寛容 名 -かんよう
心が寛大で、よく人を受けいれること。過失をとがめだてせず、人を許すこと。(岩波国語辞典 第7版)
結局、まわりまわって自分のことしか考えていない人がいるということなんだよね。多いとか多くなっているとか、そういう変化ではなくて、人の言動を許せない人っていうのがいつの時代にも一定数いるわけで。そういう人たちが「安易に意見を表明できる」ツールを手に入れた時に、寛容さのなさが社会に垂れ流されていく。表現の稚拙さが、それに拍車をかけていく。近年、IyokiyehaがWeb閲覧の時間を削っているのは、この辺に理由がある。要は「眺めていて快刺激よりも不快刺激の方が多い」からだ。
人がやることをすべて受け容れられるとは限らないが、じゃあそれが「不快だ」と思ったときに、不快感情をWeb上ひいては社会に垂れ流すことに、世のためになる「何か」はあるのだろうか?と考えると、垂れ流しにする必要はないよね。なら、その感情は飲み込んでおいたらいい。飲み込むには辛いことがあるなら、そんな辛いことは不特定多数の人間じゃなくて、信頼できる誰かにきちんと相談した方がいい。
理想的には、「不快な感情」が自分にやってきたら、その要因となる人や言動に矛先を向けるんじゃなくて、その要因を許して、そんな感情に襲われている自分も許して、三方よし○印をつけられるのがいいと思う。そこから憎しみはうまれないはず。憎しみが外に出なければ、いざこざや小競り合いは起こらないはず。そういう姿勢を磨きながら、そういう姿を追いかけてもらえるような、感情の受け止め方ができるようになりたい。