2024年10月14日月曜日

改めて、読書の秋

 じっくりと座って本を読むことが、すっかりなくなってしまったのだけれども、どんな生活状況に置かれたとしても、本は読みたい。本を読む理由を問われると、費用対効果とか、信頼に足る情報とか、以前から小説を読むのが好き、とか、適当な意味はいくらでも思いつくのだけれども、それよりも何よりも「自分の内側に人の意思が入り込んでくるような感じ」が味わえるから、というのが本音に近いのだと思う。「なんだコイツ?」と思われそうだし、ちょっと重めの話なので、人にはあんまり言わないけど。

 人と話をすることも同じようなことがあるけれども、知らないことを知る、知識を得るだけの時間と、自分と他者とが情報という知識の交換ではなくて、いわば内面の交換ともいうべき時間を過ごすことができると、それはとても充実した、時計の時間を超越したような時間を過ごす経験になりうる。「充実した」と思えるのは、こういう経験が背景にあるのだろう。

 これが、ひとりで本を読む行為にも時折訪れる。それは小説だけじゃなくて、ビジネス書であったり、思想や自己啓発を描いたものにもありうるが、一方でそういうことを期待して読んだ本が期待外れだったり、逆に何も期待していなかった本が、そういう存在になることも時々起こりうる。要は、その辺が偶然に依っている、というのも読書への期待になるのだと思う。やっぱりいろいろ読みたい。

2024年10月6日日曜日

忙しい時にこそ、いろんなことが頭に浮かぶ 241005

  9月議会が終わったにも関わらず、地味に仕事が多い。突発的な対応にも追いまくられてしまっており、何か去年とあまり変わらない焦った雰囲気が蔓延している。

 帰宅してからは、やることやって、洗濯物を干してほぼバタンキューと寝てしまうため、日記もおろそかになるし、合気道の復習もできないし、読書もほぼ足踏み。留まって考えるということをしなくなっているのが気になってしまうので、土曜の夜にラジオをお供にちょっとまとめてみる。

●食い違い起点のトラブル

 「普通のことをやってください」「普通のことしかしていないし、できないので」「どうして普通にできないんですか」そんなやりとりが続いているある案件について。もはや「普通」って何だよ?って話になってしまっている。事業者側は「特別なことはしていませんよ。例えば・・・」と同義で『普通』を使っているのに対し、利用者は自分たちの中にある標準という意味で『普通』と言っている。具体的なイメージがすれ違っているので、分かり合う気がなければ、ずっと平行線だろう。第三者の決定を期待して、私の職場に「同席」を求めるが、こちらとしては判断する権限も理由もないので「同席する必要はない」としている。これもかみ合わない。多分「これだから役に立たない」くらいに思われている節もある。無理もないが面白くもない。かみ合わない状況のまま、何かを強行したときにしわ寄せがどこくるのか、ということを見据えていないといけないな、と思う。(特別でないという意味での)「普通」の場所に、(ある水準をイメージした)「普通」を求める人が集まって主張すれば、衝突は必至。

●スマートフォンの扱い

 一言本音。みんなででかけても、旅行へ行ったとしても、そういう「非日常」を、一瞬で「日常」に変えうる可能性を秘めたスマートフォン。旅行いってもずっとスマホいじってるなら、別に行かなくてもいいじゃん、とか思ってしまう。

●近所を騒がせている事件について

 逃げている人に対しては、人として、早くお縄になるか、無事でいられる場が見つかるかすればいいけれども、そうならない可能性もあるような気がしています。罪はつぐなうべきだけど、どうか無事でとも思うところです。そういう世界ですよね。思うところはあるけれども、Webだからこれ以上は触れずに。

●日中ぐうたら

 台風のせいなのか、気圧のせいなのか、それ以外なのか、今週一週間は体調が悪い。だるい、疲れやすい、集中力が(いつもにまして)ない。それで終末の悪天候。それも、土砂降りじゃなくてしとしとぐだぐた。これは気分もあがらない。もちろん、なにかあるなら、身体を動かして多少の補正はできる技能はあるけれども、まぁ、とはいえ、そんなに気合い入れる必要もないので、土曜日はぐだぐだしてみた。日頃滅多にみないテレビを見て、ごろごろぐだぐだ。朝ジョグはしているのでそれほど罪悪感もなく、なーんにも考えずに過ごしてみました。これはこれで、ありだな。年2~3回でいいけど。

●先日の動画の件

 前回の雑記投稿の件、要するに「発信は、どう受け止められるかわからないよ」ということが危うさに見えたのでもやもやもやもやしていたのだろう。私もここでBlog長くなっているから、今まで以上に気を付けないといけないよね。解釈の余地が含まれる、何かを想起させるようなコンテンツには、十二分に気をつけねば。

動画作品

  まだはっきりと整理できていないので、書きながら考えてみる。

 最近違和感があること。動画共有サイトで公開されている、家族の様子を紹介するような動画から思うこと、考えること。今回の題材は子ども(姉弟)の様子を映したもの。

 キーワードだけ列挙しておくと、子どもたちの顔がデータとしてWeb上にアップされること、幼い姉が一般的にやってひまう弟に対する自分本位の行動/一般的に弟が姉に従わざるを得ない状況で理不尽に振り回される様子、Webにアップする目的、共有?曝し?ネタ?

 年齢にして、3~4歳の女の子(姉)と1~2歳の男の子(弟)の関わり合いの様子を動画に収めたものが公開されているものを見せてもらう。その動画では、歩行器で移動する弟を振り回して、自分の進路を確保する姉の様子や、何かと言えばお姉ちゃんが弟に高圧的(に見える)な態度でやりとりする様子が記録されている。たしかにかわいらしいし微笑ましい。姉弟のきょうだいを育ててきた経験者としては「あるある、ウチもそうだった」と思えるような内容であった。

 この面白さって、大人のような邪気はなく、ただただ「弟という小さい家族」を思うように動かそうとするしっかり者お姉さんを、全身全力で表現していること、それであってもやっぱり子どものやりとりであって、どちらも思い通りになっていないこと、を微笑ましく切り取った生活の一部である。

 見ていて微笑ましいのだが、ふとした瞬間に我に返る「これって、誰のためのアップなんだ?」。自分のために、家族の記録を録画してとっておく、ということであれば、それで充分だ。それ以上になると、私には抵抗感が出てきてしまう。自分の子どもを見世物にする意識はなくとも、Webに公開するということは結果として世界中に公開してしまうわけで。この微笑ましさを、完全にニュートラルな感情で受け止められているのかどうか、自分にもちょっと自信は無いのだけれども、「発信者の意向」×「受け止め側の認識」となったときに、そこにあるのは発信者には制御できない感情がアウトプットされることになりかねない。率としてはどうあれ、「弟はこうやって虐げられて育つんだよ」とか「姉はコントロールしたがるんだよね」とか正負いずれかでも感情が振れてしまうことになれば、その幅はもはや制御不能になる可能性もありうる。Webは感情増幅装置だと思うので。

 となると、SNSが流行りだした時から、私はできるだけ守っていることだけれども、自分以外の家族の写真のアップロードには、これでもかというくらい慎重になってもおかしくないだろうし、それくらいの思いやりを持ったときには、公開される動画の質っていうのも随分変わってくるんじゃないのかと思うところもある。古くさいと言われるかもしれないのだけれども、やっぱり世界に開かれたWebの世界というのは、想像力がないと何が起こるかわからない、と思うのです。

スティーブン・R・コヴィー著、フランクリン・コヴィー・ジャパン訳『7つの習慣 最優先事項』キングベアー出版、2015年(Audiobook版、2016年)。

  「7つの習慣」関連の書籍っていくつか聴いているのだけれども、いつも「フツーのことだよね」と思ってしまっていた。だけど、そのフツーが難しい、基本はいつも大事なんだよね。

 優先すべきことは、緊急のことよりも本来は優先しなきゃいけないことなので、いつの間にか雑事に追われて・・・というのは、古今東西誰にでも課題となりうることで、Iyokiyehaも例外ではない。いや、むしろ、面倒事を喜んで引き受けてしまう節もあるよう(←よく指摘されます)なので、むしろ自分のための論考なのかもしれない。要は時間の使い方と目的意識のように考えて、受け止める。

 (Audiobookの紹介より引用)「時間管理の基本を、『いかにスピーディーにこなすか』ではなく、『なぜそれをするのか』という視点から見つめ直します。『なぜそれをするのか』、その目的をしっかりと見据えてプランニングすることで、最優先事項がみえてくるのです」。本書の訴えることは、大体ここに集約される。

 書籍中「コンパス時間」という言葉が出てくる。コンパスが常に北を指していることと、「時間管理のための時間」を批判的に捉えたときの言葉だと理解した。要は、より大きな目的のために行うことを、目の前にあることに適用させたり、場合によっては目の前にあるものを回避することも必要になるかもしれない。ただこなす、ではなく大きな目的を意識して、そのために目の前のことを行う、といったように、優先すべきことを意識して万事目的につながっていることが見えてくると、人生の成果に取り組んでいるといえる。そのことが幸せにつながるのだ、というようなことを文書随所で語っているように思いました。

 今は、いろいろ悩みながら、いろんなことに取り組んでいるけれども、それも人生の糧と思いながら、それでもオーバーワークにならないように「なぜ」を問い続ける姿勢は必要だと思います。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』太田出版、2015年(Audiobook版、2020年)。

  退屈の反対は楽しさとか楽しいこと、ではなく、興奮である。楽しいことがないのは退屈なのではなく、興奮を伴う刺激に乏しいということ。つまらないことが退屈なのではない。

 熱意は幸福と関係があるが、熱意があれば幸福かということには違和感がある。熱意が暴走して刺激を際限なく求めたところの一つに、戦争という事象がある。(ラッセル?)

 現代は、生産が欲求に先行する。やることがない人にやることを与えるのがレジャー産業の側面でもある。

 なるほど、暇とか退屈というものを、倫理的に哲学的に分析して深めていくと、いろんな感情や事象とつながっていくことができる。暇というのは単にやることがない、ということではないし、楽しいことがないのが退屈とは言い切れない。今を生きる私たちの社会の仕組みと実は密接に関係がありながら、その関係がとても見にくくなっているのが暇とか退屈の本質に近づきにくくしている一因ともいえる。

 Audiobookでなければ、おそらく触れられない一冊。哲学的思考や歴史的な論考が学術的に引用されているので、読み解いていくのが困難だった。聞き流している部分もあるが、それでも上記のような気づきや学びがあった一冊でした。

猪俣武範『ハーバード×MBA×医師 働く人のための最強の休息法』ディスカヴァー・トゥエンティワン、Audiobook版。

  やはり睡眠は大事。量も必要。眠りの質を上げることだけでなく、7時間程度の睡眠時間は認知機能を発揮するためには必須といえる。

2024年9月22日日曜日

旧友

  20年くらいの付き合い、となると「旧友」と言ってしまっても差し支えないか。昨日(9/21)に前職の同期と会う機会に恵まれた。初めて出会ったときは、私も24歳。私は11年勤務して転職したけど、みんなそれぞれ歩んできて、当初20人いた同期の内、15人は退職に至っている。その是非はともかくとして、それぞれ生活のステージが変わっていて、昨日会った人たちは、それぞれの生活を営んでいる。

 共有できる体験があると、話は弾みやすいものだけれども、男女、既婚未婚、子どもの有無、今の仕事などなど、一つずつ見ていけば、誰もが異なる経験を有しているもので、そんな違いや大変なこと、楽しいことなんかを確認するだけでも、面白い。昨日は私も疲れていたこともあり、聴いてばかり(ぼーっとしていた)だったのかもしれないのだけど、おいしい料理とお酒に舌鼓をうちながら、なんてことのない会話で十分楽しい時間を過ごすことができました。

 「離職者友の会」とか言いながら集まったわけだけれども、もはや前職を辞めていても、続けていてもどうでもいいじゃない、って雰囲気で、いろんな人にもっと声をかけていこう、なんて話も飛び出す。「同期が出世したら、幕張で」なんて言ったら、本部勤務歴のある人たちからは「反対!」なんて意見も出ましたが(笑)、それもほほえましいものです。

 「同期」って、これまた不思議な集団ですよね。お友達が少ないIyokiyehaですが、誘ってくれる人たちの集まりは大切にしようと思うこの頃です。ちなみに、昨日のハシゴは、

・プティ デリリウム タップ カフェ(ベルギービールと肉料理。新宿サザンテラス)

・信州味噌・料理のお店@新宿の南側

・焼き豚を食べなかったTONTON?とか言うお店@歌舞伎町

・コンビニで缶アルコール買って、歩き飲み@歌舞伎町

・焼き鳥の焼き場はあるが、奥にバーカウンターもある、謎なカフェバー@歌舞伎町

・24H営業のケバブスタンド@↑のお店のすぐ隣 西武新宿近辺

でした。お付き合いいただいたみなさま、ありがとうございました。

2024年9月16日月曜日

今年の夏は、いろいろあったが、なにはともあれ、暑い。

 なんかもう、いろいろありすぎてお腹いっぱいなんだけど、今年の夏を一言で言い表すと、もはや「暑い」としか浮かばない。語彙力のなさを露呈するようで嫌なんだけど、もう単純に「暑い」んだよね。暦じゃ「残暑」とか言うのだろうけど、30度超えちゃったら真夏だよね。着るものも変わらないし、汗かくし、意識して塩分とらないとぼーっとしてくるし。

 こまごま書き溜めていた日記を一緒にするのもちょっと面倒なので、ざっくりこの夏を振り返ると、

・6月下旬から続く咳・たんの絡みはどうやら喘息らしい。

 今までこんなこと言われたことがなかったのだけれども、どうやらアレルギー性の喘息があると疑うのが、一番しっくりくる病名とのこと。ビレーズトリエアロスフィアという薬が処方されて、服用(吸引)を始めたら症状がずいぶん軽減した、というのが決め手らしい。かかりつけ医→耳鼻科→呼吸器科ときて、診断が出るまでざっと2か月。身体のことだから、気を付けないとね。

・不可解なことが多い。Amazonの謎。焼肉店の話題。

 私とAmazonさんとの関係はもはやカミさんよりも長いので、私はWebで買い物といえばだいたいAmazonさんを使うのだけれども、最近、新刊本を検索すると同じものがやたらと高い値をつけて複数出てくる。そういうことをしたくなる理由はわかるようでいて、そういう行動をする人のことは理解し難いのだけれども、あんまりいい商売じゃないような気がするんだよね。不可解つながりで、最近新聞でもWebニュースなんかでも目にする某焼肉屋さんのセールに対する指摘の内容が、よくわからないようでいて、統一の主張になっていないような気がして、やっぱりよくわからない。世代間ギャップなら少し冷静に立場を保たないと老害まっしぐらなので気を付けないといけないのだけれども、それも含めて不可解だ。

・ちょっと距離のある、身近な人の他界に、気分が揺らぐ。

 カミさんが働いていた会社の社長で、私の後輩の知人という方が、急逝されたことを知る。また、息子が通う学校の生徒さんが亡くなられたお知らせを聞いたところ、私の師匠の幼馴染のお子さんだった、ということを知る。身近なところで人が亡くなられるというのは、なんとなく胸がざわざわするんだけど、少し距離があると余計に何もできない感が強く感じられたりする。不思議なものです。

・お稽古の時間を増やす。

 合気道がもっとうまくなりたい、と前向きに考えるようになった。黒帯間近なのもあるけれども、多分、一生モノの趣味になりつつあるのだろう。生活の中の動作にいかに型を組み込んでいくか、という発想にたどり着く。木剣を振るときには、基本動作を組み込んでやってみるとか、身体の向きを変えるときに、腰の位置を確認してみるとか、そういうことの繰り返しって、身体動作の質を変えていくように思えるのですよね。私器用じゃないので、繰り返し繰り返しやらないと身につかないから。

 今年は結局、地震のせいで帰省もできなかったのだけれども、その代わりといっては何だが、深谷の室内プールへ行ったり、次女のお友達と明治の工場見学へ行ったり、今年再開した合気道の合宿へ行ったりと、なかなか詰め込んだ夏になったようには思う。子供たち目線だとどうかはわからないけれども、仕事しながら、カミさんと合わせながら、だとこのくらいになっちゃうのかな。長期休みはそれぞれの生活リズムが変わるので、それに合わせるのは大変。私自身のリズムを変えないようにしたいけれども、周りが変わると細部が変わってくるので、なんだか落ち着かない。そういうことも高校生、中学生の運動部、となってくると起こりうることなんだよね。とはいえ、私は変わらないところは変わらないように、うまく合わせていく、を心掛けたい。

2024年8月17日土曜日

リスペクトして、リスペクトされる。リスペクトを感じる。240704

  re-spect 

動1 尊敬する

 2 尊重する

名1 尊敬、敬意、尊重

 2 箇所、点(=point)

 3 注意、考慮

  ほか

 「リスペクト」について調べてみる。尊敬。敬意。また、それを表すこと。「敬意」とは、相手に対する尊敬の気持ち。じゃあ、尊敬は?1 人格・識見・学問・経験などのすぐれた人をとうとびうやまうこと。そんきょう。2 文法で~(略)尊敬語。とうとぶ=敬って大切にする。あがめる。たっとぶ。うやまう=人や神仏を尊いものと考え、それを行動や態度に表す。あがめる。尊敬する。あがめる=1 この上ないものとして扱う。尊敬する。敬う。2 大切にし、寵愛する。などなど。

 要は、相手を相手として大切にすること。言動で相手を大切にすること。そういうことなのだろう。横文字で「リスペクト」っていうと、この言葉を使うハードルがぐっと下がるのだけれども、意味するところは同じ。相手を大切にすること。

 今まであれこれと身近な人にあーだこーだ言ってきたのって、一言で表すと「お互いにリスペクトしようよ」というだけのことなのだろう。忙しいと、相手のことを気に留めにくくなる、大切にしようとする言動が弱くなる=「リスペクト度が低くなる」、くらいか。何か面白そうに盛り上がっているけど、ある人がそれにはのっていないよね?=「リスペクトしきれていない」「大切に扱われていない人がいるよね」、ということなのか。

 なるほど、先日はパーソナリティが一方的なコメントに対して、冷静に(聞こえたけど、キレていたのかな?)「リスペクトが感じられないよね」と言い切ったことに、心の中拍手だったんだけど、もっと身近に、もっとあたりまえのところに「リスペクト」の感覚って感じ取りたいし、まき散らしたいと考えてしまう。派手なリスペクトじゃなくて、地味でいい。今風なら「陰キャのように静かに」でもいい(←この「キャ」も思うところはあるけど)。リスペクトを感じられて、リスペクトができる、自分の周りに時々でも双方向リスペクトが生じると、周りがどんどんよくなっていくのではないか?これってIyokiyehaが時々酔っ払って言い放つ「個別相談(カウンセリング)は世界を変える」みたいなものと相性がいいんじゃないか?と思い込んでいる。

武田惇志、伊藤亜衣『ある行旅死亡人の物語』毎日新聞出版社、2022年、Kindle版。

  「人を感じる取材」と感じた。記者さんの仕事すべてがこの密度で行われるとは思わないのだけれども、いわゆる「取材力」というのは、こういう形で発揮されるのだろう。そんなことを感じた一冊。取材プロセスが(おそらく大部分の地味な大変なところは省略されているのだろうが)表現されているのが、読んでいて大変面白い。

 確かに「ある行旅死亡人」だから、「あぁ、そういうことがあったのね」で済んでしまう出来事でしかないが、そこに気がつき(認知して)、調べていき、まとめていく。記者の仕事って、一つの表現活動なのだな、と思いながら読んでいった。一つの表現のために、膨大な準備と取材をして、入手した情報を、正確かつ伝わるように表現し、発表する。直線的に表現できるこの活動の見えない部分は、地道な情報収集、取材など、ほとんどが思い通りにいかないことばかりだが、時に点と点、線と線がつながってくる感覚があるのだろう。そういうかすかな情報をつなぎ合わせて、一つの記事(作品)になる。模索、練習、振り返りの膨大な繰り返しの上、作品として立ち上がってくる、そんなことが垣間見えるノンフィクション?であった。最初から最後まで、興味をもって読み通しました。

本橋信宏『全裸監督 村西とおる伝』太田出版、Audiobook版。

  私が小学生から中学生の頃に、世間?をこんな風に騒がせた人がいたとは、全く知らなかった。いわゆる18禁の世界の話だから、当時知らないのは当然といえば当然だが、まぁ、すごい(といっていいのかな)人がいたものだ。

 「成功者」というのは定義が難しいもので、最近の使い方は、とかく「自分が使えるお金を、サラリーマンよりも多く集めた人」くらいの意味で使われているように思う。そのくらいの意味ならば、本著のモチーフとなっている村西氏は大成功を治めた人に位置付くだろう。しかしながら、この手のセレブが残している読み物や、本著にも村西氏の発言とされている言葉のように、「稼げば稼ぐほど、不安が大きくなる」という共通の感覚があるらしい。不思議な者で、村西氏は体制と戦うことにはモチベーションを保つことができたようだが、どうあれ自由になる金銭を、心理的には持て余していた様子がうかがえる。

 私のようないわゆる凡なサラリーマンの立場で見たら、破天荒とか荒唐無稽、非常識なんて言葉がしっくり感じてしまうエピソードの数々であるが、価値判断を極力抜いて村西氏を眺めた時に、人間の内側からほどばしるようなエネルギー量が、新鮮かつ驚きの連続であり、人間の生き様という一点だけ切り取れば、ここまで何かに打ち込めるというのは、少しばかりうらやましく感じることもある。やっていることはむちゃくちゃだと思うし、いわゆる常識からみたら筋が通らないことを押し通しているようにも見えるのだけれども、生き様偏差値みたいなものがあるならば、到底かなわないところにいる人だなと、素直に脱帽である。

 とはいえ、価値判断を戻すならば、踏み込みたくない領域ではあるのだけれども。。

宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』新潮社、Audiobook版。

  「成瀬シリーズ」第2作。どハマリしている。このすがすがしい聴ききった感が何からくるのかと考えたところ「成瀬あかりを取り巻く人達が、風変わりな成瀬の言動に巻き込まれ、笑顔になっている」と感じること。「どうなるんだろう、どうなるんだろう」と思いつつも、随所にプププと笑ってしまう言動があり、短編のそれぞれのオチは、みんなが笑顔になっている様子が表現されていること。平凡とは言えないが、突飛なことを言う成瀬が、マイペースにやりたいことをこなしていく様子は、聴いていて心地よく「よし、明日もがんばろう!」と思えるから不思議だ。続編も楽しみです。

永井陽右『共感という病』かんき出版、Audiobook版。

  自分が関わっていてとても気分がいいと思える人がいる。関係や考え方はどうあれ、人と人という次元で「共感」できているのだと思う。一方で、何か関わってくるんだけれども、一緒にいても何かしっくりこない人がいる。「やっぱり大切なのは共感なんですよね」とか言われる。何かピンとこないのだけれども、それでも使う言葉は「共感」だったりする。

 「共感」を辞書でひくと、

 きょう かん【共感】

1 他人の考え・行動に、全くそのとおりだと感ずること。同感。

2 心 sympathy 他人の体験する感情を自分のもののように感じとること。

ほか(大辞林より)

 なるほど、使い方でその方向が変わるし、焦点となる内容も少し違う。おそらく、心地いい前者の事例は、表層的な言動はどうあれ、もう少し深いところ、無意識も含めて何か同調を感じているのだろうし、ピンとこない後者は方向がバラバラで食い違っているのだろう。共感を求められても私がそれを望んでいないのか、私の共感とは異なる共感を求めているような、そんなちぐはぐな感じなのだろう。

 と、少し調べたり考えてみてみると、確かに「共感」という言葉の使い方は難しい。この微妙な違いとか、些細な感情をどこまで入れ込むか、という方向・視野の違いが、著者の言うところの「共感過剰社会」の背景にはあるのだと思う。「共感」によって、人々がつながることもあれば、「共感」によって結ばれた外側で排除されるかのような感覚や状況がある。広く「共感」を求めれば求めるほど、なんとなくうさんくささが生じたり、同調圧力みたいなものを感じられてしまう集団も、見え隠れする。「それは『共感』ではない」と言いきるには、ちょっと無責任ではないか?意味のすり替えによって拡大する局面もあれば、それによって弾き出される人もいる。じゃあ、「いい共感」と「悪い共感」があるの?とも思えてしまう。

 著者はおそらく「そうではない」と主張しているのだと思う。むしろ「共感」を良いものとしてしか扱わない、「よい共感」を是とすることをも一旦否定して、「『共感』のもつ負の側面を理解して、付き合っていく」ことの意味を説いているのだと思う。それは、著者がテロリストの社会復帰?更生?に取り組んできた経験から感じ取った違和感であったり、いわゆるムーブメントを起こした社会活動が、「共感」ではないものを求めたり、時に「共感」によって傷つけられたりといった事例を、ロジックとともに、それだけでなく感情を丁寧に語ることによって積み重ねられた知見なのだと感じとるに至った。

 いわゆる「よい共感」を求めたいが、「共感」の本質はあくまで相互関係であって、求めたから得られるものではない、自分の考える「共感」が人の考える「共感」とはイメージが異なることもあり、それは小さな差であるとは限らず、正負の全く逆のイメージとなることも少なくない。よかれと思ってやったことを、全く理解されずに否定されてしまう、ということが起こっているのがいい事例だろう。おそらくそうしたことを積み重ね積み重ね、言葉にしてきたという言葉の数々、視野の広さを感じる一冊でした。大変迫力のある内容です。

2024年6月29日土曜日

感情を意識に置くって大事だな

 雑記ですが…。

 定期的に聴いているある番組で、パーソナリティの一人が放った一言が印象的だった。視聴者からのある批判的なコメントを受けて、冷静に「この指摘は、我々に対するリスペクトが感じられない。私たちもリスペクトできない内容だから、議論にならない。このままならもう聴いてくれなくてもいい」という主旨のことを言ったことに対し、Iyokiyehaは想定範囲を超えたやりとりに感動しつつ、この新しい視点を得たことに併せて感動した。もう一歩だけ、このコメントの主に歩みよる方法もあるのだろうが、このパーソナリティは「お互いのリスペクトがなければ議論にならない。批判的になったとしても、相手へのリスペクトは必須」という姿勢を貫いたことに、心の中で拍手をしていた。

 いろんな情報に振り回されることがあるのだけれども、判断基準の一つに「自分の人生を、自分で歩いているかどうか」という点が意識下に上がってきた。新しい情報に寄って行くことも大事な姿勢なのだけれども、それによって自分の意志に反する行動をとらなくてはならないとなったら、それは自分にとっては正しくない言動になりかねない。自分の気持ちにも意識的にならないと、ついつい何かに振り回されてしまう世の中に生きているのだと、改めて感じさせられた。

 スターバックスは、世界的な大企業。ただ、それだけの理由で利用を控えていた時期があったのだが、最近は自宅近所に店舗があることも手伝って、割と抵抗なく利用している。自分もアップデートしないといけない。生活者の視点からは見えない、同社の資本がやっていることはとりあえずさておき(というか、判断材料がないので判断保留とする)、見えるところでの商品の品質や、接客のなんというか感情的にプラスになるようなやりとりは、世界を平和にするための基礎の基礎ともいえる、人間関係の円滑さと気持ちよさを作り出しているように感じる。「どうぞ、お楽しもください!」と声をかけられたことに、新鮮さだけでなく、気持ちが伝わってくる感じがして、とてもいい気分で休憩時間を過ごすことができた。

 というように、世の中、ロジックで見えることもたくさんあるのだけれども、感情的なものや見えない力みたいなものを意識にのぼらせることが、自分にとって大事なことなのではないかとの仮説に行き着く。自分のことは自分が一番よく知っている、それは真であり偽でもある。わかっていることだけでなくて、例えば自分に触れているところから、どんな力が自分に伝わっているのか、ということを説明できる人がどのくらいいるか、というとどうだろう。少なくとも、自分は合気道をやっていても、どこに力が入りすぎているのかしょっちゅう忘れてしまう。でも自分の状態を詳細に知っていくことが、自分をコントロールすることになり、自分の感情がある程度コントロールできると、言動レベルでいい発信ができるようになり、人々のいい発信が、いい場を作り、いい場がいい地域を、いい地域がいい社会を…と広がっていくようなイメージが、なんだかここ数日で意識にのぼってきた。たぶん、これは、いい感情だと思うので、言葉の限界まで書き残しておくことにする。

渡部陽一『晴れ、そしてミサイル』ディスカヴァー21、2023年、Kindle版。

  渡部氏が最も「柔軟」だと気づかされる。戦争の中に日常があることを語る。人を理解することが、相互理解の土台となり、真の意味での国際理解、平和への一歩だとする。さらに、ジャーナリストとしての情報の読み解き方についても言及がある。「戦場カメラマンの~」という独特な口調が印象的な渡部氏だが、本当にすごい人なのだと再認識させられた。Voicyもやってますよ。

https://voicy.jp/channel/2673