメディアだという意見もあるけれど、何かアクションすると広告が出てくるSNSと、何が違うのかというと、そんなに違いはないんじゃないの?当初出てきたころのわくわく感がすっかりなくなってしまい、インフラと化しつつあるけれども、それに伴い何やら要らない気遣いと、不要な(スパム)データが横行するプラットフォームが点々と立ち上がってきた、というのが今のイメージである。

 そもそも、広告モデルから脱却する可能性が指摘されていたにも関わらず、結局は広告モデルがマネタイズされている。品のない広告を目にすると、わくわくどころか無駄な時間にうんざりする。こともあろうに、Webで検索かけたらSNS内のデータがヒットするようになってしまった今、SNSという言葉そのものが死語と化す可能性すら見えてきた。

 いろいろ使ってみて思ったことだけれども、過剰な期待は禁物だと思う。若者にはSNSみたいな押しつけは、Webの本質も、世代間の本質も見逃しかねない雑な認識だと思う。とはいえ、そういう認識が世の中に浸透しているのも事実だけれども。そして、こんなことを考えている自分が、すでにオジサン化している自覚はあるのだけれども、とはいえ、事の本質がここにないことは認識しておきたい。

2024年5月11日土曜日

意外にも原点回帰

 自分にとって得になること。例えば、楽しいと思えること、儲かること、いい思いができること。いろいろあるけれども、世の中にあふれる情報を目にするにあたり、何か違和感があるものと、そうでないものとがある。素直に受け入れられるか、そうでないか、とも言い換えられるだろうか。

 例えば、自分にとって有用と思える「歩くとポイントがたまるよ」というものでも、ちょっと試してみるか、となるものとそうでないものとがある。使ってみてどうか、というのは次のポイントで、要は自分が動くか動かないか、という点である。そこに何があるのかなと思いながら、いろいろやってみたり、いろんな情報に触れたりと、生活を続けてきた。

 仕事の内容が変わって、経験することや考えることなんかもきっと影響しているのだろうけれども、自分にとって、何か情報に触れてみて、自分が興味を持って動けるかどうかを分かつのは、そこに「納得感」と「わくわく感」があるかどうか、ということなのだろうと、おぼろげに見えてきた。「納得感」はわかりやすいもので、どうして自分にとって得なのか、ということが分かりやすく理解できる内容であることだ。長短は関係なくて、ある程度論理的であって、自分の気持ちに触れるものであること、が大事な点だ。

 で、もう一つの「わくわく感」が大事。要は、自分にとって快刺激であるとともに「やってみたい」と思えるものであることはとても大事といえる。何か、自分にとって都合の悪いことが見え隠れするとか、自分のお得感の裏側に誰かの迷惑になることとか、自分にとってやってみようと思えるよりも面倒だったり、思った以上に時間がとられるとか、そういうことがあると「わくわく感」は減じられていく。この減少が「やってみたい」を下回ると動かない。「わくわく感」がない、ということだ。

 案外、プライベートだけじゃなくて、仕事においても生活においても、この「わくわく感」みたいなものって大事なんじゃなかなと思えることが、いくつか重なっており、最近は「わくわくするなぁ」という言葉を使ってみていろいろ試している。本当の意味で、自分にしっくりくる「わくわく感」に気づけたら、選択の精度もあがると思う。いろいろ試してみようっと。

2024年4月29日月曜日

ゴールデンウィークにふと思う

 世間では大型連休が始まったと報じられる。我が家にとっては、今のところただの3連休。私の仕事はカレンダー通りなので、なか3日に年休をとることもなく、長女が土曜日通学なので、なんとなくのんびりの休日を過ごしている。合気道も今週は土曜日だったので、日曜、本日と、家事→買い物→庭掃除、で過ごす。

 お隣さんが引っ越してきて大体1年。3人きょうだいの一番下の子は、はじめ抱っこされていた(まだ、生まれたばかり)のに、もう歩いていて、先日4人目が生まれたとのこと。子ども、特に他人の子の成長というのは、ことのほか早く感じられるもので、一番上の行動に、二番目がイヤイヤを発し、三番目がマイペースに遊んでいる、という様子を庭同士で眺めている。ご近所付き合いってこれくらいの距離でいいな、と思う。

 先週、先々週は洗車していたのだけれども、今週は完全に草むしり。芝が伸びてきた時に、すっきり芝刈り機をかけたいので、芝以外の草(=雑草)をむしりまくり。いろいろ試してみたのだけれども、やっぱり手がぬいていくのが、終わった後すっきりする。去年くらいから、「ある日」に一日かけてやるんじゃなくて、一日数時間でも何回かに分けてやる方法をとっている。春から夏の、暑さ順応を兼ねた儀式みたいなものになっている。真夏になると、とてもできたものではない。

 そういや、急に暑くなってきたから、エアコンも掃除してやらんといかんな。なんだかんだで週末に家のことをやっていると、いろんなことは考えるけれども、ほとんどのことが「どうでもよく」なってくる。とりあえず明日はやってくる。ラジオ聞きながら、日常に目を向けるのも、自分の精神衛生上はいい効果があるんだろうな。休日なんか、基本、これでいい。

中澤朋子『不倫女子のHappy Holidays!』Audiobook.jp。

  感想は、最後の段落部分のみ。それまでは、本書を読んで浮かんできたことをメモ

 「不倫」という言葉は、社会的な背景があって生まれた言葉といえる。自分にやましいことがないから言えることだけど、他人と他人が好き合っているという関係が起点となって、そのお互いの置かれた状況によって、それが不倫であるかどうかが決まる。よって、率直には自分には関係のないこと。もう一歩踏み込むならば、それは当事者同士の関係であって、それ以外の人には、原則関係のないことといえる。

 だから、それが(なぜか)自分の身に降りかかる時というのは、何かが私の境界を突き破って入り込んでくることに他ならない。このことですら「他人に迷惑をかけないようにしてからきてね」になってしまう。そんな状況に置かれた人が、休日をどう過ごすかということについても「そんなの、自分で考えなさいよ、大人なんだから」。一人になって何かを思い出して苦しんだり、いわゆるイベントに孤独を感じて苦しむ、なんてのは仕方のないことだけれども、それは当事者同士で作ってしまっている感情なのだから、そこまででしょう。

 じゃあ、こういうことが当事者間の人間関係と、社会的に作り上げられている常識みたいなもののギャップによって作られているから、「社会が変わるといいよね」という論調はやっぱりちょっと違和感があるわけで(本書はそこまで言っていない)。社会に求められているのは変化ではなく寛容。余計なことを言わない、感じさせない態度が、成熟した社会といえるのだと思う。人のあらさがしをして、ネットで曝して笑いものにする、というのは寛容さの微塵もない自分本位の、自分が一番大事な人達の行動だから、そういうものは、少なくとも自分の中から排除した方がいい。

 そもそも「不倫」なんて言葉を使うから、自分の本心と社会的な後ろめたさとの間で悩み苦しむ人々が絶えないわけで。冒頭にもドライに表現したけれども、本質は、人を好きになる気持ちであり、それ以上でも以下でもない。私の周りには、いわゆるこういう関係を経て幸せをつかんでいる(ように見える)人がいる。相談を受けた数人には「全力で奪い取るのがマナーなんじゃないの」と言った覚えはあるが、これも「奪う」なんて言葉を使うからとがって見えるのであって、要は「一番好き合ったところで覚悟をきめた方がいいんじゃね」って言っているだけで。当事者それぞれの感情を考えたら、どこかに被害者は出るけれども、この態度を決めきった人達が、人間関係を次のステージに進めることができるのだと思う。

 さらりと聴いた本だけど、いわゆる「不倫」(←この言葉は好きじゃない。人間関係の本質を突いていない)も、人間関係の一形態として考えると、いろいろ思うところはあるな。この本の記述から学んだ一番大きなことは、笑いのツボは千差万別ということ。重なることは滅多になく、場合によっては人を不快にさせることがある、というくだり。著者は多分その人との相性、みたいな文脈でこの表現をしているのだが、これは本質を突いている事実のように思える。

寺地はるな『ガラスの海を渡る舟』PHP研究所、Audiobook版。

  発達障害の疑いのある道と認められたい羽衣子。凸凹きょうだいの二人が、祖父の死を受けてガラス工房を始めるお話。モチーフに東日本大震災や、コロナ禍が語られる。

 ガラス工房で「骨壺」を中心に、ありとあらゆることで衝突する二人と、それがいくつかのエピソードを経て氷解していく。少なからず人間関係が変化していく、その感情の動きを静かに、しかし確かな変化を伴い表現される。それぞれの時期に、それぞれの立場・見え方から語られる物語は、頭の中にすっと入り込む描写とはいえ、じわじわと深いところまで入り込んでいく。終章まで進めると、きっと気持ちが軽くなる内容です。

 表現で印象に残っているのは、

・新しいことは、いつも静かに始まる。イベントのように用意されたものではない。

・解決しないことは、対処すればいい。

木宮粂太郎『水族館ガール』実業之日本社、Audiobook版。

  正直なところ、中学生向けのティーンズ小説かライトノベル的な読み物かと思っていたし、そんな軽い読み物を欲していた時期の聴き放題コンテンツだったので、軽い気持ちで聴き始めたが、これがなかなか読ませる内容でした。

 内容については解説に詳しい記述がありましたが、いわゆる「職場」小説から、「専門職」小説へ、そこに個性的な人間関係が加わって、軽い語り口でありながら、水族館職員のマニアックなやりとりから、イルカの生態まで、いろんな角度から「水族館で働くこと」が浮き彫りになるような内容となっている。水生動物を扱う博物館としての位置づけもきちんと据えられており、「水族館とは何なのか」「その役割の変遷から不変の価値」「わかりやすさ、を考える」など、専門職が抱く矛盾とそれに向き合う若い出向自治体職員の奮闘が、エンタメとしても読ませる内容で描かれている。

 軽い気持ちで手を出した本ですが、なんともなんとも、自分の興味関心をバシバシと突いてくる内容でした。面白い読み物です。

瀧本哲史『武器としての交渉思考』星海社、Audiobook版。

  交渉はゲームでも、勝負でもなく、コミュニケーションである。そして交渉のゴールは、自分も相手も合意できること。そのためには、相手の立場を理解する、自分が話すよりも相手の言い分を聞く。

 交渉とはお互いの意向に重なりがある場合にのみ成立する。

BATINA(複数の選択肢)をもつ、ZOPA(合意できる範囲)を把握する。

雨穴『変な家』飛鳥新社、Audiobook版。

  これは、怖かった。文句なしに怖い。『ちょんまげぷりん』にほっこりした次に聴いたので、余計に落差があったかもしれない。

 書店で平積みになっていた頃に、パラパラと立ち読みして、次に進まなかった本でした。だって、図面を観て何か突っ込むかのような印象を受けてしまったので。聴き始めてびっくり。ちょっとした間取りの違和感から展開する壮大なミステリー。いい意味で期待を裏切りながら、ついていけるかどうかのギリギリの展開で、次が気になってしまう物語です。なんか、人間の内面や闇、脆さ、そして狂気、さらに良心、さまざまな感情に触れていく内容なので、聴き入ってしまいながらも、少ししんどい。要は、ミステリとして良作だったことです。

 いやぁ、小説にはこういう突き抜け方をするものがあるのでやめられない。

荒木源『ちょんまげぷりん2』小学館、Audiobook版。

  前作『ちょんまげぷりん』の続編。聴かせる。

 前作から数年後、青年となったユウヤが今度は江戸時代にタイムスリップする。突飛なストーリーでありながらも、ちょっと想像力を膨らませると、現代人を江戸時代の人がみたら、見た目からやっぱり「変な人」なのだろう。石を投げるのだろう、逮捕(お縄)するのだろう。そこで出会う木島安兵衛がお許しを得るための「プリン」開発劇。その中で成長するユウヤとタイムスリップの謎。めまぐるしく展開する物語に、ほっこりしながらも、ついつい引き込まれてしまう魅力がありました。知略謀略や陰謀などは物語のスパイスになっていながらも、その辺はさらっと流して、ほっこりできるいい小説です。読了感がいい良作でした

北村薫『空飛ぶ馬』東京創元社、Audiobook版。

  そうか、推理小説だと思って聴いたら、少し聴き方が変わったかも知れない。謎が深まっていく様子が、らせんを描いて何かに向かっている感じは受けたのだけれども、歩きながら全体の筋を理解するには、夜な夜なぶったるんだ頭には、ちょっと負荷が大きかったようです。評価は高い読み物なので、もう少し余裕があるときに、もう一度聴いてみよう。

荒木源『ちょんまげぷりん』小学館、Audiobook版。

  江戸時代から現代にタイムスリップしてきた侍が、シンブルマザー家庭で暮らしを共にする様子を描いた軽い小説。ありえない描写が、なかなか読ませる内容で、江戸時代の人々の暮らしと、現代の人々の暮らしを比べる観点が、とても面白い。

 外出を控えて家事をしていた木島安兵衛が、その料理の腕を買われてコンテストに参加し・・・というあらすじなのだけれども、ひょんなことから、江戸時代と現代との接点が見いだされ、というたいへんほっこりする小説でした。最後まで聴いたら、題名の意味するところがわかりました。

チェット・リチャーズ著、原田勉訳『OODA LOOP』東洋経済新報社、Audiobook版。

  OODAループとは、

 Observe 観察

 Orient 状況判断、方向付け

 Decide 意志決定

 Act 実行

 のサイクルを指す。元々軍隊の戦術レベルでの意志決定プロセスを分析して抽出したフレームワークのようだ。

デヴィッド・グレーバー著、酒井隆史、芳賀達彦、森田和樹訳『ブルシット・ジョブ -クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店、Audiobook版。

  どうでもいい仕事、やらなくてもいい仕事というものがあるのは、私も感じていることであるし、組織的な営みとしては「やむを得ない」ものであるとも思うところがある。では、それを完全に切り捨ててしまうと、、これが意外と困らないものが多い。そういった仕事を表現し、対策を論じている書籍だと思っていた。

 ビジネス書の注目書籍の中で、注目されていた時期もあり、気にはなっていた。ただ、聴いてみると、どうにもしっくりこない論考でもあった。なぜか。本書の論考は、文化人類学者が「よくある要らん仕事の本質を言語化する」のが本著のねらいであった。このことに気づくと、確かに本著は事例が抱負で、Bullshit Jobが浮き彫りになっている。

 誰でも知っているが、誰にも言われていないが故に、誰も言わない、ことを明晰に表現するのは困難だが、これを表現することに関する意味。Bullshit Job。bull-shitとは、下品な言葉だが、くだけた親しみ・率直さを表す。BSと略す。いやなもの、不必要なもの、嘘、ホラ、でたらめ、嘘つき、嘘をつくのが上手い人、でたらめな、ばかばかしい、怒った、酔っ払った、だます、嘘をつく、でたらめを言う、いい加減なことを言う、など。嘘、だけでなく欺瞞のニュアンスがある。「クソどうでもいい」も限定的。無意味、とりつくろいと見せかけがある。「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で不必要で有害でもある雇用の形態」「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で不必要で有害でもある雇用の形態であるが、本人がそうではないと取り繕わないといけないと感じている」。

 実用的な暫定的な定義は「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で不必要で有害でもある有償な雇用の形態である。とはいえその雇用条件の一貫として本人がそうではないと取り繕わないといけないと感じている」仕事。取り繕う=pretendがポイント。空気でもって言わないことになっている、とする世界のこと。

 Shit Jobとは異なる。shitは、劣悪な労働条件で、実入りの少ない、さげすまれる仕事を強調する。この仕事は、「キツい仕事」くらいと訳され、役に立つ仕事である可能性が高い。例えば、トイレ清掃など。本来は他者からもっと評価されるべき仕事だが、そうなっていない。その仕事に就いている人も、そういうことに気づくことができて、取り繕う必要は無い。Bullshitとの違いは、pretendのくだりで、取り繕う必要とその空気感の有無が大きな違いになる。

 こういう概念構築の仕事って、有益でない言葉遊びのように語られがちだけど、実際には世界の一隅をきちんと照らして、その価値を浮き彫りにする仕事として、本当に有益なのだと思う。哲学とか社会学の成果っていうのは、こういうところにあるのだろう。そういった価値に気づいて、自分なりに言葉にできたということが、この書籍から学んだことだったりする。

深井龍之介『歴史思考』ダイヤモンド社、Audiobook版。

  コテンラジオでおなじみ、深井龍之介氏による著書。世界に名だたる著名人のライフストーリーを追いながら「歴史思考」を提唱する。成功や失敗は、若いときの出来事だけではない。人生100年時代に30歳までで成功を測るのは早すぎる。現代とは異なる常識・背景を知るための思考の柔軟性、物事をそのまま受け止めるためのメタ思考。歴史を学ぶことの意味に、知識・教養だけでなく、具体的な事象に対して思考を広げ・深めるための土台を養うことを加え、よりよく生きるための学びという視点を与えている。学生時代に、こういう番組・先生に教わることができたら、と思ったこともあったが、今出会えたこともきっと意味があることだろう。

凪良ゆう『流浪の月』東京創元社、Audiobook版。

  身体も心も居場所のないサラサ。小学生の時に、両親と暮らせなくなり、引き取られた親類の家にも居場所はなく、ようやく見つけたフミとの生活も「誘拐事件」として扱われ、自分の思いとは裏腹に、社会的にもねじ曲げられ記録される。

 自分の思いと、周囲の認識がずれることは珍しくない。ただ、本作では周囲の認識が自分の虚構を真として作り上げてしまう社会を、前面に押し出して表現する。「事実と真実の間には隔たりがある」という表現がじわじわと自分に浸透してくるような物語である。

 実際にこんなことあったら嫌だな、と思ってしまうような内容も、結局人間というのは理屈に合わない行動や感情の揺らぎの中で、似たような言動をとっているのかもしれないし、観察できる他者の言動も、結局理屈には合わないことなのかもしれない、いや、多分そういうことが占める割合って、自分が思っているのよりも大きいのだろう。となれば、人にとやかく言うのではなく、自分がどうあるべきか考えて一つでも行動に移す方が、自分にとっては有益だろうと思う。そうできないことがあっても、それも自分だと認めることができれば、自分ではない他者のそれも寛容さで受け容れられるかもしれないし、受け容れられないにしても、自分に負の影響がないように制御できるようになるだろう。

 案外、強い人、というのは、凝り固まった鉄壁の論理を身につけている人ではなくて、状況に応じて自分を変えることで、自分の強いところで常に対峙し続けられる人のことなのだろうと思うに至る。

荻野弘之、かおり&ゆかり『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 -この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』ダイヤモンド社、2019年。

  自分ができることと、できないことを区別する。事実と評価は異なる、事実に善悪はない。どんなことであっても「善用」はできる。「自由に至る唯一の道は『我々次第でないもの』を軽く見ることである」欲望、判断、忌避、意欲は自らの欲望としてもいい(我々次第のもの)が、例えば、評判、身体、地位、財産などは、我々次第でないもの(裁量の外にある)であるから、として、軽視する。これを「禁欲」と呼ぶのが古代ストア派の考え方として紹介されている。この根本的な思考から、個別具体的な考え方が論じられる。

■以下、項目引用

84 人々を不安にするものは、事柄それ自体ではなく、その事柄に関する考え方である

132 「傷つけられた」と君が考える時、まさにその時点で、君は実際に傷つけられたことになるのだ

152 他人と同じことをしないでいながら、同じものを要求することはできない

164 他人をも自分をも避難しないのが、教養のできた者のすることである

アラン・W・エッカート『大草原の奇跡』めるくまーる、2000年。

  大学生も後半に差し掛かった学部3年生の頃から、修士課程を修了する直前まで、とにかく本を読もう、とアルバイト代を原資に毎月10,000円分の図書券(当時)を金券ショップで買って、10,500円分の本を買うということをやっていました。おかげで、当時JR静岡駅、静岡鉄道センター付近の金券屋で顔を覚えられてしまう始末。

 この本は、そんな頃に静岡市の谷島屋さんで、多分平積みになっていたものにピンときて、小説枠で買ったものと、時期的に思われます。それから、浜松帰宅後の数回の書籍整理を生き残り、前回帰省時に所沢へ移送してきたもの。状態が良かったので、そのまま読み始め一気に読み切ってしまった。

 私が生まれる前に、オーストラリアで出版されたものが、世界十数カ国で翻訳されたロングセラーらしいです。著者のことも、この物語のことも知らなかったのだけれども、日本でも古くに出版されたものが絶版となって、2000年に再版されたようです。

 自閉症っぽい男の子が、草原で遭遇したアナグマと二ヶ月間生活を共にした物語。一言でまとめるとこうなるが、その出来事を通じて起こる成長・家族の変化が、胸を打ちます。特に引き込まれるポイントとしては、アナグマの行動と、主人公ベンとアナグマとの生活の描写が、活き活きと表現されていること。訳がいいのかもしれないが、原著はもっとすごいのかもしれない。おそらく両方が素晴らしいのだと思う。結末も、フェードアウトしていくようなイメージの物語で、私は好きです。思わず頬が緩む。

 現時点では絶版となっているらしいのですが、文庫化とかされているのかな?いずれにせよ、図書館になければ、入手は難しいと思いますので、興味のある方はお知らせください、お貸しします。

■引用

230 ねえ、ウイリアム、あの子とアナグマはなぜだか切っても切れない間柄なのよ。私たち、理解するよう努めなくちゃね。理解できないとしても、あの子を助けてやりましょう。

阿部のり子『今さら聞けない!自治体係長の法知識』学陽書房、2023年。

  現在係長級の自治体職員Iyokiyehaの、まさに今の課題にぴったりの一冊。法律初学者にもわかりやすい説明文と、業務上の具体的な法律適用に関しては、勉強会の対話形式で説明が進行する。大変わかりやすい。

 業務にあたり、決裁文章をチェックしたり、自分が矢面にたってクライアントと相対する時に、法制度の知識というのは、自分の言動を裏付けるものであるといえる。この知識の特徴は「知らなければ守れるものも守れなくなる」こと。知っていて、正しく使いこなすことができれば、いろんな人のいろんなことを守ることができるのにも関わらず、だ。

NHK青春アドベンチャー まとめ(6件)

●上田早夕里『火星ダーク・バラード』角川春樹事務所、2008年、NHK青春アドベンチャーより。

 Web時代になって、ラジオ(音声)ドラマっていろいろあるのだけれども、NHKの長年培ってきた歴史が安定感を感じさせる。この番組、らじるらじるを使うようになって、ようやく毎回聴くことができるようになったのだけれども、突飛な設定も、ラジオドラマならすんなり受け容れられるようなところがある。本作もそれに近い。

 人類が火星に移住して・・・と言った時点で、随分先のことだなぁ、なんか幻覚がでてきたなぁ、とミステリの要素に引き込まれていくのだが、小説だと「?」と読み返してしまうことも、音声というのはなんとなくイメージを作ってとにかく進んでいく。これは面白い。プログレッシブの特殊能力とか、SF要素もすんなり受け容れられる。受け容れると、作品の面白さがわかるということも珍しくない。


●シャミッソー原作、池内紀訳『影をなくした男』岩波書店、1985年、NHK青春アドベンチャーより。

 灰色の男から、無限の金袋を受け取る代わりに自分の影を差し出した男の話。影がないことで愛する人を失い、世界中を歩く旅にでる。友人に宛てた手紙の中で「人間社会において『影』を大切にすること」に言及する。この物語における「影」には、象徴的な意味があると思うのだが、それはおそらく、普段気にも留めないけれども、いつも自分の身近にあって、自分にとって価値を見いだせなくとも、今を生きる自分にとってあってあたりまえの存在、のようなものなのだろう。それを刹那的なものと引き換えた時に、身に起こる不全感、他者からの見られ方、失わなければその意味はわからない、というそういうものなのだろう。


●斉藤洋『白狐魔記 戦国の雲』偕成社、2006年、NHK青春アドベンチャーより。

 作者の斉藤洋といえば「ルドルフ」のシリーズで、児童文学作者だと思っていたが、こういう戦国ものも書くらしい。原作は長編(全6巻)でした。各巻の題名を見ると、時代を行き来したのかと思わせるが、青春アドベンチャーでは戦国時代の織田信長のエピソードがモチーフになっていた。歴史物といっても、人物描写が豊かで、信長の人間らしい側面が垣間見えるエピソードが特徴的。他の時代の、他の登場人物もそのように描かれているのだろう。面白い歴史物といえる。


●綾崎隼『死にたがりの君に贈る物語』ポプラ社、NHK青春アドベンチャーより。

 全10回シリーズ。ある人気小説を巡る、作家とファンの織りなす、自分を深掘りしていくドラマ。原作はライトノベルかティーンズくらいの読み物になるのだろうか。とはいえ、自分語り、親との関係に悩んだり、他の人から注目を集めることの表裏、話し手と受け手の認識の違いからくる人間関係のもつれ、そして心をすり減らすような言動。現代に生きる人の悩みの一辺をラジオドラマとして仕上げている。

 

●柴田よしき『小袖日記』文藝春秋、NHK青春アドベンチャーより。

 雷に打たれてタイムスリップし、平安時代、源氏物語の作者とされる香子の元で執筆を手伝う小袖となって、平安時代の人間模様を描く歴史フィクション。

 これは、軽く聴けて大変面白い作品。源氏物語を読んでいると、人間関係がもう少し背景を伴って分かるのかな、とも思いつつ、源氏物語を読んでいなくても充分楽しめる作品でした。


●フランシス・ハーディング著、児玉敦子訳『嘘の木』東京創元社、NHK青春アドベンチャーより。

 嘘を養分に育ち真実を見せる実をつける木と、ある研究者のねつ造にまつわる事件を追う、一人の少女の物語。児童文学として紹介されているが、本格的なミステリーかと思わされる。

 特にご縁があったわけではないが、NHKのラジオドラマ「青春アドベンチャー」の枠で放送されていたもの。ラジオドラマは脚色もあるが、ミステリーとしての物語の根幹は残し、音声で表現されている。大変聞き応えのある物語だった。嘘の木と父親の行為、それを巡る少女の成長、というか独り立ちしていく様が物語として語られる。


年度初めに思うこと 240407

  新しい年度になりました。職場はステイ、でもちょっと持ち場が変わって、昨年度係長級兼務で関わっていた兼務先に課内異動しています。地味だけど、仕事は全く違うので、またいろいろ覚えないといけない。私の立場からは「人間関係が面倒な職場」なので、ちょっと面倒。起こっている事案が、人間関係に留まっている件と、仕事に若干の影響がでている件。どちらも、仕事の本質ではないと思えるので、まぁ、距離を保って付き合うしかない。

 合気道は、ますます面白く、ますます充実している。連続技-基本技-基本動作のつながりが見えてきて、何を学んでも自分の知っている何かにつながってくる、という感覚。今まで詰め込んだお道具箱のふたが開いて、いろんなものが自分の理解の中に入ってくる感覚に近いのか、何をやっても面白い。受け身も一段上がったのか、下手くそであっても、痛い落ち方をしなくなったので、とりあえず受けられるという安心感も出てきた。

 身体は疲れる趣味の活動だけれども、少なくとも頭はすっきりするし、身体についても、回り回ってリフレッシュになっているように思う。貴重な時間だ。

 昨年度はちょうど今くらいに、問題勃発で、本業(兼務元)が年がら年中激務になってしまった頃だ。あれから1年、いろんなことが起こって、いろんなことを考えるわけだけど、まぁとりあえず全部経験だよってことで。ふんわり前向きにいきましょうか。

昇級審査 240324

  大人になってからテストを受ける機会というのは、めっきり減ったのだけれども、合気道を始めてから、定期的に審査がある。この緊張感はなかなか刺激的で、身体と頭がフル回転していることを感じられるいい時間である。若干空回り感もあるが。

 「それなりに」というのが総論。お稽古は積んでいるので、それなりに姿勢も技のキレもよくなっているようには思うが、ここで物足りなさが出てきているのも、おそらく昇級のあるあるなのだろう。もっとできるようになりたい、が強くなった。前向きな気持ちは出てきているのだけれども、一方で能力的な自分の傾向、みたいなものも見えてきた。やっぱり私は、即時対応は弱い。昔っからそうなんだけど、偏差値が高くない人の典型、みたいなところは合気道でもやっぱり表面化していて、技の名前をぱっと言われても、ぱっと動けないあたり、多分反応速度なのだろうな、と思う。自覚ができたから、そういう脳トレをしながら、やっぱり記憶に定着するようなお稽古をすべきなのだろうな。

 1級審査は「それなりに」じゃなくて、「やるだけやりました」と胸張って言えるようになっておきたいな、と思った。

入間市駅前散策 240320

  次女と映画にいったのは前述した通り。映画前後も面白かったので、ちょっと記録。

 興味深かったのは、この映画館が入っている商業施設とその周辺の街並みである。映画館が入っている建物と、その向かいにある商業施設は、いずれも最盛期を過ぎて下り坂局面のテナントビルのように、店舗が少なく、立ち入り禁止スペースが多いもの。広いからといって、テナントが全部が全部広いのはなく、空きテナントが多く、ちょっとさびしい。ユナイテッドシネマが上層階の2フロアを埋めていて、あとは1階にちらほら店舗が入っている。

 道向かいにもう一つ商業施設があって、少し離れて百貨店丸広がある。それらが2階のレベルで屋外通路がつながっており、その通路を使うことで、横断歩道などを利用せずに移動できる。とはいえ、休日でも快適なほど人通りが少ない。道向かいの商業施設の状況は映画館のビルと似たようなものではあるが、こちらは映画館ではなく、ボウリング場やサバイバルゲームフィールドなどが入っている。その意味では若干特徴はある。

 そして、百貨店丸広である。その雰囲気を、失礼を承知で一言で表すならば、さびれた百貨店、か。個人的にはこういう雰囲気は嫌いではないし、百貨店らしく何でもあるので、数時間歩くにはもってこいの規模だと思う。入り口に「6F レストラン街」と書いてある横に「6F 紀伊國屋書店」「6F 山野楽器」とあるので、??と思いながら6Fへ。飲食店は「ファミリーレストラン」という看板で、何でもある洋食屋さん風のお店。娘が選ばないかな~と思っていたら、娘がこの店をチョイス。建物が古いのでさびれた感じがあって、パーテーションもちょっと安っぽい感じはあるのだけれども、明るい店内で、落ち着いた接客、料理もきちんとおいしい、と、なかなか楽しい時間を過ごすことができました。さすがに6Fともなると、遠くまで展望できるので、期待していなかっただけに、いい昼食になりました。

 たぶん、家族みんなで来たなら、不発だったのだろうけど、次女と二人でのんびり過ごすにはいい場所でした。また行ってもいいかな、と思える街並みでした。今度はもう少しゆっくり歩きたいものです。

次女と映画を観に行く 240320

  年度末、後輩達が休日出勤しているような話は聞いたが、こちらはこちらで大事なこと。

 ここ数年恒例の「映画ドラえもん」を観に行く日でした。先日、新所沢パルコが閉店したため、今年は入間のユナイテッドシネマへ行ってみた。

 映画版のドラえもんは、毎回何らかのモチーフがあって、ほとんどメッセージはないながらも勧善懲悪っぽいエンターテイメントとして成立させているのが、なんとなく飽きさせない。親となって、この歳になっても楽しみと満足感が得られるものだと、個人的に思っている。昨年なんかは、次女と行って、後日(春休みに)次女のお友達を引率して再度観る(その間に妻と仲間の母親達がコーヒーブレイク、という催し)ことになったのだが、名作にありがちな「あぁ、こういう伏線だったのね」と思える箇所もあって、それなりに楽しんでしまった。

 で、今年のドラえもんも、音楽をモチーフに人間の営みとして、文化的な行動としての音楽の側面を取り上げて、人と人とがつながっていく模様を描いており、「あぁ、なるほどね」と思える内容だった。これはこれで満足。入間のユナイテッドは、映画館の規模そのものはそこそこで、地方都市の映画館としては規模、設備とも上級な方に入るように思えた。ポップコーンもなかなかうまいし、量が多い(ので、ひるんだ父娘はSサイズ)。カウンターの接遇も良く、大変心地よい時間を過ごすことができた。

テンション 240318

  自分で考えていることとは異なり、思考や身体というものは正直だ。次年度体制の発表を受けて、完全にテンションが下がっている自分がいる。不安というよりも、外圧が自分の動きを決めてしまっているかのような窮屈さの中で、何か面白くない、という感じである。全員残留というなかなかないことが発表された後、それならばという規定路線。大体、車の中で話をしたことと同じ。この配置は、私と同じようにテンションが下がる人が複数人いるのではないか?と思ってしまう。仕方がない、そういうことだ。

 とはいえ、問題の所在がどこにあるのかというと、ごく少数の個人の「わがまま」にあるわけで、大人になりきれない数名の人達のために、私のテンションが下がっていて、いわゆる「余計なことを考える」必要があって、「余計な時間を使う」のが、どうにもやる気になれない大きな理由と言えるだろう。

 こんなことに「戦略」とか「目的」を持ちたくないものだ。最近の学びでいえば、この剣はPDCAを高速で回すのではなくて、大きな方針だけ持った上で、OODAを高速回転させて対象となる人間関係において混沌を生み出していくのがおそらく有効だろう。まぁ。これも「余計なこと」だけれども、短時間でも丁寧に、淡々と。

盲 240316

  YouTuberで、元国会議員の方が有罪となったとのこと。やったことへの評価は各報道にしてもらうとして、私が新聞でこの記事を読んだ時に思ったこと。

 一体、何の仕事をしたの?この人は。

 過去に行ったことはどうあれ、国会議員に名乗りをあげて、有権者から得票し、国民の代表としての身分を与えられた。その後海外から何かちょろちょろと発言していたらしいけれども、結局国会には現れず、議員辞職となり、今日の報道である。何か政治的な理念や解決したい課題、国民の代表としての発言があったなら、何らかの形でやってほしかった、と思う。今でも何かあるならば、きちんとルールに従ってやってほしいと思う。今のところそういうものは表れてこないけど。

 某政党の公約がどうか、というのはあるし、国政の度に、個人的には「しょーもない」という公約を並べている人達がいる。その是非や好み、自分の信条との関連はどうあれ、その人達なりの主張があって、それを国の正式なルールの中で主張する。制度を敬って、理解して、その上で自分の信条を語ること、それ自体が悪いわけではない。では?ということだ。

 今、現時点では何も評価できない事案である。評価しないから、認める認めない、賛否含め、判断保留である。そんなことをした政治家というのは、一体何なのだろう?と考える。

 こんなこと言っていると「お人好しなんだから」と言われるが、この方も、日本という国に対して、まだ信条がある、あるいはできるのであれば、きちんと国会の場で述べて欲しい。「こんなやつ」と断罪してしまうのは、そんなに難しくないけれど、頭の労力を使うだけで、きっと何も生み出さない行動といえる。だから改めて「一体、何の仕事をしたの?」というわけである。

長女の卒業式に思う 240315

  長時間勤務が常態化しているこの時期に、終日お休みをいただき、長女の中学校卒業式に列席する。儀式というものは、そのものが好きなわけではないが、落ち着いた、荘厳な雰囲気の中、「卒業」ということを意識する時間になる。長女が誕生してから15年。中学校の入学式は、コロナ禍の人数制限の中、次女(小学校)の入学式と重なったことにより、ぼちぼち口をきかなくなった長女の方へ私が参加したのが、つい最近のように思えた。こういうのは何というのか?「ノスタルジー」という言葉は浮かんだが、ちょっとしっくりこない。「古いものを懐かしむ気持ち」はかすっているけど、ちょっと違う。でも、なんだか過去が急にやってくる、というような時間だった。

 卒業にあたり、親宛の手紙なんかも用意されており、普段自宅では見せないような表情で卒業を喜ぶ?長女を見ていると、確かに成長しているのだな、と嬉しいような、だんだん自分が知らない娘の姿があることを垣間見せられ、別に悪いことでもやましいことでもないのだけれども、複雑な気持ちになったり。

 とにかく、卒業式というのは不思議なもので、自分が考えるというより、感情や記憶が「やってくる」感じ、自分で制御不能なんだけれども、別に怖さとか焦りなんかがない、穏やかに「何か」が「やってくる」感じ。悪くないけれども、地味に初体験、みたいな時間を過ごすことができた。儀式が作り出す空気に当てられたのだろう。アンコントローラブルだけど、それでいい、そんな時間もいい、そんな自分の感情も悪くない、全然怖くない。44年間生きてきて、そう何度も経験はないことだろう。家族の側面ってこういうこともあるのだと思い知らされた一日でした。

 毎日毎日追いまくられてきた中だからこそ、かもしれないのだが、何かいい一日でした。

 奇しくも、本日は職場の内示日と重なりました。私はステイ。来年度はどうなるかな。

伝え方と目的 240309

  息子が終業式で、ちょっとしたスピーチをやるらしい。原稿を書いて「修了式」と誤字(正しくは終業式)で堂々と記された、なぜか封がされた封筒を準備していたのだけれども、どうやら読んでコメントが欲しいらしい。封を開けると中からは「町内会総会の報告」という文書。・・・いろいろと突っ込みどころが多い。

 スピーチ原稿は、というと、正直60点の内容。書くことが得意でない中一男子だから、まぁこんなもんか、とも思いながら、言いたいことを1/3くらいにして赤を入れていく。

 句点、読点がないのは論外。すべて修正するだけで、割とまんべんなく赤くなってしまう。とはいえ、頼まれたのだから、コメントを集約しなければ、用紙全面が真っ赤っかになってしまう。

 やることは、結局今仕事でやっていることと同じで、要は「スピーチの目的と内容が一致していますか」ということ。ついつい注意してしまう。とはいえ、こういうトレーニングを繰り返して繰り返してはじめて、そういうことに気づけるようになる、直せるようになる。この書く力、読み解く力、国語の力なんだけど、生成AIなんてものがあったとしても、こういうことを考えて文書を仕上げていくという作業は、誰に何と言われても、社会でよりよく生きるために必要なスキルであると思う。

 個人的には必要不可欠な技能だと思うのだけれども、今後どうなるかわからないのと、コミュニティによってはすでに文書が正しく読み書きできなくてもやりとりが成立していることもあり、このあたりは正直必要であり続けるかわからない。とはいえ、自分がよりよく生きようと思ったら、きっと読み書きのスキルは大事だと言うことにしている。だって、目の前の人と共通言語を使って意思疎通していくことで、知らないことを知って、知ってほしいことを伝えることだから。

コンテンツの寿命2 時間軸 240303

  前述したことと関連して。時間的な流行り物の寿命が、どんどん短くなっているような気がする。これも、別にいい悪い、と言う話ではない。個人の発信が、世界中で認められていく、というものを以前よりも多く見聞きするようになった。個人的には「何がいいのかよくわからない」ものも多いので、背景や流行る・バズる理由もよくわからない、というのが正直な感覚ではあるが。とはいえ、否定するものではないし、それをうるさくやると「老害」と言われる年齢だから、余計に気をつけなければいけない。

 とはいえ、「○○って今年の話だっけ?」というくらい、ブームの起伏は激しい。それを追いかけていたら疲れる、ということもあるが、気になるのは「よくわからない、残らないもの」をどこまで追いかけるか、という姿勢である。私の立場はシンプルで、20年以上前から「自分が気にならないものは、気にしない」で一貫している。聞かれれば、知らない、でいいし、教えてもらえばいい。ついでに、その魅力も聞けたら、それで新しいことを知った気になれば、みんなハッピーじゃないか。

 そう思っていれば、流行り物を追いかける時間は必要ないし、のんびり構えていたらいいのだと思う。2ヶ月後には・・・というものも少なくない。発信する人達にとっても、そこに執着しているわけではないと思うけど。

コンテンツの寿命1 質的 240303

  バズる、という言葉すらもはや「遅れている」のかもしれない。いろんなものが流行っては次のものへと移り変わっていくのを、半ば敢えて距離をとるように眺めている。

 個人が発するもの・ことが世界へと発信されていく。Webの世界ではそうしたことが起こり、それは肯定・賞賛されているかのように見える。その価値を認めること、それ自体についてどうこう言うつもりはない。ただ、そこに既存の価値を貶めるような、見下すような雰囲気はないか?と問い続けている。ない、とは言い切れない。正確には、その個人がそうした雰囲気をまとって発信をしている例ばかりではない、というべきか。中にはひいき目に見たとしても粗悪な侮蔑感情を感じるものがある、がそういうものはちょっと特殊カテゴリーにいれておこう。最近気になっているのは以下の2点である。

 一つは、新しい価値観を取り上げて肯定・賞賛することによって、自動的にそれまでの価値観の見え方が「自動的・相対的に下がってしまう」ということ。

 もう一つは、本人にその気が0であったとしても、例外、一つ目を含め、周囲がそういう雰囲気を作り始めたり、あるいは受け止める側がそう受け取ってしまう、という可能性である。

 少なくとも自分にはこうした点が気になるような事例ばかりである。そう感じてしまう自分の立場から見回すと、いわゆる受動的メディアに対しては、細心の注意を払っていないと、そういう雑な感情がすっと自分の中に入り込もうとしているのを感じる。意図して排除しないと、容易に入り込んでしまう。最近の流行り物に気をつけるべき、という態度には、こんな背景がある。

何か言いたい症候群 240224

  なんとなく、世の流れから一歩引いて眺めているつもりになって考えると、近年、いろんな人に「何か言いたい症候群」が蔓延しているように見える。通称「オレオレ病」くらいにしておきましょうか。

 オレオレ病を受け容れてしまうと、自分の周辺にあるもの・ことの何かに照準を当てて、その「何か」を指摘し始めてしまう。自分と違うこと、身体的特徴、経験・歴史、好き嫌いまで。「○○なんだよね~」「▲▲なんだぜ」なんて発言が増えて、場が暖まってくると、蘊蓄を超えて、その場で自分が楽しい内容や発言にすり替わってくる。このすり替わりや、安全地帯でないところで人の容姿や性格をいじりだしたり、それに呼応して品のない笑い方をしていたり、といったことを見聞きすると、一気に冷めてしまうし、笑えなくなる。私は、話題がどうこうもありながらも、その根っこにある「人をちょっと見下したい、ちょっと優越感を得たい」欲求が見えてしまうと、物理的・精神的な距離をとりたくなってしまう。大体、同じ場には行かなくなるし、やんわりと距離をとったり、場を離れるなど、そういった行動が出てきてしまう。「病気が出た」という表現は、大体こういうことになる。

 不思議なもので、言葉遣いや話題が変わるのは、その人の変容がそうさせることもあるが、なんとなくだけど、言葉遣いや話題選びによって、その人の変容が促されることがあるようにも思える。要は、いい言葉を使っていれば、その人にいい影響が出てくるし、悪い言葉を使っていれば、その人にはいい影響があまり出ないように思う。自分の視野が、人に向かってばかりいれば、いつも「笑いのネタ」探しに走るから、細部に至るまで指摘できるように分解する、些細なことも笑えるような見方しかしないから、自分は磨かれない。

ブームとか、興味のあることとか、世代とか 240218

  世の中で流行っているアニメの主題歌を聴いてみて、むむむ。TikTokのショート動画とか見せてもらって、むむむ。ほう、楽しいのか、盛り上がるのか、と思ってしまう自分がすでに今の世代の価値には気づけていないのだと気づく。気をつけないといけない。

 とはいえ、そうしたことに迎合する気もなく、私は私が興味のあるコンテンツを楽しむので充分。新しいツールやコンテンツも、食わず嫌いにならないように、でも自分に響くものだけ選んでいけばいいよね。

 先日、新聞で「マルハラ」なる話題を読んだ。どうも、LINEのやりとりで長文や文末に句点「。」を打つことが、今の若い世代にはプレッシャーになる例もあるらしい。いやいや、そんなこと・・・と思うのと同時に、おや、これは世代間のズレか?と気づく自分もいる。元々LINEは長文のやりとりに向かんなぁと思っているところもあるけれども、そういった背景すら共通言語になり得るかというと、それもきっと疑問が残るところだろう。

 古い考え方と言われるかもしれないのだけれども、私は何らかのフィルターが入っている良質なコンテンツの方が、自然に自分の中に入ってくる感じがする。自分にとって。たぶん、好き嫌いの程度も影響しているのだと思うが、偏っていることは偏っているのだという認識の中で取り入れた方が、解毒作用があるように思う。すなわち(なんぼか)冷静に事実認識に近づける、ということだ。

 だから、LINEとはいえ誤読の余地がないように、丁寧に発言しているつもりだし、余計なことは言いたくない。「Iyokiyehaさん、乗り遅れますよ」と言われたってしょうがないじゃない。老害にはなりたくないが、だからといって若者に媚を売るつもりはない。若い世代がチャレンジングに何か行動を起こそうとするなら、あえて揚げ足取りテストを行う程度で「がんばれ~」と言ってあげたい。当面はこんな考え方でもって、人の邪魔をしないようにしていこう。

2024年2月17日土曜日

身体の栄養、頭の栄養 再び 240216

  私にとっての観光というのは、名所で感動することとは少し違って、新しい土地をとにかく歩くこと、なのだと気づく。行った先々で、名所をつないで、いわゆる「いいところ」を巡るのも悪くはないが、要所とは違う移動中に結構面白いものがあったり、思わぬ感動に見舞われたりすることが多い。結局思い出になるのって、名所で撮った写真じゃなくて、途中で買い食いしたこととか、ちょっと立ち寄った場所にあった社とか、そういうものだったりする。そんな細かな思い出が頭に詰まっているので、どうにも一緒に行った人とは話題が合わなかったりということも少なくない。まぁ、それはそれ、これはこれ。

 年末に、雑事に、時間に追われずいい飯食った、という話題を書いたが、再び似たようなことをしてみた。同じ街だけど、巡る場所を少しずらして、でもご飯は一緒の店で。満足感が半端ないんだけど、とはいえ、行った場所で名所と呼ばれるようなところは一カ所だけ。後は美術館とか、小高い丘とか、そんな感じ。休みをとって、ウチでぐだぐだごろごろしているよりも、よっぽどリフレッシュになる。とはいえ、ここまでで歩数計が23,000歩を超えているので、身体はそれなりに疲れていそうだが。

 「旅のスタイル」なんて言うと大げさだし、たかが数回やっただけで何をそう語るわけではないけれども、「ここ」と決めた街の駅に降りたら、観光案内みたいなパンフレットを手にとり、その中から1,2カ所選んで歩いて行ってみる。一日楽しむなら、もうこれで充分だ。以前、旅行に行った先でやったことだが、とかく家族には不評である。というか「なんでそんなところへ行くの?」みたいな質問がとぶので、そういう面倒はカットして、1~2時間一人で散策する。これがいい。街も同じようにやってみたら、これがまた面白い。歩く道すがら、買い食いしてみたり、普段目に留めないような看板を読み込んでみたり、目立たない史跡に立ち寄ってみたり。頭と身体を使うことが、結果としてリフレッシュになる、というのは、私という人間の特徴なんだな、と改めて実感させられる。結局、出不精だったり、時々人と会うのがすごく億劫になる「病気」の原因は、こういう身近なことで充分楽しんでいられる性格も手伝っているのかな。まぁ、「病気」の方は、それだけじゃないのだろうけど。

 超繁忙になる前に、繁忙中だけれども、戦線を外れてお休みしてみた感想です。たまにはこういうこともやっておかないと、今年は心から、気持ちからやられてしまいそうなので。来週からまたがんばろうっと。

2024年2月10日土曜日

関心とか無関心とか、コメントはコメント

 インターネットでニュースを見るのは、何か気になることがあったときくらいだから、記事が見つかったら、やることやっておしまい、という使い方ゆえ、コメントに目を通す、なんてことはないわけです。

 それでなくても、ブログでもSNSでも、コメントでいい思いをしたことなんかほとんどないので、そういうものからは極力距離をとっています。私の情報収集は今でも新聞と雑誌だったりします。「情報が偏る」とか言われても、そもそも「何かの立場によって編集された情報」ということを念頭におけば、自分で考えるための材料になる、Iyokiyehaはそういうものだと思っています。で、私の情報網には引っかかってこなかったもので、ウチのカミさんがわざわざ教えてくれた記事なんですが、まぁ今年度の私に直結するものなので、記録を兼ねてリンクだけ。

 個人的にはいろいろあるんだけどさ、個人にどうこう、遺族にどうこう、外野があーだこーだ、公共空間で適当なコメントつけるのもどうなんだろうと思う。まぁ、あれか。ある出来事に対して、不特定多数の人たちのごく一部がどう感じているのか、ということを知る空間だと思っておけばいいのか。

https://x.gd/LqYBn

https://x.gd/LXkvA


年休・新所沢パルコ再び 240209

  職場の新年会の日だが、病気が出た。お休みをとって、久々に妻と過ごす。午前中は家事を片付け、庭と竿地の雪を片付ける。

 昼食には「うな長」のうな重特上をいただく。地元の人はだいたいみんな知っている。うなぎの味もさることながら、ここはとにかく雰囲気がいい。ご夫婦の人柄だろうか。付け合わせの漬物も肝吸もやさしい味で、丁寧な仕事が食事から垣間見える。お二人の人柄も相まって、地味に静かに最上の時間を過ごすことができる。

 うなぎに舌鼓を打ち、ヤオコーで買い物して一度帰宅。一休みして、近所へ買い物。日常品を買って帰宅。

 次女のギター教室の送り迎えで、新所沢パルコへ。閉店セールが本格化しており、店内も商品が減っている。お目当てのリュックは安くなっていないので購入せず。それもまたよし。スタバで時間をつぶしつつ。教室が終わるのを待つ。隣の席で、夫婦と未就学児の兄弟が騒いでいる。金切り声はちょいとNo Thank youだけど、まぁ多少騒いでもいいじゃないか。穏やかな心持ちで過ごせる空間。店舗建物は今月末で閉店となり、跡地にはおそらく高層マンションが建つらしい。前の市長が開発会社に商業施設を設置することの申し入れをしたようで、その後本件は情報クローズになっているのだけれども、とはいえ新しく商業施設がやってくることはないだろう。所沢市民になってから、ずっとお世話になっているのだから、ちょっと感傷的になってしまうとはいえ、この街だって変化し続けていることを鑑みれば、それは至極自然なこと。新しい街の姿は、新しいことが生まれて、変わっていくのだろう。

 とはいえ、目下ちょっと困るのは、身近な無印良品がなくなっちゃうことと、映画を観に行くのに、どこへ行けばいいのかな~ということ。本屋さんは近所に新しくできたけど、他の店舗は、近所に移転しないからなぁ。新所沢の中心の一つがぽっかりしてしまう感じは否めない。

要求の矛先

  今の職場のこの時期は、いろんな問い合わせが殺到する時期。お問い合わせなら上品に聞こえ、要求となると広義のクレームカテゴリーに入ってくる。申請が希望通りにならないのだから、不満前提の対応になるのだけれども、ここで言うことが「動かせること」と「動かせないこと」に分かれてくる。前者は折り合いをつけられるが、後者は言ってもムダであって、時間の浪費と同格になる。対応としても、質問レベルならどちらも丁寧に扱うが、そうでない場合には、前者は丁寧に、後者は塩対応になりがちである。「訴えるぞ」とか「名前覚えたよ」とか言われることもしばしば。なんだかなぁ、と思う。

 そもそも、分からないことを質問して、分かった上で希望を要求する、というのが申請の仕組みである。それを適切に受理して、適切に処理して、適切に結果が出る。この一部にでも当方にミステイクがあるのならば、それは謝罪してすぐにやり直すか、救済措置を考えるかの判断になる。でも当方にミステイクがないのならば、それはどんなに強い口調で、どんなに法的知識があったとしても、どんなに面倒な手続きを踏ませたとて、結論を覆すわけにはいかない。他の申請者との整合性がつかないことはやるべきではない。

 加えて、「上を出せ」的な問い合わせに対して、対応を変わったところで、「どうにもできないこと」カテゴリーの場合には、どんなに泣きつかれたとしても、できないものはできないのである。先日、その人が所属する会社の決定判断に、ウチの書類が必要だから、締め切りと手続きの終わっているものの申請書を出したいとのこと。受理できない。受理できない以上、書類作成もできない。こちらが正規の手続きを曲げる必要はないし、それによってできない証明を出すこともできない。「そんなこともできないんですか?」「助けてくれるところなんじゃないですか」とか散々言われましたが、これは矛先が違う話であって、譲歩は決定を下すところに行うのが筋ではないですか?という対応をせざるをえなかった。会社が必要だというから、会社の決定に使うから。それをなぜウチがルールをねじまげなきゃいけないんですか?それは決定権者が譲歩するべきであって、こちらが譲歩することはない。そんな押し問答を1時間くらい。矛先が自分に向いていない出来事に巻き込まれてほぼ1時間。こうなると、時間の無駄である。

 強い口調で言われると、つい、焦って「何とかしなきゃ」と思ってしまいがちだけど、実際には「何もしなくていい」選択肢があるってことを知っておいた方がいい。

新所沢パルコにて 240123

  妻が病院で検査を受けている間、来月で閉店する新所沢パルコのスターバックスで時間をつぶす。自分で時間を決めているわけではなく、待ち時間なのでぼんやり過ごすことができる。オーディオブックで小説を聴きながら、人の行き交う様子を眺めることができる。おしゃべりに興じる婦人、若い女性たち、カップル。いろんな人が行き交う向こうに、ベンチで穏やかにかけている老夫婦。その老夫婦が子連れのお母さんに声をかける。些細なことだけど、心穏やかになる瞬間って、壮大なダイナミズムの中だけじゃなくて、ごく身近な生活の中にも、確かにちりばめられていて、一つ一つがその瞬間の営みとして存在するのだなと、当たり前のことだけど、改めて感じた時間でした。

 そんな日常の店舗も、来月で店じまいとなると、ちょっと感慨深い。所沢に住んで以来、ずっとなんだかんだでお世話になってきたからな。ホントお世話になりました。

病気がでた 240120

  昨晩は職場の新年会。管理職中心のところに、係長級が声をかけられるという集まり。正直この手の集まりは苦手である。もう一つ付け加えると、職場の集まりというものは基本的に苦手である。今の面子がどうこうというわけではなく、そもそも苦手、という話だ。

体調不良 240103

  起床後、朝のおつとめをしていたところ、急に気分が悪くなり、横になった後、吐き気がしてお手洗いにて嘔吐。驚く。発熱なし、体調不良感もなく、まぁ昨晩の鍋で最後肉をたいらげたことの後遺症であると一旦結論づける。それくらいしか心当たりがない。その後、さすがにジョギングはやめておこうとウォーキングに出かけるが、途中から身体が重くなり、帰宅間近ではめまいがするほど。朝風呂を浴びると、めまいがひどくなって余計に気持ち悪くなる始末。さすがに吐くものがないので、特に被害はないものの、そんな調子なので午前中は寝込んでいた。何の体調不良だろうなぁと思うけれども、悩んでもしょうがないので、やっぱり胃もたれと、偏頭痛のひどいものの影響としておく。明日以降も続くなら受診しないといかんな。

 昨年末くらいから、よくわからん体調不良がちょくちょく起こる。秋口からは、髪を切りに行って頭皮の異常を指摘される始末。髪型整えに行っているのに、健康状態までチェックしてくれる美容院はありがたい限りである。わかっていて、知らされて、それでも実をひく選択肢がないのが今の職場状況でもある。自分で覚悟したのだから、今年度あと3ヶ月は何とか逃げ切ろうと思うが、来年度「フツーの」補充がなければ、多分緊張感の緩みとともに、一気に体調にでるだろうな。そんな不安はある。

 とはいっても、自分の身体は自分で守らねばならぬ、ということで、職場なんかよりも、自分をきちんと第一に据えて動かないといかんなと思う年始でした。何か世の中はいろいろありすぎて、新年早々情報を絞り込んでいるところですが、そんな風にも実を守りながら何とかやっていかんといかんな。

元旦に思う

  2024年初日。昨晩飲酒した上、紅白歌合戦をなんとなく最後までラジオで聴いていたこともあり、寝坊。午前7時前に目を覚ます。そういえば、昨晩は床についてからやけに肩の痛みが気になり、何時間もまどろんでいた感じがあった。なんとなく寝付けず。

 普段、休みの日の朝の時間は一人で起きて、朝の家事を一通りやって、ちょっと日記をつけて、時間があったら少し読書して、ジョギングかウォーキングにでかける、というのが日課なのですが、今日は「元旦ランニング」なるイベントに長男が出かけるということで、(私は放っておけばいいと言ったのだけれども)行く前に朝食を食べたいとか言い出す息子のために準備するというカミさんを起こすことになる。長男は起きず。私は朝のおつとめを済ませてジョギングへ。私はジョギング中は何も聴かないスタイルなので、ひたすらに走る走る。途中、近所の神社・神明社に寄ろうと思ったのだけれども、人がひっきりなしに出てくるので、通過。西新井の熊野神社でお参り。航空公園で元旦ランニングの参加者と思われる一団を横目に(息子がいないことを確認し)、公園を抜け、国立リハの敷地内を横切って走る。夜勤明けと思われる職員さんから「お疲れさま~」と声をかけられ、いい気分になる。帰宅すると、息子が朝食を摂っているのを見て「あらまぁ」と思ったことが口に出てしまう。我ながら余計なこと。ひとっ風呂浴びて、朝食。昨日、カミさんが思い立って作ったおせち(の一部)とお煮染めに舌鼓。朝食後はのんびり洗濯物を干して、だらだらして昼食。手抜きカップ麺。適当に食べた後、靴を磨いて、お参りにでも行こうと外出。こども達はもうついてこないが、一人は一人で気楽なので、てくてく。近所のお店がいつまで休みなのか確認しつつ、愛宕神社へ行くも初詣と思われる人達の行列が保育園の知覚まで伸びていることに驚き、通過。次女が食べたいと言っていた所沢団子を求めて、神明社の麓にある武蔵屋さんの前まで行ってみるが、6日までお休み。想定範囲。再び神明社へ。人の多さに驚く。中会談から上って、そのまま鳥居の方へ降りる。降りたところに新市長。いろいろ考える。行列は旧庁舎の向こうまで伸びていて、これはこれでびっくり。何もできていないものの、心だけ穏やかになって岐路へ。途中、なんとなく福袋的なものが買いたくなって、コンビニとかウエルシアさんとか寄ってみるが、なんかピンとこない。エミールさんに「福袋」の文字が見えたのでお店の前まで行くけれども、「売り切れ」と貼り紙、残念。帰宅すると、空気のこもった感じの居間で息子が大音量でなんかアニメを観ているので、自分のスペースへ。いろんなことに考えを巡らせ、今年は音声配信なんかができるようになったらいいなぁ、なんて漠然と考える。入浴、夕食を摂って片付けて今に至る。

 普段、元旦に自宅にいることがないので、ふらふらと近所を散歩してみたのだけれども、実家や親類宅で過ごしている人は、今でも初詣って行くのだな、という実感を得て、なんとなく心穏やかになる。それでいいですかね、そんな日があってもいいじゃない。

2024年1月1日月曜日

2023年総括、2024年の抱負

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 昨年はコロナ禍から緩和ムードが見えてきた頃でした。自分の生活は、というと地方公務員になってから初めての異動で、これまでとは全く違う分野の質の違う仕事に、一つ昇格した形で配置されたことでその適応に四苦八苦していました。その中で、以下の目標を立てていました。

1 読書の継続 30冊+Audiobook30冊分+αで音声コンテンツ

2 10分体操+素振り15,000本

3 30分程度を目安にした勉強習慣をつくる(習慣化)

4 仕事のスキルを向上する

5 心穏やかに過ごす


 1の成果は、書籍は15冊+ちょっと、Audiobookは27冊分。音声コンテンツは、昨年と同様にVoicyでは「話し方のハナシ」(高山ゆかりさん)、「歴史を面白く学ぶコテンラジオ」(深井龍之介さん他)、コテンラジオはクルーに登録しました。他は、ラジオドラマや落語に関する番組を聴くようになりました。耳学中心にインプットの質は良くなっているような気がします。質的には充実している実感はあります。それでも読書冊数が減ってしまったのは、単純に時間外勤務時間が跳ね上がったことによる、読書時間の確保が難しくなったことがあげられます。仕事のことは4あたりで。

 2は、継続できています。朝はラジオ体操第一と700歩弱のウォーキング、素振りがほぼ毎日できました。素振りは20,500本程度までいきました。週末はジョギング+ウォーキング、iPhoneのヘルスケアによると、雑ですが一日平均9,900歩程度になりました。ぶらさがりは週末だけになってきてしまいましたが、無理のない運動は継続できています。身体を動かすことで2023年の一番の成果は、合気道を再開したことです。6月には3級昇級し、帯の色が茶色になりました。ますます面白い合気道です。昨年気になった易疲労は、それほど気にならなくなったのだけれども、とはいえ、慢性的な寝不足で、不調が続いているのも事実。頭皮の腫れ物とか、仕事中の寝落ちとか、具体的な事象があるので、回復に努めたい。

 3は、1の書籍冊数の減少、4の仕事の状況と連動しますが、やっぱり単純に時間がとれなかった。法知識は広げておきたいですが、残念ながらほどんど手がついていません。

 4は、今年はこのことに翻弄された一年でした。仕事のスキルは上がっていると思いますが、横展開に終始したというか、2年目の理解(業務と法制度とのリンク)がほとんどできなかったのが残念なところ。ただ、所属課の状況(同格職員の戦線離脱と、所属係の職員退職)に伴い、2つのグループの統括を掛け持ちするという変速シフトに志願せざるを得ない状況だったこともあり、その体制が結局1年続きそうな情勢であることから、去年の1.7倍くらいの仕事量になっており、時間・体力ともに削られた一年でした。時間外勤務は年末までで400時間/年超でやばい状況です。500時間を超えないように調整したい。

 5は、相変わらず不愉快を感じることは多いのだけれども、去年よりはうまく流せるようになってきているかな。まだまだのところもありつつ、人を嫌ってしまうことを是としているようなところもあるので、言動のバランスは注意しないといけないと思う。

 この他、チャレンジしてみたことは、半日サボりとか、勝手にぶらり途中下車の旅みたいなことを積極的にやってみたり。2月のスーパーボウルは毎年のことですが、10月末のVoicyフェスは結構参加できたよね。川越一人旅はなかなかチャレンジングでしたが、結構おもしろかったです。川越制覇しつつ、他の街にも挑戦してみたい。こんな頭の緩め方、はもう少し頻度を上げてやってみても面白いな、と思います。家族では、奥武蔵の休暇村へ行けたかな。夏は家族でコロナになっていろいろできなかったけど、それでも秩父と熊谷には行けたよね。


 いろいろ振り返ってみて、今年もいろいろありました。それを踏まえて、2024年の抱負・目標は、昨年とは大きく変えず、以下の通りかな。

1 読書の継続 30冊+Audiobook30冊分+αで音声コンテンツ

 これは継続しよう。読書が30冊超えになるように時間を捻出すること。あとは、読んだ本を整理して、一年かけて自宅の机周りがきれいになるようにすること。

2 10分体操+素振り15,000本+週末ジョギング、合気道昇級

 継続。合気道で黒帯目指したいから、その基礎体力は習慣化の中でつけていくことにしたい。通勤は徒歩で、10,000歩/日を目指す。今年は1級まで昇級したい。

3 30分程度を目安にした勉強習慣をつくる(習慣化)

 今年こそ。時間を捻出して、場所・内容を問わず読書でも勉強でも、何とか習慣化すること。少しでも法律知識を磨けるように。昇任試験もそろそろ意識しないとね。

4 仕事のスキルを向上する

 法制度と業務との接点を作る。いろいろ身につけたいけれども、まずは今の職場で求められる法制度と業務との接点を可視化すること。

5 心穏やかに過ごす

 数年越しの目標になりそうです。他人のあらは指摘してしまうのだけれども、じゃあ自分はどうなんだ?と常にメタ認知が働くように、感覚を磨くと共に、様々な学びを通じて、人との接し方について、あらゆる対人技能の習熟を通じて磨いていきたい。

 で、これらの目標を、少なくとも4月、9月には見直して、必要な軌道修正を測っていくことをやっていこうと思います。まずは3月まではサバイブすること。駆け抜けるぞ。

 以上、2023年のふりかえりと2024年のとりあえずの目標でした。2024年もどうぞよろしくお願いします。なお、お気づきの方がおられるかもしれませんが、年賀状による新年の挨拶については、諸事情により年々縮小しています。いただいた年賀状に年賀状でお返しできていない方が出てきてしまっていますが、あらかじめご了承ください。