2024年6月29日土曜日

感情を意識に置くって大事だな

 雑記ですが…。

 定期的に聴いているある番組で、パーソナリティの一人が放った一言が印象的だった。視聴者からのある批判的なコメントを受けて、冷静に「この指摘は、我々に対するリスペクトが感じられない。私たちもリスペクトできない内容だから、議論にならない。このままならもう聴いてくれなくてもいい」という主旨のことを言ったことに対し、Iyokiyehaは想定範囲を超えたやりとりに感動しつつ、この新しい視点を得たことに併せて感動した。もう一歩だけ、このコメントの主に歩みよる方法もあるのだろうが、このパーソナリティは「お互いのリスペクトがなければ議論にならない。批判的になったとしても、相手へのリスペクトは必須」という姿勢を貫いたことに、心の中で拍手をしていた。

 いろんな情報に振り回されることがあるのだけれども、判断基準の一つに「自分の人生を、自分で歩いているかどうか」という点が意識下に上がってきた。新しい情報に寄って行くことも大事な姿勢なのだけれども、それによって自分の意志に反する行動をとらなくてはならないとなったら、それは自分にとっては正しくない言動になりかねない。自分の気持ちにも意識的にならないと、ついつい何かに振り回されてしまう世の中に生きているのだと、改めて感じさせられた。

 スターバックスは、世界的な大企業。ただ、それだけの理由で利用を控えていた時期があったのだが、最近は自宅近所に店舗があることも手伝って、割と抵抗なく利用している。自分もアップデートしないといけない。生活者の視点からは見えない、同社の資本がやっていることはとりあえずさておき(というか、判断材料がないので判断保留とする)、見えるところでの商品の品質や、接客のなんというか感情的にプラスになるようなやりとりは、世界を平和にするための基礎の基礎ともいえる、人間関係の円滑さと気持ちよさを作り出しているように感じる。「どうぞ、お楽しもください!」と声をかけられたことに、新鮮さだけでなく、気持ちが伝わってくる感じがして、とてもいい気分で休憩時間を過ごすことができた。

 というように、世の中、ロジックで見えることもたくさんあるのだけれども、感情的なものや見えない力みたいなものを意識にのぼらせることが、自分にとって大事なことなのではないかとの仮説に行き着く。自分のことは自分が一番よく知っている、それは真であり偽でもある。わかっていることだけでなくて、例えば自分に触れているところから、どんな力が自分に伝わっているのか、ということを説明できる人がどのくらいいるか、というとどうだろう。少なくとも、自分は合気道をやっていても、どこに力が入りすぎているのかしょっちゅう忘れてしまう。でも自分の状態を詳細に知っていくことが、自分をコントロールすることになり、自分の感情がある程度コントロールできると、言動レベルでいい発信ができるようになり、人々のいい発信が、いい場を作り、いい場がいい地域を、いい地域がいい社会を…と広がっていくようなイメージが、なんだかここ数日で意識にのぼってきた。たぶん、これは、いい感情だと思うので、言葉の限界まで書き残しておくことにする。

渡部陽一『晴れ、そしてミサイル』ディスカヴァー21、2023年、Kindle版。

  渡部氏が最も「柔軟」だと気づかされる。戦争の中に日常があることを語る。人を理解することが、相互理解の土台となり、真の意味での国際理解、平和への一歩だとする。さらに、ジャーナリストとしての情報の読み解き方についても言及がある。「戦場カメラマンの~」という独特な口調が印象的な渡部氏だが、本当にすごい人なのだと再認識させられた。Voicyもやってますよ。

https://voicy.jp/channel/2673

塩田武士『罪の声』講談社、Audiobook版。

  人物描写がすごい、と感じる。何がすごいのか、うまく説明できないのだけれども、これだけの登場人物をきちんと書き分けている。それも、人物の説明書きではなく、見た目の描写、語り、それらから見える経験の描写などが、ほかの小説と比べて圧倒的だったから、そう感じたのかな。

 いわゆる悪人、事件を起こした当事者にも、家族があって生き様がある。アウトローの生き様とその苦悩を描いている点で、印象的な一冊でした。

山口周『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティーを取り戻す』プレジデント社、Audiobook版。

  (Audiobook.jpのサマリーより)筆者は、以下4点を掲げている。これはよかった。書籍で確認しよう。

1.私たちの社会は、明るく開けた「高原社会」へと軟着陸しつつある

2.高原社会での課題は「エコノミーにヒューマニティを回復させる」こと

3.実現のカギとなるのが「人間性に根ざした衝動」に基づいた労働と消費

4.実現のためには教育・福祉・税制等の社会基盤のアップデートが求められる


アレックス・シアラー著、金原瑞人訳『世界でたったひとりの子』竹書房、2005年。

  子どもが生まれること、それ自体が大変希少な出来事となった世界二生きる子どもタリンの視点で描かれる物語。PP(永遠の子ども)手術が一般化しており、老化を止めることができる世界では、「子ども」が大変重宝がられている。

 「僕は大人になりたいんだ!」と守られた環境から抜け出て、希少であることを捨てて、自分を生ききる選択をするタリンの物語。

ハンス・ロスリング『FACTFULNESS -10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』日経BP、Audiobook版。

 希望の書。世界が「いい」方向に向かっていることを、数々の数的データから導きだしながら、偏った解釈から脱して、広い視野で物事を観ることの重要性を説く。いい内容でした。これは書籍版もきちんと読んでおきたい。

 感情的な主張ではなく、データを通じて自分の「偏り」に気づくことこそが、データの扱い方の本質であるとのパラダイム転換を促す。そう言われてみれば当たり前なのだが、ついつい相手の主張に巻き込まれて、冷静に物事を観て判断することを忘れてしまう。そういう人の癖、みたいなことも含めて、調査データや研究成果を結びつけ、世界の希望を語る。

宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』新潮社、Audiobook版。

 本屋大賞受賞作品。ちょっと前からメディアでも取り上げられていたのかな。私は本屋さん店頭と、新聞で知りましたが。

 主人公成瀬とその友達島崎の二人の関わりを中心に展開される短編集のような構成だけれども、どの物語も他の物語と少しずつ関わり、読了すると成瀬の性格が浮き彫りになるような読み物でした。大変面白い。

 実際にいたら、少し関わりにくい成瀬だけれども、「私は200歳まで生きたいと思っている」とか「希望がたくさんあれば一つはかなうかもしれない」みたいな、見方によっては人生訓か?とも思えるような発言が随所に見られ、それでいて軽く面白い読み物としても充分楽しめる作品です。日常(より少しぶっとんでるけど)を描いた物語なので、さらに続編を期待してしまう。きっとドラマ化されるんだろうな。そういう展開もまた楽しみになる小説です。

三度小江戸 240527

 お忍び小江戸旅行3回目。週末も思わぬ一人時間があって、一人温泉なんかを楽しんでしまったので、ちょっと緩みっぱなしだけれども、この緩み方って悪い感じはしない。

 どハマりした食事処が不定休のようなので、改めて駅前で手に取ったパンフレットで昼食へ。評判通りのおすすめに舌鼓を打ち、デザートもたいらげる。大変満足したのだけれども、4回目で選択に迷うかなと考えると、そうでもないことに気づく。不思議なものだ。マイナスポイントは一つも無いのに。いつか、何かの折に選択することはあるかもしれないけれども、両者開店なら前者を選んでしまうのだろうと考える自分がいる。満足感とリピートのニーズって、少し違うのだなと気づく。

 サービス業は月曜定休が多いので、自然と選択肢も絞られてしまう。これまでの散策とは異なる地域へ、特に予定もなく歩き回ってみたが、新しいところには刺激がある。ちょっとした街並み、入らなくても「おやっ」と思わせるお店を見つけたりすると、身体はちょっと疲れていても、頭はクリアになっていく。それでも数時間そういう刺激を浴び続けたら、テンションは上がりつつも心身ともに疲れているから注意。最近は、自分の疲れに敏感だから、特にそう思う。今日は相当疲れている。

 少し意識して、歩く速さを緩めてみる。いろんな音や視覚情報を浴びることに気づくのだけれども、気分がいいと、何事にも余裕をもった上で、楽しいをプラスして、捉えることができる。身体に疲労感はあったとしても、この状態ってとっても健康的だよな、と思う。それと同時に、この速さで本屋さんを歩くと、いろんな本に呼ばれる感覚がある。この感覚って、学生の頃とか、岡山の本屋さん(名前忘れた)にあった感覚で、久々にこの感覚が意識できて、心に栄養が入り込んできた気がする。

 勝手に、お忍びなので、ひょっとかしたらいろんな人に迷惑をかけているのかもしれないけれども、自分の感覚・自分のペースを確認するために、こういう時間って大事なんだと思う。

悪しき心が痛い 240523

 目の前にはっきりと「6月」と書かれている書面があるのに、「そんなことは知らない」「書いた覚えがない」「分からない」とわめき立て、4月から適用させろと一歩も引かない人。アベノマスクの時にも感じたけれども、定額減税の給与明細記載について、Web上で罵詈雑言を並べたてて騒ぐ人とか。望む結果を出すために手段を選ばず、多分不正行為だろうことをしてまで申請をする人。

 個人的には全く認められない。むしろ、公平性の原則を破る行為であるから、発覚した時点でお引き取りねがうものが、ここのところ立て続けに起こっており、正直なところ「気持ちが悪い」。

 バレなきゃいい、ワンチャン言ってみよう、うやむやにして大声を出してみよう、そもそも私のせいじゃない、しくみや制度のせい、自分と自分の身内が「当たる」なら他はどうでもいい、というか他人は気にしない。こういうことを考えているかどうか別として(なーんにも考えていない、という可能性が否定できない)、自分さえ良ければいい、が全面に出てくる事案が、ぼちぼち出てくることに「気持ちが悪い」。

 古き良き日本、というつもりはない。他者を気にする日本人、の文脈も持ち出さない。私が気になるのは「公平性を求めながら、どこまでも私利私欲に忠実で、望む結果のためなら人が犠牲になっていても気にならない」という矛盾に満ち満ちた行動を、「自分が正しい」としてとりつづける人が、どうにも理解できないだけである。

 今のところ「土俵が違う人(=拠り所となる思考が全く異なる人≒異文化に属する人)」として一線引いた対応をしてしまうのだが(←そうしないと、自分がしんどい)、自分と似たような生活をしているだろう人が、そうした行動をとって、その矛先がこちらに向く、という事案がある。私が「土俵が違う」という場合は、ほとんどの場合、ソーシャルランクや属性、人種、文化などが「異なる」人と冷静に接するために一旦カテゴライズしていたのだけれども、そういう「異なる」には至らない人が「気持ち悪い」言動をとる場面に直面すると、心が痛んでくる。

 いろいろ思うところはあるけれども、ここのところの世の中には、他人を揶揄する、人の言動を見下す、マウントをとって他人を見下す、どうでもいいことを世に発信する、自分中心に何かになりたいことを公言する、ことを是とするような雰囲気・グルーブみたいなやつが周囲にグルグルと渦巻いているように思う。その中で取り残されているからこそ、そういう言動に心を痛めてしまうのかもしれない。でも、こういうことを気にする感覚が麻痺してしまったら、世の中の期待通りに私もなぁなぁに、下品にゲラゲラ笑って、知らず知らずのうちにとりあえず心地のいい「気持ち悪い」になっていくのだろうな。

要らんことばっかり 240422

 新聞を読むのは日課になりつつあるけれども、夜読むことが多いので、その日の疲れ具合でどれくらい読み解けているか、ということにはムラがある。そういう前提があっても感じることは、記事の中には要るものと要らないものとが混在するなぁ、ということ。それを読み解けないと、それこそ時間の無駄になりかねない。

 だいたい、某国の元大統領が、女性問題で裁判沙汰になっている、なんてのは必要な情報なのか、という話です。先日、息子が「Tって260億も訴えられているんだって」と言ってくる。単位もめちゃくちゃで、意味しか通じない発言なのだけれども、中学生が見聞きするような情報に、こういうものが混ざっている。いや、関係者に言わせれば「某国大統領選挙の結果は、回り回って自分たちの生活にも関わりかねないから」とでも言われるのだろうけれども、それならそう書けばいい。その人の発言が、世界経済に影響するのかもしれないけど、まぁ、ほとんど関係ないだろう。

 それよりももっと知っておいた方がいいことはたくさんあるだろう。見る人読む人はぐっと減ってしまうけれども、国会で審議中の法案一覧を出してもらった方がよっぽど生活に影響があるよな、と思ってしまう。

2024年6月22日土曜日

せめて自分からはいい発信をしよう

 都知事選でもすったもんだ、「これが面白い」と言われて見せられた動画もなんかピンとこない。人の言動をけなすこと、人をいじって笑うこと、感情的になった人を見ておもしろがること、「知らなかった」とルールを破ること、おそらくわざとルール違反をして注目を浴びること自体に何か価値を見出している人、見つからなければいいと趣旨を無視して個人的な利益を得ること、ほかにもいろいろあるけれど、理由がわかりそうでいて、たぶんそれとは違うことを求めていたり面白がっていたりする言動を見ていると、何か気持ち悪い。自分に関わることが少しでもあれば、避ける行動の一手である。

 ということで、それに気づいた今日からは、せめて自分からWebへの投稿は、中立~いいことに限定しようと思う。Webというのは(いいことも、わるいことも)増幅する装置なので、せめて0(ゼロ)、1でもプラスのことを自分からは発信しようと、ここで宣言しておくことにする。

 もう一回だけ、数か月書き溜めているものをアップしたときに、一部マイナス感情のものが入っているかもしれませんが、それはご了承いただくとして、今日以降、自分が書くことはいいことを書いていこうと思う。という宣言でした。世の中、よくなれ。悪い感情が一人歩きする空間はできるだけないほうがいい。

2024年6月1日土曜日

食事中の作法

 気になっていること、そして今のところ気に食わないことの一つに、「人が作ったものを食べる時に、スマホをいじるな」ということがある。暫定的ではあるが。

 個人的な経験から、食べながらスマホで何かやったり、本を読んだりすると、食事の味がしなくなる、というか味が気にならなくなってくる。食べることに集中できない、ということだ。これは、気づいたからわかることなのか、個人的なことなのか、厳密にはわからないのだが、少なくとも自分の経験では、何かをしながら食べるものは、その味に意識が向かない。感動もなければ、違和感も減じられる。要は感情が平坦になって、外界から口を経て食道へと流し込む行為になってしまう。それは機能的には必要を満たしているけれども、「食事」という視点に立ったならば、それが必要を満たしているか判断しかねることになる。

 だから、外食を含んで、人が作ったものを食べる時には、Iyokiyehaさんはスマホ禁止を自分に課している。ポイ活の動画再生はボタンを押すだけ(で観ていない)なので許容にしているが、家族で食卓を囲む時にはスマホを持たないことにしている。

 が、周囲を見回すと、家族を含め、そうでもないらしい。外食に出た時にも、多くの人がスマホとにらめっこ、が多い。だいじょぶなのかなぁ、と思ってしまう。基本的なことがないがしろにされてしまっているようにも思えてしまってならない。