2025年1月18日土曜日

引っかかることがあると、いろいろ考えて、いろいろ試してみたくなる。

 朝、ジョギングをしていると、向こうから若い男性が歩いてくるのが見えます。特に気にしていなかったのだけれども、すれちがいざま彼が「あけましておめでとうございます!」と結構大きな声であいさつされる。距離も声の大きさも絶妙。一瞬びっくりしたのは自分が未熟なところだけれども、すぐさま「はい、おめでとうございます!」と回答できました。おそらく自閉傾向のある若者だろう。ジョギングを続けて、なんだか温かな、穏やかな気持ちになりました。たかが挨拶、されど挨拶。人と人との関わりには、人のきもち(気分、感情、思考、様々な「自分の中の見えない動き全部」)を動かすエネルギーがあるな、と感じた。

 先週、考えていた「陸でもないこと」は、週末に何とか落ち着かせることができて、今週は「あほらし」と穏やかな気持ちでいられました。一瞬動きがありましたが、まぁ、成り行きで結果を出して、きっとその人にとっては面白くない結果だから、怒られていきましょう、ということで。あとは野となれ山となれ。お手紙書かなくてよかった。

 その落ち着きをつくることができた合気道のお稽古を経て気づいたこと。演武の時も、仕事の時も、なんかいろんな場面で、自分は「呼吸が乱れがち」「力が入りすぎ」「視野が狭まりがち」ということに気づいた。あらゆる場面で、気づいた時には呼吸を整えて、様々な力みに気づいて脱力を心がけ、結果として穏やかに視野を広げて保っていようと思いました。呼吸と力み、今年のキーワードです。

 娘に買って、自分が読めていなかった天気痛に関する本を読んで、「耳」のケアが大事であることを知り、併せて自分は三半規管に関して指摘されていたことがあることを思い出し、これを機に耳ケアを心がけようと思い立つ。とりあえず、家の中で耳を冷やさないようにすること、屋外でイヤーマフなんかを積極的に使うこと、をやってみようと思う。

 いろんな刺激があって、どんな場面であれ、考えて行動目標としてことは、やってみようと思うし、試してみることにワクワクする。まとまった時間がなくても、ここまで思考を進めることができることについては、楽しいし行動の結果を評価できる。

 …ということを考えた一週間でした。

2025年1月12日日曜日

寒稽古 ~頭が働かなくなるほど、身体を使うことの効能

  本当に陸(ろく)でもない一週間を終えて、土曜日を迎えた1月11日。悶々と朝ジョグをしていても、頭に浮かんでくるのは、さらに陸でもないこと。ふりかえってびっくり。

 マズいレベルの無理難題を押し付けられそうになり、頭の中の怒りだけでなく、呆れと、嫌気が同時にやってきて。そうなると、感情レベルも動き出すんだよね。必死で抑え込もうとしたのだけれども、ちょっと無理でした。個人的には「呆れ」が動くと、自分の中の耐性が著しく低下するのだな、と今回感じた。それでも単発ならイライラしながらも、時間が経つにつれて、少しずつ薄めていけるとも思っているのだけれども、毎日次から次へと降りかかってきた件について、怒りと呆れが同時にやってきたときに、何かがフッと途切れてしまったように思う。「心が折れる」という表現が口をついてでてきたけれども、これが身体に影響すると、多分うつ状態となるのだろう。緊急避難的に、そうならないよう自分を守っているけれども。

 それで、土曜日の朝にジョギングしていると、自然といろんなことが頭に浮かんで消えていくのだけれども、まぁ自分でもびっくりするほどの悪手が次から次へと。怪文書攻撃を思いついた時には、たまたま神社の前にたどりついていたので、手を清めてお参り、「あほらしい」と自分につぶやいて、要らんことをせずにすみました。それで、たまたま合気道の寒稽古。まぁ、半日黒帯のみなさんに技かけてもらって、技かけて。くたくたになったら、なんか先週頭にきていたことも、ある程度リセットできたように思います。意味のあることはやむなくやってもいいけど、意味のないことはやらない。それくらいシンプルに考えていいのだろうと、いつもの自分に戻れました。

 頭がやばい方に行っているときには、身体に余裕をなくして何も考えられないようにするのも悪くない、と感じた出来事でした。


2025年1月1日水曜日

2024年総括、2025年の抱負

 2024年総括、2025年の抱負

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 昨年は、イレギュラー体制から解放されたと思ったら、今度は純粋に仕事に追いまくられる一年でした。併せて、家族のことや、家族の中で生きる自分を意識させられる出来事がいくつか続いて自分の身に降りかかったことで、ますます生活のことを考える機会ができました。

 まずは、例年の通り目標の振り返りから。

1 読書の継続 30冊+Audiobook30冊分+αで音声コンテンツ

2 10分体操+素振り15,000本+週末ジョギング、合気道昇級

3 30分程度を目安にした勉強習慣をつくる(習慣化)

4 仕事のスキルを向上する

5 心穏やかに過ごす

 1について。どうにも書籍に触れる時間が後半にかけて、ガリガリと削られてきた感があります。書籍は10冊止まり。Audioboookも15冊程度。その代わりといってはなんだけど、ラジオや音声コンテンツはほぼつけっぱなしなので、NHKジャーナルとか、他いくつかの番組を通じて、インプットはそれなりに維持しているとは思うのだけれども、そうしたことをまとめたり、深く考えたり、思考がつながって何かに気づくような感覚が例年よりもぐんと減ってしまったような気がします。知識ばかり、なんとなく頭の中は通っているけれども、それが知恵に昇華していないといった感じです。これは良くない。

 2について。鍛錬は継続できた。体操はほぼ毎日できた。多分休んだ日はないか、あっても数日程度です。覚えていない程度。毎日の歩数は、年間平均(iPhone)によると、10,610歩と出た。木剣素振りは、ざっくり計測で22,220本。毎日60本くらい振った計算になります。去年より、平均で10本くらい多く振れた。臂力の養成と組み合わせて振っているので、少しずつ感覚の変化は実感していますが、まだまだ「腰が入った」振り方の感覚がよくわからないので、分かるまで降り続けます。

 3について。微妙でした。週に1回は、仕事帰りにコーヒーを飲みながら本を読む、ことを意識してきたけれども、どうにも、ウチに帰ってくると眠気が勝ってしまう。何とかしてこの程度の勉強時間は捻出したいものです。

 4について。なんでもいい、と思っていたので、うまく目標設定できませんでした。来年は「法律」縛りですね。昇任試験と、そのずっと先の行政書士を目標に。

 5について。これが課題。改善留まりです。率直に。日常生活の中に気にくわないことはたくさんあるのですが、今までより穏やかに、感情をある程度平坦にすることができるようになってきたのは改善。ただ、ふつふつと湧き上がるような不満にはまだまだ課題。なにかあっても「ふぉっふぉっふぉ~」と笑ってやり過ごせるようになりたい。まず呼吸法、そしてアンガーマネジメントかな。

 この他、今年強烈に感じたことは、身体症状やら診断による自分の身体について。元々、身体は丈夫でなくとも、健康が当たり前だと思っていました。ただ、夏前から続いた咳に喘息の診断がついて、吸引剤の処方が始まったこと、それを継続しなければならないようになったこと。その診断の過程で、肺の深部に炎症性と思われる影があること、これが癌かも~と精密検査を受けることになり、結論「悪性じゃないだろう」だけれども、フォローで毎年CTとらなきゃいけなくなったことをきっかけに、自分の身体についてはいままでより一層気をつけないと、と思うに至りました。

 仕事第一の生活になってきていることが、どうにも不満なので、このあたりを意識から方法まで一つずつでも改善していきたいと、思います。隔月くらいで、仕事サボりはできているので、これは継続しつつ、普段の仕事ももう少しうまいことやりたいですね。散策先はもう少し増やしていいかも。

 あと、合気道はようやく黒帯までリーチになっているので、きちんとお稽古したいです。基本から応用まで、理合いを意識して、ドリルは自主練含めて、コツコツ積み重ねたいです。

 と、振り返ってみて、昨年中もいろいろありました。それを踏まえて、2025年の抱負・目標は、以下の通り。

1 読書の継続 20冊+Audiobook20冊分+αで音声コンテンツ。アウトプットの頻度を上げよう。

 ちょっと見直し。分量は減らしても、きちんとアウトプットしよう。いろんな機会を使って、このブログにもアップしていこう。机周りは3分の1くらいは整理してきたので、このまま整理に努めよう。要らないモノは処分。

2 10分体操+素振り20,000本+週末ジョギング、合気道昇段

 継続。合気道で黒帯目指したいから、その基礎体力は習慣化の中でつけていくことにしたい。基本動作と技のドリルは日常で。曜日によってやること変えるとかあっていいかも。通勤は徒歩で、10,000歩/日の維持を目指す。今年は昇段したい。

3 30分程度を目安にした勉強習慣をつくる(習慣化)

 再度、今年こそ。時間を捻出するというよりは、仕事の切り上げ方をうまくしよう。勉強時間は週単位で管理(1時間)する。内容は法律。入り口は何でもいい。昇任試験もそろそろ意識しないと。

4 仕事のスキルを向上する

 維持。でも、メリハリを意識する。勉強時間と仕事のバランスを週単位で管理すること。

5 心穏やかに過ごす

 これだな。これは継続。数年越しだ。自分にメタ認知が働くように。穏やかに。感情の揺れに意識的になって、自分に「ちょっと待った」って言える余裕を作ること。気にくわないことは、その場から離れることと、平素の呼吸法にも、意識を向けたい。

 以上、2024年のふりかえりと2025年のとりあえずの目標でした。今年もよろしくお願いします。なお、去年も書きましたが、年賀状による新年の挨拶については、諸事情により完全に縮小しています。いただいた年賀状に年賀状でお返しできていない方が出てきてしまっていますが、あらかじめご了承ください。

2024年12月29日日曜日

住野よる『腹を割ったら血が出るだけさ』双葉社、2022年(Audiobook版、2024年)

  昔は昔、今は今。「今の若い子たちは、考えることやいろんな見られ方への対応とか、大変だな」と思っていたが、こういう現代小説から感じられる、いわゆる「今の若者」の姿ってやっぱりイメージでしかなくて、結局は個別の感覚なのだな、と思ってしまう。少なくとも自分の土俵とは異なる土俵に皆立っているわけで、同世代の人達が共通認識をもっているのかというと甚だ疑問ではある。案外、いわゆる「今の若者」を仮想敵と仮定したときに、「敵の敵は味方」的に、ワン・プロジェクトっぽく手を結んでいるだけかもしれない。だって、同世代だって物事の捉え方の感覚は個別だから。

 内容は、作中に登場する『少女のマーチ』なる読む人の解釈を許すような小説をモチーフに、自分の本音で生きたいと願いながらそれが成就しない女子高生と、表裏のギャップにアイデンティティを揺さぶられているアイドル、彼女らを取り巻く人間関係が語られる。ミステリとは言い難いが、モチーフに解釈が入り込むために、登場人物の思考が読み切れずついつい引き込まれてしまう。

 Iyokiyehaの人間関係の捉え方とは全く異なるそれを、ある若者の視点を、節毎に切り替えながら一つの物語を組み立てていく。「自分とは異なる考えを押しつけられる」。本書の一節だが、そういうものなのだなと感じる。若者の人間関係なんて、多分理解できないし、自分の考えるそれとは全く異なるものだから、摩擦すら感じるのに、それでも興味深く聴き進めてしまうのは、この作者のプロダクトに対して素直になれたと考えることにしよう。

---(続)

 とはいえ、小説というのはすごいプロダクトなのだと思う。若者達の会話と思考を言語化することによって、人間の感情というものをそれを読む人に重ねながら、空想世界を展開していく。それは「そんなバカなことあるかぃ!」って思うようなフィクションであったとしても、どこか自分の感情に重なったりかすったりするので、ついつい小説の世界にひきこまれてしまう。普段から小説にはそういうところがあったように思うが、感情の言語化とそれが立つ基盤に「解釈」が入り込むというしかけが、こう思う自分を客観視できた一助となっているのだろう。

赤字体質 241009

  こづかい管理が甘くなっていたな。電子決済って手軽が故に、消費刺激にはなるんだけど、一方で管理が甘くなるのも事実。半年くらい消費刺激が優位になっていたようで、蓄えが削られていることをようやく清算できた。どんぶり勘定はよくない。あとは、会合の機会が増えているのもいい刺激になっているな。

 とりあえず年末まで、緊縮財政モードでいきます。

博物館の解説 241009

  引き続き、川越ネタ。

 去年末から5回くらいになるか。サボり先に認定されている川越。本川越駅を中心に、観光案内に載っているところで、歩いて行けるところは大体回っている。蔵造りの街並みの近辺は目的地が明確なら、地図なしで大体たどり着けるくらいに、主要な横道くらいまではほぼ歩き尽くした感がある。

 昨年末から改装工事をしていたらしい、川越市の博物館。今回は特に予定がなかったので、じっくり観に行くことができた。川越市の歴史があけぼのから、中世を経て近代まで概観できる展示が大変面白かった。でも、今日はもっとツイていた。市内の小学生が社会科見学か総合学習あたりで、団体利用があり、なんとガイドの声が丸聞こえ。ラッキーすぎて1時間以上滞在してしまう。

 博物館なんかでも「キュレーション」って使える言葉なのだろうか。展示物の並べ方や組み合わせの見せ方で学びの質が変わる、ということは、自分なりに感じ取れることだけれども、やっぱり「インタープリテーション」って大事だよな、って改めて思いました。私にとっての「インタープリテーション」って自然体験活動が入り口なんだけど、物言わない展示物を使った語りやプレゼンテーションも「インタープリテーション」って使っていいよね。キュレーションとインタープリテーションがかみ合った時に自分に起こるインプットって、知識が背景や時系列を伴って、文字面だけじゃない生きた知識みたいなものとして入り込んでくる感覚があるよね。いわば「じーんとくる体験」みたいなもの。そういうプレゼンに出会えると、いやぁホントラッキーだと思う。今日はそんなラッキーデーでした。

 現在にも残る地名や建造物から、その仕組みを展示物を使って動きを伴って説明する。川越は江戸時代に大きな家事があったことから、蔵造りの建物には家事を防いだり、被害を抑えるような仕組みが備わっている・・・北側に窓がなくて、土壁が備わっているというのはそういうことなんだな、と分かると、街並みの見え方もちょっと変わって見えてくる。博物館から昔の川越にタイムスリップできたような、そんな気分になれたひとときでした。

 生徒さんが退出した後に、山車の写真を一通り見て出口へ。説明していた職員さんから「お騒がせしました」なんて言われたので、「いえいえ、大変勉強になりました。ありがとうございました」と御礼。最後まで気持ちいい寄り道でした。

何も考えないことを一生懸命やってみる 241009

  ここのところ、偏頭痛を思われる体調不良が続いており、一昨日は気持ち悪くなる程度、昨日は朝から鎮痛剤を服用しての仕事だった。以前から、今日は自分のための休みを決めていたこともあったのだが、ちょうどいい頃合いでサボりに突入。

 秩父まで行こうかと計画をしていたが、あいにくの天気(朝から結構な雨)なので、予定変更していつもの川越へ。いつものお店でうまい昼飯を食ってエネルギー補給しようと考える。PePeのスタバで作戦休憩をと思うが、予定変更。テキトーなPODCASTを聴きながら、日記をつけてぼんやり。雨がやんできたのを横目に見つつ、合気道ページの構想・コンテンツを少しずつ作ってぼんやり。Audiobookで小説を聴きながらぼんやり。「いろいろやってるじゃん」と言われるかもしれないが、自分にとっては、普段やらない(できない)ことを表に出すかどうかは別として、のんびり・無計画にやってみているので、頭の稼働率が適度に保たれており、心地いいのではなく「ちょうどいい」。職場で何かを読んだり、書いたり、話したりするときにキリキリと痛む頭はどこにもなくて、自分の状態に合わせてインプット・アウトプットがなされている。寝る前の自分座禅で頭の稼働率を落としていくのとはちょっと違った感覚、これが俗に言うところの「ととのう」なのかもしれない。表現はともかく、歯止めや摩擦がなくするすると自分の身体と頭が働いているような感覚に、ちょっと戸惑いながらも、とても楽な時間を過ごしていると実感する。

 川越へくると、とっても楽しかったり、なんだか心地よかったりするので、すっかり自分の中では手軽な小旅行、身近なサボり先、になっているのだけれども、こういう前向き刺激はいくらあってもいいと、改めて感じる。自分にとってのこういう場所が他にもあっていいと思うけど、川越にはしばらくご厄介になると思うな。よろしく。

2024年11月20日水曜日

情報収集の偏り

  情報収集とメディアの評価、そういう角度から兵庫県知事選の結果に感じていたことを、森下和哉さんが的確に指摘してくれていました。情報の質と選び方ってとても大事だと思う。

#330 兵庫県知事選の結果を受けてテレビ局報道マンの個人的な本音


寛容さがなくなっていく

 寛容 名 -かんよう

 心が寛大で、よく人を受けいれること。過失をとがめだてせず、人を許すこと。(岩波国語辞典 第7版)

 結局、まわりまわって自分のことしか考えていない人がいるということなんだよね。多いとか多くなっているとか、そういう変化ではなくて、人の言動を許せない人っていうのがいつの時代にも一定数いるわけで。そういう人たちが「安易に意見を表明できる」ツールを手に入れた時に、寛容さのなさが社会に垂れ流されていく。表現の稚拙さが、それに拍車をかけていく。近年、IyokiyehaがWeb閲覧の時間を削っているのは、この辺に理由がある。要は「眺めていて快刺激よりも不快刺激の方が多い」からだ。

 人がやることをすべて受け容れられるとは限らないが、じゃあそれが「不快だ」と思ったときに、不快感情をWeb上ひいては社会に垂れ流すことに、世のためになる「何か」はあるのだろうか?と考えると、垂れ流しにする必要はないよね。なら、その感情は飲み込んでおいたらいい。飲み込むには辛いことがあるなら、そんな辛いことは不特定多数の人間じゃなくて、信頼できる誰かにきちんと相談した方がいい。

 理想的には、「不快な感情」が自分にやってきたら、その要因となる人や言動に矛先を向けるんじゃなくて、その要因を許して、そんな感情に襲われている自分も許して、三方よし○印をつけられるのがいいと思う。そこから憎しみはうまれないはず。憎しみが外に出なければ、いざこざや小競り合いは起こらないはず。そういう姿勢を磨きながら、そういう姿を追いかけてもらえるような、感情の受け止め方ができるようになりたい。


2024年11月9日土曜日

ルールの中で働くこと

  「闇バイト」なんて言葉が、ラジオを聴いているとほぼ毎日聞こえてくる。社会問題と化している、ヤバい仕事だけど、それを提供する人たちの得体の知れなさと、それに手を出す若者たちが注目されているのだけれども、それとは少し視点を変えて、制度や社会的な構造みたいなところから、いわゆる「闇バイト」を見てみようと思う。

 結論から言うと、個人的な要因として、働いて得るお金が「労働の対価」という認識が希薄になっていることが一つ。もう一つ、社会的な構造として、契約に基づく雇用という人と社会が作り上げてきた人を安心・安全の元で自由にするための仕組みが、得られる対価が少ない=効率の悪い営みだと勘違いされているように思える。

 仕事に貴賎なしとは言うけれども、ここでいう「仕事」というのは、世の中のルールの中にあるものだという当たり前のことを、あえて記しておこう。世の中のルールというのは、法制度のように明文化されたものから、社会で生きていくための人としてのルールのような不文律のようなものまで含みます。そうした「ルール」に従って提供される仕事においては、その内容によって貴賎はないわけで、いわゆる「労働法」というものはそれを担保するためのもの、というわけです。労働法にのっとった仕事は(ブラックとかいろいろ言われるところも、そういうことも少なからずあるけれども)安心・安全に、人を社会のルールの中で自由にしていく機能を備えているといえる。

 こう見ていくと、いわゆる「雇用者(雇われている人)」がイメージしやすいのだけれども、それを離れてみたときはどうだろう?最近ではフリーランスや自営業は身近になってきている。これらは「雇われる」ではなく、自分が使用者となって人を雇う立場になったり、個人であっても事業主として働く主体となるものである。これらの働き方は、労働法の一部は適用されないものの、人を雇う上ではルールに則った使用を求められるわけで、提供される、から提供する側に移ることにはなるが、やはり各種ルールの中に入っているものだ。個人事業主として働く場合はルールの中にとどまることも、そこから出ていくことも選択はできるのだけれども、ルールの中にとどまる選択をした人たちは、(基本的には)安心・安全が担保されることになる。

 と、このようなことに「常識」なんてラベルを貼っておくと、こういうことはあまりに当たり前すぎて、常識ラベルが貼ってあることに気づかない人、あるいは悪意をもって働き方ルールの外側に飛び出している人が、「闇バイト」を提供し提供されることになる。「普通の若者が『闇バイト』に手を出してしまう」ということの背景には、こういう見え方がある。普通(カタギ)か普通じゃないかが問われているのではなく、まずは常識ラベルに自覚的であるかどうか、こういうことが課題になってくるんじゃないかな、と思ったわけです。

 なにかというとSNSが取り上げられますが、これはただの道具であって「闇バイト」を支えたり、支持するものではないはず。道具の良しあしではなく、個人的な要因と、社会構造をしっかりと見据えていたいものです。

2024年10月14日月曜日

改めて、読書の秋

 じっくりと座って本を読むことが、すっかりなくなってしまったのだけれども、どんな生活状況に置かれたとしても、本は読みたい。本を読む理由を問われると、費用対効果とか、信頼に足る情報とか、以前から小説を読むのが好き、とか、適当な意味はいくらでも思いつくのだけれども、それよりも何よりも「自分の内側に人の意思が入り込んでくるような感じ」が味わえるから、というのが本音に近いのだと思う。「なんだコイツ?」と思われそうだし、ちょっと重めの話なので、人にはあんまり言わないけど。

 人と話をすることも同じようなことがあるけれども、知らないことを知る、知識を得るだけの時間と、自分と他者とが情報という知識の交換ではなくて、いわば内面の交換ともいうべき時間を過ごすことができると、それはとても充実した、時計の時間を超越したような時間を過ごす経験になりうる。「充実した」と思えるのは、こういう経験が背景にあるのだろう。

 これが、ひとりで本を読む行為にも時折訪れる。それは小説だけじゃなくて、ビジネス書であったり、思想や自己啓発を描いたものにもありうるが、一方でそういうことを期待して読んだ本が期待外れだったり、逆に何も期待していなかった本が、そういう存在になることも時々起こりうる。要は、その辺が偶然に依っている、というのも読書への期待になるのだと思う。やっぱりいろいろ読みたい。

2024年10月6日日曜日

忙しい時にこそ、いろんなことが頭に浮かぶ 241005

  9月議会が終わったにも関わらず、地味に仕事が多い。突発的な対応にも追いまくられてしまっており、何か去年とあまり変わらない焦った雰囲気が蔓延している。

 帰宅してからは、やることやって、洗濯物を干してほぼバタンキューと寝てしまうため、日記もおろそかになるし、合気道の復習もできないし、読書もほぼ足踏み。留まって考えるということをしなくなっているのが気になってしまうので、土曜の夜にラジオをお供にちょっとまとめてみる。

●食い違い起点のトラブル

 「普通のことをやってください」「普通のことしかしていないし、できないので」「どうして普通にできないんですか」そんなやりとりが続いているある案件について。もはや「普通」って何だよ?って話になってしまっている。事業者側は「特別なことはしていませんよ。例えば・・・」と同義で『普通』を使っているのに対し、利用者は自分たちの中にある標準という意味で『普通』と言っている。具体的なイメージがすれ違っているので、分かり合う気がなければ、ずっと平行線だろう。第三者の決定を期待して、私の職場に「同席」を求めるが、こちらとしては判断する権限も理由もないので「同席する必要はない」としている。これもかみ合わない。多分「これだから役に立たない」くらいに思われている節もある。無理もないが面白くもない。かみ合わない状況のまま、何かを強行したときにしわ寄せがどこくるのか、ということを見据えていないといけないな、と思う。(特別でないという意味での)「普通」の場所に、(ある水準をイメージした)「普通」を求める人が集まって主張すれば、衝突は必至。

●スマートフォンの扱い

 一言本音。みんなででかけても、旅行へ行ったとしても、そういう「非日常」を、一瞬で「日常」に変えうる可能性を秘めたスマートフォン。旅行いってもずっとスマホいじってるなら、別に行かなくてもいいじゃん、とか思ってしまう。

●近所を騒がせている事件について

 逃げている人に対しては、人として、早くお縄になるか、無事でいられる場が見つかるかすればいいけれども、そうならない可能性もあるような気がしています。罪はつぐなうべきだけど、どうか無事でとも思うところです。そういう世界ですよね。思うところはあるけれども、Webだからこれ以上は触れずに。

●日中ぐうたら

 台風のせいなのか、気圧のせいなのか、それ以外なのか、今週一週間は体調が悪い。だるい、疲れやすい、集中力が(いつもにまして)ない。それで終末の悪天候。それも、土砂降りじゃなくてしとしとぐだぐた。これは気分もあがらない。もちろん、なにかあるなら、身体を動かして多少の補正はできる技能はあるけれども、まぁ、とはいえ、そんなに気合い入れる必要もないので、土曜日はぐだぐだしてみた。日頃滅多にみないテレビを見て、ごろごろぐだぐだ。朝ジョグはしているのでそれほど罪悪感もなく、なーんにも考えずに過ごしてみました。これはこれで、ありだな。年2~3回でいいけど。

●先日の動画の件

 前回の雑記投稿の件、要するに「発信は、どう受け止められるかわからないよ」ということが危うさに見えたのでもやもやもやもやしていたのだろう。私もここでBlog長くなっているから、今まで以上に気を付けないといけないよね。解釈の余地が含まれる、何かを想起させるようなコンテンツには、十二分に気をつけねば。

動画作品

  まだはっきりと整理できていないので、書きながら考えてみる。

 最近違和感があること。動画共有サイトで公開されている、家族の様子を紹介するような動画から思うこと、考えること。今回の題材は子ども(姉弟)の様子を映したもの。

 キーワードだけ列挙しておくと、子どもたちの顔がデータとしてWeb上にアップされること、幼い姉が一般的にやってひまう弟に対する自分本位の行動/一般的に弟が姉に従わざるを得ない状況で理不尽に振り回される様子、Webにアップする目的、共有?曝し?ネタ?

 年齢にして、3~4歳の女の子(姉)と1~2歳の男の子(弟)の関わり合いの様子を動画に収めたものが公開されているものを見せてもらう。その動画では、歩行器で移動する弟を振り回して、自分の進路を確保する姉の様子や、何かと言えばお姉ちゃんが弟に高圧的(に見える)な態度でやりとりする様子が記録されている。たしかにかわいらしいし微笑ましい。姉弟のきょうだいを育ててきた経験者としては「あるある、ウチもそうだった」と思えるような内容であった。

 この面白さって、大人のような邪気はなく、ただただ「弟という小さい家族」を思うように動かそうとするしっかり者お姉さんを、全身全力で表現していること、それであってもやっぱり子どものやりとりであって、どちらも思い通りになっていないこと、を微笑ましく切り取った生活の一部である。

 見ていて微笑ましいのだが、ふとした瞬間に我に返る「これって、誰のためのアップなんだ?」。自分のために、家族の記録を録画してとっておく、ということであれば、それで充分だ。それ以上になると、私には抵抗感が出てきてしまう。自分の子どもを見世物にする意識はなくとも、Webに公開するということは結果として世界中に公開してしまうわけで。この微笑ましさを、完全にニュートラルな感情で受け止められているのかどうか、自分にもちょっと自信は無いのだけれども、「発信者の意向」×「受け止め側の認識」となったときに、そこにあるのは発信者には制御できない感情がアウトプットされることになりかねない。率としてはどうあれ、「弟はこうやって虐げられて育つんだよ」とか「姉はコントロールしたがるんだよね」とか正負いずれかでも感情が振れてしまうことになれば、その幅はもはや制御不能になる可能性もありうる。Webは感情増幅装置だと思うので。

 となると、SNSが流行りだした時から、私はできるだけ守っていることだけれども、自分以外の家族の写真のアップロードには、これでもかというくらい慎重になってもおかしくないだろうし、それくらいの思いやりを持ったときには、公開される動画の質っていうのも随分変わってくるんじゃないのかと思うところもある。古くさいと言われるかもしれないのだけれども、やっぱり世界に開かれたWebの世界というのは、想像力がないと何が起こるかわからない、と思うのです。

スティーブン・R・コヴィー著、フランクリン・コヴィー・ジャパン訳『7つの習慣 最優先事項』キングベアー出版、2015年(Audiobook版、2016年)。

  「7つの習慣」関連の書籍っていくつか聴いているのだけれども、いつも「フツーのことだよね」と思ってしまっていた。だけど、そのフツーが難しい、基本はいつも大事なんだよね。

 優先すべきことは、緊急のことよりも本来は優先しなきゃいけないことなので、いつの間にか雑事に追われて・・・というのは、古今東西誰にでも課題となりうることで、Iyokiyehaも例外ではない。いや、むしろ、面倒事を喜んで引き受けてしまう節もあるよう(←よく指摘されます)なので、むしろ自分のための論考なのかもしれない。要は時間の使い方と目的意識のように考えて、受け止める。

 (Audiobookの紹介より引用)「時間管理の基本を、『いかにスピーディーにこなすか』ではなく、『なぜそれをするのか』という視点から見つめ直します。『なぜそれをするのか』、その目的をしっかりと見据えてプランニングすることで、最優先事項がみえてくるのです」。本書の訴えることは、大体ここに集約される。

 書籍中「コンパス時間」という言葉が出てくる。コンパスが常に北を指していることと、「時間管理のための時間」を批判的に捉えたときの言葉だと理解した。要は、より大きな目的のために行うことを、目の前にあることに適用させたり、場合によっては目の前にあるものを回避することも必要になるかもしれない。ただこなす、ではなく大きな目的を意識して、そのために目の前のことを行う、といったように、優先すべきことを意識して万事目的につながっていることが見えてくると、人生の成果に取り組んでいるといえる。そのことが幸せにつながるのだ、というようなことを文書随所で語っているように思いました。

 今は、いろいろ悩みながら、いろんなことに取り組んでいるけれども、それも人生の糧と思いながら、それでもオーバーワークにならないように「なぜ」を問い続ける姿勢は必要だと思います。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』太田出版、2015年(Audiobook版、2020年)。

  退屈の反対は楽しさとか楽しいこと、ではなく、興奮である。楽しいことがないのは退屈なのではなく、興奮を伴う刺激に乏しいということ。つまらないことが退屈なのではない。

 熱意は幸福と関係があるが、熱意があれば幸福かということには違和感がある。熱意が暴走して刺激を際限なく求めたところの一つに、戦争という事象がある。(ラッセル?)

 現代は、生産が欲求に先行する。やることがない人にやることを与えるのがレジャー産業の側面でもある。

 なるほど、暇とか退屈というものを、倫理的に哲学的に分析して深めていくと、いろんな感情や事象とつながっていくことができる。暇というのは単にやることがない、ということではないし、楽しいことがないのが退屈とは言い切れない。今を生きる私たちの社会の仕組みと実は密接に関係がありながら、その関係がとても見にくくなっているのが暇とか退屈の本質に近づきにくくしている一因ともいえる。

 Audiobookでなければ、おそらく触れられない一冊。哲学的思考や歴史的な論考が学術的に引用されているので、読み解いていくのが困難だった。聞き流している部分もあるが、それでも上記のような気づきや学びがあった一冊でした。