2024年10月14日月曜日

改めて、読書の秋

 じっくりと座って本を読むことが、すっかりなくなってしまったのだけれども、どんな生活状況に置かれたとしても、本は読みたい。本を読む理由を問われると、費用対効果とか、信頼に足る情報とか、以前から小説を読むのが好き、とか、適当な意味はいくらでも思いつくのだけれども、それよりも何よりも「自分の内側に人の意思が入り込んでくるような感じ」が味わえるから、というのが本音に近いのだと思う。「なんだコイツ?」と思われそうだし、ちょっと重めの話なので、人にはあんまり言わないけど。

 人と話をすることも同じようなことがあるけれども、知らないことを知る、知識を得るだけの時間と、自分と他者とが情報という知識の交換ではなくて、いわば内面の交換ともいうべき時間を過ごすことができると、それはとても充実した、時計の時間を超越したような時間を過ごす経験になりうる。「充実した」と思えるのは、こういう経験が背景にあるのだろう。

 これが、ひとりで本を読む行為にも時折訪れる。それは小説だけじゃなくて、ビジネス書であったり、思想や自己啓発を描いたものにもありうるが、一方でそういうことを期待して読んだ本が期待外れだったり、逆に何も期待していなかった本が、そういう存在になることも時々起こりうる。要は、その辺が偶然に依っている、というのも読書への期待になるのだと思う。やっぱりいろいろ読みたい。

2024年10月6日日曜日

忙しい時にこそ、いろんなことが頭に浮かぶ 241005

  9月議会が終わったにも関わらず、地味に仕事が多い。突発的な対応にも追いまくられてしまっており、何か去年とあまり変わらない焦った雰囲気が蔓延している。

 帰宅してからは、やることやって、洗濯物を干してほぼバタンキューと寝てしまうため、日記もおろそかになるし、合気道の復習もできないし、読書もほぼ足踏み。留まって考えるということをしなくなっているのが気になってしまうので、土曜の夜にラジオをお供にちょっとまとめてみる。

●食い違い起点のトラブル

 「普通のことをやってください」「普通のことしかしていないし、できないので」「どうして普通にできないんですか」そんなやりとりが続いているある案件について。もはや「普通」って何だよ?って話になってしまっている。事業者側は「特別なことはしていませんよ。例えば・・・」と同義で『普通』を使っているのに対し、利用者は自分たちの中にある標準という意味で『普通』と言っている。具体的なイメージがすれ違っているので、分かり合う気がなければ、ずっと平行線だろう。第三者の決定を期待して、私の職場に「同席」を求めるが、こちらとしては判断する権限も理由もないので「同席する必要はない」としている。これもかみ合わない。多分「これだから役に立たない」くらいに思われている節もある。無理もないが面白くもない。かみ合わない状況のまま、何かを強行したときにしわ寄せがどこくるのか、ということを見据えていないといけないな、と思う。(特別でないという意味での)「普通」の場所に、(ある水準をイメージした)「普通」を求める人が集まって主張すれば、衝突は必至。

●スマートフォンの扱い

 一言本音。みんなででかけても、旅行へ行ったとしても、そういう「非日常」を、一瞬で「日常」に変えうる可能性を秘めたスマートフォン。旅行いってもずっとスマホいじってるなら、別に行かなくてもいいじゃん、とか思ってしまう。

●近所を騒がせている事件について

 逃げている人に対しては、人として、早くお縄になるか、無事でいられる場が見つかるかすればいいけれども、そうならない可能性もあるような気がしています。罪はつぐなうべきだけど、どうか無事でとも思うところです。そういう世界ですよね。思うところはあるけれども、Webだからこれ以上は触れずに。

●日中ぐうたら

 台風のせいなのか、気圧のせいなのか、それ以外なのか、今週一週間は体調が悪い。だるい、疲れやすい、集中力が(いつもにまして)ない。それで終末の悪天候。それも、土砂降りじゃなくてしとしとぐだぐた。これは気分もあがらない。もちろん、なにかあるなら、身体を動かして多少の補正はできる技能はあるけれども、まぁ、とはいえ、そんなに気合い入れる必要もないので、土曜日はぐだぐだしてみた。日頃滅多にみないテレビを見て、ごろごろぐだぐだ。朝ジョグはしているのでそれほど罪悪感もなく、なーんにも考えずに過ごしてみました。これはこれで、ありだな。年2~3回でいいけど。

●先日の動画の件

 前回の雑記投稿の件、要するに「発信は、どう受け止められるかわからないよ」ということが危うさに見えたのでもやもやもやもやしていたのだろう。私もここでBlog長くなっているから、今まで以上に気を付けないといけないよね。解釈の余地が含まれる、何かを想起させるようなコンテンツには、十二分に気をつけねば。

動画作品

  まだはっきりと整理できていないので、書きながら考えてみる。

 最近違和感があること。動画共有サイトで公開されている、家族の様子を紹介するような動画から思うこと、考えること。今回の題材は子ども(姉弟)の様子を映したもの。

 キーワードだけ列挙しておくと、子どもたちの顔がデータとしてWeb上にアップされること、幼い姉が一般的にやってひまう弟に対する自分本位の行動/一般的に弟が姉に従わざるを得ない状況で理不尽に振り回される様子、Webにアップする目的、共有?曝し?ネタ?

 年齢にして、3~4歳の女の子(姉)と1~2歳の男の子(弟)の関わり合いの様子を動画に収めたものが公開されているものを見せてもらう。その動画では、歩行器で移動する弟を振り回して、自分の進路を確保する姉の様子や、何かと言えばお姉ちゃんが弟に高圧的(に見える)な態度でやりとりする様子が記録されている。たしかにかわいらしいし微笑ましい。姉弟のきょうだいを育ててきた経験者としては「あるある、ウチもそうだった」と思えるような内容であった。

 この面白さって、大人のような邪気はなく、ただただ「弟という小さい家族」を思うように動かそうとするしっかり者お姉さんを、全身全力で表現していること、それであってもやっぱり子どものやりとりであって、どちらも思い通りになっていないこと、を微笑ましく切り取った生活の一部である。

 見ていて微笑ましいのだが、ふとした瞬間に我に返る「これって、誰のためのアップなんだ?」。自分のために、家族の記録を録画してとっておく、ということであれば、それで充分だ。それ以上になると、私には抵抗感が出てきてしまう。自分の子どもを見世物にする意識はなくとも、Webに公開するということは結果として世界中に公開してしまうわけで。この微笑ましさを、完全にニュートラルな感情で受け止められているのかどうか、自分にもちょっと自信は無いのだけれども、「発信者の意向」×「受け止め側の認識」となったときに、そこにあるのは発信者には制御できない感情がアウトプットされることになりかねない。率としてはどうあれ、「弟はこうやって虐げられて育つんだよ」とか「姉はコントロールしたがるんだよね」とか正負いずれかでも感情が振れてしまうことになれば、その幅はもはや制御不能になる可能性もありうる。Webは感情増幅装置だと思うので。

 となると、SNSが流行りだした時から、私はできるだけ守っていることだけれども、自分以外の家族の写真のアップロードには、これでもかというくらい慎重になってもおかしくないだろうし、それくらいの思いやりを持ったときには、公開される動画の質っていうのも随分変わってくるんじゃないのかと思うところもある。古くさいと言われるかもしれないのだけれども、やっぱり世界に開かれたWebの世界というのは、想像力がないと何が起こるかわからない、と思うのです。

スティーブン・R・コヴィー著、フランクリン・コヴィー・ジャパン訳『7つの習慣 最優先事項』キングベアー出版、2015年(Audiobook版、2016年)。

  「7つの習慣」関連の書籍っていくつか聴いているのだけれども、いつも「フツーのことだよね」と思ってしまっていた。だけど、そのフツーが難しい、基本はいつも大事なんだよね。

 優先すべきことは、緊急のことよりも本来は優先しなきゃいけないことなので、いつの間にか雑事に追われて・・・というのは、古今東西誰にでも課題となりうることで、Iyokiyehaも例外ではない。いや、むしろ、面倒事を喜んで引き受けてしまう節もあるよう(←よく指摘されます)なので、むしろ自分のための論考なのかもしれない。要は時間の使い方と目的意識のように考えて、受け止める。

 (Audiobookの紹介より引用)「時間管理の基本を、『いかにスピーディーにこなすか』ではなく、『なぜそれをするのか』という視点から見つめ直します。『なぜそれをするのか』、その目的をしっかりと見据えてプランニングすることで、最優先事項がみえてくるのです」。本書の訴えることは、大体ここに集約される。

 書籍中「コンパス時間」という言葉が出てくる。コンパスが常に北を指していることと、「時間管理のための時間」を批判的に捉えたときの言葉だと理解した。要は、より大きな目的のために行うことを、目の前にあることに適用させたり、場合によっては目の前にあるものを回避することも必要になるかもしれない。ただこなす、ではなく大きな目的を意識して、そのために目の前のことを行う、といったように、優先すべきことを意識して万事目的につながっていることが見えてくると、人生の成果に取り組んでいるといえる。そのことが幸せにつながるのだ、というようなことを文書随所で語っているように思いました。

 今は、いろいろ悩みながら、いろんなことに取り組んでいるけれども、それも人生の糧と思いながら、それでもオーバーワークにならないように「なぜ」を問い続ける姿勢は必要だと思います。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』太田出版、2015年(Audiobook版、2020年)。

  退屈の反対は楽しさとか楽しいこと、ではなく、興奮である。楽しいことがないのは退屈なのではなく、興奮を伴う刺激に乏しいということ。つまらないことが退屈なのではない。

 熱意は幸福と関係があるが、熱意があれば幸福かということには違和感がある。熱意が暴走して刺激を際限なく求めたところの一つに、戦争という事象がある。(ラッセル?)

 現代は、生産が欲求に先行する。やることがない人にやることを与えるのがレジャー産業の側面でもある。

 なるほど、暇とか退屈というものを、倫理的に哲学的に分析して深めていくと、いろんな感情や事象とつながっていくことができる。暇というのは単にやることがない、ということではないし、楽しいことがないのが退屈とは言い切れない。今を生きる私たちの社会の仕組みと実は密接に関係がありながら、その関係がとても見にくくなっているのが暇とか退屈の本質に近づきにくくしている一因ともいえる。

 Audiobookでなければ、おそらく触れられない一冊。哲学的思考や歴史的な論考が学術的に引用されているので、読み解いていくのが困難だった。聞き流している部分もあるが、それでも上記のような気づきや学びがあった一冊でした。

猪俣武範『ハーバード×MBA×医師 働く人のための最強の休息法』ディスカヴァー・トゥエンティワン、Audiobook版。

  やはり睡眠は大事。量も必要。眠りの質を上げることだけでなく、7時間程度の睡眠時間は認知機能を発揮するためには必須といえる。