2026年6月7日日曜日

ユネスコ「学習権宣言」 人々の権利としての学習

 以前から、力強い宣言だと思っており、学生の頃からちらちらと目にする機会はあったのだが、改めて読んでみると、意志ある人達の叡智とその力強さ、前へ進もうとする意志の強さ、全ての人々に向けられた激励といったような、とにかく前向きなエネルギーを感じられる。宣言が採択されてからもう40年を過ぎたが、今も全く色褪せていないと思うのだが、一方で時代に埋もれている感じもあるので、Iyokiyehaなりに少しずつ読み解いていこうと思う。専門家の解説を読んでいるわけではないので、以下、あくまでIyokiyehaさんの私的な読み解きだと思ってください。

 今回は、まず「学習権とは」のみ取り上げる。宣言では、こんな内容が示されている。

The right to learn is:

the right to read and write;

the right to question and analyse;

the right to imagine and create;

the right to read one's own world and to write history;

the right to have access to educational resources;

the right to develop individual and collective skills.

 ざっくりと、学習権とは、読み書き、問うこと・深めること、想像・創造すること、自分なりに世界を読み解いて歴史をつくること、あらゆる教育資源を利用すること、個別・集団の力を伸ばすことについて、全ての人がもつ権利であるよ、ということを定義している。そして、この権利の位置づけを、

Recognition of the right to learn is now more than ever a major challenge for humanity.

 と述べて、先に挙げた学習権を認識する(了解する、くらいか)かどうかは、全ての人々にとってますます大事な挑戦(課題、かな)である、と言っている。

 40年前に、当時の世界背景の中で宣言されたことであるが、今同じものを読んで「古い宣言だな」と思えないのは、学習という営みの目的(ゴール)が相対的(明確でない、が背景が諸行無常であるから、達成があり得ないとも言える。が、しかし・・・)という性質を持つことの他に、学習という営みそのものが全ての人々が持つ「学び続ける権利」であることを表しているのではないかと考える。おそらく、先を読み解くと、そういうことが書いてあるのだろう。

 ここで、この定義を読んでIyokiyehaが考えるのは、「学習」というのはとても基本的なことであるけれども、それは人がこの世界の中で生きていくのに本当に大切なことであって、かつそれは権利でなければならない(人に与えられた、奪われることのない行為・活動である)ということだ。この後に、

'Learn' is the key word.

There can be no human development without the right to learn.

「学習」がキーワードで、学習権がなければ人間としての発展(向上、発達、よりよくなること全部、くらいに使っているかな)はありえない、と続いてくることから、誰でもアクセスできて、すべきことは、全ての人に与えられている権利だ、ということが書いてあるな、と。

 Iyokiyehaがしびれるのはこのあたりで、学ぶことが特別なこと、与えられた人だけが営むこと、ではなくて、全ての人にとって、よりよくなるために必要なのは「学習」であって、それは全ての人に「既に与えられていること」と宣言していることが、「学習」を何よりも身近で、何よりも強く、あらゆることから人々を守る行為であることを示しているように読めるわけです。身を守るための防具であり、非暴力・不服従を支える武器となりうる「何か」は、「学習」に支えられるといっても過言ではないだろう。それくらいのエネルギーをこの宣言からは感じとることができる(感じとってしまった)。

なぜ、なぜ、なぜ?

 私にとって気持ち悪い出来事でした。

 巨人軍監督の件について、社会を覆う無自覚な刃を感じて、大変気持ち悪くなったので、記録だけ。

 事件が発生した数日間は、普段テレビを見ない私の耳にも入ってくるくらいの情報量が飛び交ったように思います。ラジオのニュースでも大きく取り上げられていたし、プッシュ型のニュースなのか広告なのかよくわからんスペースでも取り上げられていた。LINEだかfacebookだかでもとりあげられており、コメントやらなんやらが飛び交っている様子くらいは私の目にもはいってきました。違和感のはじまりはここからだったのですが、「なぜ、児童相談所が動く児童虐待の案件が、報道発表されるのだろう」ということです。

 Iyokiyehaは、分野は違えど、そういう案件の対応にも自治体の立場で動いたこともある経歴があります。当事者同士の認識の違いは当然に起こることであり、事実確認が非常に困難であることから、認定する事実と推測とをきちんと分けて、複数の目で分析し、「再発防止」を目的に働きかけを行うのが対応の本旨ですし、関わる人達はそうあるべきだと思います。広く世に知らしめるのは、データだけでいいわけで、個別家庭のプライバシーには最大限の努力をはらって様々な指摘や詮索から当事者を守り切るのも、支援者として関わる人達の責務です。それがなぜ、記者会見を通じて、全国ニュースとして世に公表されてしまったのか?百歩・千歩譲って「監督辞任の会見」であったとしても、ではなぜその理由として、本人家庭内の出来事を発表しなければならなかったのか?

 数日経って、当該報道は少なくとも私の見聞きするソースには出てこなくなりました。当時飛び交っていて、SNSなんかでもちらほら引用されているのは、監督の責任を問うような類のものと、その家庭内で起こったとされている出来事の賛否を主張するようなものが多かったように思います(きちんと読んでないですが)。上記違和感が拭えなかったので、それらの全てが「筋違い」に思えてしまったのですね。

 おさらいしましょう。親が子どもに手を上げること、それは理由の如何、程度の差こそあれ、2026年現在では身体的虐待の範疇に入ります。それを虐待とするかどうかは、支援者として関わる人達がどう判断するかに依ります。そして、虐待とされた案件については(責任問題ではなく)再発防止を目的に支援が行われます。その支援は、個人の家庭内のことですから、プライバシーには最大限の配慮を行います。雑な整理ですが、法制度の主旨は外していないはずです。

 今回の報道内容は、私の目には以下のようにうつりました。

・なぜ、家庭内の案件とされる事案が、報道に流れてしまったのか(前述)

 これが全てですが、続くものを見聞きして、更に感じたのは・・・

・たとえ、巨人軍監督の辞任を報告する場にあったとしても、その理由として家庭内の案件を発表する必要はないのでは?(一身上の都合、でいいじゃん)

・マスコミがそれを公表する理由と目的は?

・そもそも当事者と周囲の認識はずれているので、何もかみ合っていない。

・娘さんが生成AIを使っていたことが、本件(辞任、家庭内暴力、再発防止??)の何を解明するのか。

・報道から更に、街行く人の声を報じたラジオ報道(←私のソース、SNSではそういうのあったね)を行った意味は?

・街行く人の意見が賛否あったことが、監督辞任や虐待?の再発防止になんの効果をもたらすのか。

 あぁ、もう入り口が私にとって「ありえない」ことだから、その先のできごとに対して感じたことはもはや悪口に近いな、そうなってしまう自分も嫌になる。

 私はことの賛否を論じません。基本姿勢はさっきおさらいしたとおり。でも、事実認定されたことが何なのかわからないから判断保留です。ただ、仮に監督が「発表せざるを得ない状況に追い込まれ」ていて、その結果「見ず知らずの人達の便所の落書きのような悪意を受け止めざるを得ない」ことになってしまったのであれば、本件の重大な問題は「センシティブ情報の扱い」と「報道各社の報道姿勢」そして「社会全体の処罰意識」であると思いますが、いかがでしょう。こんな気持ち悪い世の中にただただ呆れてしまった、ということは記しておきます。