2025年10月14日火曜日

本多正識『1秒で答えをつくる力 -お笑い芸人が学ぶ「切り返し」のプロになる48の技術』ダイヤモンド社、2022年。

 特に若い子が使う言葉遣いは、言葉の意味に解釈が入る余地があるので、十分に注意している。とはいえ、最近聞いていて好きな言葉は「秒でやります」というもの。時にこうるさいIyokiyehaが許容!としてしまうようないい感じがあります。
 いろんな話題に対して「秒で返す」ことに長けた人に、芸人さん、がいます。その世界は、映像を見ていてもわからない競争社会で、それこそ芸人さんたちは、そこにある機会(チャンス)にかけて「秒で返し」続けているようにも見えます。
 では、それはその人が生まれもったセンスによるものなのかというと、それを否定するつもりはないんですが、どちらかというと技能として磨き続けていることが、それぞれにあるように思います。トップクラスの芸人さんたちには、それぞれのトレーニング方法を実践しているのでしょうが、本著はNSC講師の本多氏が、長年にわたる芸人さん養成校で磨いてきたメソッドをこれでもかこれでもかと紹介しています。
 普段見聞きする情報をほめまくったり、言い換えてみたり、真似からエッセンスを見つけ出すとか、語彙を磨くとか、いつでも準備しておくなど、地味で地道なのだけれども、なるほど、問いに対して即座に「秒で回答する」妙技は、こういう積み重ねによって支えられているのだと感じられる内容ばかりです。

最近思うこと 251014

 今年の夏場は、仕事の中では「悪意」のことしか考えられなかったな。本当に、なんというか自分本位というか、相互理解を放棄して理解「できる/できない」ではなく「する/しない」のレベルで感情がぶつかりあうケースが散見されて、もうなんというかモチベーションがだだ下がるということばかり起こっていた。いや、今も継続しているのだけれども、さすがに呆れや諦めを一通り通り過ぎて、もはや「関わり合わない」ことを選択している自分がいる。これが福祉の現場で、今困っているその人を助けるためのやりとりであれば、もう少し変わったアプローチをするのだろうけれども(してきたのだけれども)、今の仕事で起こるのは「困っている」の意味がそれとは異なるように思う。すなわち、生活上のどうしようもない困りごとに対して「助けて」ではなくて、困りごとに自分の欲をのせて「どうにかしろ」が横行する。これは、(やりたくないけど)全面戦争の様相にしかならず、「どうしようもない、外れ論理で、反撃できない相手を責め立てる」側と、「背景が変わる中でやむを得ず守らざるを得ないことを守らないといけない」側との、不毛な言い争いが続くだけである。
 なるべく距離をとりつつ、うまく守って切り抜けるしかないのだな、と思うこの頃である。

 後ろ向きな話はここまでにして、生活自体の改善点。
 情報インプットのバランスを見直し続けている。もう少し活字からインプットしたいところであるが、もう少し割り切って聞く情報に頼ることを意識している。PODCAST、Voicy、ラジオあたりであるが、こうしたものに触れる時間を意識して増やしている。家事をしながらインプットできるいい習慣である。
 一方で、アウトプットはというと、書き捨ての日記を見直している。このBLOGの更新もがんばりたいところであるけれども、デバイス使用の時間を減らしている経緯もあり、手書きでちょっとした日記を続けている。寝る前のリラックスになるし、記録としていつまでも残るわけではないけれど、頭の中には残りやすい実感がある。
 で、上記を踏まえた学びについて、身体動作を組み合わせることの効能を改めて感じている。合気道のお稽古がとってもいい事例になっているのだけれども、もともと仏教分野では心身それぞれの修行は同格という考え方がある。頭だけではダメ、身体だけでもダメということである。双方のバランスをとることで昇華していくもの、と考えるのならば、私の合気道のお稽古にも通じるし、日々のトレーニングにもつながっていくものだと思います。少なくとも、朝のルーチンと歩き通勤とで、そこそこの運動量を保てている。
 改めて、「ゆっくり」読むことを味わっている。速読がいいと思い込んできたのだけれども、言葉にこめられてた意味を考えながら読む「熟読」のよさを、何十年かぶりに味わっているところである。

大人とはどんな人?

頭のいい人が、世の中に必要な人とは限らない。
ちょっと違和感あるよね。世の中作るには、頭がいい人は必要です。
じゃあ、頭がいい=勉強ができる+やるべきことをできる+他人を思いやることができる という分解してみたらどうだろう?
△勉強ができる人が、世の中に必要な人である。
○やるべきことをできる人が、世の中に必要な人である。
○他人を思いやることができる人が、世の中に必要な人である。
少し解像度があがってきたね。もっとやれば、もっと解像度はあがりそう。「頭がいい」という言葉は、使いやすいからよく使ってしまう。反対の意味を自分に当てはめて「自分バカだからさ」とかつなげると、なんだかそれっぽく聞こえるから不思議である。

ここのところ、そうしたことを感じ取る場面があって、表現だけ紹介すると、
「勉強ができる人が、世の中のためになるとは限らない」ときたから、思わず柏手。
そういうことなんです。目的を失った理屈っていうのは、ただの屁理屈であって、一つ一つは相手に詰め寄る刃になるのかもしれないけれども、全体で見たら大きいだけの鈍器みたいなもので、そんなに切れ味が鋭いわけじゃない。そんなものを振り回す理由が、相手に伝わらないとなると「…あなた、何やってんの?」ということになる。で、そんなことに付き合わされている人が、世の中のためになることができるか、というと、そんなことはないわけで。
仕事の流れを A→B→C→D→E(完了)と考えた時に、Aがたとえ必要なことであったとしても、Bでそれを無用なものにしてCに引き継いだとしたら、Cはその仕事を継続する限りC→D→Eと無用なものが流れていき、無用なアウトプットが生じることになる。流れの上流で無用なものを流したら、その下流は無用なものが流れていくだけで、だれかがそれをやめにしてやりなおさない限り、無駄なものがただただ生産されていく。
まぁ、iyokiyehaさんが、今その下流にいる感覚を受けているのであって、日々「自分の仕事が世の中のためになっているのか?」と自問しています。

大人って、物事を有用なまま飲み込んで次に渡すことができる人なのでしょうし、もちろん物事を理解する頭のよさは必要ですが、やるべきことを自信をもって進めていくことができるべきで、かつそういうことを周囲や対象の視点を活かして進められる人のことだと思うのだよね。「頭がいい」を成熟したといった意味で使っていた人たちは、このあたりで認識を改めた方がいい。時に勉強ができる人の中には、他の要素を失っていることに気づかないまま、受け止めたことを「自分本位」で塗り替えて次に放り投げる人がいる。そして、その場面で変容する人間関係があったり、以下の仕事がすべて世の中のためにならない仕事になってしまうことすらある。いいたいことばっかりやっているのは未熟な証拠、できるといって微妙なことをやってしまうのも未熟な証拠。本当の意味での大人は、納得いかないことも一度は腹に収められる人のこと、言わなきゃ気が済まないことも言わないようにできる人、言うべき時にきちんと相手に届くように言える人、そういう人なのだと思う。それができない内はまだまだ未熟・おこちゃまと言われるのだろうよ。