「闇バイト」なんて言葉が、ラジオを聴いているとほぼ毎日聞こえてくる。社会問題と化している、ヤバい仕事だけど、それを提供する人たちの得体の知れなさと、それに手を出す若者たちが注目されているのだけれども、それとは少し視点を変えて、制度や社会的な構造みたいなところから、いわゆる「闇バイト」を見てみようと思う。
結論から言うと、個人的な要因として、働いて得るお金が「労働の対価」という認識が希薄になっていることが一つ。もう一つ、社会的な構造として、契約に基づく雇用という人と社会が作り上げてきた人を安心・安全の元で自由にするための仕組みが、得られる対価が少ない=効率の悪い営みだと勘違いされているように思える。
仕事に貴賎なしとは言うけれども、ここでいう「仕事」というのは、世の中のルールの中にあるものだという当たり前のことを、あえて記しておこう。世の中のルールというのは、法制度のように明文化されたものから、社会で生きていくための人としてのルールのような不文律のようなものまで含みます。そうした「ルール」に従って提供される仕事においては、その内容によって貴賎はないわけで、いわゆる「労働法」というものはそれを担保するためのもの、というわけです。労働法にのっとった仕事は(ブラックとかいろいろ言われるところも、そういうことも少なからずあるけれども)安心・安全に、人を社会のルールの中で自由にしていく機能を備えているといえる。
こう見ていくと、いわゆる「雇用者(雇われている人)」がイメージしやすいのだけれども、それを離れてみたときはどうだろう?最近ではフリーランスや自営業は身近になってきている。これらは「雇われる」ではなく、自分が使用者となって人を雇う立場になったり、個人であっても事業主として働く主体となるものである。これらの働き方は、労働法の一部は適用されないものの、人を雇う上ではルールに則った使用を求められるわけで、提供される、から提供する側に移ることにはなるが、やはり各種ルールの中に入っているものだ。個人事業主として働く場合はルールの中にとどまることも、そこから出ていくことも選択はできるのだけれども、ルールの中にとどまる選択をした人たちは、(基本的には)安心・安全が担保されることになる。
と、このようなことに「常識」なんてラベルを貼っておくと、こういうことはあまりに当たり前すぎて、常識ラベルが貼ってあることに気づかない人、あるいは悪意をもって働き方ルールの外側に飛び出している人が、「闇バイト」を提供し提供されることになる。「普通の若者が『闇バイト』に手を出してしまう」ということの背景には、こういう見え方がある。普通(カタギ)か普通じゃないかが問われているのではなく、まずは常識ラベルに自覚的であるかどうか、こういうことが課題になってくるんじゃないかな、と思ったわけです。
なにかというとSNSが取り上げられますが、これはただの道具であって「闇バイト」を支えたり、支持するものではないはず。道具の良しあしではなく、個人的な要因と、社会構造をしっかりと見据えていたいものです。