2025年2月26日水曜日

目的は何なのだろう?

 いろんな「何だろう?」がある。
 言ってることと、やっていることが違うんじゃない?と思うことが多くなってくると、だんだんすり減っていく感があるんだよね。そんなことで、自分の大事なことを削られてたまるか、と奮起するのだけれども、私は凡人だからさすがにイライラすることもある。
 とはいえ、そんな時は「時そば」とか慣れた笑いでクッションになるようにしている。金属バットのカルタみたいのは、少し元気じゃないと勢いにやられてしまう(大好きなんだけどね)。
 落ち着いてくると、「やっぱり自分っておかしくないよな」と確認できたりする。なるべく二度怒りはしないように(不毛だから)するけど、ときどき突き抜けてくるな。気を付けよう。
 あぁそうか、いい気づきがあった。「人がしくみをダメにする」というのが、最近のIyokiyehaのトレンドだったんだけど、毒抜いてお引き取りいただくとか、納得しなくても鎮火させるといった、私の渋いスキルは、まわりまわってしくみに「悪影響を与えない」ための一助になっているのかもしれないですね。相談(カウンセリング)は世界をよくする、と公言してきた私が、今の状況にモチベーションを保つなら、このレベルで「世直し」していると思うしかないな。まぁ、理解してくださる方がおられるわけだから、そういう人たちを大切に、理解されない人は亡霊化させないように、一つでも世直しを増やしていくと考えるかね。

2025年2月15日土曜日

対話の力

 正直、辟易しています。内外からの人の悪意に触れすぎて、「結局、人と人ってわかりあえないんだな」「健全な対話って成り立たないんだな」って思うことばかりで、しんどいというよりも、呆れてしまったり、残念に思ったりと、悲し気分になりがちなのが、なによりもしんどい。
 悲しい思いからくるしんどさは、怒りよりも自分の身体をむしばむようで、とある身近なメンタルチェックで、二週連続「軽うつリスクあり」という診断がでるほど、すり減り感が続いているのだろう。理由があったりなかったりの心拍数の増加や、目は見えているのに読んでいる文書の内容が全く頭に入ってこないこと、物の場所が分からなくなったり、なんかちょっとイライラしたりと、ちょっと良くない。
 なんでもそうなんだけど、よかれと思ってやったことが、その主旨を理解されないまま、こちらの意図とは異なる解釈のまま増幅装置(Web)を通して、なんかとんちんかんな主張をものすごい勢いでぶつけられる、そんな役回り。主張する側も、本質に迫る主張ではなくて、自分の欲を生のまま、「もっと自由に」「もっと多様に」「暮らしのために」といった毛布にくるむだけで投げつけてくる。その欲も、制度を実際に利用する人のためというものに絞らず、それによって被害被る自分のため、言ったもんがちの主張の正当性を認めさせるため、といった感情をぶつけられると、正直「主旨と違うんだけどな」と悲しい気持ちになる。悲しいとしんどいので、というサイクロジックである。
 こちらはあくまで「健全な対話」(自分の主張だけでなく、相手の主張・説明をきちんと取り入れて、次の段階へ進む)を申し出て、試みるのだけれども、最近の主張は一方的であり、それに対応する人をとことん疲弊させていく。揚げ足取り、高圧的、一方的、説明を聞いているようで、全く聞いていないから、根拠乏しく主張を押し通そうとするだけで、何も変わらないという不毛な時間ばかり過ぎていくわけで。そりゃ、健康も害しますよ。
 前の仕事の時って、カウンセラーを名乗っていたこともありますが、やっぱりわからずやはいました。クライアントの種別を問わず。とはいえ、それぞれ責任ある立場ですから、分からず屋は分からず屋なりにタイムアウトだったり離脱したものでしたが。この辺が、責任ある立場、看板を背負っているかどうか、我がこととして認識しているかどうか、なんでしょうね。思い込みと欲で突っ走れる人は、どうやっても信用できないな。

2025年2月9日日曜日

行動する理由は一つじゃないんです。人間だから。

プログラミングの世界は、〇〇なら▲▲、□□なら◎◎と一から十まで指示してあげないと動かないものだけれども、人間というのは、その辺かなり緩やかだ。緩やかというよりも、こういうことを考えると、やっぱり人間というのは機械にはできない複雑なものを「判断する」ことができる生き物だと思える。
だから、自分の行動も、すべてに理由があるかというとそうでもなくて、その時楽しいかどうか、それすらもあいまいなまま、何かを行う、あるいは行わないという判断を下して行動している。そういうものだ。
なんとなく時間が経っているのも、そういうことで、目的がない行動も日常の中にはたくさんある。それらを律して、すべてに目的を持たせるというのは、一見やった方がいいこと、道徳的なこと、やるべきこと、とついつい思ってしまいがちで、そう思われがちなんだけど、それって結局は、自分という人間を機械に近づけていくことに他ならないのかもしれないな、と思いました。堕落という言葉はあるけれども、それとは少し異なる目的のない間みたいな行動・時間、それも含めて人間だと考えれば、そうした間も人間を構成する要素であるといえるな。

2025年2月8日土曜日

少しずつ習慣化

 週末に少し時間をとって、一週間をふりかえる、というのは、かなり贅沢な時間なのだろう。今日は自分の用事もないので、妻と買い物に出て、明日のスープ作りの材料を買いに行く。あとは、部屋でラジオをかけて本を読んだり、だらだらしたり。
 先週「悪意」について考えた通り、ここ2~3週間は、仕事の方で考えること、悩むこと、焦ること、困ることに囲まれて、とにかく余裕がなかった。仕事中に心拍数があがったり、気圧の変化にぐわんぐわんして眩暈がしたりと、心身ともに削られていた感じでした。
 相変わらずやることは多いので、余裕があるかと問われるとそうでもないのですが、結局テンポが周り(上司とか)と合わないと、それはそれでちょっと大変な時はあるわけで。でも、それは言い出したらキリがないので受け入れつつ。
 何がしんどいかというと、やっぱり「折り合いがつかない」状態が続くのがしんどいんですよね。削られるというか。それも「自分に責任がないとは言い切れない」状態が続くのがいかんともしがたい。分かり合えない、はある程度しょうがいないんだけども、相手が何を考えているのかわからない、あるいはその本音が「悪意」によって覆い隠されている、見つけられても相手が本音でかかわってくれないとなると、これは行き場をなくした感情が渦巻いて逃げ場がなくなってしまうわけです。離脱をかけているのに、それ以上の力で抜け出せないような、そんな感覚です。
 とはいえ、それが今週はちょっとガス抜きができたのかな、と思える事象があって、ようやく感情が解放された感じがしました。自分が解放されれば、隘路に追い込まれないような行動はとりやすいので、巻き込まれないように、距離を慎重に測って関わっていけばいいわけで。ようやくストレス性の頭痛からも抜け出せるかな、というところです。
 今回の反省点は、悪意と悪意の間で思わず巻き込まれてしまったこと。対面の場で感情が動いてしまったことが冷静な判断力を鈍らせてしまったのでしょうが、悪意対悪意というのがあまり経験のないところなんだなと気づく。善意対悪意の善意側に立つことは多かったのだけれども、悪意対悪意でどこにも真実がない、というのは第三者は邪魔なだけなんだなと思いました。早めに離脱しておかないといけないところに踏み込んでしまった、というのが今回の反省点でした。よし、今度は気を付けよう。
 読書が再開できるかな、という兆しが見えるので、ちょっと無理してでも活字に触れることを再開しようと思います。ここのところ耳からばかりだったので。鍛錬は継続しよう。

2025年2月2日日曜日

最近の悪意

  悪意を感じられる、というのはただの敏感さんなのかもしれないけれども、思い切ってgifted的なIyokiyehaのちょっと特異な能力として位置付けてみる。今まで人にはあまり言わなかったけれども、前回投稿のような「悪意」や、嘘や騙そうとする意志とか、一見もっともらしいことを言っているけれどもその実は自分の欲を満たそうとすることだったり、そういう感情を感覚レベルで感じられる(≠読み解ける)のは、ある程度自分の能力なのかもしれないなと思う。対面であれば、スクリーニング6割、相談後8割くらいで自分の感覚の裏付けがとれるような気がしているし、どことなく自分もその感覚に頼っているように思う。まぁ、感覚に頼って長いことやってきたから、その説明を求められると冗長になりがちなんですが。

 ということを前提に置き換えて、最近の傾向を考えてみると、1つは、安っぽい感情がむき出しになって世の中に氾濫している、2つは、人のことを心配している言動を盾に、自分の欲を何とか達成しようと嘘をつくのも厭わない人が増えている、3つは、何かをきっかけに目の前の人への態度が変わってしまうことに疑問をもたない人がいる、あたりだろうか。これまでにいろいろぼやいてきたこととも、大体一致する。

 今のところは完全に主観ですが、ポイ活のためのやむを得ない動画広告とか見えると、違和感のあるものが結構ある。演技の良しあしも大きいのだと思うが、発している言葉と表情の間にある隙間が感じられると、Web上の情報にはそういう感情があふれているように思う。その点テレビの方がマシな感じが、少し前までにはあったが、バラエティなんかを中心にほころびが出てきているように感じられる。このあたり、ドラマやノンフィクション番組なんかがまだマシか。俳優さんの活躍はまだまだプロ意識を感じる。

 2つ目のことは、上記と関連するのだけれども、身近な対面でも言っていることと欲求との差が大きい人が多い。これを感じてしまうと、気を遣わざわるを得ないのでとても疲労する。こういうのって、多分普段仕入れている情報が蓄積してその人の言動に反映されているのだろうな、と思う。と、ここまでくると、ウチの身内も動画視聴に割く時間が長いので、心配といえば心配である。

 で、こういうことを気にしつつも、こちらの筋を説明してやりとりを重ねることによって、不満がたまる結果なのか、主張や苦情としてそれが出てくるときには、明確な本質を突くものではなく、なぜか矛先が目の前に向いてしまうというもの。もともとは何かを守ろうとしていたはずなので、いつのまにか「おれ」「自分」になってしまう。あれあれ、達成したいことはなんですか?あなたの欲求がむき出しになっていませんか?それは私には関係ないことなのに、なんで痛めつけられようとしているのかな?と、なんか逸れていく感覚があるんだよね。

 そういうことをひっくるめて、感じとれてしまうことを「悪意」として考えてみる。何かいいいなしかた、かわし方が見つかるといいんだけどね。