2025年4月20日日曜日

河谷禎昌著『最後の頭取 -北海道拓殖銀行破綻20年後の真実』ダイヤモンド社、2019年。

 人生の意味は、本人がどう感じてどう社会に位置づくのかを、いかに語るかによって、そこまでやって初めて、他人の評価の対象となる。
 当時、中学生~高校生だった自分は、北海道拓殖銀行の破綻について「テレビでやっていたな」というくらいしか覚えておらず、正直なところ自分には関係のない出来事として記憶していることだ。率直に踏み込んで加えるならば、それは今でも変わらない。自分の生活には全くと言っていいほど影響がない出来事だ。だからこを、素直に本著を手にとって読み進めることができた。
 もちろん、この出来事についても、事実と思惑が交錯しているのだろう。著者が本著で詳しく説明した上で、責任の所在に関する指摘もあった。ただ、いったんそれらを退けて読み進めた時には、本著はあるバンカーの奮戦記という側面が浮き彫りになる。事に関して10年以上、著者が職業人生を振り返りつつ、結果特別背任罪で実刑判決を受けて刑務所へ収監されたことを、20年沈黙した後に語る本著の内容は、そのすべてを理解して受け止められるようなものではないとはいえ、河谷氏の人生の重みというか、人生の先輩が語る職業人としての生き様のようなエネルギーが端々から発せられていることを感じた。
 そして、何よりもIyokiyehaをうならせたのが、結論として語る職業人として大切にしてきたという、ものすごいシンプルなこと(後述・引用)と、本論の中でもたびたび登場して河谷氏の精神的な支えであったという節子氏の存在と感謝だったということだ。きっと河谷氏の心中はいろんなことが渦巻いていた時期もあったのだろうが、それでも語りの結びとして「後輩を大切にすること」「家族への感謝」を挙げているのは、人生の先輩として最敬礼に値する姿勢だと思う。

■引用
107 (企業が大変な状況の時に、何とかして助けたいと思うか、どうしようもないと思うかがあるという前置きがあり)
 その違いを見分けるのに役立つのは、経営者の人柄や質にほかなりません。銀行マンにとって大切なのは「人を見る眼」だということをこの経験から学びました。
252 (節子氏の思い出から、ことあるごとに言われたという二つの言葉)
 「自分の信念に背き、上にへつらってまで出世する必要はないからね、子どももいないのだし、2人ならなんとでもやっていけるんだから」
 「外でどんなに偉くなっても威張るなよ。家に帰ってきたら、ただの人なんだからね。心得違いをするんでないよ。上にはへつらわないで、下の人を大事にするんだよ」
261 「動きすぎた」という後悔
 私の銀行員生活を振り返ると、本当に私のやってきたことが正しかったのか、あれでよかったのかと、自問自答することがあります。
 拓銀を何とか救おうと悪戦苦闘し、少し動きすぎたのではないか。(略・具体的な取り組み)このことが、かえって「そこまで拓銀の経営は苦しいのか」と世間に知らしめることになってしまったのではないか。結果的に拓銀の死期を早めてしまったのではないか。(略)
 「正解」はどこにもありません。(後略)
(こんな考え方があるのかと、素直に驚きました。とはいえ、信念に基づき、プライドを持って問題と向き合い続けた著者だからこそ至った思考なのだと思います)
268 私は銀行員生活のモットーとして「悪いことはしない」「意地悪はしない」という二つだけは、頑なに守ってきたつもりです。亡き妻の教えもあり、後輩の面倒も、できる限りみてきたつもりです。
(上記の通り、私には及びもつかないほど仕事をしてきた人が「動きすぎたのか?」と迷うほどの境地に至っている反面、具体的には本当に人として基本的なことを大切にしているのだと、Iyokiyehaの学びポイントでした)
274 (おわりに・日浦統氏より)時代の「転換期」という荒波に、私たちが巻き込まれてしまう可能性はますます強まっています。だからこそ、河谷さんの体験から浮き彫りになる教訓を学んでおきたいと思います。世論は時代によって大きく変わり、政治も行政もその影響を大きく受けること。昨日までの常識が一夜にして変わる時があること。社会や国家というバケモノは否応なく、個人に襲いかかることがあること。

2025年4月19日土曜日

最近思うこと びっくり朝活

 週末のトレーニングは、もう10年弱になる。最近は身体のこと(要は加齢ってやつです)も考えて、5km以上のジョグは週1~2回、ぶら下がりは中1日以上、木剣は毎日だけど重いものは週末だけ、という身体を気遣ったゆるいルールを適当に定めて汗をかくようにしている。これはこれでいいのですが、(自分にとって)結構なトレーニングを朝イチでやると、昼下がりはどうしても眠くなってしまうので、逆の発想で朝トレ前に、近所のコンビニでインプットの時間を作るようにした。これがなかなか都合がいい。
 喫茶店かコンビニか。継続のためには、コストを下げる必要があるので、だいたいコンビニのイートインでコーヒーを飲みながら30分程度、という取り組みなのだけれども、ここ数回同じ顔ぶれがあって、奥の2席であれやこれやと話をしながら新聞を読んでいる。「○○がきていますね」「▲▲もいいんじゃないですか?」「こないだ▲▲を見てきたけど、■■と同じだな」なんて会話。腹の中では「もう少し、声を小さくしてくれんかね」と思うのだけれども、こっちが少しがまんすればみんな円滑なので、こちらはこちらで集中する。
 で、それが数回あって今日判明したんだけど、「よし、今日は4番で流す」「第3レースが勝負ですね」「○○は芝がいいんですよね」と聞こえてきて「馬かーい?」と。さらに、「もう教案書いた?教頭から言われていて」とも聞こえてきて「教員?」と。別に先生だからどうってことはないんだけど、これまで複数回話が聞こえてきたのに、真相がつかめていなかったことに、びっくりと驚きがありました。

志駕晃『スマホを落としただけなのに 戦慄するメガロポリス』宝島社、Audiobook版。

 『スマホを落としただけなのに』『スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼』の続編。シリーズ第3作。内容はさらに大きく、東京五輪や朝鮮半島との関係など、国際的なスケースに物語は展開していく。さすがにここまでくると、小説としては面白いのだけれども、1作目に感じた「気持ち悪い・怖い」という新鮮な感覚は薄れてくる。エンターテインメントとしては面白い。
 が、しかし、Audiobook版に残念点。AI音声合成サービス「カタリテ」を使用しているとのことですが、これがホラー小説には合わないと感じた。もちろん、内容は伝わってくるし、AI音声合成もいい線いってるな、とは思うのですが、1作目、2作目のあの気持ち悪さ、や想像力を掻き立てて恐怖をあおってくるような描写が、すっきり片付けられてしまった。その意味でちょっと残念な点はあるけども、小説の内容としては面白いです。続きが気になる。

志駕晃『スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼』宝島社文庫、Audiobook版。

 先日感想をアップした『スマホを落としただけなのに』の続編。第一作がウライの人となりの描写をこれでもかこれでもかと畳みかけるようで、気持ち悪いやら怖いやら、帰宅時の夜道にはあまりそぐわない内容だったのですが、この第一作に負けず劣らずの怖さがありました。テーマが個々人から対組織へとシフトしているので、スケールの大きさが、ウライ本人の気持ち悪さを覆い隠しているようにも感じましたが、彼らを取り巻くほかの悪いヤツもまた怖い、気持ち悪い描写で、小説としては面白いのだけれども、現実との接点を感じると非常に怖い。スマホという電子機器をめぐる知略が飛び交うモチーフの中に、なんとも言えない人物描写がタイミングと鋭い内容で飛び込んでくる。続編にふさわしい内容でした。
(2025年3月25日アップ 志駕晃『スマホを落としただけなのに』)
https://iyokiyeha.blogspot.com/2025/03/audiobook_28.html

2025年4月5日土曜日

SNSって何だろうなって思う

 いろいろなアプリを使ってみて、結局IyokiyehaはLINEとFacebookしかアカウントを残していないのだけれども、動画広告なんかで流れてくるSNSってたくさんあるんだな、と思う。アンケートに答えていて「普段使っているアプリを教えてください」なんて質問に、選択肢として並んでいるSNS?っぽい名称の中には、以前アカウントを持っていたものから、広告で見たことがあるものや、名前も知らないものも含まれる。いろんな目的を共有する人たちが集まるコミュニティが、Webツールレベルでもたくさんあるのだな、と思う。
 仕事の中でも、広報ツールとしてSNSを、という話もある。確かにスマートフォンが浸透している世代への広報には、一定の効果があるように思えるのだけれども、一方で自分のようにWebツールに疎い人たちに、そういう情報が届かないのも一側面だと思う。
 デジタルネイティブじゃない私にとっては、SNS他、Webツールが増えれば増えるほど、情報量が増えることは認めるけれども、そういう情報が自分の生活を豊かにするのか?と問うたら、それはY/Nで答えられない質問なのだと思う。個人的にはNなので、余計に疑問を感じるのかもしれない。
 なんか、最近起こるいろんな人間関係を見ていて、みんなリアル社会とネット上の社会の行き来と、それらの空間に行われる人と人との関わりに疲れ切っているではないか?と感じてしまう。