2026年5月9日土曜日

正しさがずれる

 物事の「正しさ」ということを考える。あらゆることにおいて「正しい」とか「正解」ってあるのかな、という疑問が、最近特に強くなっている。一方で正解を求める行動によって、何か思わぬところに歪みが生じて、正解と不正解が連動する。ある事象に対して正解であるか不正解であるか、というのは実は環境に依存しているのではないか。

 という、日常の疑問から仮説である。「学校では『正解』を教えるが、社会ではそうではない」と言われることを聞くことがあるのだが、これは正しいのか?という疑問がある。すなわち「学校でも『正解』は教えていない」という前提に立った方が、世の中と向き合うのには、より本質に近づくのではないかな、という考えに至る。

 もちろん、学生にはテストが定期的に実施されるから、A(×B)=Cをとにかく覚え込むことが求められる。今のIyokiyehaさんは、節目のテストを控えているから、やっぱりA(×B)=Cには取り組んでいる。ここで、あえて( )書きにしたのだけれども、ドリル学習で覚えることって、この(×B)が省略されている、あるいは意識していない、見ようとしていない、というのが、より正確なのかと思う。イメージがつく言葉に置き換えれば、環境であるとか背景、前提条件、などだろうか。

 「変化に対応する」という言い方は、ラジオ(←Iyokiyehaの場合)を聴いていれば、ちょくちょく聞こえるフレーズである。先の式に当てはめて考えると、こんな感じ。

・元々、A×B=Cが成立して、それなりに成果がでていた。=Cでよい=Bという条件の下では、AによりCという成果が出た=Cが正解であるには、Bという条件のもとでAを行えばよい。ここまで拓くと、広げすぎかもしれないが、少しは分かりやすくなるだろうか。

 要はAという行動・知識により、Cという成果・正解が生じるには、Bという前提条件が基盤になっているということである。Cという(一見)正解を導くには、Aという行動や知識によって生み出されていると見えるが、実際にはBという条件に依存したAによってCが生み出されるのだから、Cを出力するためには「AもBも必要」ということになる。

 この前提に立つと、次の展開が導かれる。

(1)A×B=C ならば、 A×B’≠C

(2)A×B=C ならば、 D×B ≠C

(3)A×B=C ならば、 A×B’=C’

 (1)と(3)は同じことを言っている。「同じ事をやっても、前提が変われば、出力は変わるよ」ということ。Cが正解だったのは、A×Bだったからであり、AとBのどちらかが変化すればCの部分に入るものは変わるということ、すなわち(1)「Bが変わればCでなくなる」(3)「Bが変わればCも変わる」ということである。(2)は「やることAが変われば、出力は変わるよね」というごくあたりまえのこと。

 話を戻して、先の二つの問いを解説すると、学校で教えることは単なる1対1の知識(Q&A)ではなく、「学問の場では」とか「一般的には」とか「教科書の中では」という前提がついて「(こういうときは)●●が正解とされる」ということの積み重ねに過ぎない。学校という統制された場=前提条件Bが、あまりに前提過ぎて意識が薄れているので、「学校では知識を教える」「正解を教える」という表現になるのだな、と感じる。もちろん、その先には「社会では正解がない」「変化に対応する」というのは、学校という(統制された)場を離れたから出てくる表現であって、先の式に当てはめれば、シンプルにBが変化した、ということに過ぎない。統制されていない生活の場、ビジネスの場で、学校で学んだ知識がそのまま使えるかというとそうでもないぜ、ってこと。かといって、それが無意味かと言えばそんなことはなくて、背景が「学校という場(とそれに付随する諸条件)では」ということに気づけば、私たちが何年も学んできた知識・技能というのは、全て自分の今に役立つものになる。日本で学んできた私にとって、何もかもが本当の意味での初学と感じないのは、きっとそういうことなのだろう。

 「気づくのが遅いよ」とか思われるのだろうが、この歳になってそんなことを考えるようになった。何が起こっても、なんとなく、まぁまぁの乗り切り方ができている(だから、生活できている)のは、そういうことなのだろうな、と思って、次に進むとしよう。書くとややこしいけど、言っていることは簡単で「答えは、背景に依存している」ということ。だから「正しい」ことがずれるように見えるけど、結局前提条件が変わっている、ということなのだな、だから現状認識が重要なんだ。