情報収集とメディアの評価、そういう角度から兵庫県知事選の結果に感じていたことを、森下和哉さんが的確に指摘してくれていました。情報の質と選び方ってとても大事だと思う。
#330 兵庫県知事選の結果を受けてテレビ局報道マンの個人的な本音
日々起こること、考えること、読んだ本のことを、自由に書いています。
情報収集とメディアの評価、そういう角度から兵庫県知事選の結果に感じていたことを、森下和哉さんが的確に指摘してくれていました。情報の質と選び方ってとても大事だと思う。
#330 兵庫県知事選の結果を受けてテレビ局報道マンの個人的な本音
寛容 名 -かんよう
心が寛大で、よく人を受けいれること。過失をとがめだてせず、人を許すこと。(岩波国語辞典 第7版)
結局、まわりまわって自分のことしか考えていない人がいるということなんだよね。多いとか多くなっているとか、そういう変化ではなくて、人の言動を許せない人っていうのがいつの時代にも一定数いるわけで。そういう人たちが「安易に意見を表明できる」ツールを手に入れた時に、寛容さのなさが社会に垂れ流されていく。表現の稚拙さが、それに拍車をかけていく。近年、IyokiyehaがWeb閲覧の時間を削っているのは、この辺に理由がある。要は「眺めていて快刺激よりも不快刺激の方が多い」からだ。
人がやることをすべて受け容れられるとは限らないが、じゃあそれが「不快だ」と思ったときに、不快感情をWeb上ひいては社会に垂れ流すことに、世のためになる「何か」はあるのだろうか?と考えると、垂れ流しにする必要はないよね。なら、その感情は飲み込んでおいたらいい。飲み込むには辛いことがあるなら、そんな辛いことは不特定多数の人間じゃなくて、信頼できる誰かにきちんと相談した方がいい。
理想的には、「不快な感情」が自分にやってきたら、その要因となる人や言動に矛先を向けるんじゃなくて、その要因を許して、そんな感情に襲われている自分も許して、三方よし○印をつけられるのがいいと思う。そこから憎しみはうまれないはず。憎しみが外に出なければ、いざこざや小競り合いは起こらないはず。そういう姿勢を磨きながら、そういう姿を追いかけてもらえるような、感情の受け止め方ができるようになりたい。
「闇バイト」なんて言葉が、ラジオを聴いているとほぼ毎日聞こえてくる。社会問題と化している、ヤバい仕事だけど、それを提供する人たちの得体の知れなさと、それに手を出す若者たちが注目されているのだけれども、それとは少し視点を変えて、制度や社会的な構造みたいなところから、いわゆる「闇バイト」を見てみようと思う。
結論から言うと、個人的な要因として、働いて得るお金が「労働の対価」という認識が希薄になっていることが一つ。もう一つ、社会的な構造として、契約に基づく雇用という人と社会が作り上げてきた人を安心・安全の元で自由にするための仕組みが、得られる対価が少ない=効率の悪い営みだと勘違いされているように思える。
仕事に貴賎なしとは言うけれども、ここでいう「仕事」というのは、世の中のルールの中にあるものだという当たり前のことを、あえて記しておこう。世の中のルールというのは、法制度のように明文化されたものから、社会で生きていくための人としてのルールのような不文律のようなものまで含みます。そうした「ルール」に従って提供される仕事においては、その内容によって貴賎はないわけで、いわゆる「労働法」というものはそれを担保するためのもの、というわけです。労働法にのっとった仕事は(ブラックとかいろいろ言われるところも、そういうことも少なからずあるけれども)安心・安全に、人を社会のルールの中で自由にしていく機能を備えているといえる。
こう見ていくと、いわゆる「雇用者(雇われている人)」がイメージしやすいのだけれども、それを離れてみたときはどうだろう?最近ではフリーランスや自営業は身近になってきている。これらは「雇われる」ではなく、自分が使用者となって人を雇う立場になったり、個人であっても事業主として働く主体となるものである。これらの働き方は、労働法の一部は適用されないものの、人を雇う上ではルールに則った使用を求められるわけで、提供される、から提供する側に移ることにはなるが、やはり各種ルールの中に入っているものだ。個人事業主として働く場合はルールの中にとどまることも、そこから出ていくことも選択はできるのだけれども、ルールの中にとどまる選択をした人たちは、(基本的には)安心・安全が担保されることになる。
と、このようなことに「常識」なんてラベルを貼っておくと、こういうことはあまりに当たり前すぎて、常識ラベルが貼ってあることに気づかない人、あるいは悪意をもって働き方ルールの外側に飛び出している人が、「闇バイト」を提供し提供されることになる。「普通の若者が『闇バイト』に手を出してしまう」ということの背景には、こういう見え方がある。普通(カタギ)か普通じゃないかが問われているのではなく、まずは常識ラベルに自覚的であるかどうか、こういうことが課題になってくるんじゃないかな、と思ったわけです。
なにかというとSNSが取り上げられますが、これはただの道具であって「闇バイト」を支えたり、支持するものではないはず。道具の良しあしではなく、個人的な要因と、社会構造をしっかりと見据えていたいものです。
じっくりと座って本を読むことが、すっかりなくなってしまったのだけれども、どんな生活状況に置かれたとしても、本は読みたい。本を読む理由を問われると、費用対効果とか、信頼に足る情報とか、以前から小説を読むのが好き、とか、適当な意味はいくらでも思いつくのだけれども、それよりも何よりも「自分の内側に人の意思が入り込んでくるような感じ」が味わえるから、というのが本音に近いのだと思う。「なんだコイツ?」と思われそうだし、ちょっと重めの話なので、人にはあんまり言わないけど。
人と話をすることも同じようなことがあるけれども、知らないことを知る、知識を得るだけの時間と、自分と他者とが情報という知識の交換ではなくて、いわば内面の交換ともいうべき時間を過ごすことができると、それはとても充実した、時計の時間を超越したような時間を過ごす経験になりうる。「充実した」と思えるのは、こういう経験が背景にあるのだろう。
これが、ひとりで本を読む行為にも時折訪れる。それは小説だけじゃなくて、ビジネス書であったり、思想や自己啓発を描いたものにもありうるが、一方でそういうことを期待して読んだ本が期待外れだったり、逆に何も期待していなかった本が、そういう存在になることも時々起こりうる。要は、その辺が偶然に依っている、というのも読書への期待になるのだと思う。やっぱりいろいろ読みたい。
9月議会が終わったにも関わらず、地味に仕事が多い。突発的な対応にも追いまくられてしまっており、何か去年とあまり変わらない焦った雰囲気が蔓延している。
帰宅してからは、やることやって、洗濯物を干してほぼバタンキューと寝てしまうため、日記もおろそかになるし、合気道の復習もできないし、読書もほぼ足踏み。留まって考えるということをしなくなっているのが気になってしまうので、土曜の夜にラジオをお供にちょっとまとめてみる。
●食い違い起点のトラブル
「普通のことをやってください」「普通のことしかしていないし、できないので」「どうして普通にできないんですか」そんなやりとりが続いているある案件について。もはや「普通」って何だよ?って話になってしまっている。事業者側は「特別なことはしていませんよ。例えば・・・」と同義で『普通』を使っているのに対し、利用者は自分たちの中にある標準という意味で『普通』と言っている。具体的なイメージがすれ違っているので、分かり合う気がなければ、ずっと平行線だろう。第三者の決定を期待して、私の職場に「同席」を求めるが、こちらとしては判断する権限も理由もないので「同席する必要はない」としている。これもかみ合わない。多分「これだから役に立たない」くらいに思われている節もある。無理もないが面白くもない。かみ合わない状況のまま、何かを強行したときにしわ寄せがどこくるのか、ということを見据えていないといけないな、と思う。(特別でないという意味での)「普通」の場所に、(ある水準をイメージした)「普通」を求める人が集まって主張すれば、衝突は必至。
●スマートフォンの扱い
一言本音。みんなででかけても、旅行へ行ったとしても、そういう「非日常」を、一瞬で「日常」に変えうる可能性を秘めたスマートフォン。旅行いってもずっとスマホいじってるなら、別に行かなくてもいいじゃん、とか思ってしまう。
●近所を騒がせている事件について
逃げている人に対しては、人として、早くお縄になるか、無事でいられる場が見つかるかすればいいけれども、そうならない可能性もあるような気がしています。罪はつぐなうべきだけど、どうか無事でとも思うところです。そういう世界ですよね。思うところはあるけれども、Webだからこれ以上は触れずに。
●日中ぐうたら
台風のせいなのか、気圧のせいなのか、それ以外なのか、今週一週間は体調が悪い。だるい、疲れやすい、集中力が(いつもにまして)ない。それで終末の悪天候。それも、土砂降りじゃなくてしとしとぐだぐた。これは気分もあがらない。もちろん、なにかあるなら、身体を動かして多少の補正はできる技能はあるけれども、まぁ、とはいえ、そんなに気合い入れる必要もないので、土曜日はぐだぐだしてみた。日頃滅多にみないテレビを見て、ごろごろぐだぐだ。朝ジョグはしているのでそれほど罪悪感もなく、なーんにも考えずに過ごしてみました。これはこれで、ありだな。年2~3回でいいけど。
●先日の動画の件
前回の雑記投稿の件、要するに「発信は、どう受け止められるかわからないよ」ということが危うさに見えたのでもやもやもやもやしていたのだろう。私もここでBlog長くなっているから、今まで以上に気を付けないといけないよね。解釈の余地が含まれる、何かを想起させるようなコンテンツには、十二分に気をつけねば。
まだはっきりと整理できていないので、書きながら考えてみる。
最近違和感があること。動画共有サイトで公開されている、家族の様子を紹介するような動画から思うこと、考えること。今回の題材は子ども(姉弟)の様子を映したもの。
キーワードだけ列挙しておくと、子どもたちの顔がデータとしてWeb上にアップされること、幼い姉が一般的にやってひまう弟に対する自分本位の行動/一般的に弟が姉に従わざるを得ない状況で理不尽に振り回される様子、Webにアップする目的、共有?曝し?ネタ?
年齢にして、3~4歳の女の子(姉)と1~2歳の男の子(弟)の関わり合いの様子を動画に収めたものが公開されているものを見せてもらう。その動画では、歩行器で移動する弟を振り回して、自分の進路を確保する姉の様子や、何かと言えばお姉ちゃんが弟に高圧的(に見える)な態度でやりとりする様子が記録されている。たしかにかわいらしいし微笑ましい。姉弟のきょうだいを育ててきた経験者としては「あるある、ウチもそうだった」と思えるような内容であった。
この面白さって、大人のような邪気はなく、ただただ「弟という小さい家族」を思うように動かそうとするしっかり者お姉さんを、全身全力で表現していること、それであってもやっぱり子どものやりとりであって、どちらも思い通りになっていないこと、を微笑ましく切り取った生活の一部である。
見ていて微笑ましいのだが、ふとした瞬間に我に返る「これって、誰のためのアップなんだ?」。自分のために、家族の記録を録画してとっておく、ということであれば、それで充分だ。それ以上になると、私には抵抗感が出てきてしまう。自分の子どもを見世物にする意識はなくとも、Webに公開するということは結果として世界中に公開してしまうわけで。この微笑ましさを、完全にニュートラルな感情で受け止められているのかどうか、自分にもちょっと自信は無いのだけれども、「発信者の意向」×「受け止め側の認識」となったときに、そこにあるのは発信者には制御できない感情がアウトプットされることになりかねない。率としてはどうあれ、「弟はこうやって虐げられて育つんだよ」とか「姉はコントロールしたがるんだよね」とか正負いずれかでも感情が振れてしまうことになれば、その幅はもはや制御不能になる可能性もありうる。Webは感情増幅装置だと思うので。
となると、SNSが流行りだした時から、私はできるだけ守っていることだけれども、自分以外の家族の写真のアップロードには、これでもかというくらい慎重になってもおかしくないだろうし、それくらいの思いやりを持ったときには、公開される動画の質っていうのも随分変わってくるんじゃないのかと思うところもある。古くさいと言われるかもしれないのだけれども、やっぱり世界に開かれたWebの世界というのは、想像力がないと何が起こるかわからない、と思うのです。
「7つの習慣」関連の書籍っていくつか聴いているのだけれども、いつも「フツーのことだよね」と思ってしまっていた。だけど、そのフツーが難しい、基本はいつも大事なんだよね。
優先すべきことは、緊急のことよりも本来は優先しなきゃいけないことなので、いつの間にか雑事に追われて・・・というのは、古今東西誰にでも課題となりうることで、Iyokiyehaも例外ではない。いや、むしろ、面倒事を喜んで引き受けてしまう節もあるよう(←よく指摘されます)なので、むしろ自分のための論考なのかもしれない。要は時間の使い方と目的意識のように考えて、受け止める。
(Audiobookの紹介より引用)「時間管理の基本を、『いかにスピーディーにこなすか』ではなく、『なぜそれをするのか』という視点から見つめ直します。『なぜそれをするのか』、その目的をしっかりと見据えてプランニングすることで、最優先事項がみえてくるのです」。本書の訴えることは、大体ここに集約される。
書籍中「コンパス時間」という言葉が出てくる。コンパスが常に北を指していることと、「時間管理のための時間」を批判的に捉えたときの言葉だと理解した。要は、より大きな目的のために行うことを、目の前にあることに適用させたり、場合によっては目の前にあるものを回避することも必要になるかもしれない。ただこなす、ではなく大きな目的を意識して、そのために目の前のことを行う、といったように、優先すべきことを意識して万事目的につながっていることが見えてくると、人生の成果に取り組んでいるといえる。そのことが幸せにつながるのだ、というようなことを文書随所で語っているように思いました。
今は、いろいろ悩みながら、いろんなことに取り組んでいるけれども、それも人生の糧と思いながら、それでもオーバーワークにならないように「なぜ」を問い続ける姿勢は必要だと思います。
退屈の反対は楽しさとか楽しいこと、ではなく、興奮である。楽しいことがないのは退屈なのではなく、興奮を伴う刺激に乏しいということ。つまらないことが退屈なのではない。
熱意は幸福と関係があるが、熱意があれば幸福かということには違和感がある。熱意が暴走して刺激を際限なく求めたところの一つに、戦争という事象がある。(ラッセル?)
現代は、生産が欲求に先行する。やることがない人にやることを与えるのがレジャー産業の側面でもある。
なるほど、暇とか退屈というものを、倫理的に哲学的に分析して深めていくと、いろんな感情や事象とつながっていくことができる。暇というのは単にやることがない、ということではないし、楽しいことがないのが退屈とは言い切れない。今を生きる私たちの社会の仕組みと実は密接に関係がありながら、その関係がとても見にくくなっているのが暇とか退屈の本質に近づきにくくしている一因ともいえる。
Audiobookでなければ、おそらく触れられない一冊。哲学的思考や歴史的な論考が学術的に引用されているので、読み解いていくのが困難だった。聞き流している部分もあるが、それでも上記のような気づきや学びがあった一冊でした。
やはり睡眠は大事。量も必要。眠りの質を上げることだけでなく、7時間程度の睡眠時間は認知機能を発揮するためには必須といえる。
20年くらいの付き合い、となると「旧友」と言ってしまっても差し支えないか。昨日(9/21)に前職の同期と会う機会に恵まれた。初めて出会ったときは、私も24歳。私は11年勤務して転職したけど、みんなそれぞれ歩んできて、当初20人いた同期の内、15人は退職に至っている。その是非はともかくとして、それぞれ生活のステージが変わっていて、昨日会った人たちは、それぞれの生活を営んでいる。
共有できる体験があると、話は弾みやすいものだけれども、男女、既婚未婚、子どもの有無、今の仕事などなど、一つずつ見ていけば、誰もが異なる経験を有しているもので、そんな違いや大変なこと、楽しいことなんかを確認するだけでも、面白い。昨日は私も疲れていたこともあり、聴いてばかり(ぼーっとしていた)だったのかもしれないのだけど、おいしい料理とお酒に舌鼓をうちながら、なんてことのない会話で十分楽しい時間を過ごすことができました。
「離職者友の会」とか言いながら集まったわけだけれども、もはや前職を辞めていても、続けていてもどうでもいいじゃない、って雰囲気で、いろんな人にもっと声をかけていこう、なんて話も飛び出す。「同期が出世したら、幕張で」なんて言ったら、本部勤務歴のある人たちからは「反対!」なんて意見も出ましたが(笑)、それもほほえましいものです。
「同期」って、これまた不思議な集団ですよね。お友達が少ないIyokiyehaですが、誘ってくれる人たちの集まりは大切にしようと思うこの頃です。ちなみに、昨日のハシゴは、
・プティ デリリウム タップ カフェ(ベルギービールと肉料理。新宿サザンテラス)
・信州味噌・料理のお店@新宿の南側
・焼き豚を食べなかったTONTON?とか言うお店@歌舞伎町
・コンビニで缶アルコール買って、歩き飲み@歌舞伎町
・焼き鳥の焼き場はあるが、奥にバーカウンターもある、謎なカフェバー@歌舞伎町
・24H営業のケバブスタンド@↑のお店のすぐ隣 西武新宿近辺
でした。お付き合いいただいたみなさま、ありがとうございました。
なんかもう、いろいろありすぎてお腹いっぱいなんだけど、今年の夏を一言で言い表すと、もはや「暑い」としか浮かばない。語彙力のなさを露呈するようで嫌なんだけど、もう単純に「暑い」んだよね。暦じゃ「残暑」とか言うのだろうけど、30度超えちゃったら真夏だよね。着るものも変わらないし、汗かくし、意識して塩分とらないとぼーっとしてくるし。
こまごま書き溜めていた日記を一緒にするのもちょっと面倒なので、ざっくりこの夏を振り返ると、
・6月下旬から続く咳・たんの絡みはどうやら喘息らしい。
今までこんなこと言われたことがなかったのだけれども、どうやらアレルギー性の喘息があると疑うのが、一番しっくりくる病名とのこと。ビレーズトリエアロスフィアという薬が処方されて、服用(吸引)を始めたら症状がずいぶん軽減した、というのが決め手らしい。かかりつけ医→耳鼻科→呼吸器科ときて、診断が出るまでざっと2か月。身体のことだから、気を付けないとね。
・不可解なことが多い。Amazonの謎。焼肉店の話題。
私とAmazonさんとの関係はもはやカミさんよりも長いので、私はWebで買い物といえばだいたいAmazonさんを使うのだけれども、最近、新刊本を検索すると同じものがやたらと高い値をつけて複数出てくる。そういうことをしたくなる理由はわかるようでいて、そういう行動をする人のことは理解し難いのだけれども、あんまりいい商売じゃないような気がするんだよね。不可解つながりで、最近新聞でもWebニュースなんかでも目にする某焼肉屋さんのセールに対する指摘の内容が、よくわからないようでいて、統一の主張になっていないような気がして、やっぱりよくわからない。世代間ギャップなら少し冷静に立場を保たないと老害まっしぐらなので気を付けないといけないのだけれども、それも含めて不可解だ。
・ちょっと距離のある、身近な人の他界に、気分が揺らぐ。
カミさんが働いていた会社の社長で、私の後輩の知人という方が、急逝されたことを知る。また、息子が通う学校の生徒さんが亡くなられたお知らせを聞いたところ、私の師匠の幼馴染のお子さんだった、ということを知る。身近なところで人が亡くなられるというのは、なんとなく胸がざわざわするんだけど、少し距離があると余計に何もできない感が強く感じられたりする。不思議なものです。
・お稽古の時間を増やす。
合気道がもっとうまくなりたい、と前向きに考えるようになった。黒帯間近なのもあるけれども、多分、一生モノの趣味になりつつあるのだろう。生活の中の動作にいかに型を組み込んでいくか、という発想にたどり着く。木剣を振るときには、基本動作を組み込んでやってみるとか、身体の向きを変えるときに、腰の位置を確認してみるとか、そういうことの繰り返しって、身体動作の質を変えていくように思えるのですよね。私器用じゃないので、繰り返し繰り返しやらないと身につかないから。
今年は結局、地震のせいで帰省もできなかったのだけれども、その代わりといっては何だが、深谷の室内プールへ行ったり、次女のお友達と明治の工場見学へ行ったり、今年再開した合気道の合宿へ行ったりと、なかなか詰め込んだ夏になったようには思う。子供たち目線だとどうかはわからないけれども、仕事しながら、カミさんと合わせながら、だとこのくらいになっちゃうのかな。長期休みはそれぞれの生活リズムが変わるので、それに合わせるのは大変。私自身のリズムを変えないようにしたいけれども、周りが変わると細部が変わってくるので、なんだか落ち着かない。そういうことも高校生、中学生の運動部、となってくると起こりうることなんだよね。とはいえ、私は変わらないところは変わらないように、うまく合わせていく、を心掛けたい。
re-spect
動1 尊敬する
2 尊重する
名1 尊敬、敬意、尊重
2 箇所、点(=point)
3 注意、考慮
ほか
「リスペクト」について調べてみる。尊敬。敬意。また、それを表すこと。「敬意」とは、相手に対する尊敬の気持ち。じゃあ、尊敬は?1 人格・識見・学問・経験などのすぐれた人をとうとびうやまうこと。そんきょう。2 文法で~(略)尊敬語。とうとぶ=敬って大切にする。あがめる。たっとぶ。うやまう=人や神仏を尊いものと考え、それを行動や態度に表す。あがめる。尊敬する。あがめる=1 この上ないものとして扱う。尊敬する。敬う。2 大切にし、寵愛する。などなど。
要は、相手を相手として大切にすること。言動で相手を大切にすること。そういうことなのだろう。横文字で「リスペクト」っていうと、この言葉を使うハードルがぐっと下がるのだけれども、意味するところは同じ。相手を大切にすること。
今まであれこれと身近な人にあーだこーだ言ってきたのって、一言で表すと「お互いにリスペクトしようよ」というだけのことなのだろう。忙しいと、相手のことを気に留めにくくなる、大切にしようとする言動が弱くなる=「リスペクト度が低くなる」、くらいか。何か面白そうに盛り上がっているけど、ある人がそれにはのっていないよね?=「リスペクトしきれていない」「大切に扱われていない人がいるよね」、ということなのか。
なるほど、先日はパーソナリティが一方的なコメントに対して、冷静に(聞こえたけど、キレていたのかな?)「リスペクトが感じられないよね」と言い切ったことに、心の中拍手だったんだけど、もっと身近に、もっとあたりまえのところに「リスペクト」の感覚って感じ取りたいし、まき散らしたいと考えてしまう。派手なリスペクトじゃなくて、地味でいい。今風なら「陰キャのように静かに」でもいい(←この「キャ」も思うところはあるけど)。リスペクトを感じられて、リスペクトができる、自分の周りに時々でも双方向リスペクトが生じると、周りがどんどんよくなっていくのではないか?これってIyokiyehaが時々酔っ払って言い放つ「個別相談(カウンセリング)は世界を変える」みたいなものと相性がいいんじゃないか?と思い込んでいる。
「人を感じる取材」と感じた。記者さんの仕事すべてがこの密度で行われるとは思わないのだけれども、いわゆる「取材力」というのは、こういう形で発揮されるのだろう。そんなことを感じた一冊。取材プロセスが(おそらく大部分の地味な大変なところは省略されているのだろうが)表現されているのが、読んでいて大変面白い。
確かに「ある行旅死亡人」だから、「あぁ、そういうことがあったのね」で済んでしまう出来事でしかないが、そこに気がつき(認知して)、調べていき、まとめていく。記者の仕事って、一つの表現活動なのだな、と思いながら読んでいった。一つの表現のために、膨大な準備と取材をして、入手した情報を、正確かつ伝わるように表現し、発表する。直線的に表現できるこの活動の見えない部分は、地道な情報収集、取材など、ほとんどが思い通りにいかないことばかりだが、時に点と点、線と線がつながってくる感覚があるのだろう。そういうかすかな情報をつなぎ合わせて、一つの記事(作品)になる。模索、練習、振り返りの膨大な繰り返しの上、作品として立ち上がってくる、そんなことが垣間見えるノンフィクション?であった。最初から最後まで、興味をもって読み通しました。
私が小学生から中学生の頃に、世間?をこんな風に騒がせた人がいたとは、全く知らなかった。いわゆる18禁の世界の話だから、当時知らないのは当然といえば当然だが、まぁ、すごい(といっていいのかな)人がいたものだ。
「成功者」というのは定義が難しいもので、最近の使い方は、とかく「自分が使えるお金を、サラリーマンよりも多く集めた人」くらいの意味で使われているように思う。そのくらいの意味ならば、本著のモチーフとなっている村西氏は大成功を治めた人に位置付くだろう。しかしながら、この手のセレブが残している読み物や、本著にも村西氏の発言とされている言葉のように、「稼げば稼ぐほど、不安が大きくなる」という共通の感覚があるらしい。不思議な者で、村西氏は体制と戦うことにはモチベーションを保つことができたようだが、どうあれ自由になる金銭を、心理的には持て余していた様子がうかがえる。
私のようないわゆる凡なサラリーマンの立場で見たら、破天荒とか荒唐無稽、非常識なんて言葉がしっくり感じてしまうエピソードの数々であるが、価値判断を極力抜いて村西氏を眺めた時に、人間の内側からほどばしるようなエネルギー量が、新鮮かつ驚きの連続であり、人間の生き様という一点だけ切り取れば、ここまで何かに打ち込めるというのは、少しばかりうらやましく感じることもある。やっていることはむちゃくちゃだと思うし、いわゆる常識からみたら筋が通らないことを押し通しているようにも見えるのだけれども、生き様偏差値みたいなものがあるならば、到底かなわないところにいる人だなと、素直に脱帽である。
とはいえ、価値判断を戻すならば、踏み込みたくない領域ではあるのだけれども。。
「成瀬シリーズ」第2作。どハマリしている。このすがすがしい聴ききった感が何からくるのかと考えたところ「成瀬あかりを取り巻く人達が、風変わりな成瀬の言動に巻き込まれ、笑顔になっている」と感じること。「どうなるんだろう、どうなるんだろう」と思いつつも、随所にプププと笑ってしまう言動があり、短編のそれぞれのオチは、みんなが笑顔になっている様子が表現されていること。平凡とは言えないが、突飛なことを言う成瀬が、マイペースにやりたいことをこなしていく様子は、聴いていて心地よく「よし、明日もがんばろう!」と思えるから不思議だ。続編も楽しみです。