2025年10月14日火曜日

本多正識『1秒で答えをつくる力 -お笑い芸人が学ぶ「切り返し」のプロになる48の技術』ダイヤモンド社、2022年。

 特に若い子が使う言葉遣いは、言葉の意味に解釈が入る余地があるので、十分に注意している。とはいえ、最近聞いていて好きな言葉は「秒でやります」というもの。時にこうるさいIyokiyehaが許容!としてしまうようないい感じがあります。
 いろんな話題に対して「秒で返す」ことに長けた人に、芸人さん、がいます。その世界は、映像を見ていてもわからない競争社会で、それこそ芸人さんたちは、そこにある機会(チャンス)にかけて「秒で返し」続けているようにも見えます。
 では、それはその人が生まれもったセンスによるものなのかというと、それを否定するつもりはないんですが、どちらかというと技能として磨き続けていることが、それぞれにあるように思います。トップクラスの芸人さんたちには、それぞれのトレーニング方法を実践しているのでしょうが、本著はNSC講師の本多氏が、長年にわたる芸人さん養成校で磨いてきたメソッドをこれでもかこれでもかと紹介しています。
 普段見聞きする情報をほめまくったり、言い換えてみたり、真似からエッセンスを見つけ出すとか、語彙を磨くとか、いつでも準備しておくなど、地味で地道なのだけれども、なるほど、問いに対して即座に「秒で回答する」妙技は、こういう積み重ねによって支えられているのだと感じられる内容ばかりです。

最近思うこと 251014

 今年の夏場は、仕事の中では「悪意」のことしか考えられなかったな。本当に、なんというか自分本位というか、相互理解を放棄して理解「できる/できない」ではなく「する/しない」のレベルで感情がぶつかりあうケースが散見されて、もうなんというかモチベーションがだだ下がるということばかり起こっていた。いや、今も継続しているのだけれども、さすがに呆れや諦めを一通り通り過ぎて、もはや「関わり合わない」ことを選択している自分がいる。これが福祉の現場で、今困っているその人を助けるためのやりとりであれば、もう少し変わったアプローチをするのだろうけれども(してきたのだけれども)、今の仕事で起こるのは「困っている」の意味がそれとは異なるように思う。すなわち、生活上のどうしようもない困りごとに対して「助けて」ではなくて、困りごとに自分の欲をのせて「どうにかしろ」が横行する。これは、(やりたくないけど)全面戦争の様相にしかならず、「どうしようもない、外れ論理で、反撃できない相手を責め立てる」側と、「背景が変わる中でやむを得ず守らざるを得ないことを守らないといけない」側との、不毛な言い争いが続くだけである。
 なるべく距離をとりつつ、うまく守って切り抜けるしかないのだな、と思うこの頃である。

 後ろ向きな話はここまでにして、生活自体の改善点。
 情報インプットのバランスを見直し続けている。もう少し活字からインプットしたいところであるが、もう少し割り切って聞く情報に頼ることを意識している。PODCAST、Voicy、ラジオあたりであるが、こうしたものに触れる時間を意識して増やしている。家事をしながらインプットできるいい習慣である。
 一方で、アウトプットはというと、書き捨ての日記を見直している。このBLOGの更新もがんばりたいところであるけれども、デバイス使用の時間を減らしている経緯もあり、手書きでちょっとした日記を続けている。寝る前のリラックスになるし、記録としていつまでも残るわけではないけれど、頭の中には残りやすい実感がある。
 で、上記を踏まえた学びについて、身体動作を組み合わせることの効能を改めて感じている。合気道のお稽古がとってもいい事例になっているのだけれども、もともと仏教分野では心身それぞれの修行は同格という考え方がある。頭だけではダメ、身体だけでもダメということである。双方のバランスをとることで昇華していくもの、と考えるのならば、私の合気道のお稽古にも通じるし、日々のトレーニングにもつながっていくものだと思います。少なくとも、朝のルーチンと歩き通勤とで、そこそこの運動量を保てている。
 改めて、「ゆっくり」読むことを味わっている。速読がいいと思い込んできたのだけれども、言葉にこめられてた意味を考えながら読む「熟読」のよさを、何十年かぶりに味わっているところである。

大人とはどんな人?

頭のいい人が、世の中に必要な人とは限らない。
ちょっと違和感あるよね。世の中作るには、頭がいい人は必要です。
じゃあ、頭がいい=勉強ができる+やるべきことをできる+他人を思いやることができる という分解してみたらどうだろう?
△勉強ができる人が、世の中に必要な人である。
○やるべきことをできる人が、世の中に必要な人である。
○他人を思いやることができる人が、世の中に必要な人である。
少し解像度があがってきたね。もっとやれば、もっと解像度はあがりそう。「頭がいい」という言葉は、使いやすいからよく使ってしまう。反対の意味を自分に当てはめて「自分バカだからさ」とかつなげると、なんだかそれっぽく聞こえるから不思議である。

ここのところ、そうしたことを感じ取る場面があって、表現だけ紹介すると、
「勉強ができる人が、世の中のためになるとは限らない」ときたから、思わず柏手。
そういうことなんです。目的を失った理屈っていうのは、ただの屁理屈であって、一つ一つは相手に詰め寄る刃になるのかもしれないけれども、全体で見たら大きいだけの鈍器みたいなもので、そんなに切れ味が鋭いわけじゃない。そんなものを振り回す理由が、相手に伝わらないとなると「…あなた、何やってんの?」ということになる。で、そんなことに付き合わされている人が、世の中のためになることができるか、というと、そんなことはないわけで。
仕事の流れを A→B→C→D→E(完了)と考えた時に、Aがたとえ必要なことであったとしても、Bでそれを無用なものにしてCに引き継いだとしたら、Cはその仕事を継続する限りC→D→Eと無用なものが流れていき、無用なアウトプットが生じることになる。流れの上流で無用なものを流したら、その下流は無用なものが流れていくだけで、だれかがそれをやめにしてやりなおさない限り、無駄なものがただただ生産されていく。
まぁ、iyokiyehaさんが、今その下流にいる感覚を受けているのであって、日々「自分の仕事が世の中のためになっているのか?」と自問しています。

大人って、物事を有用なまま飲み込んで次に渡すことができる人なのでしょうし、もちろん物事を理解する頭のよさは必要ですが、やるべきことを自信をもって進めていくことができるべきで、かつそういうことを周囲や対象の視点を活かして進められる人のことだと思うのだよね。「頭がいい」を成熟したといった意味で使っていた人たちは、このあたりで認識を改めた方がいい。時に勉強ができる人の中には、他の要素を失っていることに気づかないまま、受け止めたことを「自分本位」で塗り替えて次に放り投げる人がいる。そして、その場面で変容する人間関係があったり、以下の仕事がすべて世の中のためにならない仕事になってしまうことすらある。いいたいことばっかりやっているのは未熟な証拠、できるといって微妙なことをやってしまうのも未熟な証拠。本当の意味での大人は、納得いかないことも一度は腹に収められる人のこと、言わなきゃ気が済まないことも言わないようにできる人、言うべき時にきちんと相手に届くように言える人、そういう人なのだと思う。それができない内はまだまだ未熟・おこちゃまと言われるのだろうよ。

2025年9月7日日曜日

悪意再考

人の悪意は避けがたいということは、先に考えた通り。そもそも「やっつけてやろう」という気持ちで向かってくる人に対して、説得を試みたり、何かを説明して分かってもらおうとすることは、ほぼ徒労に終わるのだと、Iyokiyehaさんは最近あきらめに近い学びを得た。動機や目的は特定し難いけれども、たとえ事の発端が「何かを成し遂げよう」とすることであっても、何かのきっかけで矛先を相手に向けることそれ自体が目的とすり替わって亡霊化する。亡霊化した悪意は、促進剤を使ってその相手が対応しにくいように手段をデザインして攻めにいく。相手方というのは、どうしても「想定外」というか「守備範囲外」の悪意が攻めてくるのだから、防戦一方となる。なんとしても分が悪い。

ということを考えながら、最近の気づき2。私の相談スキルは「相手の思考を変化させる」ものとはちょっと違って、「相手の思っていることを促進する」のが一歩本質に近づく説明になるのだろうと思った。要は、ポジティブな気持ちが少しでもあるなら、プラスの方向に伸びていくが、ネガティブな気持ちがあるとそれが促進されて悪意となったり、亡霊化することになる。攻めてくる人に反撃するというスキルとは違って、きちんと気持ちのある人を支えていくことが私のストレングスなのだろう。一方で、苦情の主からは、ネガティブ感情が増幅していくゲートにもなりかねない。要注意です。

2025年7月23日水曜日

悪意から逃れるのは難しい。

 すべての価値を金銭に置き換えると、他と比べる余地が大きくなる。資本主義っぽい近代国家っぽいことって、案外そういうところに基本原理があるのかもしれない。
 人をけなすことや、強い指摘を行うことって、その相手に不快な感情を抱かせるのだけれども、そうして感情が動いてしまった人が、理由はどうあれ反撃に転じた瞬間、主張の主と同じ土俵に立つことになってしまう。その理由が、たとえ「自分の身を守ること」だとしても、だ。真に自分の身を守るならば、一方的な刃に対し、捌いて無効化できれば優、刃が届かないところまで距離をとってそれを保つことができれば良、無視しきれれば可、といったところだろうか。「一矢報いる」「やられなければやられる」「これ以上やられる前にやっておく」みたいな、凡人の中にふと芽生えやすい感情は、それそのものが相手の刃の範囲内に取り込まれていくことになる。
 それで、同じ土俵に乗ったら、あとは比較の思想が奔流とともにやってきて、あれがいい、これが欲しい、もっと欲しい、もっともっと欲しいと、どこぞの歌詞のように(あの歌は名曲です、本論とは関係なし)本来不必要なこと・ものに「必要」「大事」のレッテルを貼って、自分自身を煽り立ててくる。こういう構造があるように思えるこの頃。

 あと、自分の中ではちょっと似たことで最近のトレンド、「悪意は防げない」。根拠がない、あるいはトンデモ話やデマというのは、「言ったもん勝ち」の側面が大きくて、自分の間違いをしくみの不備や不可能なことに転嫁してそれに関係する相手を責め立てる、というのが、ここのところ身の回りで起こっていることに共通する構造だと思う。ただ、その向こうで一貫しているのが、「間違えたのはあなた(方)のせい」「わたしはこう思っていた」「○○と読めてしまう」というあたりの感情と(屁)理屈だろう。言ったもん勝ち。
 周囲の出来事を透かして、(限定的に私が見聞きする)世の中の言説を当てはめてみると、○○ファーストとか、■■優先とか、そんな言葉になって広がっていく。だいたい「日本人ファースト」ってどこに線引いて、何をしようとしているのだ?ヘイトや差別の発想がカウンターバートから提出されているけれども、それを追い風にしつつ、「あなた(方)の言う『日本人』って誰よ。どの範囲なの?Iyokiyehaさんは当てはまるのかい?」と問う。私の身近な知り合いにも、外国ルーツの方はたくさんいるし、その人たちに「日本人ファーストだから、あなたはダメよ」とは言えない。もちろんそれに一言「俺もいいのか知らんけど」とつけることになるが。そのくらいおかしなことが、(私にとっては見苦しい)動画になって政治にも広く影響を与えているのが、本当に「気持ち悪い」と思った最近です。
 とはいっても、私の生活は変わらない(変えない)ようにしたいのだけれども。先日、ひょんなことで体験した「温活」が、身体によさそう。
 

話し方のレッスン

 ひょんなことからご縁があって、話し方のレッスンを受けてきました。
 これまでの経験もあって、プレゼンや人と話すこと、それ自体にはそれなりにスキルに自信はあるのだけれども、とはいえ、仕事以外のところできちんと教えてもらったことはないので、いい機会でした。
 学んだことは、言葉にすると月並みなんですが…
・(その話の中で)一番伝えたいこと/抽象度を高めた 一言をそえる。
・フィラー、語尾フィラーを減じる
 ということです。言葉にすると、どこかで聞いたことがあって、いろんな場面でいろんな人が言っている、ことですが、これをきちんとトレーニングする機会はとても貴重でした。
 頭使うし、話し方を気にするととっても窮屈だし…
 でも、録画してもらった自分の話し方を見て、たくさんの気づきがありました。印象的だったのは、「自分が思っているよりも窮屈さは見えにくい」こと。むしろ、自分が「窮屈」と思った話の方が、聞いている立場としては「話に集中できる」。内容が浮き彫りになる話し方、なんて言えるのだろうと思いました。
 「一言」ワークは、時々、丁寧に言葉選びをするようにしたら、きっと私があこがれる「難しいことを端的にずばっと言える」人に近づくのだろうな、と可能性を感じることができました。
 出不精な私にとって、研修とかセミナーってどうしても一歩踏み出すのに力が要るのだけれども、生活のベクトル(方向性)が合ったものは、必ず学びがあるな、と改めて思う次第です。仕事で参加する(しなくちゃいけない)説明会とか講習会に当たりはずれを感じるのは、このベクトルの重なり具合なんだろうな、とも感じる機会になりました。
 何より、今の言葉で言うならば「推し」が提供している講座に参加できたのは、自分にとっては、とってもとってもいい経験になりました。偶然とはいえ、こんな機会をいただいたことに、ほんと感謝です。

新庄耕『地面師たち ファイナル・ベッツ』集英社、Audiobook版。

 「地面師たち」というドラマがネットフリックスで公開されており、妻の勧めで一話を観て、それっきりになっていた。同名の小説が紹介されていたので試してみる。
 とにかく「気持ち悪い」と「人間が本能むき出しになる瞬間」が交差する。ドラマのエピソードとは異なるのか?とはいえ、ハリソンが主要な登場人物として現れるなど、どちらかがモチーフとなっているのだろう。
 ハリソンの人間描写やちょっと倒錯した性癖など、元アスリートが成績不振をきっかけにギャンブルに身を投じ、通常の思考あるいは本人が落ち着いた時の思考では「ありえない」行動を、自分の欲(感情)に従って選択してしまう様と、その結果によって現実を突きつけられ、後悔と他責と自責が混在して混乱しつつも冷めていく様子など、人間にありがちな感情の動きを、振れ幅大きく、とかく「気持ち悪く」描かれている。
 とにかく「気持ち悪い」のだが「気になる」読み物だ。登場人物一人一人のキャラクターが尖りすぎていて、元気のない時には気持ち悪さが優位になってしまう。ちょっと注意です。

米国戦略諜報局(OSS)著、越智啓太、国重浩一訳『サボタージュ・マニュアル:諜報活動が照らす組織経営の本質』北大路書房、Audiobook版。

 ちょっと変わった一冊。
諜報(ちょう ほう) 敵の様子をひそかに探り、味方に知らせること。また、その知らせ。(デジタル大辞泉より)

 イメージしやすいのは「スパイ」なのかもしれないが、様々な諜報活動があるなかで、その技術や知見を利用して「組織にダメージを与える」ことを知ることにより、組織の在り方を考えることを促す一冊。いろんな方法で、人間関係や組織の雰囲気に悪影響を与える方法、物理的に物的資産を故障、不具合、破壊する方法、ハードにもソフトにも、様々に紹介されているが、これらの内容は「自分がそれを試してみる」ではなくて「敵はこう考えて組織を壊しにくるから…(どうする)」と続く思考を促す一冊といえる。
 印象に残ったのは以下の部分。
・諜報員が見て、分析する、組織の弱点。
・諜報活動として、質的に円滑さを失わせて不協和音を生む方法と、物理的に資産を壊す方法がある。
・例えば、規則を頑なに守る、というのはそれによってクライアントや組織内に不便が生まれる。頑なに厳守を主張することにより、組織内の円滑さが失われる。
・機械ものは、砂や過剰な油分(ちょっとしたこと、あるいは適量ならば必要なもの)に弱い。

ジェイエル・コリンズ著、小野一郎訳『父が娘に伝える自由に生きるための30の投資の教え』ダイヤモンド社、Audiobook版。

 投資に関する考え方について、資産形成に成功した著者が未来を生きる娘に語る形で説明するもの。謙虚な姿勢が貫かれており、まさに投資のイロハと目標設定、考え方について論じる一冊。奇をてらう内容ではないが、着実にためることによって何を目指すのかということが語られている。要点は以下の通り。

・投資は、基本的に「箱にすべてを入れて待つ」のが、資産形成には有用。

・X%の金利で運用するとした時に、貯蓄のX%が年収に当たるところまで貯めることで、人生のステージが変わる。

・人生に選択肢がある安心感。

・まずは、半年分の収入を貯蓄すること。

2025年5月24日土曜日

もっとシンプルでいい。もっと現実から受けるものを大切に。

 毎年この時期に歳をとるので、目標を微調整したり、ちょっと振り返ったりするわけです。
 ここのところ、毎年職場環境が変わるため、あまり奇をてらったことは考えておらず、成り行きでどうするか考える、ということを繰り返しているわけですが、一方で自分の能力について考えさせられる機会も多く、ますます自分の立ち位置というのがわからなくなっています。
 とはいえ、それで悩んでいるかというとそうでもなくて、元々偏差値が高いわけではないので、やっぱり今の仕事は膨大すぎて時間がかかる。そういう側面だけ切り取ると、歳をとったことを理由にしたがる人ばかりなのだけれども、そうじゃなくて物事の扱いを、自分で複雑にして、自分にそれを課してしまっているのではないかな、と思うわけです。
 いい、悪いではなく。体調を崩したら「悪い」だけど、そこまではいっていない。ただ、生活上の負担はカミさんに寄ってしまっているので、それはやっぱりよくない。
 やらなきゃいかんことはあるけれども、もっと「やり方」「受け止め方」をシンプルに、一つ一つのことを丁寧にやっていきたい。

2025年5月11日日曜日

木澤千『雪の朝の約束』文芸社、2021年、Kindle版。

 これは、おそらくノンフィクションだろう。事実は小説より奇なり。木澤氏の生活には、家族との深い愛情と、それをきちんと守ってきた跡が感じられる。
 早逝された父親の最後となった一言「頼んだぞ、約束だ」という一言、そして母親からの「二人を頼むね」と、おそらくこの時には何気ない一言だったのだろうが、著者の記憶にずっと留まり続け、60年以上を経て母親が亡くなられた時に、その言葉の意味することを全うしたと実感をもったことが、小説を貫くモチーフとなっている。
 生まれ育った町の歴史、知人との付き合いと関わり、家族の関係、自分の生活、そして母親を介護する生活。いろんなことに押しつぶされそうになりながらも、そのたびに予期せぬ、決して大きくはないけれども、いろんな人の助けがあり、それでもうまくいかなくなりそうになったり、それにも助けが現れたり。決して楽でない、決して明るくない内容ではあるけれども、この話に含まれる感情は、人の生活そのものが表されていて、生々しい実感とともに伝わってくる思いが、行間の端々から読み取れました。静かに迫力がある読み物でした。

営みの総和は、言語表現の総和に非ず。

 そういえば、以前から「人の生活は煙のようなもの。制度は箱みたいなもの。」という表現でもって、対人支援の文脈における支援制度はそれをいくら足し算していったとしても、クライアントの生活の総和を満たすことはない、と言ってきた自分に気づいた。このことが、「言語表現によって、その伝えたい思いや思考をすべて表現できるわけではない」ということと接点があるような気がした。
 ここのところ、仕事でも書いて書いて読んで、読んで読んで書いて、ということを繰り返しているところがあり、その中でも「多分本質はここじゃないんだろうなぁ」と思いながら、ある言葉に言及して主張せねばならない場面もあり、なんというか、本当に本来の力の使い方じゃないよなぁという実感が生じて仕方がない。そもそも、私はそんなにできる人ではないので、ついていくのが精いっぱい、というか、着いていけているのかもわからないことが、そういうもやっとしたことであるから、なんとも言えない気持ちが湧きやすい。かたや、本質的な仕事が目の前に巨大な壁となって立ちはだかっているから、余計に焦りが生じてしまっている。あまり身体にはよろしくない。
 言葉によって表現しうることは、人の営みや思考・思いのほんの一部でしかなくて、それがゆえに何らかの感情によってそれらが刺激されている場合、言葉は形を変えてとめどなくあふれてくるものである。そのあふれているものに反応せざるを得ないという環境は、次から次へとあふれてくる湧き水を、器にとってどこかに移さないといけないような、そんな作業を彷彿とさせる。その移した先に(適切な)目標があるならば、それまではがんばろう、という考え方ができるかもしれないが、そうでないと途方もない作業を終わりなく続けなければならないということであり、これは考え物だ。本当はそれを生み出している感情や生活状況、思いや思考、こういったところをあらゆる方法で整理していかなきゃいけないのに。
 現業の時には、そういうことも知恵と行動とで、ある程度触れられる機会を作って、なんとかかんとかしようとしたり、そこに触れた上でクライアントの感情に働きかけて、本心はあきらめて次善の策に落ち着いてもらうような働きかけができたのに、今の事務職、法制度の範囲でやりとりしなければならないこの窮屈さは、今の仕事を続ける限り付きまとうものなのだろうと思う。それでいいところと、そうでないところがある、という(私にとって)当たり前に思えることを、当たり前と思ってもらえない人に、お互いが表出する言葉でのやりとりによってのみ主張し合う、というのは、何か世の中がよくなる方向に向かう一助となるのだろうか。

木下勝寿『チームX -ストーリーで学ぶ1年で実績を13倍にしたチームのつくり方』ダイヤモンド社、2023年、Audobook版。

 ストーリーという言葉で挑戦してみた一冊。ビジネス小説みたいなものをイメージしていたが、「事実は小説より奇なり」と言わんばかり、実話ストーリーでした。おそらく、著者がこの渦中にいる頃は、次から次へとやってくる課題難題に誠実に大胆に向き合って、悩んで切り抜けてきたからこそ生まれたストーリーであることを感じ取った。
 著者は北の達人コーポレーション代表取締役。自らが実績のあるプレイヤーであった経歴があったこと、組織を率いることの苦労と悩みなどを常に抱えつつ、会社を軌道に乗せてライジングしていった様子を、組織内のかなり突っ込んだ視点で紹介している。思いが共通言語にならないことのジレンマから、共通言語ができあがっていく過程、更に組織内にその「言葉」を通じて「思い」が浸透していく実感が示される。(評価するつもりはこれっぽっちもないが)生々しい言葉で綴るストーリーには、体系化しきれないほどの「思い」があふれており、経験を伝わる形に押し込めた感がある。木下氏には、語り切れないほどの思いと思考と経験が、まだまだたくさんあるのだろうと察する。他の著作にも期待である。
 月並みな感想かもしれないけれども、前例踏襲はあくまで踏み台であって、事業を創る、育てていくという局面においては、他と同じことをしていればいいかといえば、そうではなくて、あくまで目的を見据え、目的を適切にブレイクダウンした目標を一つずつクリアする。目標設定においては、その達成の先に必ず目的に近づくことができるものを掲げること。選択においては、データの収集は必要だが、予測を伴い選択にはデータのみから導かれる結論には要注意。一生懸命取り組むがゆえに視野が狭まっていることに気づきにくくなる状態には注意しつつ、いろんな見え方を大切にすること。議論を尽くして出てきた選択肢はABテスト(ランダム化比較実験)等を含めて検証することなど、基礎・基本の徹底が、結局はよりよい事業を生み出したり、事業がライジングしていく土台となることを、学ぶことができたように感じる。
 項目だけ拾っても、書籍を読まないとわかりそうで、わからないものであるが、要所の引用のみ。
○一瞬にして破滅へ導く「企業組織病」
1 職務定義の刷り込み誤認
2 お手本依存症
3 職務の矮小化現象
4 数字万能病
5 フォーマット過信病
○どん底からV字回復へ導く5つの「Xポイント」
1 KPI
2 教育の仕組み
3 共通言語化
4 タスク管理
5 風土

2025年5月3日土曜日

大地の恵みと植物間のコミュニケーション

 狭いながらも庭のある我が家にとって、この時期は複雑な気持ちになる。いわゆる「雑草」だ。むしってもむしっても、そんな私をあざ笑うかのように、毎日毎日株数を増やしている。昨日むしったエリアに、翌日新芽が生えているのを見ると、感心するとともに、途方にくれてしまう。雨上がりなど「人は無力だ」という言葉が頭に浮かんでくるほど、うぇーいという声が聞こえてくるような草たちから挨拶されているようで、ちょっと面白くなってくる。
 今年は、毎日朝散歩に出た後で、家に入る前5分くらいで部分部分の草むしりを行っている。おかげでぱっと見はそこそこ手の入った庭に見えるが、結構な作業量になっている。
 そんな最近の気づき。一部の自治体では駆除が周知されている「ナガミヒナゲシ」が、多分に漏れず近所にも生えている。明るいオレンジの丸っこい花を、ちょっと背を伸ばしてつけるもので、みなさんもどこかで見たことがあるかもしれない。我が家の庭にも2年ほど前に入り込んで駆除して今は平和であるけれども、自宅前の歩道にもちょくちょく生えてくるので、そちらも併せて見つけると抜いている。
 以前紹介した稲垣栄洋氏の本の中で、同じ植物でもそのエリアの状態によって花のつけ方が変わるという話があったことを思い出す。
 ナガミヒナゲシは茎をぐんと伸ばして、周囲の草花よりも高いところに花をつけるように見受けるのだけれども、群生し始めているそれらを抜くと、その次に生えてくる個体は、ずいぶん低く花をつけることが多い。これはむしった後の土壌の状態が反映されているように思えるのだけれども、不思議なもので、ほかの草花があってピンポイントで抜いた周囲に生えてくる次の個体も割と低く花をつけることが多いような気がするのですね。まぁ、これも土壌の状態が…ということで説明がつくのかもしれないけれども、これが意外と広い範囲で起こっている現象だということが、抜いては生えてくる繰り返しを通して感じられることなんですね。
 そこで先日「ヴォイニッチの科学書」を聞いていたら、知的生命体はなぜ人間だけなのか、という話題の中で「人間以外にもコミュニケーションをとっている生物はたくさんある。植物だって何かあるかも」みたいな話をしているのを聞いて、あぁ、こういうこともあるのかもな、と思った次第。ひょっとしたら、ナガミヒナゲシコミュニティの中で「あそこは今年、ヤバいおっさんがやたら抜いてくるぜ」という噂が広まっているかもしれません。
 そんな植物のすごさ、不思議に触れるこのごろです。

山本弘『詩羽のいる街』角川書店、2012年、Kindle版。

 まずは合掌。ご冥福をお祈り申し上げます。

 山本弘氏の小説は、読み始めまで時間がかかるのですが、読み始めると一気に読んでしまう。Iyokiyehaに響くフレーズが随所にあって、人と人とが「よく」関わりあう理想的な社会の一片を垣間見る感覚がじんわりと体に浸み込んでくるような、そんな気分になる。感動とか興奮ではなく、おだやかな気持ちがざわざわと湧き上がってくるような感じ。
 賀来野市で「お仕事」する詩羽という女性。その仕事はお金が仲立ちしない。人と人とがかかわりあうことによって、街を、社会を、世界をよくする、そんな仕事。人と人とをつなげ、あらゆる人が自分の「よさ」によって、街に、社会に、世界に貢献する。どんなに小さなとりくみだとしても、それらが確実に周りを「よく」していることを実感させる、その「触媒となっている」詩羽の仕事と、それに巻き込まれていく人たちの物語。
 こういう小説、大好きなんだよね。山本氏の小説に透けて見える現代社会への課題意識って、Iyokiyehaが感じたり考えたり、仕事や人間関係に組み込もうとしている「何か」に通じるものがあるような気がして、随所で「そうだ!そうだ!」と思いながら、ついつい引き込まれてしまう。眠くても、なぜか読めてしまう。寝る前に読むと、ついつい時間を忘れてしまう。そんな小説だった。
 いわゆるライトノベルに分類されるのだろうが、読み物としても(私にとっては)大変面白いし、世の中の見え方なんかは、上記のように考えさせられることが多い。この「詩羽」がとってもいいと思えたのは、シンプルな処方箋についての語りがあったこと。「(略)彼らは、正しい論理が理解できなかったんです。潰し合うんじゃなく協力し合う方が有利だってことを」(No.5,380)だから、協力し合うことを仕掛けている、ということが、それぞれの短編を貫いている本書のテーマだろう。一見、争ったり、競争したり、対立したりしているように見えて、結局は仲間と、他人と協力する、関わり合うことによって、妥協点や相互利益の地点を考えて調整していくことを詩羽は常に促し、仕掛けている。痛快でした。
 著者が他界されてしまったので、新しい作品を読むことができなくなってしまいましたが、これまでの著書を時々、ちょっと困った時に読んでみようと思います。私にとっては、『アイの物語』などと併せて、困った時のお悩み相談みたいな本たちです。